265.喧嘩の板挟み
困り果てたイディナは、一歩離れて二人の様子を見届ける事しか出来なかった。
子供は大人が思っているよりも遥かに空気が読める。
天真爛漫と言うべき彼女の明るさは、まるで王都に忘れて来たかのように鳴りを潜めていた。
(イルさーん、フィアンマさーん。助けてくださいよー……)
茶色の髪を揺らし、何度も後ろを振り返る。既に見えなくなった王都は、誰も助けてくれない事を沈黙によって伝えてくる。
前に旅をした時とは明らかに違う雰囲気による緊張で、イディナは己の唇を軽く舌でなぞった。
イルシオンやフィアンマと旅に出た時はもう少し、こう……すぐに打ち解けたはずだと思い返す。
今回も二つ返事で同行を了承したのは自分だ。
どういう訳か同じ騎士見習いに引き留められたりはしたけれど、大切な素材を集めると聞いたので力になりたいと思った。
このまま心が折れてしまっては、自分を見送ってくれた皆に申し訳が立たない。
初めは、こんな雰囲気では無かった。
白衣を着た女性に頼まれた時は、黒髪の青年も金髪の少女も快く頷いていた。
フェリーに至ってはニコニコと頬を緩ませながら、金色の髪を左右に揺らしていたというのに。
だからイディナも、楽しい旅になると思っていた。
実家の食堂で看板娘として愛想を振りまいていた彼女は、人と打ち解ける事に関しては自信があった。
この二人とも、仲良くなろうと張り切っていたのだ。
「あたしはゼッタイヤダ! ヤダったらヤダ!」
「何度も言っているだろう。それなら、俺ひとりで行くからいいって」
「あたしだって何回も言ってるよ! それもヤダって!」
なのに結果はこの有様だ。シンとフェリーはお互いの意思を曲げず、平行線を描き続けている。
事の発端は、王都を出ようとした時。久しぶりに再開したフィアンマが伝えた一言だった。
……*
すっかりと擬態が板についてきたフィアンマが、シンとフェリーの元を訪れる。
二人にとって重要な事を、伝える為に。
「……ミシェルが?」
旅支度をしていたシンの手が止まる。フェリーに至っては、表情に僅かな影を落としていた。
面識こそないが、その名を忘れるはずもない。
初めてフィアンマと逢った時、フェリーと見誤った際に呼ばれた女性の名前。
「うん。ラットリアっていう街の教会で修道女をしていた。
ミシェルには子供はいなかったよ。一応、クロエのことも訊いてみたけど……」
「……訊かなくて、よかったのに」
不満を漏らすかのように、フェリーがぽつりと呟いた。
ミシェルが自分に似ていようが、万が一自分の出自に関わっていようが、フェリーにとってはどうでもよかった。
アンダルに引き取られるより前の事など、知ろうとは思わない。自分の思い出は全部『フェリー・ハートニア』から先だけで良い。
けれど、自分の大好きな男性は違う。
彼は間違いなくミシェルに逢おうとする。
フェリーは知っている。シンは優しいけれど、言い出したら聞かない場合がある。
外野から見ればそれはお互い様なのだが、フェリーは自分の事を棚上げしながら口を尖らせた。
「お前たちが行こうとしているナタレ鉱山は、ラットリアと同じラコリナ領内にある。
もし気になるのなら、寄ってみればいいと思う」
フェリーは頭を抱える。余計な事を言って欲しくは無かった。
シンの後ろからじっとフィアンマを睨むフェリーだが、彼には全く気付かれていない。
その証拠に、フィアンマは次々と言葉を並べていく。
「……ただ、ミシェルは妹のことを、あまり快く思ってなかったようだけど」
フェリーは腕を組みながら、うんうんと頷いた。
それは素晴らしい情報だと、今度はフィアンマを心の中で褒め称える。
シンを説得するのなら今しかないと感じたフェリーは、彼の肩を叩いた。
「シン。ミシェルさんはあたしとカンケーなさそうだし、あんまりメーワク掛けないようにしようよ。
クロエさんのことをあまりよく思ってないみたいなら、思い出させるのもカワイソウだよ」
あくまで他人に気遣っていると言う体で、フェリーはシンの良心へ訴えた。
対するシンは黙り込んだまま、手で口元を覆って考えに耽る。
「……いや、行こう」
案の定というべきか、シンが自分の意見を曲げる事は無かった。
フェリーの両肩が、段々と高く上がっていく。
「どうして!? 何回も詰め寄ったら、ミシェルさんもカワイソウだよ!
あたしも、別にわざわざ逢いたいって思わないし」
「フェリーは無理に会わなくてもいい。話を聞くだけだから俺一人でも十分だ」
何度言葉を変えても、結果は変わらない。
シンの中では、既にミシェルと逢う予定が組み立てられつつあった。
初めは何とか説得しようとしていたフェリーも、段々と言葉尻が強くなっていく。
場の空気に耐えられないと、いつしかフィアンマが部屋から消えていたが、もう彼がどうこう出来るラインは越えてしまっていた。
「そういうコトじゃないもん! シンのあんぽんたん!」
痺れを切らしたフェリーの叫び声が響き渡る。
対極に位置するものを求めた二人の意見が交わる事なく、出発の日を迎えた。
……*
夜が更け、三人は野営の準備を始める。
魔術で作った石かまどの上で、鍋が熱を帯びていく。
ぐつぐつと煮込まれたスープを、イディナは全集中力を以て中身をかき混ぜていた。
夕食を作ると言い出したのもイディナ本人だった。
空気が居た堪れなくて、せめて料理をする事で気分を紛らわせようとしている。
「そういう使い方が出来るのは便利だな。温度も調節できるのか?」
あまり見ない魔術の使い方に興味を持ったシンが、石かまどを覗き込む。
イディナは一度フェリーへ視線を移すが、頬を膨らませてそっぽを向いている。
決して仲直りをした訳でもなさそうだが、悪化した風でもなかった。
ただ、イディナは単純に話し掛けられた事は嬉しかった。
なんだかんだ、大衆食堂で生まれ育ったイディナは料理が好きだ。
好きな事をして褒められるのは、誰だって嬉しい。
「はい、じっくりと煮込みたい時は弱めたりしますよ!
それに、蒸したりしたい時は周囲を覆ってから水の魔術も織り交ぜます!
ぼくは魔術の威力が弱いから、こういう使い方の方が向いてるみたいです」
「その分、剣を頑張ります!」とイディナは八重歯を見せていた。
魔術大国ミスリアに生まれながら、魔術が不得手というのはやはり思うところがあるのだろう。
「戦うだけが魔術じゃないだろう。こういう使い方だって、立派な魔術の使い方だ」
「そうですか? へへ、ありがとうございます!」
それでも俯かずに前向きな姿勢で居る彼女を、シンは素直に尊敬した。
魔力の大小が、全てを決める訳ではないと彼は知っている。
マレットだって、魔導石という純度の高い魔力を確かに開発はした。
けれど、それもマナ・ライドを造ると言う目的の副産物だ。
マナ・ポットをはじめとした小さな魔力で人々の生活を豊かにする魔導具の方が、多く造っているぐらいだ。
確かに、イディナの魔術は戦いでは威力が足りないかもしれない。
けれど、誰かを幸せにする可能性は十分に秘めている。
こんな素敵な使い方をするのであれば、マレットとも話が合いそうだとシンは思った。
褒められて嬉しかったからか、張り切って夕食を作ったイディナ。
肝心の味はどうだろうと、シンとフェリーがゆっくりと頬張る。
「おいしい! おいしいよ、イディナちゃん!」
「本当ですか? ありがとうございます!」
満面の笑みを浮かべながら、フェリーは次々とイディナの料理を口にしていく。
舌鼓を打っているうちに、自然と左手で頬を抑えていた。
「どれもおいしい~。イディナちゃん、お料理上手なんだね!」
「はい、家が食堂をやっているんです! ぼくも手伝っていました!」
「そうなんだ! でもね、シンの料理もおいしいんだよ! イディナちゃんも食べてもらいたいな!」
ニコニコとシンの方を見ながら、「明日は作って欲しい」と訴えるフェリー。
イディナはきょとんとしていた。ずっと喧嘩をしていたはずなのに、こうも簡単に機嫌が直るものなのかと。
「ああ、別に構わないが」
「……あっ」
フェリーの顔が強張る。流石に彼女も思い出してしまったらしい。
これに関しては、シンが表情を変えずに頷いた事も原因だとは思うが。
「や、やっぱりいいよ! イディナちゃんのごはんおいしいもん!
明日もイディナちゃんに作ってもらおっと!」
そっぽを向きながら、フェリーは残った食事を止めどなく口へ運び続ける。
言葉を交わす暇など無いと訴えているようにも見えた。
(うまくいくと思ったのに……)
元より作戦の一環として動いたつもりは無かったが、折角有耶無耶になりそうだったのにとイディナは肩を落とす。
楽しいはずの食事は、沈黙によって終わりを迎えた。
……*
まだ幼いイディナが居る事もあって、ミスリアから野営用の天幕が支給されていた。
見張り番が回ってくるまでの間、フェリーとイディナが天幕の中で身体を横に向けていた。
「シンのあんぽんたん」
天幕の向こうで見張りをしているシンに背を向けながら、フェリーがぽつりと呟いた。
眉間に寄せられた皺は、怒りというより寂しさの感情の方がより込められている。
「あの、その。お二人の事情はよく分かりませんけど……。
きっと、大切なことなんですよね……?」
「あたしにとっては、だいじじゃないよ」
顔を向かい合わせる形となったイディナが、しどろもどろになりながらフォローを入れる。
頬を膨らませながら、毒づくフェリーにどう声を掛ければいいのか分からない。
言葉に詰まらせる一方で、イディナは向かい合わせとなったフェリーの顔をまじまじと見てしまう。
美しく長い、金色の髪。透き通るような白い肌。あどけなさが残る顔には、ぱっちりとした碧い眼がよく映える。
(こうしてみると、お人形さんって言われても信じちゃいそう……)
極めつけは、重力に従う程のふたつの双丘。
自分より僅かに年上にしか見えないのに、あまりにも残酷な差がそこにはあった。
(ぼくもあれぐらいになるのかな……)
将来の自分を想像しようとして、イディナは首を左右に振った。
現状から察するに、あまり期待は出来そうにない。
「シンはね、あたしが香水とか服とか買っても小言言うんだよ。
ムダ遣いをするなって言ったり。あたしが稼いだお金のトキなのにだよ!?」
「ま、まあ……。お金は大切ですからね……」
見張りは交代制だ。その時に備えて、仮眠をとらなくてはならない。
イディナとしては早く仮眠するべきだと思っているのだが、フェリーがそれを許してはくれなかった。
「でも、旅をしてたら汗とかあるでしょ? シンは何も言わないけど、あたしはヤだもん。
シンはいっつもご飯の匂いとかでいい匂いなのに、あたしだけ汗臭かったらキラわれちゃうかもだし。
服だって、お店で似合うって言われたらシンにも見てもらいたくなるもん」
(んー……?)
イディナは己の眉間を指で押さえる。状況の整理が必要だと思った。
今、シンとフェリーは喧嘩をしている。フェリーは溜まった鬱憤を、この場で晴らそうとしている。
巡り回って、どういう訳かシンに嫌われたくない。褒めてもらいたいという話にすり替わっている。
「あのー……。シンさんとフェリーさんは、結局喧嘩されているのでしょうか……?」
フェリーの心の機微が判らないのは、まだ自分が子供だからだろうか。
返答に困ったイディナは、直球でフェリーへと尋ねる。
「だって、シンがどうしてもミシェルさんに逢うって言うんだもん。
あたしは、シンが居てくれればそれでいいのに……」
言い辛そうに、フェリーが呟いた。
融通の利かない彼に怒っているというよりは、ただ気乗りがしないようにも見えた。
同時に、流石のイディナは悟った。
フェリーにとっては、シンが何よりも大切で最も優先される存在なのだと。
だから自分が嫌だと伝えても、シンと同行をしている。主張が通る事を、ほんの少しだけ期待しながら。
「えっと、ぼくには難しい話ですけど……。
きっとシンさんもフェリーさんのためにしようとしているんですよね?」
イディナから見たシンの印象も、フェリーと同様だった。
決して意見を変えようとはしないが、彼もフェリーの行動に気を遣っていた。
どれだけフェリーが怒りを露わにしても、投げやりな返答は一切してない事からそれが窺える。
「うん。シンは優しいから。
ミシェルさんに逢おうとするのも、あたしのコトでだし……」
弱々しく視線を伏せる少女を見て、イディナは苦笑した。
間違いなく、これは痴話喧嘩だ。変な拗れ方をしないタイプの。
「フェリーさんが本気で嫌だって言えば、シンさんも諦めてくれるかもしれませんけど」
「……あんまりワガママばっかり言って、シンとずっとケンカしてるのもヤダ」
やはりと言うべきか。イディナにとっては、自分の意見を押し通すよりシンの方が大切だ。
これならば、頑なに譲ろうとしないシンよりも彼女の背中を押してやった方が良さそうだ。
「シスターはぼくもよく会っていましたけど、いいひとですよ。ぼくが保証します!
だから、今回はシスターと会いましょう。シンさんと仲直りするためだと思って」
「……ん。イディナちゃんも、フィアンマさんも好きなら、ちょっとだけ逢ってみる」
「ありがとうございます、フェリーさん」
弱々しく頷くフェリーは、見た目通りの少女の様子を見せていた。
一件落着と言わんばかりに、イディナが両の手をパンと合わせた。
「後で、ぼくからシンさんに言っておきますね。
だから、明日からは元通りです」
「うん。ありがと、イディナちゃん」
夜は更けていく。交代の時間に、フェリーがミシェルに逢う事を了承したと伝えると、シンは驚いていた。
それと同時に、イディナは彼から「ありがとう」と礼を言われる。
色々と含みのあるその声は、シンもフェリーを大切に想っている事の証明でもあった。
翌日。色んな種類の笑顔を見せるフェリーを見て、イディナは胸を撫で下ろした。
ナタレ鉱山での採取を終えてラットリアに到着するのは、これから数日後の事だった。