268.ある日の食卓
ミシェルから得た情報は、フェリーの出生に深く関わるものではなかった。
結局、クロエがフェリーを産んだという決定的な証拠もない。
予めフィアンマから聞かされていた通りの回答に毛が生えた程度のものが、並べられていく。
そのクロエの情報でさえも、金の無心をしていた頃にリオビラ王国で住んでいると本人の口から耳にしたというもの。
生きているのかどうかさえ怪しいというのが、現状だ。
念の為にミシェルやクロエと親しい人間や親戚は居るのかと尋ねたが、彼女の首は横に振られた。
強いて言えば、ミシェルの前にクロエが現れたのは20年程前だと知れたぐらいだろうか。
久しぶりに再会した妹は面影こそ残ってはいたものの、どこ切羽詰まった物良いとは裏腹に、言葉の節々から滲み出る軽薄さを感じたそうだ。
結果的にミシェルが抱いた感覚は、借金の督促という形で証明されてしまった。
ミシェルからすれば、妹の取った行動は気持ちの良い物では無かっただろう。
苦い過去を、身内の恥を不確定な情報の為に、己の口から吐き出さなくてはならなかった。
20年越しの追い撃ちは、彼女の心の傷を抉っただけとなってしまった。
それでも彼女は教えてくれた。頭が冷えた今だからこそ、シンは彼女に申し訳なさを覚える。
去り際に、彼女はフェリーへと伝えた。「たとえクロエが貴女と関係なくても、いつでもいらっしゃい」と。
ミシェル自身も、自分とよく似たフェリーの事が他人だとは思えなくなっていた。
きっと彼女の境遇も、修道女という立場から導いてあげたいと思ったのだろう。
フェリーは少し考えた後、「今度はイディナちゃんと、遊びに来ます」とはにかんだ。
……*
ラットリアの夜は、空気をかき混ぜるように流れる風によって冷え込む。
ミシェルとの話を終え、シンとフェリーは帰路へついていた。
足並みを揃えながら、フェリーは何度もシンの顔色を窺う。
「どうかしたのか?」
「あ? うー……。えと、シン。髪、ボサボサだよ」
「それを言うなら、フェリーもだろ」
「えっ? ウソ!?」
妙な居心地の悪さを覚えたシンが尋ねると、フェリーが誤魔化そうとする。
だが、それも思わぬ返しによって叶わない。驚いたフェリーは、見られたくないと自分の頭を両手で覆う。
お互い全力でラットリアの街を駆け抜けた結果が、髪の乱れとなって表れていた。
慌てて手櫛で髪を整えたフェリーは、空いた手でシンの裾を小さく摘まむ。
「じゃなくて、その。言いたいコトは他にもあって……」
同じく手櫛で髪を直していたシンの手が止まる。
照れているのか、緊張しているのか。言い辛そうにしている彼女の口が開くのを、シンはじっと待った。
「シンが……。あた、あたしをだいじにしてくれてるの……。すっごく、嬉しいよ……」
言葉をひとつ紡ぐたびに、フェリーの頬が熱を帯びていく。
ずっと自分の傍に居てくれた。大切にしてくれた彼へ、感謝の言葉を伝えるのが気恥ずかしい。
なのに、何度でも言いたい。10年間募らせた思いは、どれだけ伝えても伝えきれない。
シンも彼女の様子を見て、安堵していた。今回の件は自分が暴走した感は否めない。
勝手に彼女を孤独だと、辛い思いをしたと決めつけていた。一番大切なのものを、見失いそうになっていた。
「でもね、クロエさんのトコに行くのは……。まだ、ちょっといいかな。
あたしね、ほんとうに気にしてないの。おじいちゃんやシンたちとの思い出の方が、あたしのぜんぶだよ。
シンがだいじに思ってくれるだけで、じゅーぶんだよ」
「……分かった」
しばらく考えた後、シンはフェリーの願いに応える。
決定的な証拠がある訳でもない。先刻泣かせてしまったばかりに、シンも強くは言い出せなかった。
「ていうか、いつか会うとしてもあたしだけでいいよ。
あんまりカッコ悪いトコ、シンに見られたくないし……」
フェリーとしては、何者でもない頃の自分をシンに知られたくは無かった。
髪はボサボサで、窓から僅かに差し込む光で生活をする日々。
着るものも適当な布を身体に巻いているだけで、何をするにも音を殺していた。
万が一そんな格好の悪い過去を暴露される可能性があるなんて、乙女的には到底受け入れられない。
シンがいくら眉を顰めようと、フェリーとしても譲れない部分だった。
……*
イディナの実家である食堂へと戻った二人を出迎えていたのは、食事に手をつけずに待っていた三人だった。
シンとフェリーの帰還を見るや否や、イディナの母が「お鍋、温め直すわね」と厨房へと姿を消していく。
「おかえりなさい、ふたりとも!」
屈託の笑みを浮かべたイディナが、八重歯をにいっと覗かせる。
呆然と立ち尽くしたフェリーは、驚きのあまり何度も瞬きを繰り返す。
「ど、どうして? まだごはん食べてなかったの?」
「食卓をみんなで囲むのは、我が家の家訓ですから!
ささ、もうお腹ペコペコですよ。早く、食べましょう!」
待ってましたと言わんばかりに、イディナは二人に着席を促す。
「あの。ありがとうございます」
「お互い様だ。こっちこそ、さっきは助けてもらった」
シンがイディナの父親に軽く会釈をすると、彼は頭を下げる必要はないと手で制した。
初対面で突然姿を消したにも関わらず、待っていてくれたイディナ達の優しさが身に染みる。
それに、二人にとっては懐かしい光景でもあった。
両親と妹。そして、シンとフェリー。アンダルが居なくなってから、五人でよく食卓を囲んでいた。
シンが冒険で遅くなる日も、家族が揃うまで夕食はお預けとなっていた事を思い出す。
待っていられないから先に食べようと主張する父親を、妹が両手で制していた。
自分以外の誰もがシンの味方をするといじけてみせるケントの姿も、目を閉じれば鮮明に思い出せる。
リンの行動はシンと一緒に食卓を囲みたいフェリーを気遣ってくれたのだと、今ならよく分かる。
母親はそんな光景を一歩離れたところで、くすくすと笑いながら見守っている。
初めての冒険に失敗して以降、彼女だけには必ずシンから伝えられていた。ちゃんと今日は帰ってくるのかを。
「ほら、フェリーさんも座ってください」
フェリーは確かに存在した、楽しかった日々を思い出す。
友達も、大切な人もたくさん増えた。どれも楽しくて、尊いものには違いない。
けれど、そのどれとも違う温かさがここにはある。
「イディナちゃん。ありがとね」
イディナの背丈も、年齢も、自分と仲の良かったリンによく似ている。
懐かしさと愛おしさで、フェリーはイディナの頭にそっと手を乗せていた。
「あの? どうして手を?」
「えへへ、気にしないで」
はにかむフェリーに対して、イディナが小首を傾げる。
シンもまた、フェリーと同様の気持ちを懐かしさを覚えていた。
「うーん。みんな、どうしてかぼくの頭を撫でたがるんですよね……」
子供扱いされているようで、イディナとしては複雑な気持ちになる。
ただ、自分の頭を撫でる向こう側の人間は決まって笑顔だ。その点に関しては、悪い気はしなかった。
「イディナちゃんは、妹ってカンジがするからかな?」
「それは褒められてないですよね……」
くすくすと笑うイディナの母と、男の影がないかと狼狽するイディナの父。
こんなところも、キーランド家の食卓とよく似ている。
久方ぶりに体験した家庭の食卓は、シンとフェリーの身も心も温めてくれていた。
……*
食事を終えたシンは用意された客間で独り、考えに耽る。
クロエの件と、彼女の中に潜む魔女について。
フェリーの出生については酷く曖昧で、証拠が何か上がるとは期待はあまりしていなかった。
けれど、話を聞いて感じた事も確かにある。
金の無心で駆け回るような人間なら、自分の子も容易く棄てるだろう。
クロエという人間は、自分がフェリーを産んだ人間に抱いていたイメージと、悲しい事に一致してしまう。
許せなかった。自分の大切な女性を、酷く扱っていた人間が。
文句のひとつやふたつでは済まない。シンにとっては誰よりも唾棄すべき存在。
ただ、フェリーの反応が意外でもあった。
フェリーは棄てられた事実を、決して悪いものだとは捉えていない。
紆余曲折あったが、シンやアンダルと巡り合えたのはそんなどうしようもうない人間の下の生まれたからだと思っている。
彼女の認識に間違いはない。きっとまともな愛情を注いでくれる家庭なら、シンやアンダルに逢う機会は無かっただろう。
意味のない仮定だが、奇跡的な縁は確かに存在している。
奇跡と言えば、もうひとつ。
大人になった自分が、過去で若かりし頃のアンダルと邂逅した事だ。
シンは過去へ遡った際に、アンダルへと頼んだ事を思い出す。
フェリーと巡り合わせて欲しいという我儘を、彼は聞き入れてくれた。
まだ何も知らない幼い自分とフェリーを、巡り合わせてくれた。
運命の悪戯に、荒波に揉まれようともフェリーは決して自分を不幸だとは言わない。
何より、自分と居る事に幸福を感じてくれているのはシンも嬉しかった。
反面、反省しなくてはならない事もたくさんある。
気持ちは伝えあったはずなのに、どうにもまだすれ違っているようだ。
時折、イリシャやリタに呆れられるのも無理はないのかもしれない。
アンダルに言っておきながら、きちんとフェリーの事を見られてはいなかった。
彼女の背景ではなく、彼女自身と向き合うべきなのだと気付かされた。
護るという気持ちだけが先行していて、どうにも空回りしてしまう。
シンは両手で己の顔を覆った。
瞳を閉じれば、いろんなフェリーの表情が浮かび上がる。
本当に好きなのだと、たった数秒で再確認してしまう。
ちょうどいい塩梅なんて、永遠にたどり着けないかもしれない。
それでもシンは、ずっと彼女を護ると決めた。
ただ、それはあくまでフェリー・ハートニアの話。
彼女の中に潜む魔女については、また別だ。
シンは直接、魔女が顔を出した瞬間を目撃した事は無い。
故郷が消えた時も、三日月島での戦闘も、自分はその場に居なかった。
カランコエの件は目撃者がいないものの、状況的に魔女の仕業だと疑う余地はない。
近い点として挙げるのなら、浮遊島とクスタリム渓谷での戦闘。
どちらも邪神の能力に対する防衛本能のように、フェリーの意思とは無関係に敵の身を焼き尽くそうとしていた。
傾向としては、テランの右腕が同じだったと聞いている。
三日月島に居た仲間は、口を揃えて言った。
魔女が姿を現さないのは「シンが彼女の精神を安定させているから」だと。
フェリーがシンに深い情愛を抱いているからこそ、魔女すらも彼女の身体を支配できない。
手前味噌ではあるが、その推測は間違っていないとシンも考える。
防衛本能を発揮した際は、どれも邪神の能力がフェリーへ干渉をしようとしている。
言わば、火の中に自ら手を突っ込んで火傷をしているようなものだ。本質的には、魔女が表面に現れるとは別の現象なのだろう。
反対に、魔女自身がフェリーの感情に影響を及ぼす場合もある。
具体的にはギランドレの遺跡で感じた、隠し事をしているような後ろめたさ。
そして――。
「……やっぱり、切り離せないか」
考えたくは無かった。
けれど、シンはどうしてもその思考へ行きついてしまう。
全てが当て嵌まる訳でもない。けれど、いくつかの心当たりとなるような現象が起きえている。
考えれば考えるほど、逢った事もない人物像がシンの脳内に浮かび上がってくる。
解らないのは、手段と動機。
どうしてフェリーを、不老不死に成り得たのか。
どうして魔女が、故郷を燃やし尽くしたのか。
浮かぶ疑問へ納得の出来る答えが導き出せないからこそ、シンは魔女について断定出来なかった。
自分が居る事で魔女の存在を抑えられている。
逆説的に考えれば、自分が居なければ魔女が何の切っ掛けで表に現れるか判らない。
シンの足取りを重くする理由のひとつでもあった。
ただひとつ確実に言える事は、自分はこれからもフェリーと生きていくと決めた。
フェリーも、自分と一緒に年齢を重ねたいと言ってくれた。
あの日。過去でシンがアンダルへ頼んだ瞬間から、もう後戻りは出来ない。
故郷を滅ぼす選択肢を選んだのは、他でもない自分だ。
自分が悪いのだといくら伝えても、彼女の胸に刺さった棘は未だに抜けていない。
頑なに自分の出生には興味を示さないのに、自分が悪いと言っても故郷の件は引き摺っている。
クロエの件で最大の収穫は産みの親について興味がないという気持ちが、紛れもなくフェリー本人のものである事だろう。
あの時、ギランドレで不意に思い浮かんだ魔女の尻尾を掴まなくてはならない。
シンは己に誓う。その真実へ、必ず辿り着いて見せると。必ずフェリーの『呪い』を解いてみせると。
自分と居る事が幸せだと言ってくれたフェリーを、本当の意味で幸せにする為に。
絡まった情愛の糸が引き寄せるもの。
手繰り寄せたその先に悲しませる人がいるのだと、シンは薄々と勘付いていた。