274.少女と悪意が出逢う時
ネクトリア号の乗組員には、行きつけの酒場がある。
示し合わせた訳でもないにも関わらず、自然と顔を合わせ、同席をする。
そんな中、今日は珍しい男が顔を出した。
ベリアを初めとする獣人達が彼へ声を掛けると、ごくごく自然な流れで酒を酌み交わす。
青年は感情の赴くまま、勢いよくエールを飲み干す。
強い刺激が喉へ襲い掛かり、目尻にうっすらと涙を浮かべた。
整った顔には似合わない口ひげを泡で作るが、本人は意に介していない。
心ここに在らずと言わんばかりに、青年はぼんやりと天井を見上げては呟いた。
「ああ、トリスティア……」
何処か寂しげに呟く青年。ライルは物悲しそうな表情を見せる。
決して愛しのトリスティアに粗相を働いた訳ではない。
むしろ、今日は彼にしては手応えを感じたにも関わらずだ。
「なんだいなんだい。若旦那、今日は良い感じだったんじゃないのかい?」
ライルの様子に何度も瞬きをしながら、ベリアが目を丸める。
今日は贈り物の杖を見てもらい、また逢う口実を取り付け、食事までした。
一体何が不満だというのだろうかと首を傾げる。
「ベリア。考えてみろって、こんな時間に独りでいるってことはよ」
「……ああ」
白い牙を光らせながら笑みを浮かべる人虎の顔を見て、ベリアも察した。
要するに、ライルは物悲しいのだろう。愛しのトリスティアと離れてしまった事が。
「わっ、私はそのようなやましいことなど!」
「若旦那、誰もやましいことなんて言ってないですぜ。
ただ、トリスティアとの楽しい時間が案外早く終わったんだなって言いたいだけでさあ」
「ぐっ……」
こうも容易く誘導尋問に引っかかるとは思わず、獣人達から笑みが零れる。
炒られた豆に手を伸ばしながら、ライルは己の気持ちを落ち着けるかのようにゆっくりと咀嚼する。
普段は取り留めのない話を、酔ったテンションで取っ散らかるかのように繰り広げられる。
けれど、今日は違う。折角若旦那が訪れたのだから、自然と話題はトリスティア一色に染まっていく。
ネクトリア号で共に海へ出る訳では無いライルにとっては、自然と耳が傾けられる話題でもある。
「実際、トリスティアも掴み切れないところはあるよな。
いつまでもおんなじ黒いローブ着てるしさ」
「ああ、穴が開いても着続けるもんだからアタイも訊いたんだよ。
『そんなに思い入れのあるものなのか?』って。
なのに、トリスティアと来たら『別に、偶々市場で買ったものだ』だってさ」
「給料が足りなかったか……!?」
今、彼女にいくら与えているのだろうとライルは指折り数え始める。
余りにも彼が真剣なものだから、ベリア達が「そういう訳ではない」と制止した。
「魔術師だし、結構旅をしてきたんじゃないか?
小さな穴のひとつやふたつじゃ、気にするまでもないって」
「まあ、確かに。あれだけ魔術が扱えるんだもんな。
冒険者とかやっててもおかしくはないよな」
実際問題、ネクトリア号でも彼女の魔術には助けられてきた。
魔導石搭載型の船とはいえ、全てが魔導石に頼っている訳ではない。
どうしても推進力が必要な時以外は、帆船として運用をしている。
高価な魔導石を酷使しすぎないようにという、配慮からのものだった。
彼女が風の魔術を操る事で、魔導石に頼らざるを得ない状況は格段に減った。
おかげで一度の航海に対するコストが下がり、商会としても大助かりだった。
無論、トリスの恩恵は風だけに留まらない。
先日の雪かきもそうだが、小さな怪我は治癒魔術でたちまち治してくれる。
何より、寒くなってきた時期に彼女の使役するヴァルムの存在は欠かせない。
今や、トリスティアはネクトリア号にとって掛け替えのない仲間となっていた。
だからこそ、不思議に思う事がある。
やや堅苦しい言葉遣いをする一方で、時折品のある所作を見せる事がある。
実はお嬢様だったのかと思えば、先刻のローブのように衣服には無頓着だ。
そして何より。
「最近は、段々と目を合わせてくれるようになったんだ」
「へぇ、よかったね。若旦那」
エールを呑みながら、ライルは嬉しそうに報告をする。
彼の言う通り、トリスは無意識に他人と目を合わせる事を避けていた。
余程信用をした相手でもない限り、やや伏し目がちに応対をしてしまうようになっていたのだ。
元々、海で漂流をしていた少女だ。何か理由があるのだろう。あまり詮索して傷付けてはいけない。
かつて攫われ、奴隷として売りに出されたベリアは過去を話そうとしない彼女の気持ちが理解できた。
故に、触れないでおこうという彼女の提案に皆が賛同した形だった。
トリス本人も気付かない間に、彼女は周囲から大切に扱われている。
彼女が中々他人と目を合わせなくなった切っ掛けは、浮遊島での出来事に起因する。
『色欲』の適合者であるラヴィーヌ。彼女の持つ右眼の魔力に、惑わされてしまった。
自我を失い、味方であるはずのジーネスを攻撃し、彼の死へと繋がった。
その時の精神的外傷から、彼女は他人の瞳を見る事に怯えていた。
尤も、ネクトリア号の面々やセアリアス家はそのような悪意とは無縁の存在。
徐々に彼女の心を解きほぐし、次第にその隙間を埋めていく。
ネクトリア号に拾われたのは、トリスにとって間違いなく僥倖だった。
「――それで、だ。トリスティアは普段、どんな感じなんだ?」
空になったグラスをテーブルへ置き、ライルは真剣な眼差しで訊いた。
彼が止めどなくエールを呑んだのには理由がある。素面では訊けない事を、仲間に訊く為だ。
トリスティアは普段の航海で、どういう生活をしているのか。
どんなものが好きで、どんなものが苦手なのか。
雇用主だから無下に出来ないだけで、実は嫌われていないだろうか。
彼女の事を知りたいと言う欲求と、鬱陶しくはないだろうかという不安を解決するべく、ライルはこの場に現れていた。
「ちょっとちょっと、若旦那。いくら何でも、女のコのプライベートを詮索するのはよくないんじゃないかい?」
「……ここの支払いは私が持つ。皆、好きなだけ頼んでくれ」
やれやれと呆れるベリアを前に、ライルは淡々と言い放った。
手を組み、その上に顎を乗せる。完全に目は据わっていた。
「ヒャッホウ! 流石は若旦那! 気前がいいぜ!」
「ったく、この男どもは」
喜ぶ獣人の群れを見て、ベリアがため息を吐く。
とはいえ、ライルは本気でトリスティアを好いている。
ベリアをはじめとするネクトリア号の乗組員も、その恋心を応援していた。
奢る迄もなく訊き出せた情報だろうが、彼なりのけじめなのだろう。
「トリスティアは自分のことを話さないから、若旦那が望むような情報は得られないかもしれないけどね」
「全く問題ない。普段の彼女が知りたいんだ」
「……そんな感じで、トリスティアの所へは行かないようにしておくれよ」
ライルは完全に目が据わっている。
これまで浮いた話ひとつ無かった男が、こうも変わるとは。
恋というものは、凄い力を持っているのだとベリアは実感した。
……*
その日は空一面が雪雲で覆われた日だった。
白い吐息は、一足早い冬の訪れを予感させる。
「皆の言う通り、ヴァルムは本当に暖かいな」
肩に乗ったヴァルムをそっと撫でると、嬉しそうに顔を擦りつける。
今まで、こんな風に召喚した魔物と接する事は無かった。
孤独になった寂しさを紛らわせる為だろうか。
自分の立場を忘れない為だろうか。
ヴァルムの同胞の命を、失わせてしまった償いからだろうか。
恐らくは、どれも当て嵌まるのだろう。
ネクトリア号に拾われてからのトリスは、毎日のように考えていた。
世界再生の民の事も。ミスリアの事も。
ジーネスが最期に遺した言葉の意味も。
ネクトリア号の仲間も、セアリアス家も。トリスにとって大切なものとなりつつある。
一方でこうも思う。本来なら、自分は彼らと関わってはいけないと。
名を騙り、頻繁に航海へと出る生活。
隠れるにはもってこいだが、いつか彼らを巻き込んでしまうのではないかという不安がずっと頭の片隅に残り続ける。
自分が何を望んでいるのか。自分は何をするべきなのか。
いつかは答えを出さないといけないと判っている。
けれど、それはあくまでトリスの事情だった。
迷い続ける彼女などお構いなしに、悪意は彼女を呑み込もうとする。
「トリスティア・エヴァンス様ですよね?」
不意に眼前に現れたのは、ひとりの女性。
亜麻色の髪は波打つように流れ、柔らかさを演出している。
厚手のコートは明るい色をしているが、彼女自身の華やかさは決してそれに劣らない。
一目見ただけでわかる。貴族の令嬢なのだと。
「貴女は……?」
「キーラ・ワルクリアと申します。以後、お見知りおきを」
にこやかに挨拶を交わすキーラに対して、トリスは眉を顰める。
この街でネクトリア号に関わる者以外の知り合いなど、トリスには居ない。
ましてや人間となると、ハボルやライルと言ったセアリアス家の者しか知らない。
ならば彼女は、どうして自分を知っているのか。
ミスリアはティーマ公国と縁が無い。ならば、脳裏に過るのは世界再生の民。
しかし彼女は、自分をトリスティアと呼んだ。トリス・ステラリードではない。
怪訝な顔をする彼女の緊張を解くかのように、キーラは笑みを浮かべた。
「わたくし、ライル様と個人的に親しくさせていただいておりますの。
その際にトリスティア様のお話を聞いて、是非お会いしたいと思ってましたわ。
ここでお会いできたのも何かの縁です。良ければ、お友達になって頂けませんか?」
「ライル殿の? そうでしたか。何も知らず、失礼しました」
ライルの知り合いに粗相があってはいけないと、トリスは深々と頭を下げる。
いとも簡単に下げられたそれを見て、キーラは独りで憤慨していた。
(余裕の態度というわけですか)
顔が見えないのを良いことに、キーラは顔を引き攣らせる。
自分が唾をつけているのだから、ライルに近寄るな。牽制を含んだ言葉は、トリスに何の効果も齎さなかった。
周囲の目が無ければ、今すぐにでもこの真っ赤な頭を更に紅に染めてやりたい。
出かかっている衝動を必死に堪えながら、キーラは笑顔を作り続けた。
「トリスティア様は、本日ご予定がありまして?」
「いえ、次の出航まではまだ日がありますから。
恥ずかしながら、あてもなく街を彷徨っているだけです」
全く予定が無いのだと、トリスははにかんで見せる。
本日はライルと逢う予定が無いのだと、キーラはほくそ笑む。
「まあ、そうですの! では、わたくしとお茶でもいかがでしょうか?」
「キーラ殿と……?」
「はい。トリスティア様と、親交を深めるいい機会だと思いまして!」
トリスは思案をする。彼女はライルと親しいと言っていた。
ここで断ってしまえば、彼の顔を潰すのではないかと懸念があった。
「分かりました。キーラ殿さえ良ければ、是非」
ずっと世話になっているセアリアス家に、迷惑を掛ける訳には行かない。
そう考えたトリスは、キーラの提案に対して首を縦に振った。
「まあ! わたくし、とても楽しみですわ!」
手を合わせ、にこやかに微笑むキーラ。
トリスには気付く由もない。
彼女の笑顔の裏には、トリスへの嫉妬で腸が煮えくり返っていよう事など。




