272.少女に課されたもの
イーマ大陸に存在する国、ティーマ公国。
小国ながら魔術大国ミスリアに次いで、亜人の人口が多いとされる国。
亜人。とりわけ、獣人にとっては人間の国で最も住みやすいと言われていた。
これもセアリアス家の人柄の賜物であり、彼らがティーマ公国で慕われる理由でもある。
雪国であるが故に、冬の訪れを感じさせるのは他国よりも早い。
ネクトリア号が帰還を果たしたのも、しとしとと粉雪が舞う日だった。
「トリスティア!」
「ライル殿」
トリスの顔を見るなり、両腕を大きく広げる青年。名は、ライル・セアリアス。
短く纏められた髪は、小さな顔を引き締めるかのような群青色。細身の身体と相まって、長い足がすらりと伸びて見える。
優男と揶揄する者もいるかもしれないが、町娘が騒ぎ立てる理由も解る。彼は紛うことなき、美形だった。
そんな彼が今、己の情熱を注いでる女性が居る。トリスティア・エヴァンスという魔術師の少女。
ネクトリア号が少女を救助したという事で、父のハボルと共に様子を見に行った。
月並みな表現ではあるが、ライルはその少女に一目惚れをした。
雪を融かす炎のような、紅い髪。伏し目で戸惑いを現わした瞳は、彼にとって奥ゆかしさと同等だった。
漂流者と聞いていたが、不思議な気品すらも感じさせる少女。
事実、彼女を食事に誘った際は驚きを隠せなかった。完璧なテーブルマナーを、披露されたのだから。
どこかの国の貴族ではないだろうかと問う彼を、トリスティアはやんわりと否定した。
それでいて、己の出自を話す事に積極的ではない。ミステリアスな雰囲気は、ライルにとって恋心に刺激を与えるスパイスでしかなかった。
人虎のベリアの手引きもあり、彼女はネクトリア号の一員となった。船内で唯一の人間だ。
魔術師である彼女の活躍は、帰る度にライルの頬を緩ませる。
大金を叩いて購入した魔導石搭載型の船は、大気中に漂う魔力を少しずつ吸収して動力としている。
出力が足りない時はトリスの魔力を以て、動力を得る機会も少なくはない。
実際、一度の航海の時間が短くなってきている。街で家族を待たせている船員としても、彼女の存在は有難かった。
父も、獣人の仲間も、何より自分も。彼女が現れた事で全てが良い方向に回っている。
ライルは、自分とトリスティアの出逢いは運命なのだと感じていた。これから先、共に人生を歩んでいきたいと。
今まで浮いた話ひとつ無く、凛とした佇まいを崩さなかった彼が、ひとりの少女に右往左往している。
微笑ましい光景を前にして、父のハボルや獣人もライルを暖かく見守っている。
願わくば、彼の恋心が叶うように。幸せになってもらいたいと、強く願いながら。
「おやおや、若旦那。アタイらもいるんですけどね」
「しゃーねぇよ、ベリア。トリスティアは入ったばっかなんだ。
若旦那としては、新入りが心配で仕方ないんだよ」
「それもそうだね」
「私は別に、船旅で疲れを感じたことなどはないが……」
わざとらしくおどけて見せるベリアに、獣人の仲間が同調をしてライルを囃し立てようとする。
使役した魔物で海や空を移動した事のあるトリスにとっては、今更船で動揺するような理由が存在しない。
ベリア達の意図に気付けぬまま、やや不満げな顔を見せた。
「ん、んっ! 皆、今回も長旅ご苦労だった。いつも、私達は助けられてばかりだ」
咳払いをし、その場を取り繕うライル。ベリアを初めとした獣人は、互いに顔を見合わせて笑っている。
トリスだけが、状況を理解できずに眉を顰めていた。
「こちらこそ、アタイらに手を差し伸べてくれた恩は忘れませんよ。
……さ、トリスティア。積み荷はアタイらが下ろしておくから、アンタは若旦那に報告と書類の確認をしてもらってくれ」
「だが、積み荷は多いぞ? 私も手伝ってからの方が……」
全員で下ろした方が早いと主張するトリスを前に、ベリアは大きくため息を吐いた。
彼女は本当に、ライルの好意に気付いていないのだと確信をした。
このままだと彼女と一緒にいる口実として、ライルまで手伝うと言いかねない。
世話になっている若旦那を気遣って、ベリアはトリスへと言った。
「いつも言ってるだろ。荷物が多いからこそ、獣人の出番だ。アンタは人間で、それも魔術師だ。
船でたくさん助けてもらってるんだから、こういう力仕事ぐらいは任せておくれよ」
「そ、そうか。すまない……。ヴァルム、ベリアたちを手伝ってはくれないか?」
やや強引に押し切られた気もするが、ベリアの言う通り力仕事となれば自分の出る幕はない。
炎爪の鷹のヴァルムに後を任せ、トリスは今回の航海をハボルとライルへ報告する役目を引き受けた。
「ヒャッホウ! この寒空に、ヴァルムは骨身に染みる暖かさだぜ!」
「よろしくな、ヴァルム!」
「――!!」
ヴァルムが残ると聞いて、獣人達は大いに喜ぶ。
解っている。ヴァルムは暖かいし、空を飛べる。自分には出来ない事が、たくさん出来る。
それでもトリスは、複雑な気持ちだった。自分共々受け入れてくれる事は、感謝しているのだが。
(若旦那、がんばんなよ)
(ああ、ありがとう!)
一方でベリアがライルへ目配せをしていた事に、トリスは気付いていない。
後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、トリスとライルは港を後にした。
……*
航海の報告は恙無く終わりを迎えた。
元々、採算を度外視した事業だ。彼らが首を捻るような出来事は、そう起きない。
唯一の懸念は人間が獣人と交流をしている点だが、その摩擦を緩和する為にネクトリア号は獣人で構成されている。
何か問題があれば、そもそもベリア達が対策を考えた上で相談を行う。この点に於いても、トリスの出る幕はあまりない。
「トリスティア。この後、予定はあるのかい?」
「ヴァルムも置いていますし、ベリア達の手伝いをしようかと」
ヴァルムが自分の元へ戻っていないという事は、まだ積み荷は降ろし終えていない。
そう判断したトリスを制止したのは、ネクトリア号の所有者であるハボルだった。
「トリスティアよ、案ずるな。ウチの若い衆も総出で手伝っておる。
今頃はひと段落ついて、皆で一杯やっているだろう」
「は、はあ……」
ハボルはこう言えば、トリスティアは港へ戻らないだろうと計算の上での発言だった。
彼女は酒を呑むような真似はしない。ライルが食事に誘った際も、ワインをやんわりと断っている。
ライルからすればそこがまた奥ゆかしくて良いらしい。
決して自分の素性を話そうとはしない少女に、ハボルは思うところがある。
だが、彼は受け入れた。彼の懐は、獣人だけを受け入れている訳ではない。
もしも目に見えるような形で獣人だけを手厚く保護しているのであれば、瞬く間に嫉妬の対象となる。
ハボルが望んでいるのは、あくまで人間と亜人の共存。誰が相手でも、ハボルは分け隔てなく受け入れる。
その者が悪人だった時は、救ってくれた者達が手を貸してくれる。この街の皆も、セアリアス家を好いているのだ。
彼の人生は充実していると言える。なので、専らの不安は跡継ぎだけだった。
息子のライルは、自分と同じくあらゆる者に分け隔てなく接する。自慢の息子である事は疑いようもない。
一方で、彼は誰とも深い仲にならなかった。
誰も彼も同じように接してしまうが故に、進展が無かったのだ。
その息子が恋心を抱いた少女、トリスティア・エヴァンス。
熟練の冒険者のような佇まいの奥に、どこか気品を感じる不思議な少女。
惚れているライルは当然として、ネクトリア号の船員からも彼女の有難味は聞かされている。
彼女さえ良ければ、自分の娘として迎え入れたい。いつしかハボルも、そう考えるようになっていた。
「実は、息子に任せている商船が面白い物を見つけてな。
儂らには価値が判りかねぬが、魔術師であるトリスティアならと思ったんだ」
元より自由恋愛を推進しているハボルは、相手が貴族である事に拘ってはいない。
自分が出来る最大限の形。それでいて、トリスティアにあまり重圧を押し付けない形で、ライルの恋を応援する。
「そうなんだ。年代物の、美しい杖なんだが。売り物にするのも難しいと思って。
気に入ったなら、トリスティアに受け取ってもらいたい」
「いえ、その杖とやらは見ますが。そこまでは……」
「そう言わずに。気に入らなければ、無理にとは言わないさ」
「あ、ちょっと! ライル殿!」
折角の好機を逃さないようにと、ライルはトリスの手を引く。
戸惑うトリスと、顔を綻ばせるライルをハボルと侍女が温かい視線を送っていた。
……*
何度か食事はしたものの、手応えを感じた事は無かった。
彼女の所作に、自分がただ惚れこむだけ。
どうか、自分に興味を持ってもらう術はないだろうか。
今回見つけた不思議な杖は、そのひとつでもあった。
ネクトリア号以外の商船でも、このティーマ公国を賑わせている。
何れは彼女と航海出来ないだろうかと、ライルは淡い期待を抱きながら街中を歩いていた。
「この街は、本当に温かいですね」
「トリスティア?」
寒空の下で、不意に立ち止まったトリスが発した言葉の意味するもの。
それが決して気温などではなく、心の内で感じたものだと理解するのに時間が必要無かった。
「人間も、獣人も、皆が他者を尊重している。
ベリアたちが第二の故郷だと言った意味も、解る気がします」
ミスリアは他の国に比べて、民は間違いなく裕福だろう。
けれど、亜人はどうだっただろうか。五大貴族の分家として、様々な仕事を請け負ってきたはずなのに。
本家に対する嫉妬からか、はっきりと自分のしてきた事が思い出せない。
あれだけ、怨嗟に近い愚痴を溢しながら。自分の中身は空っぽだったのかもしれない。
世界再生の民でも、国籍や種族を問わない者が集まった。
だが、そこにあるのは純粋な力関係。五大貴族としての威光は、意味を成さなかった。
邪神の分体に適合しなかった自分は、ここでも使い捨ての存在だった。
自分がか弱い人間である事を、疎ましく思う事もあった。
「……私は、君にも故郷と思ってもらいたい」
「はい?」
不意に立ち止まったライルを、トリスの視線が追い掛ける。
寒空のせいなのか、頬を僅かに赤く染めるライルが小さな声で呟いた。
「トリスティア。君さえ良ければ、この国を……。この街を、君の故郷だと思ってもらいたい」
ライルにとって、精一杯紡いだ言葉だった。
彼にとって不幸なのは、やや含みを持たせた程度の言葉では彼女が意図を読み切れなかったという事だろうか。
恋愛的な要素を考える事なく、トリスは言葉そのままに受け取った。
「……ありがたい申し出です。そう思えたらどんなに幸福なのでしょうね」
「では……!」
顔を明るくするライルを前に、トリスは首を左右に振った。
「ですが、私はまだ自分の心が分かっていません。
ここに立っていることは正しいのかも、これからどうすればいいのかも」
ライルは物悲しそうに呟くトリスの奥に、誰かの影を見た気がした。
心中穏やかではないライルは、思わず尋ねてしまった。
「それは、君の大切な人かい……?」
「大切……。大切と言われれば、複雑ですね」
頭の中に浮かんだのは、ひとりの男。
だらしなくて、直ぐに女性の身体を触る助平な男。
やる気も何も感じられない、自分にとって唾棄すべき存在だった男。
今ならトリスは理解できる。自分はジーネスの表面的な部分しか見ていなかったのだと。
あの男は、自分の心の内を諭してくれた。道を閉ざさないでいてくれた。
今わの際まで、自分の心に寄り添ってくれた。恨み言のひとつも、呟かずに。
情けない、だらしない男は、自分よりも余程出来た人間だった。
上辺だけの言葉に、行動に流される自分とは雲泥の差だった。
そんな彼が遺してくれた言葉を無視できる程、トリスは恩知らずではない。
「ひどく情けない男に、厄介な難問を押し付けられたのです。
答えが出るまでは、中々先のことは考えられません」
「おっ、男……っ」
肩を竦め、自嘲するかの如くトリスは微笑む。
『男』という単語に心中穏やかではないライルだったが、トリスが彼の気持ちに気付く気配は無かった。
……*
街中で談笑をするライルとトリス。
微笑ましい様子であるはずの彼女を、疎ましく見つめる視線があった。
「あの小汚い女。唐突に現れて、ライル様を奪って行こうとする泥棒猫……」
自らの顔に爪を突き立てる程、嫉妬と怨嗟を送りつける娘。
擦れ合う歯がギリギリと音を立てる一方で、口角が釣り上がっていく。
「今に見ていなさい。ライル様に相応しいのは、このわたくしなのですから……!」
トリスはまだ気付いていない。
自分の存在により、どのような惨劇が引き起されるのかを。




