275.悪意の古城へ
先の争いで人間に敗れた種族。
吸血鬼族の歴史に刻まれた恥辱であり、最大の汚点。
かつて栄華を極めた純血の魔族でありながら、その地位を失墜させるには十分な出来事だった。
最たる理由としては、魔王の不在にある。吸血鬼族の王は、人間の手によってその身を封印されている。
導くべき存在を失って幾星霜。王の奪還と復活は復活を目論む吸血鬼族にとっては悲願となる。
人間により追い詰められた種族の復活。その鍵を握っているのも、やはり人間だった。
「伝承にあるとはいえ、所詮は敗北した種族。この程度か」
長身の男が刃にこびりついた血を振り払う。暗闇の中でも、血痕が美しい弧を描いた事は想像に難くない。
残された僅かな同胞が呆気なく斬り捨てられる様を、ハーマンは自らの眼に焼き付けていた。
男はハーマンの知っている人間とはかけ離れた、異質な存在だった。
黒衣に身を包み、襲い掛かる吸血鬼族を無感情に斬り裂く。
血を吸い、傀儡となった人間でさえも牽制にすらならない。彼の前に立ちはだかった瞬間、首と胴が離れていたのだから。
「……我らを、狩りに来たといのか」
ハーマンは己の命はここで尽きるのだと、本能で察した。
未練は大いにある。吸血鬼族の復権を、主君の復活を見届ける事が出来なかった。
悔やんでも悔やみきれないハーマンの胸中を無視するかのように、男の唇が動いた。
「吸血鬼族の王は、私達が身柄を確保している」
「どういうことだ……!?」
事態を呑み込めないハーマンが狼狽する。
陽光の下では動けない自分達に代わって、傀儡とした人間にあらゆるところを捜索させた。
500年の年月をかけて、世界中を巡った。それでも、決して王の姿を見つける事は出来なかった。
眼前の男は確かに王の御身を確保していると言った。夢にまで見た、王の姿を。
「王はご無事なのか!?」
自分が今際の際に立っている事など、とうに頭から消えていた。
そこにあるのは、病的なまでに王の心配をする臣下の姿。人間も魔族も、本質的にはそう変わりがない。
男の口角が緩やかに上がっている事に、ハーマンは気付く由も無かった。
「身柄こそ確保をしているが、まだ封印が解かれたわけではない。
復活には相応の力が必要だろう。私たちは、その代わりとなるモノを持っている」
掲げられたのは、男の左腕。
悪意を煮詰めたような左腕が異質な存在である事は、ハーマンにもすぐ理解が出来た。
「この腕があれば、王が復活できるというのか?」
「そうではない」
ハーマンの問いを男は首を横に振る。
彼は語った。自分の持つ左腕はあくまで恩恵の一部に過ぎないと。
「研究が進めば、貴殿らの王に施された封印も解くことが出来るだろう。
吸血鬼族には、力を貸して欲しいのだ」
「それは誠か……! 王が蘇るのであれば、願ってもない」
悲願が達成される可能性を提示され、歓喜に打ち震えるハーマン。
喉元に刃が突き付けられようとしていたことなど、とうに頭から消えていた。
「その為には、邪神に力を蓄えさせる必要がある。多様な種族を取り込むことで、邪神は力を増すだろう。
幸い、ティーマ公国には大勢の獣人が人間と共に暮らしていると聞く。
貴殿には、その眼と牙を以て獣人を捕らえてもらいたい。魔力の高い人間が居れば、その者もだ」
「その役目、仰せつかった。我らが王のため、必ずや捕らえてみせよう」
ハーマンにとっても渡りに船だった。いい加減、キーラとの付き合いにも飽きてきていた。
あの女は多少の生贄を差し出した程度で、吸血鬼族を手懐けていると思い込んで言える節がある。
キーラにとっては刺激的な出来事かもしれないが、吸血鬼族にとってはただ餌を差し出されるだけの退屈な日々。
手を切るには、丁度いい頃合いだった。
「期待している」
ハーマンの返答に満足をしたのか、男は踵を返して去っていく。
その背中を追おうとは、ましてや力づくで王の居場所を訊きだそうとは思えなかった。
黒衣の中に潜む左腕が発する威圧感を前にして、吸血鬼族は自然と精神で屈服をしていた。
こうして吸血鬼族は、世界再生の民へ加わる。
正確に言えば、ビルフレスト・エステレラの手駒となった。
この事実がビルフレストの上役であるアルマに知らされる日は、訪れなかった。
……*
休日で気が抜けているのか、いつもより僅かに背中を丸め、吐息を両の手に吹きかける。
掌を擦り合わせて熱を生み出すが、到底寒さを凌げるものではない。
ライル・セアリアスはひらひらと舞う雪を一身に受けながら、街を闊歩する。
彼は生まれ育ったこの街が好きだった。寒さは煩わしいと感じる事もあるけれど、訪れなければそれはそれで物悲しい。
「あら、ライル様」「若旦那、おはようございます」「今日はお休みで?」
街行く人々に声を掛けられ、笑顔で挨拶を交わす。
人間も獣人も分け隔てがない光景は、彼にとって誇りだった。
「……トリスティアは、杖を見に訪れるだろうか」
休日といえど、彼の頭の中にはひとりの女性が居座り続けていた。
仕事中は色々と口実を見つけて誘えるが、休日はそうも行かない。
あまり強引に押し寄せると、立場の差もあって彼女は断り辛いのではないだろうかという不安が常に付きまとう。
ベリア達は気にする必要はないと言ってくれたけれど、やはり迷惑だと思われたくはない。
この辺は惚れた弱みなのだと、ライルを悩ませていた。
彼の中で折衷案として浮かび上がったのは、先日贈った杖の存在だった。
決して融けない氷で覆われた杖へ、トリスティアは興味を示していた。
自分から何度も足を運んできてくれと言った訳では無く、彼女が来ると言ってくれた。
社交辞令なんかではないはずだ。偶然を装えば、彼女に逢えるかもしれないと期待を抱く。
「氷が綺麗だから……。いや、杖の意匠が。
違うな、私も杖について調べようと思って。うん、これだな」
出会えた時に酌み交わす言葉を想定しながら、ライルは街の中を歩いていく。
それが目に留まったのは、ずっとトリスティアの事ばかり考えていたからだろうか。
視界の片隅に捕らえたのは、店頭に並べられていたローブ。まるで雪のように真っ白なそれは、彼の心を掴んでは離さない。
「トリスティアに、似合いそうだな……」
ライルは彼女の色鮮やかな髪が気に入っていた。
雪のように白いローブは、彼女の紅い髪を強調するだろう。
純白な心の中に秘めたる、炎のような情熱。は、言い過ぎかもしれない。
けれど、ライルは彼女の事をそれほどまでに美しい存在だと信じて疑わない。
昨晩ベリアが言っていた。彼女は穴の開いたローブを着続けていると。
無論、それが悪い事とは言わない。旅を続けていたから、多少の穴は気にならないのだろう。
今となっては、それが功を奏した。新しいローブを贈る口実としては申し分ない。
「だけどな、杖もまだきちんと受け取ってもらったわけでも……」
唯一の懸念は、杖を贈ったばかりだという事。
氷の中に封じ込められているとはいえ、トリスティアはきっちりと受け取ってくれた訳ではない。
こう何度も物を贈り続けるのはどうだろうかと、逡巡をする。
決して物で釣りたい訳ではない。けれど、喜んで欲しくて物を贈りたい。
ローブを前にして頭を悩ませているライルを見つけた店主が、彼へ声を掛ける。
「若旦那。このローブが気になるんですかい?」
「あ、ああ。気にはなっているんだが、果たして受け取ってもらえるかどうか……」
店主はすぐに察した。最近彼がお熱の、紅い髪をした少女へ贈ろうかと悩んでいる事を。
今まで浮いた話ひとつ無かった男が、贈り物ひとつで悩んでいる姿は新鮮だった。
自分の売り上げと、彼の恋愛が成就する事を願って、店主は助け船を出す。
「あの娘、この街の冬を知らないんじゃないですか? いつもの格好じゃ、寒くて凍えますぜ。
その点、このローブなら防寒対策としてはバッチリでさあ。女の子とあれば何かと物入りですし、喜ばれない事はないと思いますけどね」
「買った」
迷いなく、ライルは手を挙げた。
店主の言う通りだった。この街の気候を大義名分にすれば、何もおかしな話ではない。
更に言えば、これは実用性を兼ねた品だ。体調を崩してしまえば、仕事にも支障が出る。
ベリア達獣人と違って、人間は寒さに弱い。彼女だけに防寒着を贈っても、角は立つまい。
尤も、獣人達は自分を生暖かい目で見るだけのような気がしてならないが。
「毎度!」
一通りの言い訳を頭の中で言い終えたライルは、ローブを手に取る。
逢える事と、受け取ってもらえる事を願いながら、彼は氷塊に埋もれた杖の元へと再び歩き出す。
心なしか、先刻よりも足取りは軽くなっていた。
……*
キーラが用意した馬車の中で、トリスは彼女の姿を改めて確認をした。
裕福な家庭で生まれ育ったのだろう。着飾った姿から、用意に想像が出来る。
(私には似合いそうもないな)
自分に笑みを送るキーラへ、トリスはぎこちない笑みを返す。
分家とはいえ、トリスもミスリアの五大貴族の出身だ。貧困に喘いだ事は一度もない。
一定のマナーも、幼少期に叩きこまれた。決して王家に、本家に恥をかかせぬようにと。
ドレスを着て、お洒落をする機会だってあった。けれど、トリスはどれも自分には似つかわしくないと感じていた。
所詮は分家。本家の影として、幾度となく手を汚した。
その度に、着飾った自分とのギャップに戸惑った。
どちらがトリス・ステラリードと問われれば、間違いなく汚れた自分だと言い切れるのに。
「トリスティア様は、どちらの出身ですの?」
トリスの考えを遮ったのは、キーラの一言だった。
ネクトリア号の面々と違って、彼女は自分の事情を知らない。
出自に関する質問が飛び交う事は容易に想像できたと、安易に付いて行った事を後悔した。
「あ、いえ。その辺は曖昧で……。
恥ずかしながら、当てもなく彷徨っていた所を拾われた次第です」
口にしながら、自分は何を言っているんだとトリスは自問した。
誤魔化すにしても下手が過ぎる。セアリアス家は得体の知れない人間を雇っていると、言っているようなものだった。
「まあ、そうですの! どことなく気品がありましたから、どこかの貴族の方と思っていましたわ」
「まさかそんな……。買いかぶり過ぎですよ」
ぎこちない笑みで誤魔化すトリスだが、胸中は穏やかでは無かった。
この街で過ごす自分の何処に、気品があったといのだろうか。
常にヴァルムを引き攣れているし、着ているローブは先日ベリアに指摘された通り穴が開いている。
(本当に、私のことを何も知らないで接触したのだろうか……)
どう見ても冒険者。更に言うなら、金のない冒険者が関の山だろう。
本当は正体に気付いていて、何らかの行動を起こす為に接触したのではないかという不安が頭を過る。
この時、トリスの脳裏にはある者達の顔が浮かんだ。
ベリアを初めとするネクトリア号の乗組員。素性の知れない魔術師を受け入れてくれたセアリアス家。
彼女達にだけは、決して迷惑を掛けられない。
「時に、トリスティア様はライル様のことをどう思ってらっしゃるのですか?」
「ライル殿の?」
また話題が変わった。トリスには、キーラの事が分からなくなってきていた。
自分が貴族ではないかという話から、ライルへの繋がりがどうしても見出せない。
もしかして、彼女は自分を飽きさせないように気を遣っているのだろうか。
だとすれば、気品があるというのも会話の中で生まれたお世辞なのかもしれない。
キーラの目的が自分と親交を深める為であるのなら、警戒しすぎるのも失礼に当たる。
「ライル殿は、私がネクトリア号に溶け込めているのか気遣ってくれています。
多くの人に救けられ、私は航海を共に出来ています。その点は、いくら礼を述べても足りないぐらいですね」
「そう、ですか……」
キーラは奥歯が割れそうな程に、強く噛みしめた。
この女は本気で言っているのだろうかと、耳を疑った。
無論、ライルがネクトリア号の面々と溶け込めているのか気にしているのは事実だろう。
だがその真意は、彼女へ好意を持っているからに他ならない。
トリスティアはその事実に気付いていないのか、気付いているにも関わらず自分に余裕を見せつけているのか。
トリスは知らない。キーラがどれだけトリスティア・エヴァンスを妬んでいるのかを。
その認識の違いこそが、彼女が凶行及ぶ動機なのだと。
「やはり、ライル様は素晴らしいお方ですね」
「ええ、私もそう思います」
二人の歯車が噛み合う事なく、時間は過ぎていく。
馬車が訪れた先は、キーラの別荘だという古城。
かつて、彼女が吸血鬼族と邂逅したその地だった。




