252.最後の一射
「――芳醇なる大地から得られし比翼は穢れを祓い、悦びを与え賜う」
妖精王の神弓へ、その先で妖精族を導いてくれている神へ捧げる祝詞。
日課として神へ祈りを捧げているリタでさえ、神事でも無ければ詠み上げる事はない。
妖精族の種としての繁栄と、肥沃な大地が永遠に続くよう祈る言葉。
本来であれば、このような使い方は間違っているのかもしれない。
けれど、リタが最後に縋るものはやはり、長年祈りを捧げて来た神だった。
邪悪な存在を祓いたい。大切なひとを護りたい。
根底に存在するのは、小柄な身体に詰められた目一杯の情愛。
ならば、愛と豊穣の神が彼女へ応えないはずが無かった。
妖精王の神弓を纏う光が、次第に強くなる。
愛と豊穣の神が応えてくれたのだと、リタは祝詞の言葉を紡ぎ続ける。
眼前で『強欲』と対峙するレイバーンは、その身に生傷を増やしていく。
フェリーもそうだ。彼女は治るからと言って、すぐに無茶をしてしまう。
「現世に生きる善き者へ祝福を。悪しき者を幽世にて浄化せん。神の御心は永久に朽ちぬ耀きを――」
本音では今すぐこの指を離したい。渾身の一撃を『強欲』へ放ち、二人の元へ駆け寄りたい。
募る衝動を抑えながら、リタは祈りを捧げ続ける。
妖精王の神弓の矢の刺さった右眼が疼く。
『強欲』の本能が訴える。眼前の敵ではなく、その奥にいる小柄な少女こそが危険だと。
「おっと、先へは行かせぬぞ。リタには指一本触れさせるつもりはないのでな」
遠くを見つめるような視線を察知したレイバーンが、力を込める。
ふたつの神器は模倣によって生み出された紛い物を認めない。
白銀と漆黒の爪によって裂かれる模造品。
不満を露わにする『強欲』の胸に、鬼武王の神爪が突き立てられる。
「このまま一気に――」
『強欲』の身を貫こうと漆黒の爪を押し立てるレイバーンだが、刃は前へ進まない。
レイバーンの左腕を掴むのは、『強欲』の右腕。
腕が動かせない。骨が軋む。『強欲』自身も相当負傷しているにも関わらず、力は一向に衰える気配が無い。
『強欲』の化身たる『強欲』は、欲望の赴くままに行動をする。
「ぐ……」
指の腹が自らの腕へと埋められていく。押す事も引く事も叶わない左腕。
それでもまだ、自分には獣魔王の神爪がある。右腕に装着した白銀の刃を、『強欲』の顔へと突き立てる。
しかし、『強欲』はそれさえも止めて見せた。金銀入り混じった悪趣味な歯が、神器の一撃を受け止める。
「レイバーンさんっ、ちょっと背中借りるね!」
レイバーンの背中を駆け上がり、真紅の刃を構えるのは不老不死の少女。
『強欲』は右手と頭が自由に動かない。残った左腕も、レイバーンとの押し問答で上げる自由は利かない。
「ぐう……っ!?」
だが、邪神の相手は一筋縄で済むはずもない。強力な魔力の塊が炎の形を成し、フェリーとレイバーンを襲う。
模倣によって発言した紅炎の新星が、二人を『強欲』から引き剥がす。
「――――!」
リタは思わず、二人の名を叫びそうになった。
今、祝詞を止めてしまえば全てが無駄になる。為すべき事への責任感が、彼女に悲鳴を踏み留まらせた。
フェリーもリタも、全く怯んでいない。
自分が役目を放棄する事は二人に対する侮辱だと言い聞かせながら、祝詞を詠み続ける。
一刻も早く、この時間が過ぎるようにと願いながら。
……*
妖精族の女王が生み出す眩い光を、アルジェントも当然視界に入れている。
次第に存在感を増していく神弓。危機感を募らせる『強欲』。アルジェント自身が警戒するには十分な要素が揃っている。
接収と模倣が密接な関係を築いているように、邪神の分体である『強欲』と適合者であるアルジェントもまた、同様だった。
自制という言葉を知らない『強欲』。力任せに行動する代償として、適合者であるアルジェントの右腕に負荷が課せられる。
彼らは、他の適合者以上に互いの存在に影響を受けていた。
だからだろうか。ある意味では、『強欲』よりも妖精王の神弓の光に恐怖を覚えたのはアルジェントかもしれない。
遠目でも判る程に強くなっていく光を、止めなくてはならないと本能が訴える。
けれど、自分へ迫る男がそれを許さない。
「しつけェんだよッ! いい加減、うんざりしてきたぜ!」
地面へ突き立てられた凍撃の槍が、氷柱のように聳え立つ。
元々生えている魔力による鍾乳石も相まって、アルジェントにとっては容易に射線を遮られる地形が出来上がっていた。
「なら、貴様らが退け」
隙間を潜って、銃弾を放つシン。弾痕が鍾乳石や氷の矢へ作られる。
アルジェントが射線を遮られるように、シンもその身を隠すには十分な材料が出そろっている。
「テメェに指図される筋合いはねェ!」
接収によって創り出した札は、枚数に上限がある。
記憶さえさせてしまえば、いつ何時でも魔力で創り出せる模倣とは決定的に異なる点でもあった。
攻撃と防御の要を同時に兼ねている右腕を鑑みて、アルジェントが限度目いっぱいまで札を用意する事はない。
戦闘で使えると予め用意していた中では、最後の札。呼び出された鎌が、彼にとって最後の切り札。
死神が手を差し伸べるかの如く。
三日月の形をした刃は伸ばされた柄の向こうでシンを捉える。
「まだ持っているのか!」
眼前の障害物を越え、シンの首を狩らんとする鎌が背後に迫る。
アルジェントが手を引き寄せたのと、シンが頭を屈めたのは同時だった。
三日月型をした刃。その内側で怪しく輝くそれが狩ったのはシンの首ではなく地面へ突き立てられた氷の矢。
掌に伝う硬い感触。鮮血の代わりに飛び散るのは、氷の粒。
初撃で仕留める事こそ叶わなかったが、鎌は状況に適している。
死角攻撃を可能にすると同時に、シンの進行方向を誘導する事が出来る。
今回のように躱されても、追撃が用意だった。
「随分いい反応だがよ!」
柄を回すだけで、先端に伸びる鎌は向きを変える。
刃は切っ先が下を向くと同時に、シンの血を吸うべく最短距離を駆け抜ける。
「――っ!」
咄嗟に大地を蹴るが、離脱よりも鎌の動きの方が速い。
切っ先はシンの太腿へ刺さり、離れる彼の動きに沿って肉を裂いていく。
鎌の先端から滴る鮮血と、声を殺すシンの様子がアルジェントに悦びを与えた。
機動力を削いだ。一足飛びで自分の元へ現れる心配が消えた。
彼が縋るものはもう、銃しか残っていない。それさえも鎌で攻撃を続けていけば、射線は用意に誘導が出来る。
「我慢すんなよ! もっといい声で哭けよなァ!」
水を得た魚の如く、鎌を振るうアルジェント。
鎌に込められた大地の魔術付与が、刃の硬度を増していく。
氷の矢だろうが、鍾乳石だろうが、意に介する事なく鎌は刈り取っていく。
弧を描く軌道が、徹底的にシンを付け狙う。
「中々粘るじゃねェか」
片足が傷付いても避け続けようとするシンに、アルジェントは更なる一手を加える。
高く天へ投げられた札から現れるのは、大量の氷。
『強欲』の模倣へ記憶させる為に封印したものを、今ここで呼び出した。
「さっきの氷か……っ」
凍撃の槍とは違い、大小入り混じった氷塊がシンへ襲い掛かる。
小さな破片まで対処している余裕はない。最小限の動きで、致命傷と成り得る氷塊だけを躱す。
このままでは埒が明かないと考えたシンは、氷塊の上に魔導砲の弾倉を押し当てた。
回転された弾倉は、魔力を吸着していく。
しかし、アルジェントとの間に存在するのは氷の壁。構えた所で、氷の向こうにいる彼へ正確な射撃が行えない。
何より、一度『強欲』の前で同様の充填してみせたからか、アルジェントもシンが氷塊を利用する可能性には気付いていた。
「いくら魔力を込めても、オレっちに撃てなきゃ意味がねェだろ!」
氷塊をまるでバターのように切り裂くのは、魔術付与の施された鎌。
障害物などお構いなしに最短距離を突っ走る凶刃が、またしてもシンへと迫りくる。
斜めに裂かれた氷塊。その上部が自らを支えきれずに滑り落ちる。シンの首が胴体から離れた時を、想像させるかの如く。
滑り落ちた氷の先に居るのは、不敵な笑みを浮かべるアルジェント。図らずとも、射線が通った。
魔導砲の銃口を向けたいシンだが、命を刈り取ろうとする刃がそれを許さない。
シンの首へ伸びようとする殺意の塊へ、魔導砲による一射が放たれる。
まさに切っ先がシンへ届こうとする瞬間。緑色の暴風が鎌を拒絶する。
至近距離故に放ったシン自体も巻き込む風の塊が鮮血を散らせるが、鎌を破壊するには至らない。
「ハハッ! 必死じゃねェか!」
魔術付与により硬化した鎌は、緑色の暴風の一撃を受けても僅かに押し戻されるだけだった。
肩を、身体を同じ分だけ回し直すアルジェント。魔力の充填は間に合わない。今度こそ、彼の首と胴体を斬り分ける。
はずだった。
「――!?」
両腕で鎌を操り、開いた脇腹へ鋭い痛みが突き刺さる。
決して無視できない違和感を前にして、アルジェントは視線を自身の脇腹へと向ける。
そこには決して自分の懐に存在してはいけないものが、ふたつも存在していた。
ひとつは魔導砲とは違う、シンが愛用し続けていた銃。
もうひとつは、自分が玉座の間で使用していたナイフ。銃身に括り付けられたそれが、杭のように自分の身体へと突き刺さる。
「は、はァ――ッ!?!?」
理解が追い付かなかった。どうして武器だけが自分の懐に潜り込んでいるのか。
シンは未だ、自分が手に持つ柄の延長線上に存在している。
その鍵は、黒い銃を絡めている縄が握っていた。
互いが鍾乳石や氷の矢に遮られている間、シンは何もしなかった訳ではない。
魔導砲の砲身から創り出した縄を、銃とナイフへと絡まらせる。
地底湖へ落ちた直後の事である。
オルゴの傍で身を屈めていたシンは、このナイフを回収していた。銃を持っているにも関わず距離を詰めた理由は、ここにあった。
風の魔術付与による攻撃が厄介である以上に、使える状況があるはずだという判断。
それらを縄によってひとつに纏め上げ、自分が移動する方向と逆へ向かってシンは投げた。
まるで鎖分銅の如く。地底湖に存在する鍾乳石を支点に、弧を描いた銃とナイフがアルジェントの意識の外から襲い掛かっていた。
障害物をものともしない鋭い刃と、自爆混じりの緑色の暴風による暴風。
いくつかの要因を重ね合わせ、自分が優位に立っているのだと誤認させる。
たった一度の奇襲を、確実に成功させるために。
「ッ……! こんな方法で……!」
アルジェントは、自分の脇腹に突き刺さるナイフへ抜こうと手を伸ばす。
だが、もう遅い。シンが投げた武器に銃が取り付けられている理由は、ただの重しではない。
絡みついた縄は、当然のように引鉄へ伸びている。
「――ここまでだ」
縄を引くと同時に、引鉄が絞られる。
込められた銃弾が、アルジェントの身体を撃ち抜いた。
……*
ほぼ同時刻。永遠に続くと錯覚しそうになるほど、長い時間祝詞を詠んでいたリタ。
神への祈りが、ようやく終わりを迎えようとしていた。
神の恩恵を受けようとする妖精王の神弓は、彼女の魔力も相まって姿が確認できない程に輝いていた。
自分に対する明確な拒絶を察知した『強欲』が、取り乱す。
「――――!!!」
大剣を、鎌を、偽物の神器を。
あらゆる武器を模倣で生み出しては、力任せに振り回す。
「させぬと言っておるであろう!」
皮膚を、肉を裂かせながら、悪意を受け止めるレイバーン。
フェリーと二人で『強欲』の猛攻を凌いでいたが、フェリーと違い確実にダメージは蓄積されている。
それでも、彼が手を休める理由には成り得ない。後ろには、決して傷つけたくない存在がある。
ふたつの神器は上辺をなぞったに過ぎない模造品を破壊していく。
妖精王の神弓と同様の重圧を感じさせる神爪が、『強欲』は気に入らなかった。
「そうだよ! おとなしく、しといてよね!」
フェリーもまた、リタの元へは行かせまいと必死だった。
灼神を『強欲』の足へ突き立て、精神的外傷を呼び覚ます。
憎悪の籠った顔が自分へ向けられても、霰神で凍らせてしまう。
邪神が痛みを感じているかは判らない。けれど、『強欲』が一歩を踏み出せない状況こそが重要だった。
『強欲』の拳が打ち付けられ、頭が割れる。視界が紅一色に染まろうと、フェリーは怯まない。
「ゼッタイ、ゼッタイ行かせないからっ!」
しつこく食い下がる魔獣族の王と不老不死の少女に、『強欲』は苛立ってばかりだった。
このままでは自分の身が危ういと感じた『強欲』は、模倣によって颶風砕衝を創り出そうとする。
二人を吹き飛ばしてさえみせれば、リタの元へ駆けるのは容易だと気付いたが、それは叶わない。
「――――!」
突如、右腕を通じて痛みが全身に走る。
適合者であるアルジェントとの接続が、急激に弱まりを見せる。
シンが彼の身体を撃ち抜いた瞬間、アルジェントの意識が飛びかけているが故に起きたのは自分の身体への異変だった。
生まれた硬直。千載一遇の好機を、リタは決して見逃さない。
「妖精王の神弓っ! お願いっ!」
指が弦から放れると同時だった。
真っ直ぐに伸びる矢が、悪意の塊を貫く。網膜へ焼き付いたのは、全てを照らす白。
金色の稲妻ですら及ばない速度は、光と呼ぶに相応しい。
悲鳴を上げる間もなく貫かれた『強欲』は、その身をボロボロと崩し始める。
自身の存在を、現世に留めて置けない事の証明だった。