271.少女に触れるもの
天から止めどなく振り続ける雪の結晶を、ひとりの少女が見上げていた。
ひらひらと舞い降りる雪は、儚くとも美しい。
「もう、雪が降るのか……」
一仕事始める前に、邪魔だと言わんばかりに肩へ積った雪を振り払う。
甲板の上に広がる白い絨毯を、風の魔術を用いて海へと放り出そうとした時だった。
体温を奪い取るかの如く、舞い降りた雪が少女の頬に触れる。
優しく。それでいて容赦がない白い粒は、彼女の熱によってその姿を失っていった。
奪われた体温を取り戻さんと頬が赤く染まるのを、少女は感じ取っていた。
これだけ白く美しいものですら、他人を赤く染め上げる。
許可なく触れる存在を思い浮かべては、感傷へ浸らずには居られなかった。
少女はそっと自分の頬へと手を当てた。
先刻まで雪だったものが、水となって薄く伸びる。まるで、涙のように。
「トリスティア! ずっと外にいちゃ寒いだろ!
ちゃっちゃと終わらせて、中に入んな。アタイも手伝うからさ!」
船室の扉が開き、ひとりの獣人が少女の元へと近付いてくる。
獣人の白く美しい毛は、この雪景色によく似合っている。黒い紋様がアクセントとなり、余計にそう感じた。
「ベリア。助かる」
「ったく、大変だってのにひとりでやろうとしなくていいんだよ。
アンタただでさえ、一番寒そうなん身体してんだからさ」
「返す言葉もない」
ベリアはお節介で、ずっと自分の面倒を見てくれている。
独りで物思いに耽る時間が欲しかったとは、とても言える雰囲気ではない。
やれやれと腰に手を当てるベリアを前にして、トリスは苦笑した。
浮遊島での戦闘から離脱したトリス・ステラリードは、黄龍によって撃墜された。
海の藻屑となるところを、商船であるネクトリア号の船員により救出される。
行く当てもないトリスに手を差し伸べてくれたのが、人虎のベリアだった。
彼女の口添えもあり、トリスはネクトリア号に身を寄せていた。
名前をトリスティアと偽ったのには、理由がある。
ネクトリア号は世界を股に掛ける商船だ。ステラリード家の名を出すと、ミスリアの耳に入ってしまう恐れがあった。
いや、ミスリアならまだいい。もしもビルフレスト達に。世界再生の民に知られてしまえば。
大勢の命が奪われかねないと危惧したトリスは、名を偽る事を選択した。
熱で意識が朦朧としていたとはいえ、「トリス」まで名乗ってしまったのは失敗だと彼女は悔やむ。
本名を訊かれた時に、咄嗟に「トリスは愛称だ。本名はトリスティア・エヴァンスという」とやや強引に誤魔化した。
漂流していた経緯も含めて、自分の素性を問い質す者は居なかった事に胸を撫で下ろした。
ネクトリア号は世界中を回って、他種族と交流を続けている。
ベリアを初めとする船員は、トリスを除いた全員が獣人で構成されている。
その甲斐もあってか、人間との交流を避けたがる他種族も快く取引に応じてくれる事が多い。
一方で人間社会に馴染もうとする獣人にとっても、ネクトリア号の存在は有難かった。
相手が獣人と見るや、足元を見る商人。貴族へ売りつけようとする人買い。
獣人にとって人間の世界は、生きて行こうにも息苦しい世界なのが現実だった。
そんな彼らの為に、私財を投げ打ってまで援助を続ける貴族が居た。
ベリアの主人であり、ネクトリア号の持ち主。ハボル・セアリアス。
彼は獣人が人間の世界に溶け込めるよう、日々奔走していた。
いつの日か、人間と獣人の間に存在する壁を取り除く事を夢見て。
(そういう生き方の方が、心地よいだろうな……)
トリスは天を見上げた。恐らく、ハボルの心はこの雪のように真っ白で美しいのだろう。
同じ貴族だというのに、自分とは雲泥の差だと自嘲する。
ミスリアの五大貴族とはいえ、分家の出身。
王家や本家では決して取り扱わないような汚い仕事が回ってくる事も、珍しくはない。
それでものうのうと国中を放浪するイルシオンには、苛立ちを感じていた。
本家の人間だから。神器の継承者だから。
彼は初めからずっと恵まれていた。きっと汚いものなど目にする事無く、幸せにその生涯を閉じるのだろう。
自分では絶対に得られないものが、彼の手の中には生まれつき納まっている。不公平な世の中だと、トリスは何度も歯噛みしていた。
己の内に芽生えていた邪な心をビルフレストに見抜かれたのは、必然だったのだと今なら解る。
彼は甘言で自分と双子の兄を巧みに誘導したのだ。ミスリアへ牙を剥く様に。
自分を取り巻く現状に不満があるというのは、誤ってはいない。
ミスリアの裏では、王家の目が届かないところで多くの欲望が渦巻いているのも事実だった。
アルマが王になれば。自分の現状が打破出来れば。
邪神を自ら滅し、その力を世界に示す事が出来れば。
本家に対する苛立ちや私欲もあったが、トリスは正しい道を選んだのだと世界再生の民に身を寄せた。
今は仕方がなく反逆者の汚名を被る事になろうとも、その先に掴むべきものがあると信じて。
しかし、世界再生の民でも自分のしている事は何も変わらなかった。
得意の召喚魔術で魔物を呼び寄せ、時にはミスリアの民を、別の時には他者の集落を混乱させる。
それでもトリスは自分に言い聞かせていた。今はまだ、手を汚すしかないのだと。
なのに。世界再生の民は、自分達をも容易く切り捨てた。
魔術師どころか、魔力を扱う全ての者にとって天敵である破棄。
『怠惰』の適合者であるジーネスを、ビルフレストは危険視していた。
浮遊島の奪取を口実に、仲間の目の届かない所で暗殺を目論む。
何も知らないトリスは、その場で使い捨ての駒として利用された。
本来なら、ジーネスは多くの者に怨嗟の声を唱えながら逝くはずだったのだろう。
だが、彼はそうならなかった。見るからにだらしない、情けない男は自分よりも遥かに地に足をつけていた。
死に際に彼は笑みを浮かべた。最後まで自分を気遣ってくれたのだ。
ジーネスの言う「情けない死に方」に、何が該当するのかは解らない。けれど、彼はこうも言った。
――死ぬなよ。
その願いは、聞き届けなければならないと思った。
最低の人間だが、自分の事を一番見ていた人間からの金言なのだから。
少し物思いに耽るだけで、雪はまたトリスの身体に覆っていく。
冷たい風と相まって、頬は更に紅に染まっていた。
「……全く、お前たちもジーネスとそう変わらないな」
許可なくあちこち触れては、自分を紅潮させる。
トリスは再び雪を払いながら、苦笑した。
「トリスティア? 何か言ったかい?」
「いや、なんでもない。寒くなってきたから、早く戻ろう」
「だから、アタイはそう言ってるじゃないか。ほら、さっさと入りな!」
手招きするベリアに導かれ、トリスは船室の中へと入る。
今までの寒波が嘘のような温かさが、トリスに生を実感させた。
……*
船室に入ったトリスを待ち受けていたのは、自分が召喚した炎爪の鷹。
そして、その炎爪の鷹に群がる獣人の群れだった。
「おっ、トリスティアじゃねぇか。やっぱ魔術を使った方が雪かきも楽でいいね」
「ああ、それは構わない。構わない……のだが」
炎爪の鷹はその身に熱を帯びている。
雪が降り、冷え込む冬の海。確かに炎爪の鷹の暖かさはその身に沁み込むだろう。
自分が寒空の下に居た事から、十分に気持ちは理解できる。理解できるのだが。
「まさか、暖房代わりに使っていたというのか」
「へへ、悪いね。こう寒いと、どうしても暖を取りたくってよ」
自分を中心に四方八方を埋め尽くす獣人に、炎爪の鷹が助けを求めるような眼差しを送ってくる。
やれやれと呆れながら、トリスは炎爪の鷹へと言った。
「ヴァルムも、嫌なら嫌と言っていいんだぞ」
ヴァルムというのは、この炎爪の鷹に名付けた名前だった。
召喚魔術によって自分が使役している魔物は、その大半を失った。
縁のない魔物を呼び出す事は出来るが、意思の疎通となれば話が変わってくる。
トリスは今更、新たな魔物を自分の僕にしようとは思えなかった。
残ったこの最後の炎爪の鷹が、最後の相棒のつもりで愛情を注いでいる。
「そう言うなよ、トリスティア。寒い夜にヴァルムは手放せないぜぇ」
「――!!」
人虎の男の厚い抱擁にヴァルムは苦しそうに天を仰ぐ。
苦しそうではあるが、力づくで振りほどこうとはしない。彼もまた、悪意や敵意がない事は理解していた。
「ったく、アンタたちは……。そろそろ今回の航海も終わるんだから、しゃっきとしなよ」
両手を叩いて獣人たちを纏めようとするベリアだが、肉球が当たって音は発せられない。
他の仲間にとっては見慣れた光景だが、思わずトリス噴き出しそうになるのを下唇を噛んで堪える。
「ああ、そうだな。漸く今回の船旅も終わりか」
身体を伸ばし、欠伸をする獣人たち。慣れたものとはいえ、やはり一ヶ月も船の上だと気が滅入ってしまう。
早く凱旋を果たして、揺れない地面の上で豪勢な食事に舌鼓を打ちたいと皆が談笑している。
そんな中、一人の人虎がトリスへある質問を投げかけた。
「ところでよ、トリスティア。若旦那とはどうなんだ?」
「どうなんだ? とは、どういうことだ?」
「マジか……」
質問の意図が読めず、トリスは眉間に皺を寄せた。
若旦那が解らない訳ではない。ネクトリア号の所有者であるハボルの息子、ライルを示しているのは間違いない。
心なしか獣人達の視線が突き刺さる。居心地の悪さに、今度はトリスの方からヴァルムへ助けを求めて目配せをした。
「どう見ても若旦那、トリスティアが気に入ってるだろ!
お前さんが来てから、すげぇ張り切ってんだぞ!」
「そう言われても、私は昔のライル殿を知らないからな……」
トリスの印象にあるライルは、いかにも貴族らしい立ち振る舞いをする好青年だった。
彼の屋敷で働いている侍女からも、このネクトリア号からも、ハボル同様に彼の悪い噂を耳にした事はない。
尊敬値する人物だという事は、疑いようも無かった。
「なんか贈り物貰ったりとか、してねぇのか?」
「いや。何度か食事をしたことはあるが……」
獣人達がまた頭を抱える。「コイツ、本気で言ってんのかよ……」という呟きが聞こえる。
言いようのない居心地の悪さが、トリスの両肩に重く圧し掛かる。
「こりゃ、若旦那も苦労しそうだねぇ」
腕を組んだベリアが、やれやれと息を吐いていた。
彼女達を乗せたネクトリア号が進む先は、イーマ大陸に存在する国。ティーマ公国。
トリスはまだ知らない。己が待ち受ける運命は、自分をどう導いていくのかを。
……*
「トリスティア、早く戻って来ないだろうか……」
落ち着かない様子で、部屋の中を何周も回ってしまう男が居た。名を、ライル・セアリアス。
侍女はくすくすと笑みを浮かべる。いつも凛とした佇まいの彼が、トリスティアの事となるとまるで変ってしまう。
恋心の力は凄いのだと、言わんばかりに。
「ライル様、落ち着いてください」
「彼女は魔術師だし、今回の贈り物は喜んでもらえるといいのだが……」
侍女の呼び掛けも耳に入らず、ライルはずっとトリスティアの事を考えている。
何度か食事に誘ったものの、彼女の反応は芳しくない。ただ、手慣れた美しい所作にライルが惚れ直しただけだった。
ならばと思い、今回は贈り物を用意した。
北の海へ出向いた商人が見つけた、氷塊に埋もれた一本の杖。
年代物だろうが、まるで輝きを失わない杖をライルは一目見て気に入った。
杖を封じ込めた氷ごと、買い取ってしまう程には。
ただ杖を渡しただけでは味気ない。こういう演出があれば、トリスティアはどんな反応をするのだろう。
彼女と再会するまでの三日間、ライルはずっとこの様子だった。
この時のライルには、気付く由も無かった。
氷塊の中に封じ込められた杖。それが、神の生み出したモノだったとは。