267.夜の教会で
「いらっしゃいませー!」
ひとつに結んだ金色の髪が、せわしなく宙を舞う。
ラットリアの大衆食堂を走り回るのは、食堂の制服に身を包んだフェリーの姿だった。
「すっ、すいません! お客さんのはずだったのに……!」
「ううん、こういうの初めてだから新鮮で楽しいよ」
フェリーと同じ制服に身を包み、彼女以上に食堂を走り回る少女。
かつて実家でもあるこの食堂で看板娘として名を馳せていた、イディナの姿がそこにあった。
空となった食器を何段にも重ね、すれ違いざまに頭を下げる。
当のフェリー本人が楽しそうにしているのが、不幸中の幸いだった。
……*
事の発端は、正真正銘の偶然だった。
食事と本日の宿代わりにと、実家である大衆食堂へ案内をしたイディナ。
本人としては凱旋のつもりだったかもしれないが、食堂はまさに大ピンチを迎えていた。
「イディナ、おかえりなさい。いいところに来たわ!」
「えっ?」
きょとんと目を丸くするイディナだが、両親の様子を見て状況を察した。
急に押し寄せた客の波に対して、圧倒的に人手が足りていないのだ。
「お母さん、厨房でお父さんの手伝いをするから!
悪いけど、イディナはホールをお願いしてもいい!?」
「うっ、うん! フェリーさん、シンさん、すみません。
ぼく、ちょっと家の手伝いをしてきます! お二人は、どこかでくつろいでください!」
シンにフェリーの気を引いてもらうように頼まれたが、それどころではない。
申し訳なさを感じつつも、イディナが制服に着替えようとした時だった。
「だいじょぶ、イディナちゃん。あたしやシンも、手伝うよ!」
大船に乗ったつもりでいろと言わんばかりに、フェリーは己の胸を強く叩いた。
初めての経験に目を輝かせるフェリー。教会で話を聞いている時の、気落ちしている少女の姿はどこにも無かった。
イディナは横目でシンの様子を窺う。彼もまた、フェリー同様に深く頷いていた。
フェリーの提案を快く受け入れてくれたと安心する一方で、抜け出す機会も作れるかもしれない。
シンにとってもまた、この状況は好機となっていた。
……*
そして現在。
フェリーとイディナが食堂内を所狭しと駆け回る。
「イディナ嬢ちゃん、また帰ったのか? 騎士ってのはヒマなのか?」
「違いますよ! 前も、今日も、ちゃんと理由があって立ち寄ったんです!」
「お嬢ちゃんはイディナちゃんの友達かい?」
「はい、フェリーって言います。今日だけお手伝いしてます!」
看板娘が二人に増えたと噂を聞きつけた常連客が、客足を途絶えさせはしない。
見知った顔に揶揄われるイディナと、持ち前の明るさで客と打ち解けるフェリー。
「イディナちゃん、みんなから好かれてるんだね」
「子供扱いされてるだけですよ」
すれ違いざまに笑顔を交換するフェリーとイディナ。
活気の絶えないこの空間は、フェリーにとって居心地が良かった。
「出来ました」
一方、店の裏で延々と野菜の皮むきを行っていたシンが厨房へと現れる。
思わぬ客足で手つかずとなっていた作業を、慣れた手付きでこなしていく。
「おう、悪いな」
「キーランドさん、ありがとう。ごめんなさいね、この人は人見知りで」
「……適当なことを言うな」
イディナの父が、驚きで僅かに眉を動かしながらも礼を言う。
ぶっきらぼうだが、決して愛想が無い訳ではないとフォローするかのように、イディナの母が軽く会釈をした。
「いえ。俺に出来ることがあれば、他にも言ってもらえれば。ただ……」
他にも手伝える事はないかと訊くシンだが、彼は急いでいた。
ホールではフェリーとイディナが楽しそうに働いている。今なら、抜け出してもすぐには気付かれないだろう。
一人でミシェルの元へ向かうには、これ以上ない条件が転がり込んでいたのだ。
「外に出たいのよね? もう大丈夫よ。貴方の手際がいいのは勿論だし、ハートニアさんもお客さんと打ち解けてくれているもの。
何かあっても、私たちで充分対応できるわ。本当ならお客さんなのに、ありがとう」
「ああ、助かった。何か目的があって来たんだろう? そっちを優先してくれ」
「……ありがとうございます」
相手を尊重してくれるイディナの良心を前に、シンは軽く会釈をした。
まるで太陽のように笑みを浮かべているフェリーを尻目に、シンは再びラットリアの街へと繰り出した。
もう一度、ミシェルと話をする為に。
……*
陽が落ちたにも関わらず、にぎやかさは衰えを見せない。
通りすがりの子供達が、屈託のない笑みを浮かべて挨拶を交わす。
いつものように手を振っていたミシェルのだったが、とある人影を前にして動きを止めた。
「貴方は、さっきの……」
昼間にイディナが連れて来た一組の男女。その片割れである青年が、再び姿を現す。
どれほど急いできたのだろうか。その黒髪は真正面から風を受け止めたかのようにボサボサとなっていた。
「……まだ、アンタに訊きたいことがある」
「そうよね。貴方、全然納得していないような顔をしていたものね」
呼吸を落ち着けながら、ミシェルを真っ直ぐに見るシン。
ミシェルもまた、こうなるのではないかと薄々感じてはいた。
自分の話を聞いていた時のシンは、ずっと険しい顔をしていた。ただ、それ以上にフェリーへ気を遣っているようにも見えた。
彼が独りで姿を現したという事は、納得していなかったという証拠。
「いいわ。もう少しだけ、話しましょう。
ただ、知らないことだらけなのは事実よ。貴方の期待には、応えられないかもしれない」
「……ああ」
ミシェルが言うまでもなく、シンも理解している。
彼女を責めたところで、意味がない事も。
理解していながらもシンは、言わずには居られなかった。
八つ当たりだろうが、愚痴だろうが。例え矛先が、間違っていようが。
……*
「終わったあぁぁぁぁ……」
机の上を吹き終えたフェリーは、突っ伏すように顔を埋める。
慌ただしい時間は、夕食を終えると同時に波のように引いて行った。
フェリーも最初こそ目が回っていたが、いざ終えてしまうと物悲しさを覚える。
「ありがとうございます、フェリーさん」
看板娘を務めていたはずのイディナも、既にへとへとだった。
思ったよりも空白期間が響いたのか、鍛えているからか体力的には余裕があるのに頭が追い付いてはいなかった。
「ご苦労様。本当に助かったわ。大したものではないけれど、どうぞ召し上がれ」
「ありがとう。お父さん、お母さん」
イディナの両親が賄いを持って、ホールへと姿を現す。
ニコニコと笑顔を浮かべながら並べるのを手伝うイディナの姿に、フェリーは既視感があった。
もう10年も前の話。シンの家族と一緒に暮らしていた頃の光景。
シンの母が作った食事を、シンの妹が笑顔を浮かべながら食卓の準備をする。
自分もつまみ食いしたい気持ちを抑えながら、よく手伝っていた。たまにつまみ食いをしたシンの父が、カンナに窘められていたのを思い出す。
肝心のシンはというと、冒険に出ている事も少なくなかった。けれど、戻れそうな時はいつも皆で食卓を囲んでいる。
キーランド家の皆は、自分を本当の家族と同じように接してくれた。
アンダルと死別しても笑えるようになったのは、皆が居たからだ。
大好きだったアンダルと、シンと、その家族。
フェリー・ハートニアにとってはそれだけで十分だった。
目の前に映る、イディナ達のように。
「……あれ? シンは?」
フェリーの手が止まる。
遅れてイディナの父が現れたものの、一向にシンが姿を見せない。
「あのう、そのう……」
横目で見たイディナが、目を泳がせる。
全てを察したフェリーが食堂を飛び出したのは、間も無くの事だった。
……*
夜空の下、シンとミシェルは教会の庭に設置されている椅子へ腰を掛ける。
肌寒い日だったが、頭を冷やすのには丁度良かった。
「私からも教えて欲しいことがあるわ。クロエがフェリーさんの母親だって確証は、ないのよね?」
「ああ」
「それなのに、クロエのことを根掘り葉掘り訊こうとするのは顔が似ているからだけかしら?」
他人の空似である可能性も十分にある。他人の家庭に首を突っ込むのは、聊か行き過ぎではないか。
ミシェルが言わんとしている事は、シンにも伝わっている。
「不躾なのは判っている。けど、他に何も手掛かりが無いんだ」
一方的にミシェルへ語らせるのでは、話は進まない。
顔が似ているという理由だけで詰め寄った理由を、ミシェルへ語り始めていた。
この時のシンは気付いていなかった。
自分を探しているフェリーが、既にすぐ傍まで駆け寄っていた事を。
「……フェリーは、生みの親から何も与えられなかった。
食事も、愛情も、名前さえも」
(シン!?)
教会にたどり着いたフェリーは、シンの声をその耳に捕らえる。
本当は今すぐにでも止めに入りたいが、息を潜める。彼の真剣な表情を前にして、足が動かない。
結果、彼の話に耳を傾ける事となった。
「それを保護したのが、貴方なのかしら?」
シンは首を横に振る。理由あって、アンダルにフェリーを探すように求めたのは自分だ。
けれど、彼女を一人の娘として深い愛情を注いだのは紛れもなくアンダルだった。
「フェリーを育てたのは、違う人だ。俺の尊敬する人だよ」
どこでフェリーを見つけたかは、シンも知らない。
自分の両親にすら理由を話していないのだから、面白くない話なのだと言う事だけは想像に難くない。
「その人の今は?」
「ずっと昔に、亡くなってる」
「そう、ごめんなさい……」
その人に話を訊くべきではと言いたかったミシェルが、申し訳ないと口を閉じる。
「フェリーはずっと孤独だったんだ。だから俺は、フェリーを産んだ人間にどうしても文句を言わないと気が済まない」
アンダルに育てられたフェリーを見ていればよく分かる。彼女の明るさは生来からのものだ持っている。
その光を閉じ込めた数年間が、フェリーの心を殺していた数年間がシンにとっては許しがたい物だった。
「そう。それが、貴方がクロエの情報を知りたがった理由……」
ミシェルは昼前にシンが訪れた理由を理解した。
彼が抱いていた感情は、怒りだった。フェリーを虐待していたであろう両親が、許せなくて仕方ないのだろう。
確かにクロエは、自分達の周囲に多大な迷惑を掛けた。
子供を産み落として、棄てるという行為もあるいはと考えてしまう。
「……あたし、ひとりなんかじゃないもん!」
沈黙が二人を包み込もうとしている時だった。怒号と共に姿を見せたのは、金髪の少女。
鼻息を荒くしたフェリーが、シンの瞳に映り込む。
「……フェリー」
いつから聞いていたのかとは、訊けなかった。
自分が勝手な真似をした上に、フェリーの身の上を話したのだ。彼女の怒りは、正当なものだ。
しかし、シンは気付いていない。
その考え自体が、フェリーの認識とズレている事に。
「おじいちゃんに拾ってもらってから、『フェリー』って名前をもらってから……。あたし、ひとりじゃないよ!
おじいちゃんがいなくなってからも、シンたちがずっといっしょにいてくれたもん!
あたしを産んだひとのコトがどうなっても、シンがいてくれたら……。あたしはそれだけでいいもん……」
フェリーはシンが勝手に自分の身の上を話した事など、怒ってはいない。
彼女が怒りを覚えたのは、自分を『孤独』と称した事に対して。
アンダルに拾われるまでの間。暗闇の中で過ごして、己の名前さえも与えられなった頃は確かに存在する。
けれど、何も与えられなかったが故に自我さえも碌に芽生えてはいなかった。辛いという感情さえ、よく分かっていなかった。
段々と自分を創り上げていったのは、『フェリー・ハートニア』になってからだ。
アンダルが居て、シンが居て。故郷の皆も、自分を『フェリー』と呼んでくれる。
とても大切で、とても幸せだったのだと理解したのも、皆が居たからだ。
フェリーを構成する要素は、あの暗闇の中になにひとつ存在などしていない。
「だから、孤独とか言わないで。シンは、ずっといっしょにいれくれたよ……。
あたし、嬉しかったもん。シンがいてくれるの、ホントに嬉しかったもん……」
いつしか、フェリーの声は涙ぐんでいた。
自分が故郷を焼き尽くした時。
死にたくても死ねない時。そんなどうしようもない時でも、ずっと自分を護ってくれていた男性が居る。
外の世界でたくさんの友達を作ってくれたのも、たくさんの景色を見せてくれたのも、シンだ。
フェリーにとっては、シンがいるだけで十分だった。
「……すまない」
不意な涙に、シンが眉を下げる。
聞かれている事もそうだが、泣かせてしまったと動揺を隠せない。
泣かせてしまった事もそうだが、自分はどうにも言葉が足りないようだった。
「フェリーには悪いけど、俺が許せないんだ。フェリーを蔑ろにしていた人間が」
「でも、そうじゃなかったら……。あたしはシンやおじいちゃんに逢えなかったかもしれないもん」
フェリーが産みの親に逢いたくなかった理由は、そこにもあった。
この出逢いは、自分が愛情を注がれなかったからこそ起きた。
辛いという感情が芽生えていなかった当時の少女にとっては、悪い話だとも言い切れなかった。
万が一、何かの事情があったとすれば。今になって愛情があった等と語られたら。自分はその人間を拒絶する事が出来るだろうか。
言いようのない不安が付き纏うからこそ、フェリーは自分の過去を知りたくは無かった。
「シンがあたしのタメにオコってくれてるのは、うれしいよ。
だけど、探すのはやっぱり……ヤダ」
シンは言葉を詰まらせる。フェリーに掛けるべき言葉が見つからないからだけではない。
その感情の源泉を、読み取ろうとしているからだった。
ギランドレにある遺跡で、フェリーは己の意思とは違う何かを感じ取った。
今回、自分の産みの親を拒絶する理由がフェリーの意思によるものなのか。中に棲む魔女の仕業なのかを見極めなくてはならない。
ただ、シンは魔女の仕業である可能性は低いと思っている。
シンの心当たりは、別の所に存在している。繋がりが見えない。
だから、シンは真っ直ぐにフェリーを見つめ直す。
彼女の奥に潜む魔女ではなく、フェリー・ハートニアへその言葉を届ける。
「……分かった。けど、やっぱり俺はフェリーを棄てた人間に逢いたい」
「なんで!? シンのあんぽんたん! 分からず屋!」
どうして話が通じないのかと、憤慨をするフェリー。
眉根を寄せる彼女の顔は、次の言葉を聞いた途端に解けてしまう。
「フェリーを棄てたことは、やっぱり許せない。だから、俺は言ってやりたい。
今更何があっても、絶対にフェリーは渡さないって」
「……っ」
突然漏れた本音に、フェリーは言葉を詰まらせる。
沈黙とは裏腹に、ずっと自分と居てくれるという宣言を前にして頬は勝手に緩んでいく。
「う、うれしいけど! やっぱりヤダ! ゼッタイに会わないで!」
「なんでだよ」
「なんでもだよ! おじいちゃんに言うならともかく!」
そう言った話はアンダルにするべきだとフェリーは主張する。
記憶にない自分の産んだ人間にそんな事を言われても、困るだけだと。
「渡せと言われなければ、言うつもりもない。文句を言うだけだ」
「それでもだよ! シンのあんぽんたん!」
フェリーは悟った。絶対にシンを会わせてはならないと。
大切に想っていてくれる事は嬉しいけれど、こうも暴走寸前だと逆に自分が冷静になる。
「……お互い、大切に想っているのね」
二人の様子を見て、ミシェルはうっすらと笑みを浮かべた。
もしもクロエが眼前の少女を棄てたのであれば、決して許されるべきではないだろう。
けれど、この二人を巡り合わせたのもまた事実だ。
妹がそうではないと願いつつも、ミシェルは自分に知る彼女の事を伝えた。
その先にどうするかは、二人で決めればいいと思って。
複雑な表情を見せながら話を聞くフェリーの姿は、見れば見るほど自分やクロエに似ている。
フェリーは本当に自分の姪かもしれない。複雑な感情を抱いているのは、ミシェルも同様だった。