254.不安を忘れるが如く
とある大陸から離れた、小さな島。
魔力濃度の濃いその地に、世界再生の民は潜伏していた。
一部の者が寝返った事により、今まで用意していた拠点は大半が存在を知られている。
アルマとビルフレストしか知らなかったこの島こそが、彼らにとって最後の砦。
身を隠すという意味でも重要な意味を持つが、何よりもその魔力が彼らにとっては必要だった。
時に瘴気となって身体に変調をきたす程の濃度。
魔力だけではなく、その苦しみでさえ呪詛となり邪神の糧とする。
邪神の研究についても同様だった。
人間のすむ地では魔力が薄すぎたのだ。ここでなら、研究は捗る。様々な事が試せる。
声を高らかに研究を進めるのは、邪神の核とピアリー村での怪物を生み出した男。マーカス。
貴族の地位を利用し、多くの人間の命を弄んだ男。
研究だけではなく己の欲まで辺境の村で満たす程の屑だが、世界再生の民にとっては重要な存在でもある。
この男が居なければ、未だ邪神の顕現は成し遂げられていなかったのだろうから。
「サーニャくん。適合した『嫉妬』の様子はどうだい?」
「ええ、段々と慣れてきました。『嫉妬』はまだ、顕現していませんけど」
「そうかい。君は貴重な適合者だからね、何か異変があったらすぐに私に報せたまえ」
「勿論、そのつもりです。マーカス様しか、頼れる方はいませんから」
満更でもなさそうなマーカスを他所に、サーニャは彼の元から離れる。
サーニャは明確にマーカスが嫌いだった。自分をモノ同然に扱う貴族と変わらない、この男が。
舐めるような視線に鳥肌が立つ。『嫉妬』の調整と称して、まるで関係のない所へ伸びる指先も気持ち悪い。
彼と接していると、ジーネスがどれだけあしらい易かったのかがよく分かる。
だが、現状ではこの男に頼らざるを得ないのも事実だった。
世界再生の民に関するもの。特段、邪神の研究で彼の右に出る者はいない。
適合者と言えど、彼を邪険に扱う事を躊躇ってしまうのだ。
ミスリアであれだけ重ねて来た嘘の笑顔を、まだ続ける必要がある。そんな自分に、サーニャは辟易した。
正直に言うと、最近のサーニャはビルフレストの動向も気になって仕方がない。
自分だけが見てしまったもの。カタラクト島から命からがら戻ってきたラヴィーヌと黄龍を、彼自身が喰らうという光景。
未だ誰にも話す事は出来ず、彼女の胸の奥では猜疑心の種が植え付けられたままだ。
望んだものを手に入れる為。そして、世界再生の民に切り捨てられない為。
数多の屈辱に耐えながら得た『嫉妬』の能力を、上手く扱わなくてはいけない。
それが今の彼女がするべき事なのだと、疑念を押し殺すよう自分へ言い聞かせた。
「……スリット様、どうかなされたので?」
ぼんやりと、島内を歩き続けたサーニャはいつしか海岸へと辿り着く。
水平線を眺めているのは、黄道十二近衛兵の一人。スリット・ステラリード。
浮遊島奪取の任へ赴き、戻ってくる事は無かったトリス・ステラリードの双子の兄。
本家の人間であるルクスがカッソ砦の警護に当たり、一人息子であるイルシオンは放浪を続けていた。
そのせいもあってステラリード家だけは唯一、分家の人間のみで黄道十二近衛兵の任に就いている。
元々が第一王女派であったステラリード。
彼らは本家の人間で、紅龍王の神剣の継承者であるイルシオンが自由気ままに振舞っているのが気に喰わなかった。
更には当主であるルクスが王都から離れた位置に居る事も功を奏し、彼らを味方に引き入れるのは容易だった。
「……サーニャ」
海の向こう。水平線を眺めるのは、彼の日課になりつつあった。
ビルフレストにより、ラヴィーヌ達の戦死が告げられた。彼が言うのだから、間違いないのだろうと信じている。
けれど、まだ心の整理はついていない。
実は生き延びていて、ひょっこり戻ってくるのではないかという儚い夢を抱いて、スリットは海の向こうに希望を求めている。
「すまない、時間があるとつい海にな。……トリスが、もしかすると戻ってくるかもしれないと思って。
ビルフレスト様が『死んだ』と言った以上、間違いないと頭の中では判っているのに」
サーニャはかける言葉が見つからなかった。
可能性を、完全には否定できなかったからだ。トリスが死んだのは、ビルフレストの策の内である事を。
「そう、ですね……。もはや敵はミスリアだけではありませんから。
スリット様も、十分に気をつけてください」
「ああ、勿論だ」
ミスリアだけではない敵。それは妖精族や魔獣族の事を指しているのか。
それとも、もっと別の何かなのか。口に出した張本人でさえ、はっきりとした答えが出せない曖昧なもの。
「あの、スリット様。あれ……なんでしょうか?」
変わらぬ景色を流し続けていた海面が、変化を示したのはそんな折である。
ゆっくりと、それでいて高い波が立つ。奥に聳え立つのは、巨大な岩。ではなく、巨大な生き物だった。
黝い身体を持つ巨体は、真っ直ぐに近付いてくる。その肩に、一人の男を乗せて。
サーニャとスリットが、それをアルジェントだと認識するまでにそう時間は必要としなかった。
……*
「マジで死ぬかと思った」
治癒魔術を受けながら、アルジェントは大きく息を吐いた。
冷え切った水が喉を通る。五臓六腑に染み入る感覚が、彼に生を実感させた。
「むしろ、よく生きてますね。下手したらそこいらの屍人よりタフですよ」
疑似魔術で身体を撃ち抜かれ、ついでに銃弾にも貫かれ、大量に出血した状態で海水を潜って帰ってきた。
海の中は蒼龍王が造ったという魔導具があるから、ある程度自由は利いたのだろう。
それでも、一日やそこらで戻って来られる距離ではない。彼の執念に感服する他無かった。
「サーニャっちよォ、頑張ったんだからもう少し労わってくれよォ……」
「それはお仕事の結果次第でしょう。鬼族を連れて来たのは驚きましたけど、目的は違ったわけですし」
「わーってるよ……」
アルジェントは今にも崩れそうな瑪瑙の右手で、一枚の札を掴む。
中から現れたのは、大量の鉱石。小人族の老人がかき集めた、魔硬金属の材料に成り得る素材。
「この鉱石、本当に魔硬金属の材料なんですか? 適当に持ち帰ってませんよね?」
「信用ねェな! 小人族が仕分けた鉱石をお持ち帰りしたんだから、信じてくれよ!」
「小人族……?」
クスタリム渓谷から既に小人族は姿を消しているはず。
訝しむサーニャだったが、勢いよく開かれた扉に彼女の思考は中断される。
「アルジェントが戻ってきたのは、本当か!?」
息を切らせながら入ってくるのは、世界再生の民の象徴となる男。
ミスリア第一王子、アルマ・マルテ・ミスリア。
「よッ。オレっちはなんとか生きてるぜ」
「そうか、よかった……」
初めは傷だらけの彼に目を丸くするアルマだったが、軽口を叩く彼を見て表情を和らげた。
「では、聞かせてもらおう。クスタリム渓谷で、何があったかを」
「あら、ビルフレストのダンナもいらしてたのね……」
アルマに軽口を利いた事を後悔しながら、アルジェントは語り始める。
クスタリム渓谷で起きた戦い。その一部始終を。
……*
「そうか、それであの鬼族は……」
「ああ。奴さんはもう鬼族の集落で居場所はねェからな。
ウチならなんか使い道があるだろうと、連れて帰ってきた。許可を取らずに決めたのは、悪いと思ってる」
重症を負った自分が自力で逃げられる可能性が低かったからとは、誇りが邪魔をして言えなかった。
オルゴとしても、アルジェントの言う通り鬼族の元へは居られない。
彼に上手く乗せられたとしても、世界再生の民へ合流する方が自分の為だと判断しての事だ。
「いや、ご苦労だった。特にマーカスが喜んでいる。いい被検体を連れ帰ってくれたとな」
ビルフレスト曰く、ピアリーで研究を進めていた邪神の核から生み出した怪物は鬼族を意識した部分があったという。
黝い身体は、鬼族の中でも特に力の強い者だという証。
研究以外は力の魔術も大したことないマーカスにとって、屈強な存在に憧れていたという事だろうか。
「……ソレがオルゴにとって幸せかどうかは、わかんねェな」
多少なりともオルゴに同情をしつつ、アルジェントはため息を吐いた。
そもそもオルゴは、驚きより戸惑いが勝っていた。彼にとっては矮小な存在である人間に頭を垂れる魔獣や、魔物の姿に。
彼が世界再生の民で地位を築けるかどうかは、これからの働きに掛かっている。
「ところで、この鉱石が魔硬金属の材料なのか?」
ひとつひとつ鉱石を手に取りながら、アルマが興味深そうに覗き込む。
強い魔力を放っているものから、触れると熱を感じるもの。ただの石にしか見えないものまであって、彼の興味を惹きつけていた。
「ああ、それさえあれば魔硬金属が出来るはずだ……です」
見下ろすビルフレストから威圧感を感じ、アルジェントは口に手を当てる。
勿論、彼が正しいと理解している。未来の王がこんなどこぞの馬の骨に軽口を叩かれ、他の人間に良い影響を与える訳がないという事ぐらいは。
「なんだったら、小人族も連れ帰って来てくださいよ」
「無茶言うなよ。オレっちだってそうしたかったけど、邪魔が入ったんだよ」
世界再生の民にとって、ある意味では一番厄介な報告でもあった。
三日月島で戦った者達はまだ分かる。だが、小人族まで彼らと手を組んでいるとは想定外だった。
クスタリム渓谷を訪れたという事は、彼ら手にも魔硬金属が渡ると考えて間違いない。
魔獣族の王がふたつの神器を手にした事も、凶報だった。
下手をすれば魔狼族や鬼族とも手を組んだ可能性がある。
力を蓄える自分達に対して、ミスリアに与する者は着実に勢力を伸ばしていく。
悠長にしている時間は、想像以上に短いかもしれない。
「アルジェント・クリューソス。魔硬金属の件は、よくやった」
「そいつはどうも。お褒め頂き光栄です」
立ち上がり、部屋を後にするビルフレスト。
扉の前で、彼はアルジェントへ問う。低く、重く、冷たい声で。
「時に訊くが。『強欲』は無事なのだろうな?」
自分が問われた訳ではないにも関わらず、サーニャは血の気が引いた。
背中越しで、彼の表情は読めない。それが恐怖心を更に高めていた。
「あァ。完全に消滅させられる前に返したよ。
ダンナも知ってるだろ? オレっちと『強欲』は強く繋がってるの。
オレっちだって能力を失いたくはねェからな。そらもう、必死だったよ」
アルジェントは亀裂の入った右腕を掲げる。
痛々しい姿ではあるが、完全には破壊されていない。
ビルフレストは彼の発言を、言葉どりに受け止めた。
「……そうか。ならば、しばらくは回復に努めるがいい。
鬼族を連れて来たことで、マーカスも機嫌が良いだろうからな」
そう言葉を残すと、ビルレフストは部屋を後にした。
肺に溜まった重苦しい空気を入れ替えるかのように、アルジェントが息を吐く。
「ったく、怖すぎだろ。ダンナはよォ……」
「すまない。以前の戦いで邪神の分体を二体失っているから、ああ言ってしまっただけなんだ。
決してアルジェントを責めているわけではないんだ」
肝を冷やすアルジェント。ビルフレストのフォローを入れるアルマ。
サーニャだけが、考えていた。もしも邪神が消滅していたら、アルジェントはどうなっていたのだろうかと。
……*
夜が更け、濃い魔力も相まって島は闇へと溶けていく。
今日はこれ以上何も起きないと、眠りにつこうとしたサーニャだったが、規則正しく扉を叩く音によって遮られた。
「サーニャ、僕だ」
「……アルマ様」
半ば呆れつつも、サーニャは彼を拒絶しない。
扉を開いては、アルマを部屋へと招き入れる。
「アルマ様。ですから、ワタシを呼んでくれればいいんですよ?
ビルフレスト様に見つかったら、大目玉なんですから……」
「す、すまない……」
ポーズとして注意をするが、サーニャは意味がない事を知っている。
何度言おうとも、アルマは決して彼女の元へ訪れるのを止めようとはしない。
意外だったのは、自分がそれを嫌がっていないという事だった。
彼と話をしているうちに胸がすっと軽くなるのを実感している。
胸中に植えられた疑念の種が芽を出さないのは、アルマのお陰と言っても過言では無かった。
アルマとは様々な話をする間柄になった。
世界再生の民の事は勿論、彼の留学先での話。自分が侍女としてどんな仕事をしていたのかも。
時折、ラインを越えてしまう事がある。貴族に取り入った話なんかは、顔を背けていた。
「君は、本当にすごいんだな」
話していると、彼はよくこの言葉を呟く。
王族である自分とは違い、様々な苦労に耐え忍んだ自分を尊敬しているとまで言う。
恐れ多いとサーニャが返しても、決してアルマは譲らないところまでがセットのやりとり。
段々とサーニャは、アルマが自分の部屋に訪れる理由が判ってきた気がする。
彼は肩肘を張らない時間が欲しいのだ。自身の部屋では成せないからこそ、こうやって訪れるのだと。
ならば、彼が喜ぶ言葉はなんだろうと、サーニャは頭を悩ませる。
侍女として仕え、貴族に弄ばれ、密偵として活動し、祖国を裏切った。
自分もそこそこ、普通とは離れた生活を送ってきたからこそ、正しい答えだと自信を持てない。
こういう時は、自分独りで無理に解決しようとしない事。
そう結論付けたサーニャは、アルマへある提案を行う。
「……アルマ様。明日、アルジェントさんのところへ行きましょうか」
「アルジェントの? どうしてだ?」
若干、アルマは困惑の表情を見せる。
眉間に刻まれた皺を取り除くように、サーニャは指を一本差し出した。
「いえ、暇をしているでしょうから。
あの人が好きな賭博に付き合ってあげましょうよ。
怪我をしている今なら、イカサマも出来ないでしょうし」
悪戯っぽい笑みを浮かべるサーニャを前にして、アルマが眼を見開く。
若干の戸惑いを見せた後、彼はくすりと笑った。
「僕は賭博をやったことないからな……。
きっとイカサマをされても気付かないよ」
「代表的なのは、いくつか教えますよ。アルジェントさんの手癖は悪いですからね。
悪戯をしたら、お仕置きしちゃいましょう!」
「はは。君は怪我人相手でも容赦がないな」
「遊びじゃありませんからね。当然です」
いくつかの賭博と、代表的なイカサマをアルマへ伝えるサーニャ。
知らなかった事をまた知って、少年は顔を綻ばせる。
この瞬間だけは、二人は全てを忘れていた。
不安も、これから待ち受けるであろう過酷な運命も。