幕間.美しいもの
いつからだろうか。
ずっと側に居た彼の心が、解らなくなったのは。
あるいは最初からだったのかもしれない。
彼は色んなものを見せてくれたけど、心の内を曝け出す事は無かった。
常に僕を導いてくれた臣下。ビルフレスト・エステレラ。
誰よりも僕を理解していて、誰よりも僕が理解しないといけない人物のはずなのに。
今は、何を考えているのか解らない事がある。
「ビルフレストは一体何を……。
いや、よそう。僕こそが、彼の考えを尊重しなくてはならない」
きっと何か理由があるはずだと、僕は自分に言い聞かせる。
微かに過った不安を振り払うかのように、首を左右に振った。
……*
魔術大国ミスリアの王、ネストル・ガラッシア・ミスリアの嫡男として僕は生を受けた。
待望かつ唯一の男児である僕の誕生は、国を挙げて祝福された。
後継者として多くの期待が寄せられていると理解するのに、そう時間は必要なかった。
これもビルフレストの指導の賜物だった。彼は、僕になんでも教えてくれたのだ。
だから僕は当然だと思った。ミスリアの、この国の国王として民を従えることを。
「こちらです。アルマ様」
ある日、ビルフレストは僕を夜中に連れ出した。
貴族たちのコミュニティを僕に見せたいようだった。
変装するように言われたのは首を捻ったけれど、記憶にある貴族たちは、僕へ気に入られようと必死な様子しか覚えが無い。
ビルフレストが「彼らの本当の顔を見る為です」と言ったので、何も疑うことは無かった。
辿り着いた先は、貴族の集会場にしては聊か趣に欠ける屋敷だった。
金は掛けられているだろうが、あまり趣味が良いとは言えない。
尤も、王宮から殆ど出ない僕が浮世離れしているだけかもしれないとこの時は思っていた。
……*
数時間後。嫌悪感と共に催す吐き気を、僕は必死に抑えた。
全員が仮面で顔を隠した世界。互いの素性を隠した中で、ショーは行われた。
この日見た光景は、今でも人生で一番悍ましい物だと言い切れる。
死罪に当たる犯罪者を秘密裏に捕らえ、互いに戦わせる。
安全圏から誰の用意した犯罪者が生き残るか。いくら賭けたか。そんな会話が、止めどなく耳に入り込んでくる。
生き残った最後の一人を、観客席から魔術師が始末する。倒れ、絶命したその者を貴族たちが更に辱める。
耳障りな笑みと、下品な声。時には罵倒を浴びせながら、手に持つ物を次々と投げつけていた。
まるで、腕っぷしなど意味は無い。この世界で強いのは自分の方だと、誇示するかのように。
最後は魔物の餌となり、連れられた犯罪者はその全てが姿を消した。
地獄はまだ終わらない。
年端も行かぬ少女たちが連れ出され、自らの手で衣類を一枚ずつ脱いでいく。
気に入った貴族が大金を叩くと、少女は服を着ることが許された。
人に手を差し伸べる者も居るのだと、僕は安堵した。けれど、少女の顔は浮かない。
ビルフレストが僕に「あの者は、買われたのです」と耳打ちすることで漸く悟った。
彼女はこれから先、永遠にも感じるほどの時間。恥辱に耐え続けなくてはならないのだと。
止めどなく続く、数多の悪夢を見せ続けられた僕は疲弊していた。
何が貴族だ。屋敷の中のどこに、高貴な人間が居たというのだ。
「ビルフレスト。あれは、どういうことだ!?
どうして父上は、あんなものを許している!?」
彼へ怒りをぶつけるのは筋違いだと知りつつも、そうせざるを得なかった。
子供の僕に出来ることは、駄々をこねるのが精一杯だったから。
「国王陛下は、あのような施設の存在は知りません。
あのお方に、汚い物を見せようという人間はおりませんので」
「なんだって?」
信じられないような話だったが、ビルフレストの眼は至って真剣だ。
元より父は、この国の治安を護るために注力してきた。
結果、表向きは他国と戦争も行わない平和な国が出来上がった。
一方で、人間の性根などそう変わりはしない。裏で謀る人間が父に隠れて好き放題している。
父は他人の性根まで見抜けるほど、聡い人間では無かったのだ。
「なら、僕はどうすればいい?」
どうして彼は知っているのだとは、思わなかった。
ビルフレストは何でも知っているからだ。父さえも、知らないことを。
「アルマ様は、あのような施設を。あのような貴族たちをどう思いますか?」
「許せない。醜い。消えてしまえと、思う」
子供らしい、忌憚のない意見だった。今でもあのような貴族は到底受け入れられない。
僕の回答にビルフレストが薄く笑みを浮かべたのが、印象的だった。
「ならば、アルマ様が国王となる必要がありますね。
ですが、陛下が崩御されてからでは遅いでしょう。その間にも、アルマ様には様々なしがらみが生まれるでしょうから」
言葉の意味が理解できない僕へ、ビルフレストは解りやすく教えてくれた。
ミスリア王家にとって待望の嫡男である僕には、その恩恵を受けようと様々な人間が頭を垂らす。
何も知らない、無垢な子供のうちに恩を売っておけば無下には出来まい。
そんな薄汚い、欲望に塗れた鎖が僕を雁字搦めにするのだと、ビルフレストは語った。
「……そのような者たちは、アルマ様が最も嫌う人間です」
「ああ、当然だ」
ビルフレストの言う通りだった。今日見た、醜悪な生き物に自分を好き放題させてたまるものか。
一刻も早く、国王になる必要がある。そして、この国を正しく導く必要がある。
齢9歳にして、僕は己の使命を悟った。聡明な臣下に、教えられたのだ。
……*
国王に成るべきなのだと自覚してから、王宮内にも薄汚い者がいるのだと認識をした。
実母のバルバラと、姉のフリガ。この二人は、肉親でありながらも唾棄すべき貴族と同じ人種なのだと悟った。
目の前にこのような存在が居ると言うのに、父は何も気付かないのかと苛立ちもした。
やはり、僕が国王となって統治する他ない。
留学と称して力を付けている間、ビルフレストは様々な策を練った。
邪神の顕現は、初めは耳を疑った。けれど、流石はビルフレストだと感心をした。
中途半端に首を挿げ替えただけでは、意味が無い。
一度ミスリアという国から薄汚い人間を駆逐する。そこから、再生を行う。
邪神の役割はそれだけではない。神を冠する存在を生み出すのだ、世界を恐怖に陥れるのは必然となる。
破壊の化身たる邪神を自ら駆逐することで、自分たちが絶対的な英雄なのだと世界へ示す。
ビルフレストが提案した、邪神の顕現により疲弊したミスリアを他国が攻めるという案は少しだけ戸惑った。
しかし、そのような存在も自分たち駆逐してしまえばいい。更に僕が率いるミスリアの支配下に置くことで救われる命もあると言われて納得をした。
どちらにせよ、僕が絶対的な英雄になることを前提とした上での計画だった。
自ら生み出した邪神を駆逐する。ミスリアを疲弊させておきながら、ミスリアを救う。
まだ幼く、小さかった僕の手を取りながらビルフレストは言った。
「この手が綺麗なままでいられることは、ないでしょう」
僕は頷いた。元より覚悟の上だ。
今でも目を閉じれば思い出せる。ミスリアという国には、生かすに値しないモノが蠢いている。
あのような悍ましい光景を決して生み出さない。その為なら、僕は清濁併せ呑む。
仲間となってくれる者も増えた。ビルフレストの顔の広さには、恐れ入る。
代々ミスリアと同盟を結んでいた龍族の一角、黄龍族が僕たちの味方となった。
ミスリアではなく、僕を選んでくれたのだ。
その彼らが、ずっと探している島が浮遊島だという。
蒼龍族に隠された、黄龍族にとって悲願の地だと聞かされた。
それほどまでに大切な場所であれば、奪還させてあげるべきだというビルフレストの提案に僕は頷いた。
結果は最悪だった。
黄龍族の長であるヴァン。更にはジーネスやラヴィーヌ。トリスまでも失った。
アルジェントのこともそうだ。王としての威光から、僕は神器を欲していた。
結果、父を葬ったにも関わらず黄龍王の神剣を扱うことは出来なかったけれど。
そんな僕の為に、アルジェントは伝説の金属である魔硬金属の材料を命懸けで手に入れてくれた。
鬼族であるオルゴを連れ帰って。
オルゴが偽りの王として、鬼族を率いているという話は聞いた。
それ自体は良いことだとは思えないが、彼も自分なりに鬼族を纏めようとしていたのだとすれば納得が出来る。
何より、彼は友人であるアルジェントの恩人だ。匿う程度のことは、してあげるべきだと思った。
浮遊島も、クスタリム渓谷も。ビルフレストが必要だと言うのだから、必要なのだろう。
いつしかビルフレストは、言っていた。
「アルマ様が世界を統べ、民を導くこと。それが、貴方の為すべきことです」
既に多くの国や、多くの種族が僕に力を貸してくれている。
ミスリアだけが綺麗になればいいなんて、そんな理屈がまかり通る状況ではなくなったのだろうか。
ビルフレストは初めから、僕に世界を統べて欲しかったのだろうか。
考えても答えが出ないまま、僕は彼女の元へと足を運んでいた。
彼女は、サーニャは他の誰とも違う。話していて、とても頭の中がすっきりする。
……*
「つまり、アルマ様はミスリアの王となって以降のビジョンが見えないということですか」
部屋に入って早々窘められたが、彼女は僕を追い出すような真似はしない。
自分でも整理が出来ていない言葉の羅列を、黙って聞いてくれる。
「きっと、そういうことだと思う。
僕に付いてきてくれる他の者には、決して言えないけれど……」
「気にしすぎですよ。世界を束ねるなんて、ずっと未来の話ですから。
まずはミスリアの国王となる。そうなってから、先のことを考えればいいんですから。
ワタシだって、まずはこの戦いで名を上げて貴族となるという目標から進んでいますし」
胸元に手を当てて、サーニャは微笑む。
茶色の前髪から、真っ黒な眼帯が覗かせる。痛々しいが、彼女が『嫉妬』に適合した証でもあった。
「貴族……か」
「アルマ様?」
正直に言うと、僕はその言葉が好きではない。
あの惨劇を生み出したのは、他でもないミスリアの貴族だ。
サーニャは僕に様々なものを教えてくれた。どれもビルフレストからは、教えてもらわなかったものだ。
父をこの手で殺めた時に浮かんだ感情が、後悔だなんて思ってもみなかった。
彼女があんなモノと同列になるなんて、考えただけでも身の毛がよだつ。
けれど、それを否定することはサーニャから戦う意味を奪ってしまう。
どうすればいいのかと必死考えた僕は、普段なら決して言わないであろうことを口走っていた。
「サーニャには、貴族は相応しくない」
「ええと、アルマ様? 確かに、ワタシには品が足りていないとは思いますが」
「そうじゃない。貴族なんかじゃなくて……。
王族。そう、王族だ! サーニャ・カーマイン。僕がミスリアの国王となった暁には、僕の妃となってくれ!」
「はい?」
呆気に取られる彼女の顔を見て、僕は我に返った。
なんてことを口走ってしまったんだろうと、顔が赤く染まる。
このままではいけない。必死に取り繕うと、僕は無理矢理言葉を紡いでいく。
「ああ、えっと、違う。いや、君を妃にしたいという気持ちに嘘はなくてだな。
僕はミスリアの貴族を、あまり快く思っていない。君がそんな存在に堕ちていくなんてと思ったら王妃になればいいと思って。
すると、口が勝手に……。すまない、君を困らせるつもりはなかったんだ」
「……ふ、ふふふ。アルマ様、いくら何でも焦り過ぎですよ」
「は、はは……」
しどろもどろになる僕を見て、サーニャは笑みを浮かべる。
引かれたり、嫌悪されてはいなさそうで胸を撫で下ろした。
だけど、誓って嘘は言っていない。口にした言葉を呑み込むことは出来ない。
勢い任せではあるけれど、僕はサーニャへ偽りのない本心を告げた。
「サーニャ。咄嗟に出てしまった言葉だけれど、僕の気持ちに嘘偽りはない。
僕は君を好いている。この戦いが終わったら、僕と一緒になってくれないか?」
今度は真剣に、真っ直ぐにサーニャへ気持ちを伝える。
彼女が何を考えているのか、表情からは汲み取れない。
「お気持ちは嬉しいですけど、無理ですよ」
「何故なんだ……?」
サーニャの返事が受け入れられず、僕は考えるよりも先に理由を尋ねていた。
「ワタシもアルマ様と同じで、ミスリアの貴族は嫌いです。
けれど、アルマ様のお気持ちに応えるほど綺麗な人間でもありませんから」
そう言うと、サーニャは静かに自らの衣服を一枚ずつ脱いでいく。
突拍子もない行動に、僕は顔を彼女から背けた。
「な、なにをしているんだ!?」
「逸らさなくてもいいですよ。ワタシが勝手にしていることですから」
「そういう問題では……」
僕が何を言おうとも、サーニャは衣類を脱ぐ手を止めはしない。
一分も経たないうちに、一糸纏わぬ姿となった彼女が眼前に立っていた。
「ワタシ、生きる為とはいえ色々と自分を汚していまして。
手も汚しましたし、何より貴族たちに玩具のように扱われることも珍しくなかったんです。
貴族は何をしても許される。外に漏れることはないと、それはもう好き放題に。
これだけ穢れてしまっているのですから、アルマ様に見初められる資格がないんです」
きっと彼女には、決して癒えない心の傷が沢山植え付けられたのだろう。
その身にも、僕が辟易するような貴族によって刻まれた痕があるのだろう。
「……資格なんて必要ない。それに、君は綺麗だ。
何も着飾っていない今の姿が、一番綺麗だ」
「っ……」
サーニャは、僕の言葉に驚いたのか下唇をきゅっと噛んだ。
初めて見たかもしれない。彼女の頬が朱に染まるのを。
「……アルマ様。褒めているようですけど、いやらしいですよ」
「すっ、すまない! そんな意図はなく、ただ純粋に思ったことをだな!
それより、早く服を着てくれ!」
「はい、分かりました」
衣服が擦れる音に反応して、僕の視線がサーニャへ引き寄せられそうになる。
その度に見てはいけないと、首を大きく反対側へと背けた。
やがて衣擦れの音が止まったことで、僕は胸を撫で下ろした。
「……四回、ですね」
「なにがだ?」
「服を着ている最中。アルマ様がワタシを見た回数ですよ。
胸元や太腿。足首や鎖骨も見ていましたよね?」
返す言葉も無かった。意識はしていなかったが、言われた箇所に覚えがある。
彼女の衣擦れに、自然と視線が寄せられていたのは事実なのだから。
「ですが、ワタシを綺麗だと言ってくれたのは本当だと伝わりました。
お気持ちにはまだ応えられませんが、嬉しかったですよ」
彼女の僅かに持ち上がった口角を見て、またも美しいと感じてしまった。
サーニャは自分を汚れていると評していたが、彼女はどこを切り取っても美しいと思う。
清濁併せ呑むと誓った僕だが、これだけは言い切れる。
サーニャは純粋に強い願いを持っている。そんな彼女が穢れているはずもない。