26.悪意の塊
――この人間は危険だ。
双頭を持つ魔犬の本能がそう告げる。
自分の攻撃を何度受けても立ち上がり、更には自分の片割れを焼き尽くす。
獣としての本能が目の前の人間を拒絶する。
残った魔犬の頭が牙を剝く。
フェリーは身を逸らし、自分の上半身を食い千切ろうとする大口を避ける。
「こ……んのぉ!」
ギリギリまで引き付け、オルトロスの動きに逆らうように魔導刃を口元へ這わせる。
「そんなに食べたいなら、これをあげるって――ばッ!」
茜色の刃が牙を折り、裂けた口を根本から広げていく。
一瞬にして蒸発していく唾液と、獣肉の焦げ付く異臭がフェリーの顔をしかめっ面に変えていく。
(浅い……!)
本当なら、オルトロスの口から頭の上を斬り離すつもりだった。
自分が仰け反った分だけではなく、魔犬も自分の頭を引き戻せるだけの余力は残していたのだ。
もしかすると誘われたのは自分ではないかと、血の気が引く。
しかしオルトロスも、残る牙を噛みしめる事で屈辱と痛みに耐えている。
彼女が身を逸らした瞬間に頭の軌道を修正していなければ、あの一撃で仕留められていた。
多少タイミングが間違っても構わないという強い意志が、刃には宿っていた。
やはりこの人間は危険だと、全身の毛が逆立つ。
振り切ったフェリーの身体を後押しするように、オルトロスは彼女の脇腹を前脚で殴りつける。
「いっ、つぅ……」
伸びきったフェリーの身体に、鋭い爪が食い込む。
普段装備している革製の防具なんて、魔王の眷属にとっては紙切れも同然だった。
石畳の上を転がし、足跡の代わりだと言わんばかりに鮮血が線を描いた。
それでも、フェリーは反撃を試みていた。
右肩を無理矢理回し、魔犬の前脚に傷を負わせる。
あまりに強引だったせいで自らの筋も痛めたようだが、そんなものはすぐに治ると言わんばかりに立ち上がる。
互いが互いを牽制している。
状況に変化が訪れたのは、フェリーとオルトロスの双方が態勢を整えた時とほぼ同時だった。
「……え?」
それはフェリーとオルトロスの間に突如、現れた。
黒い、小さな球体。深淵に繋がっているか錯覚するような、禍々しい漆黒の球体だった。
「なんだ、あれ……」
離れていたピースも球体を視認する事が出来た。
まず浮かんだのは疑問。そして、次に浮かんだのは恐怖だった。
「――! なに、コレ……っ!」
同様の印象はフェリーも感じ取っていた。
双頭を持つ魔犬が現れた時に感じたものより、数段重たい重圧。
追い打ちをかけるように球体から延びる黒い波動と、甲高い金切り音がその恐怖心を一層煽る。
フェリーは感じた。
目の前にある球体を「ゼッタイに壊さなきゃ」と。
双頭を持つ魔犬は感じた。
目の前にある球体は、自分より上位の存在。つまり、自らが護るべきものだと。
球体を挟んでいた二人が、同時に動き出す。
フェリーは魔導刃に目いっぱい魔力を注ぎ込む。
魔力が漏れ出すほどに注がれた魔導刃は炎を纏い、黒い球体へ振り下ろされる――が。
「っ!!」
それをさせまいと回り込んだオルトロスが、鞭のように尾を振るう。
球体に意識を取られ、注意を怠っていたフェリーに直撃する。
何度も尾を鞭のように打ち付けられ、フェリーの痛覚が麻痺をしていく。
「……の! ジャマ……だってば!」
尾を掴み、魔導刃で邪魔な尾を切り離そうと試みる。
その瞬間に殺気を感じたオルトロスが尾を大きく縦に振り上げ、フェリーの身体を宙へ投げた。
短絡的な行動に出た、フェリーの失敗だった。
焦燥感からの失敗を反省するより、落下が始まらない事に対する焦燥感がフェリーの精神を上書きしていく。
しかし、高く上げられた彼女を冷静に戻したのは投げられた事により広がった視界だった。
ゆっくりと、それでも確実に一歩ずつ歩んでいく男の姿が見える。
服を真っ赤に染め、重い足取りだったが見間違うはずもない。
――シンだ!
きっと向こうにいる魔物をやっつけたんだ。それで彼は今、自分達の元に向かってくれている。
そう思うと元気が出た。やるべき事を探し始めた。
視線は真っ直ぐと、魔犬と球体に向けられる。
落下するフェリーに合わせるように、オルトロスは体勢を整えた。
地面に叩きつけられた程度で死ぬような存在でない事は、既に思い知っている。
自由の利かない彼女を迎撃する構えだった。
「させるか!」
風切り音が鳴り、オルトロスが首を向ける。
ピースの魔導刃から放たれた風の刃だった。
本能的にフェリーとの距離が近くなることを避けた魔犬は、身を屈めて回避を試みる。
風の刃はオルトロスの耳を掠め、耳を僅かに傷つけるに留まった。
しかし、魔犬は姿勢を低くした事が仇となる。
オルトロスの眼前にもう一太刀、風の刃が襲い掛かっていた。
一発目より薄い刃だったが、それ故に魔犬は気付くことが出来なかった。
ちょうど目の高さになった刃は、魔犬の目を切り裂く。
「……やった」
苦痛で顔を歪める魔犬の姿を見て、ピースは手応えを感じる。
だが、もう一発と構えたところで急速な脱力感に襲われた。
「あ、あれ……」
元々薄い色をしていた若草色の刃は、ほぼ透明になる。
いや、刃が形成されている感覚すらない。完全に魔導刃の柄しか残っていない。
ピースの魔力が切れてしまっていた。
「そんな……。まだ、もうちょっとだけ……」
「だいじょぶ! ありがと、ピースくん!」
ここに来て、無力感に打ちひしがれるピースをフェリーは労う。
心から「本当にありがとう」と感謝をする。
フェリーは彼が作り出したチャンスを決して無駄にはしないと誓った。
視覚を奪われたオルトロスへ、茜色の刃を突き立てる。
迎撃どころではないと判断した魔犬は巨体を転がして回避を試みるが、大腿が大きく裂かれる。
しかし、魔王の眷属としての矜持がオルトロスの身体を突き動かす。
傷ついた身体等お構いなしに身体を振り回すと、その身がフェリーの肉の感触を得た。
「しっつ……こい!」
フェリーは「吹っ飛ばされるもんか」と、地面に魔導刃を突き立てる。
受け止めた衝撃で骨が折れたかもしれない。
直ぐに治る傷を気にしていられないと、フェリーは大地を踏みしめる。
オルトロスはピースによって目が潰されている。
最大の好機と見たフェリーは、魔犬より黒い球体の破壊を優先すべく走り出した。
魔導刃で生成した刃を、思い切り黒い球体へ叩きつける。
確かな手応えがフェリーにはあった……のだが。
「!?」
黒い球体は形を変えることなく、まだそこに在る。
「そんな……」
驚きが絶望へ変わる前に、事態を正しく把握しようと試みる。
よく見ると、きちんと傷のようなものは漆黒の球体に入っている。
攻撃自体に意味はあった。ただ、威力が足りないのかもしれない。
それに、黒い球体は最初に現れた時より僅かに膨らんでいるように見える。それが良くないという事はすぐに察した。
時間はあまり残ってはいないという事も。
「それなら……っ」
壊れるまで何度でもと、再び魔導刃を振り上げる。
二度目の攻撃を叩きつけようとした時だった。
「――っ!?」
オルトロスが自分の身などお構いなしに、その巨体をフェリーへぶつける。
咄嗟に魔導刃を魔犬へ向け、その横腹を切り裂いた。
それでも魔犬は怯むことなく、フェリーの身体を弾き飛ばす。
衝撃に巻き込まれ、黒い球体も広場をコロコロと転がっていく。
――まずい!
フェリーはすぐに立ち上がり、黒い球体を追おうとする。
オルトロスは阻止するべく、再びその身をフェリーへ打ち付けようとする。
それを身を引いて躱すと、今度は尾がフェリーに襲い掛かってくる。
――なんで!? 眼は見えていないはずなのに!
魔犬は確実にその視界を奪われている。
それなのに何故、ここまで正確な攻撃が出来るのか。
緊急時によって研ぎ澄まされたフェリーの思考は、一瞬だが確かに熟考を重ねた。
犬という見た目も相まって『嗅覚』だという結論を即座に弾き出す。
しかし、そこから先に繋がる対抗策までは見つかっていなかった。
「だから、ジャマなんだってば!」
フェリーの予想通り、嗅覚を頼りにオルトロスはフェリーへ襲い掛かっている。
視覚を失ってなお正確に自分を狙ってくる魔犬にフェリーは翻弄され、徐々に黒い球体との距離が開いていく。
――なにか、なにか手はないの!?
鼻を潰す? 真っ先に思いついたがそれも困難だ。
オルトロスの動きは洗練されており、フェリーの攻撃を容易に躱しかねない。
視覚を失い、為すべき事がシンプルになった影響かもしれない。
今の魔犬の鼻をピンポイントで狙うのは、至難の業だった。
だからと言って、ここで魔犬と戯れを続けていては本末転倒だ。
ピースの援護はもうない。自分自身で突破しなくてはならない。
「……!」
ひとつだけ、ひとつだけだがフェリーは咄嗟に閃いた。
もしかすると、この厄介な問題を突破出来るかもしれない。
考えている暇はないと足を止め、突進するオルトロスの迎撃態勢に入る。
咆哮を上げるオルトロスに、フェリーはある物を投げつける。
それは小さな小瓶だった。
魔犬が小瓶に触れ、呆気なく割れる。中に入っていた液体が、魔犬の顔を濡らした。
途端、オルトロスがその顔を歪める。
今まで頼っていた物を失った感覚で、一種の混乱状態に陥ってた。
フェリーが投げた物は殺傷能力など何ひとつない、でも自分が商店を渡り歩いて見つけた物――。
金欠の原因となった香水だった。
自分は気に入った匂いだったが、シンは無反応だし魔犬は顔を苦痛に歪めている。
その事については、正直言って複雑な気分だった。
(べつに……シンはあんぽんたんなだけだし、ワンちゃんに好かれたいワケじゃないし!)
心の中で言い訳をするが、誰も聞いてはいない。
それより、生まれた好機を逃す訳にはいかない。
フェリーはオルトロスに背をつけ、球体に向かって走り出す。
自分から離れていくフェリーに勘付いたオルトロスは、視覚と嗅覚を失ったままフェリーを追う。
己の感覚に身を任せ、暗闇の世界を駆け抜ける。
「――うそっ!?」
自分を見付ける手段は奪ったにも関わらず、オルトロスは真っ直ぐにフェリーを追う。
魔王の眷属の執念に飲み込まれるが如く、魔犬の大きく開いた口がフェリーの身体に喰らいつく。
「つっ……」
一本となった牙が喰い込み、身体を持ち上げられる。
「もう、いい加減に……してよっ!」
魔導刃をオルトロスの眉間に突き立てる。
魔犬も苦痛に顔を歪めるが、決してフェリーを離そうとはしない。
命を賭けた我慢比べが始まった。
自分が手間取っている間にも、球体は膨張を続けている。
このままだと、良く無いことが起きる。そんな確信だけがフェリーの脳裏を過る。
焦燥感が永遠にも感じるような時間をフェリーは体験する。
突き立てた魔導刃生み出す炎にオルトロスは必死に抵抗する。
そうする事が最後の意地だと言わんばかりの行動だった。
「どいて……どいてよっ!」
フェリーの叫びに応えるかの如く、オルトロスの身体を銃弾が撃ち込まれていく。
狙撃銃を構えたシンが、遠くから援護射撃を放ったものだった。
「シン……!」
フェリーは顔を綻ばせるが、オルトロスは止まらない。
死ぬまでこの口を開ける事はない。それほどの覚悟を感じる。
シンが魔導弾を撃たないのは、きっと自分を巻き添えにしない為だ。
実際、フェリーの予想は当たっていた。魔導弾はどれも強力で、フェリーの動きも奪ってしまうだろう。
照準器越しに見た彼女の表情が、切羽詰まっていたので動きを止めてはいけないと直感が告げていたからこその行動だった。
フェリーは考える。シンもきっと、考えているのだろう。
自分が今から全力で魔導刃でオルトロスを斃しても、果たして黒い球体を破壊する事が出来るだろうか。
猶予はどれほど残っているのだろうか。
――こうなったら。
決断を迫られたフェリーは、空いている左手で黒い球体を指した。
この距離では声は届かない、それでも意思を伝えなくてはならない。
「……なんだ?」
フェリーが指差す方向にある、漆黒の球体。
球体が異様な物である事は、シンも気付いている。
それよりもオルトロスに噛み付かれている彼女を無視する事が出来なかった。
その彼女が、あの球体を指差している。
親指を立てて、人差し指を球体に向かって延ばす。
まるで銃を模っているようだった。
フェリーと目が合った。とても真っ直ぐで、真剣な眼差しだ。
互いの意思が伝わると感じると、彼女はふっと笑みを浮かべて左手を縦に動かした。
――撃って。
そう言われているような気がした。
指の先には、黒い球体がある。
球体を撃てを言いたい事は伝わった。シンは即座に照準を球体へと合わせる。
高熱弾を撃つ。球体に傷をつける事は出来なかった。
ならばと稲妻弾を撃つ。傷はつくが、貫通には至らない。
シンはこのまま無闇に撃っても埒が明かないと感じた。
――何か、何か手は無いのか?
絶え間なく襲い掛かる激痛に耐えながら、今の自分が出来る事を考える。
フェリーは自分に託したのだ。それは大切な事で、決して無碍には出来ない。
何が有効かを片っ端から考える。魔導弾で傷をつける事は出来た、球体は決して無敵というわけではない。
膨張する球体の金切り音が強くなる。時間制限が迫っている事を伝えるような、危機感を煽る音だった。
(あれは……)
焦るシンは、ある物が存在する事に気付いた。
アレを使えばあるいはと考えるが、同時に逡巡する。
しかし、球体の発する重圧が、これ以上の災厄を運んだとして太刀打ちできる術はない。
選択の余地は残されていなかった。
「……すまない」
シンは精一杯の感謝と謝罪を込めて、稲妻弾を放つ。
稲妻弾は膨張する漆黒の球体を掠め、傍にある物へ着弾した。
シンが狙った物。それは、マナ・ライドだった。
人を三人乗せても、馬より速く走るだけの出力を誇るマナ・ライド。
更に、シンが使用する魔導弾も側車にいくつか積まれている。
搭載されている魔導石の量はオルトロスを仕留めた時とは比べ物にならない。
貫通した稲妻弾から大量の魔導石が誘爆を始めた。
一際大きな爆発音が、ウェルカの広場に鳴り響いた。