279.賢人王の神杖
トリスはローブの切れ端を強く噛みしめ、声が漏れないようにハーマンの左手を引き抜く。
爪によって象られた反しがトリスの肉を裂いていくが、必死に激痛を堪えた。
「やはり、太陽の光には弱いのか」
涙目になりながらも、トリスは呟いた。視線の先には、自分の血が塗りたくられた左手。
薄気味悪いと放り捨てた吸血鬼族の手は陽光を受けた結果、即座に灰となって散っていく。
この様子なら、直ぐには追ってこないだろうと胸を撫で下ろした。
彼女は現在、馬車を曳いていた馬に乗って古城から離れている。
先刻、鳥を操ったように隠し玉を持っているかもしれない。
少しでも可能性は排除するべきだと、馬車自体は破壊をした。
「ジーネス、お前の言う通りだったよ」
海底での会話を思い出し、感謝の言葉を天へと送る。
実力差も省みず、トリスはハーマンを食い止めなくては、斃さなくてはという考えに固執していた。
太陽の光も防がれた状況では、効くかどうかも怪しい攻撃魔術を咄嗟に放っていただろう。
彼の言葉を思い出したお陰で、攻撃魔術。それも高火力のものだけが結果を出すとは限らないと気付けた。
斃す事は叶わなくても、足止めは成功した。生まれた猶予は、決して無駄には出来ない。
力の入らない右手を手綱に括り付け、必死に馬を走らせる。
ヴァルムに先行させたとはいえ、伝わらなくては意味がない。
太陽が沈む前に、街へ戻らなくてはならない。自らの口で、吸血鬼族の存在とその危険性を。
トリスは自分でも、何をしているのだろうと考えてしまう。
自らの意思で祖国に弓を引き、あまつさえ身を寄せた世界再生の民で捨て駒にされた。
裏切り者の末路としては、相応の結果だっただろう。
だけど、それはあくまで自分だけの話だ。世界再生の民は吸血鬼族を手を組んだ。
漂流している自分を救ってくれたベリア達や、ハボルやライルまで不幸になる事をトリスは望んでいない。
彼らの美しい心を、悪意で穢してはならない。痛みを堪えるには、十分な理由だった。
馬上から血の雫を垂らしながらも、トリスは決して止まらない。
一心不乱に、前だけを見据えていた。
……*
炎爪の鷹は言葉を話せない。他者にとっては、鳥が喚いているだけだった。
獣人であるベリア達にとっても例外ではなく、見知った顔が翼をばたつかせながら慌てふためく様を見て呆然とする。
「なぁ、ヴァルムはなんて言ってんだ?」
「そんなの、アタイが判るわけじゃないだろ。トリスティアじゃないんだからさ」
まるで踊っているようにしか見えないヴァルムを見て、ベリアは肩を竦める。
こんな珍妙な動きをする魔物は初めてだと興味深く観察をしていた所、彼女の脳裏にいくつかの疑問が浮かび上がる。
「そういえば、トリスティアはどうしたんだい?
それに、アンタ。この怪我は……?」
「おいおい、まさかヘンなことが起きてるんじゃないだろうな?」
相応の理由が無ければ、ヴァルムがトリスティアから離れる事はなどそうはない。
加えて、斬り裂かれたかのような鋭い傷跡と必死の形相。
ヴァルムはただ踊っているだけではない。何かあったのだと、獣人達が顔を見合わせた瞬間だった。
薄く積った雪の上が踏みつけられ、無数の足跡が真っ白な雪を汚していく。
まるで軍隊のように規則正しく揃えられた足並みは、獣人達の逃げ道を塞ぐようにして立ち止まった。
「どうしたんだい? そんなに大勢で。アタイらに用事でもあるのかい?」
視線の先に居るのは、共にこの街で過ごす人間達だった。
貴族に仕える侍女も居れば、この街を拠点にしている冒険者も。
おしゃべりな男も居れば、奥ゆかしいのかあまり言葉を発さない女も。
普段はあまり接点の見られない集団が一様に集結している。
それでも、自分達にとっては見慣れた住人のはず。だった。
「ちょっ、ちょっと! どうしたんだい!?」
彼らの誰ひとりとして、ベリア達に言葉を投げかける事はない。
各々が武器を手に取り、じりじりと獣人へ詰め寄る。
「――!」
いち早く自体を察したヴァルムが、威嚇をするように吠えた。
獣人達がヴァルムの怪我やばたついた様を、この異変と関係あるのだと結びつけるのは必然だった。
……*
街へ到着したトリスは、我が目を疑った。
壁や地面に飛び散る血痕。崩れた壁。露店は柱が折れ、その形を保てては居ない。
微かに漂う血生臭さが自分から流れ出ているものではないと気付くのに、時間は必要としなかった。
「どういうことだ……!?」
自分は確かにハーマンを出し抜いたはずだった。
追い付かれた様子も、ましてや追い抜かれた様子もない。
なのに、眼前には惨劇が広がっている。
状況がまるで分らない中、トリスは逃げ惑う人々の中に獣人が居ない事に気付いた。
「ベリアたちは――」
頭で文字として起こすよりも先に、トリスの身体は港を向いていた。
泥と血で薄汚く汚れた雪の上を、懸命に走り続ける。脳裏に過る最悪の状況を、何度も否定しながら。
「ベリア……ッ!」
息を切らせながらネクトリア号の元へ辿り着いたトリスを待ち受けていたもの。
それは、傷付きながらも武器を取る人間と彼らを必死に傷付けまいとする獣人の姿だった。
「トリスティア! その恰好はどうしたんだい!?」
トリスの声を聴いて安心したベリアだったが、彼女の様子を見てすぐに目を丸くする。
寒い日だというのに、裂かれた服からは所々肌色が見えている。
無論、それだけではない。黒いローブから滴り落ちる赤い雫が、彼女が傷を負っている事を証明していた。
「私の恰好など、どうでもいい! それよりも、吸血鬼族だ。吸血鬼族が、お前たち獣人を狙っているんだ!
ベリアたちこそ、どうして街の人と争っているんだ!?」
「吸血鬼族だって? そんなモンが――」
ローブを強く握りしめ、叫ぶトリスの眼は真剣そのものだった。
ベリアがトリスと出逢ってからこれまで、彼女は冗談の類を言った覚えがない。
突拍子もなく出された古の魔族の名でさえも、真実なのだと訴える凄みがある。
「――いや、トリスティアの言う通りかもしれないね」
補足をするならば、ベリアも全く覚えがないという訳ではない。
伝承上の吸血鬼族は、血を吸う他に他者を操るという。
共に暮らす、気の良い仲間である街の人たちが急に襲い掛かってきた事にも合点がいった。
「トリスティア! よく分からないけど、街の人たちがアタイたちに襲い掛かって来てるんだ。
様子がおかしいから、なるべく傷付けないようにはしているけどさ……。
流石に、気を使っちまうよ」
「襲い掛かってきただと……!?」
先刻、古城での戦闘と同じだった。
ハーマンにより操られた鳥の群れが、彼の意のままに動いていた。
港でベリア達を襲う人間も、同様なのだろう。
吸血鬼族と繋がっている人間が、この街には存在していた。
ハーマンにとって操りやすい手駒を用意するのは、当然の流れとも言える。
更に言えば、操られた人はそのまま人質にもなる。
故郷のように共存する人間を、獣人は傷つける訳には行かない。
悔恨が残るような結果を出してしまっては、相手の思う壺だった。
「待ってろ、ベリア! すぐに――」
「やめな、トリスティア!」
魔術で人間達の拘束を試みようとしたトリスを、ベリアが止める。
「何故だ!? このままでは、お前達が!」
「アタイらはいい! 旦那や若旦那の方へ行ってくれ!」
「ハボル殿とライル殿の元へ……?」
「ああ。港以外にも、おかしな動きをしている人間がいると聞いた!
アタイらは自分たちで何とかしてみせるから、旦那たちのところへ行ってくれ!」
咄嗟にベリアが言及をしたのは、セアリアス家の者達の安否だった。
彼らが居るからこそ、自分達はこの街を故郷だと思える。彼らがいなくては、この街も自分達も成り立たない。
「アンタも怪我をしているんだ。旦那たちが無事なら、そのまま一緒に隠れとくんだよ」
「だが――」
喉まで出かかっていたものの重みに気付いたトリスは、慌てて言葉を呑み込んだ。
この騒動の裏には世界再生の民。自分が所属していた組織が関係しているとは。
言ったところで状況は好転しないのだと、後ろめたさを抱えた言い訳を自分の中で呟く。
「心配すんなって。アンタも知ってるだろ?
アタイらは、これでも腕っぷしに自慢があるんだ」
ベリアがニッと白い歯を見せる。
彼女は自分の身を案じていてくれているのだと、流石のトリスでも理解できた。
何も語ろうとはしない自分とは対照的で、彼女の瞳は雪のように真っ直ぐだった。
「……分かった、絶対に無理はしないでくれ!」
「全く、どの口が言うんだい。ま、了解さ」
血を滴らせながらこの場を去るトリスを見ながら、ベリアは苦笑した。
彼女もまた、理解している。トリスの負傷は、吸血鬼族と戦った証である事ぐらいは。
だから、トリスをライルの元へと行かせた。そこが一番安全であると信じて。
……*
冷たい空気が、肺を凍らせるようだった。
目一杯酸素を取り込んでは、すぐに吐き出す。
「ハボル殿! ライル殿!」
本邸に彼らは居なかった。散らばった家具から、操られていた者から避難したのかもしれない。
トリスは片っ端から、自分が知っている場所を回った。その先に辿り着いたのは、ライルと共に訪れた館。
自分への贈り物と称した、氷塊に埋もれた杖の在る場所だった。
杖の前で、神妙な顔をしている二人の男。
ハボルとライルを見つけ、トリスは胸を撫で下ろす。
「トリスティア!」
ずっと見えなかったトリスの姿を漸く見る事が出来た。
顔を明るくするライルだったが、彼女の様子を見て様相が一変する。
「そ、その傷はどうしたんだい!?」
「これは――」
「我が付けたものだ。素晴らしい血の匂いだからな、直ぐに居場所が分かったぞ」
吸血鬼族の説明をしようとした矢先。
トリスは自らの背後が、凍り付くような感覚に捕らわれた。
聞き覚えがある。忘れるはずもない。先刻まで、命のやり取りをしていた相手の声を。
振り向いた先に居るのは、外套に身を包んだ長身の男。ハーマン。
怪しく光金色の瞳が、トリスの全身を強張らせた。
「貴様、どうして――」
まだ陽は落ちていないはずなのに、居るはずがないのに。
理解の追い付かないトリスが咄嗟に魔術で迎撃を試みるが、反応はもう間に合っていない。
「――がっ!?」
「トリスティア!」
魔術の発動よりも先に、力いっぱい振り払ったハーマンの腕がトリスの身体を吹き飛ばす。
氷塊に背中を強く打ち付けられ、彼女の鮮血が周囲を赤く染めた。
「中々、余興としては楽しめたぞ。だが、それもここまでだ。
光栄に思え、存分に可愛がってやる」
「なに、を……」
身体を起こそうと試みるが、起き上がれない。
血を流し過ぎただけではない。逃げても追われる。もう、街まで来てしまった。
その事実は、トリスの戦意を削ぐには十分だった。
一歩ずつ、着実にトリスへと近付いていくハーマン。
本来なら一瞬で詰められる距離を、彼は敢えて歩く事で楽しんでいる。
まだ気丈に振舞おうとする彼女の心を、完全に折りたいという一心からの行動だった。
「……む」
しかし、ハーマンはその歩みすらも止める。
彼女が身を打ち付けた氷塊。その中に埋もれた杖を見て、眉を動かした。
「ク、ククク。ハハハ。アーッハッハッハ!
まさか、こんなところでお目に掛かれるとはな!」
笑わずには居られなかった。目を凝らして確認をしたが、見間違うはずもない。
かつての戦いで自分達を打ち負かした人間が持っていた杖と、再び相まみえたのだから。
「何の話だ……?」
自分の事を言っているのかと考えたトリスだが、ハーマンの視線は自分を捉えてはいない。
むしろ、その奥へと吸い込まれているようだった。彼の視線に誘導された先に存在するのは、氷塊に埋もれた一本の杖。
「そうか、知らないのか」
眉を顰めるトリスの様子から、彼女は本当に何なのか解っていないようだった。
彼女はこの杖の価値を理解していない。つまり、継承者ではない。
恐れる必要はないという余裕からか、ハーマンの口は自然と軽くなる。
「その杖は、かつて我ら魔族と戦った人間が所有していた神器だ。
賢人王の神杖。貴様らにとっては、至宝であるべき存在なのだがな」
ハーマンの口から告げられた事実に、トリスは思わず杖へ視線を移す。
珍しい杖だとは思ったが、まさか神器だとは夢にも思ってみなかった。
「今日はなんと良き日だ。鬱陶しいあの女は消え、王の復活へ一歩近づく。
あまつさえ、憎き神器まで手に入るというのだから」
この500年、屈辱の証だった杖。賢人王の神杖を、手中に収める。
王を封印したこの杖を破壊さえしてしまえば、もう恐れるものはない。
「少し、待ってくれ!」
喜びで口角を上げるハーマンの前に立ちはだかったのは、ライルだった。
彼はトリスティアを護るように、大きく両腕を広げている。
「なんだ、人間? 貴様に用はないのだが」
「君になくても、僕にはある……!」
高揚した気分を阻害され、ハーマンは露骨に顔を歪める。
小刻みに身体を震わせながらも、ライルは決して退こうとはしない。
「ライル殿!? やめてください!」
一方でトリスは、その様に大きく狼狽える。
かつて自分を逃がそうとした男と、姿が重なって見えてしまったが故に。




