261.私怨塗れの手合わせ
「小僧! 儂と立ち合え! あの時の決着を、今ここでつけるのだ!」
怒号にも似た声が鳴り響く。
腹の底から目いっぱい放たれたそれは、とても90歳を超えた老人のものとは思えない。
「……は?」
「惚けた顔をしおって! 逃げようとしても、そうはいかんぞ!」
顔に困惑の色を浮かべるシンだが、オルテールは全く揺らがない。
状況を頭で整理するよりも先に彼の怒りは勝手にボルテージを上げていく。
断るという選択肢が最初から用意されていないという事だけは理解した。
オルテールがこのような行動に出たのは、主君であるオルガルが切っ掛けだった。
彼は今、己の大切なものを取り戻そうと躍起になっている。
……*
時間は少し前に遡る。
オルテールは独り、何とも言い難い不安と戦っていた。
原因を特定する必要はない。それははっきりと、目に見えているものなのだから。
「シンさん。稽古をされるのですか?
それなら、是非僕もご一緒させてください!」
オルガルはまるで少年に立ち戻ったかのように、曇りなき眼を輝かせる。
幼少期の恩人に再会出来たという喜びを、思う存分本人へとぶつける。
「いや、マレットに頼んでいた魔導具の調整が終わったらしいから、受け取りに行くだけだ」
「そうですか! では、その後にでも――」
にこやかに見送りながらも、オルガルは稽古の約束を取り付けようと喰らい付く。
ミスリアで再会をしてから、ずっとこうだった。
彼の眼には、今でもシンが振るっていた剣捌きが目に焼き付いているという。
「シン、すっかり懐かれちゃってるね」
オルガルとは違った理由で顔を綻ばせるのが、シンの隣に並ぶフェリー。
彼女もまた、嬉しかった。シンが優しかった事も、誰かに気に入られている事も。
シンも決して、オルガルが嫌な訳ではない。
ただ、自分にとっては数ヶ月でも彼にとっては30年以上の月日が流れている。
自分の人生よりも長い間、憧れを抱かれていたというのはなんだか気恥ずかしい。
そう思う一方で、彼の気持ちも理解は出来る。
シンにも憧れている、尊敬している人間はいる。
アンダル・ハートニア。フェリーの育ての親であり、自分達を引き合わせてくれた恩人。
彼へ向ける感情はこれから先、何年経っても変わらない。普遍的なものだろう。
とても共感できる感情なのだが、矛先が自分となるとどういった反応を見せればいいのか判らなくなる。
自分は今、彼に失望されるような態度を取っていないか。一挙手一投足まで、意識してしまう。
「ちょっと、どういう反応をするのが正解か判らない」
「シン、照れてるんだー」
またフェリーの顔が明るくなる。満更でもなさそうなのが、少し可愛いとさえ思う。
眉間に皺を寄せている姿は今までも山ほど見て来たが、嬉しい感情を混じらせている例は珍しい。
ずっと一緒に居るはずのシンから、新しい一面が見られた。オルガルに感謝しなくてはならないと、フェリーはひとり頷いていた。
フェリー、オルガルにとっては特に有意義だった再会。
一方で独り、オルテールだけがシンに対して嫉妬の念を送る。
「おのれ、あの小僧。儂の若を……」
思い返すだけでも苦々しい、32年前の出来事。自分の留守中に主君たるオルガルが攫われた。
報せを受けたオルガルは、他の総てを犠牲にしてでも彼を救けなくてはならないと宝岩王の神槍を手に取った。
何人居ようが、神器と自分の武術の前では意味を成さない。確固たる自信がそこには在った。
結果、オルガルは無事だった。彼は傷ひとつ負っていない。
悔やむべきは、名はおろか得体の知らぬ青年に憧れを抱く少年をひとり、生み出してしまったという事。
オルテールはそれこそ、オルガルと心底可愛がっていた。
まだ紅葉のような小さな手を叩いて、自分の槍捌きを褒めてくれた事は今でも鮮明に覚えている。
彼の羨望を一身に受けるのは、自分であるはずだった。
憎いとまでは言わないが、悔しい。
たった一度の出来事で、孫のように可愛がっているオルガルの心を奪っていったあの男が。
流浪の人間だったのか。幸い、その青年の姿に一目会うというオルガルの願いは叶わなかった。
そう。オルテールは安心しきっていた。
よもや30年後に当時の姿そのままで再会するとは、夢にも思ってみなかった。
その上、オルガルの程度を見る限り彼は憧れを胸の内で溜め込み過ぎている。
大きくなり過ぎた羨望は、恐らく実力以上にシンを大きく見せていると推察した。
オルテールは戦わなくてはならない。
今度こそ決着をつけて、オルガルに突き付けなくてはならないのだ。「若の中で、神格化しすぎですぞ」と。
彼の胸中に、羨望の矛先が自分へ向いて欲しいという我欲がある事は否めなかった。
……*
爽やかな風が、草木を揺らす。
離れた葉がひらひらと、訓練場に立つシンとオルテールの間を横切った。
(どうして、こうなったんだ?)
シンは眉間に皺を寄せる。照れているのではなく、いつも通り訝しむ時に刻まれるものを。
手合わせをする事自体は構わないのだが、眼前に立つオルテールがやけに殺気だっている。
「フン。虚勢を張らずともよい。この砕突のオルテールが、衆人環視の前で実力の差を見せつけてやろう」
シンが困惑をするもうひとつの理由が、この観衆の群れだった。
フェリーやオルガルはまだ分かる。マレットもギリギリ許容できる。
アメリアやオリヴィア、ヴァレリア……。ありとあらゆる人間が、訓練場で自分達を取り囲んでいる状況が判らなかった。
「それで、お前らどっちが勝つ方に賭けるんだ?」
マレットに至っては、明らかにこの状況を愉しんでいる。
ひとりひとり回っては、どちらが勝つかを賭けの対象にしていた。
「シンだよ! さすがに、おじーちゃんには負けないと思う!」
真っ先に手を挙げたのはフェリーだった。
マレットは「はいはい」と軽くあしらう。フェリーの場合、相手が誰であってもシンと答える事は判り切っている。
「というか、わたしたちはあのおじいさんのこと知らないわけですけど。実際、やるんですか?」
行動を共にしたイルシオンへ尋ねるのは、オリヴィアだった。
魔術師である彼女は、単純な武芸の勝負となると前線組より理解度は薄い。忌憚のない意見が、聞きたかった。
「老人だと侮っていたら、痛い目を見るな。実際、『強欲』の適合者を追い払ったのはオルテール殿だ」
砂漠の国での戦いを思い出し、更には両方と手合わせをした事のあるイルシオンが逡巡しながらも応えた。
手に持っているのは木槍だが、彼は決して神器に頼った戦い方をしていない。
街に現れた上級悪魔を、角材の一突きで仕留めてしまう程なのだから相当だ。
「ふむふむ。イルはおじいさん派っと。因みにお姉さまは、どう見られますか?」
「この手合わせでどちらが強いかと決めるのは早計だと思いますが……。
シンさんはご自身の強みが活かせないような気はしています」
「あー、確かにそうかもしれませんね」
オリヴィアは納得をし、頷いた。
今回の手合わせでシンが持っているのは、木剣。当然だが、銃も魔導砲も使う訳には行かない。
魔導具を駆使した手数の多さと、意識の外側から一撃を入れる事は叶わない。純粋に剣の実力だけが求められる。
決してシンの剣術が稚拙という訳ではない。ただ、彼は師を持っておらず、独学で剣を学んだ。
妖精族の里でアメリアがフェリーに剣術を教えている背景も、そこに起因するものだった。
応援したい気持ちはあるが、手放しで安心できるものではないというのが、アメリアの見解だった。
「ところで、オルテールさんはどうしてぼくにだけ見ておくように言ったんですかね?」
茶色の髪を垂らし、イディナが首を傾げる。
手合わせの前、確かにオルテールはイディナへ伝えた。「あの小僧の動きを、よく見ておけ」と。
オルテール自身ではなく、シンを見ろというのは何故なのだろうか。
理由は解らないけれど、意味もない事を言うような人ではない。イディナはオルテールを信じて、じっとシンへ視線を送り続ける。
「フ、どうやら周囲は儂と貴様のどちらが上かで盛り上がっているようだな」
「あ、ああ……」
段々と昂っていくオルテールに対して、生み出された異様な空気を未だ呑み込めていないシン。
開戦の合図となったのは、オルガルが放った一言だった。
「きっとシンさんが勝ちますよ。だって、宝岩王の神槍の一撃だって見切ろうとしていたんですから!」
幼少期を思い出しては、目を輝かせるオルガル。
誰よりも自分の勝利を願って欲しい人物が、対戦相手であるシンに期待をしている。
予想をしていなかったと言えば嘘になるが、実際に聴いてしまうと物悲しさが倍増した。
「わ、若……っ。おのれ、貴様ァッ!」
殆ど予備動作を察知させずに繰り出されたのは、高速の突き。
初めて逢った時のように、シンは木剣の腹で突きを受け止める。
「それ、本当に俺か!?」
一撃で決めるつもりだったと言われても信じるような、渾身の一突きは木で出来た槍の柄を弓のようにしならせる。
木剣が弾かれそうになると感じたシンは、後方に下がり体勢を立て直す。
「間合いの差がありながら、下がるとはな!」
必殺の一撃から一転、オルテールは速さを優先した鋭い突きを連続で繰り出す。
止めどなく撃ち込まれる突きは本気で放っていないものがあるにも関わらず、シンにそれを気取らせない。
「若、これがお手本ですぞ!」
突きを繰り出す一方で、オルテールはオルガルへ視線を向ける。
先日、イルシオンとの手合わせで挙げた課題の答えを、オルテールは実践で披露している。
常に主の成長を見守ってきた自分だから出来る事だというアピールを添えての突き。
「ああっ! これじゃあ、シンさんは近付けない……」
「シ、シンならだいじょぶだよ!」
オルテールの想いとは裏腹に、オルガルは憧れの人のピンチに声を上げていた。
金髪の少女と見守るそれは、完全にシン側に立っている事を意味する。
「……おのれぇ! 貴様、貴様ァッ!!」
「だから俺、関係ないだろ!」
羨望の眼差しはどうあっても、自分へと戻って来ないのだとオルテールは咽び泣く。
嫉妬の炎が、突きの回転を上げていく。
「普通に手合わせじゃ、駄目だったのか!?」
「見くびるな! 儂は己の欲望だけでこの戦いを挑んだのではないわ!」
憤怒にも苦悶にも似た表情をずっと見せつけられているシンは、居た堪れない気持ちになった。
それでもシンは、戦わなくてはならない。彼の怒りを受け止められるのは、不本意ながら自分だけのようだから。
「説得力がない!」
このまま放っておけば自滅をしそうだが、それではオルテールや周囲が納得しないだろう。
シンは改めて距離を取り、オルテールの射程から外れる。
「小僧、逃げてばかりで勝てると思うな!」
「それぐらいは、分かってる」
追撃を試みるオルテールが、槍を突き出すと同時にシンは前へと走り出した。
足の指がしっかりと大地を掴み、彼の身体を前へと押し出す。
「……っ」
「イディナ? どうかしたのか?」
「いっ、いえっ! なんでもありません!」
上手く言語化できず、イディナは咄嗟にイルシオンの問いへ対して手を振ってしまう。
けれど、彼女の眼は捉えていた。オルテールが伝えたかったのは、きっとこういう事なのだと納得をする。
イディナは魔力の感知が鋭くない為、はっきりとは言い切れない。けれど、恐らくシンは魔力で身体能力を強化していない。
魔力に頼らない戦い方の手本として、オルテールはシンの姿を自分に見せようとしてくれた。
(オルテールさん。ありがとうございます……っ)
オルガルやイルシオンだけではなく、自分も気に掛けてくれていた。
イディナは目の前で槍を振るう老人に感謝しながら、彼らの戦いをその眼に焼き付けていく。
シンが一歩を踏み出すタイミングは、確かに彼の意思によって決められた行動だった。
一方で、オルテールもそうなる事を望んでいた。
この男は、このまま自分の体力切れを狙うような人間ではない。信用に裏打ちされた読みが、そこには存在していた。
「小僧、甘いぞ!」
シンは鋭い突きを繰り出したにも関わらず、戻りの速い木槍を見て舌打ちをした。
普段なら自分がしている釣りの動きだったが、今回はオルテールによって釣られた形となる。
「若がどちらに相応しいか、その身体で味わえッ!!」
歯を食い縛り、大地を踏みしめて繰り出された渾身の一突き。
明らかに先刻までとは突きの質が、シンに襲い掛かる。
「それぐらいの危険は、織り込み済みだ」
シンは足を止めない。全力で前を向いている彼は、力の方向を分散させる事を嫌った。
一秒にも満たない時間で穂先がシンの身体へと到達をする。
「っ!」
身体を捻り、オルテールの突きを済んでのところで躱す。
横を向いた拍子に前へ差し出された左手が、木槍の柄を掴んだ。
「小癪な!」
奇しくも、32年前のゼラニウムで交戦した時と同じ状況に陥る。
シンが神器たる宝岩王の神槍を奪おうと掴んだ瞬間に、二人へ拒絶の重みが圧し掛かった記憶が蘇った。
「あの時の再現をしたつもりか? 今回は神器ではない、あの時のようにいかぬぞ!」
オルテールは決して槍を奪われまいと、両腕の力を強く籠める。
身体を捻って躱したシンは、左手一本で掴んでいる。いくら相手が老人と言えど、槍を奪い取るには力が足りない。
だが、シンの狙い通りだった。
彼の刃は、オルテールへ届こうとしているのだから。