251.最後に縋るものは
次々と降り注ぐ衝撃に、地底湖に張られた氷は割られていく。
氷河を彷彿とさせる無数の氷を前にして、各々が立ち上がる。
「シン、だいじょぶなの!?」
「ああ、大丈夫だ」
再会を喜ぶより先に、不安がフェリーの胸を締め付けた。
透明な氷に伝う赤い雫は彼が負傷した証。彼がどう言おうとも、痩せ我慢にしか聞こえない。
「フェリーこそ、怪我をしただろ」
「あ、あたしは治るから!」
フェリーがシンを心配するのと同様に、シンもまたフェリーを気に掛けていた。
破れた袖が真紅に染め上げられている。大量の出血を伴う大怪我をしたのは明白だった。
「……『強欲』か」
地底湖の向こうで咆哮を上げる怪物を、シンは視界に捉える。
フェリーが負傷している理由も、自分との交戦でアルジェントが『強欲』を顕現させなかった理由も得心がいった。
「レイバーン、それ……」
リタとレイバーンも、同様の会話を交わしていた。
殴られた痕や身体に刻み込まれている傷の事も気になる。
けれどそれ以上に、彼の左腕に取り付けられた漆黒の爪がリタの目を釘付けにした。
妖精王の神弓に永く触れ、誰よりも祈りを捧げて来たと自負する彼女だからこそすぐに気が付いた。
レイバーンが装着している漆黒の爪が発する力は、間違いなく神器によるものだと。
「うむ、鬼族の神器らしい。
どうやら、余を認めてくれたようでな」
「ひとりでふたつの神器を……。そんなこと、あるんだ……」
複数の神器が同じ者を認めたという事実に、リタは目を丸くした。
妖精族は外界との交流が無かったが故に、前例があったかを知る術を彼女は持たない。
けれど、現実として魔獣族の王はふたつの神器を手にしている。
強く優しく、真っ直ぐな心がそうさせたのだろうと、彼を人一倍信用しているリタは納得をした。
レイバーンが獣魔王の神爪だけではなく、鬼武王の神爪を手にしているという事実。
それは単に、オルゴが鬼族の王として相応しくないと証明された事を意味する。
「お、オルゴのダンナ――」
稲妻弾によって貫かれた痛みと痺れを堪えながら、アルジェントはオルゴへ視線を向ける。
威張り散らしていた鬼族の王は、我を失ったかのようにブツブツと呟いている。
「オ、オレ様が……。オレ様が王なんだ。認めねえ、認めねえぞ!!」
わなわなと震えるその様から、他の鬼族にも知られてしまっているのだとアルジェントは察した。
オルゴはアルジェントの言葉へ耳を傾ける事なく、氷の上を走っていく。
一歩踏み出す毎に、霰神によって張られた氷が更に細かくなっていく。
「テメェみたいな犬ッコロが、オレ様たちの王だなんて認められるか!」
「おい、オルゴ! テメェ!」
激昂したオルゴに、アルジェントの声は届かない。
腹を貫かれ、痺れの残る身体。『強欲』も顕現をして大分時間が経っている。
亀裂の入った瑪瑙の右腕が熱を帯び始めていた。
故にアルジェントは、オルゴとの共闘を視野に入れていた。
しかし、肝心のオルゴ自身が暴走してしまっている。
自己本位である事を否定するつもりはないが、あまりにも直情的で短絡的な行動。
先に小人族やシンと比べれば、単細胞と言わざるを得ないと毒づく。
「むっ!」
突進するオルゴに、レイバーンはふたつの神器を構える。
だが、迎撃を試みる彼より先に反応した者がいる。
銃口をオルゴへ向けたシンが、魔導砲の引鉄を引くと同時に走り出す。
放たれるのは風の弾丸。緑色の暴風。
狙うは氷塊の隙間にある水面。水面を捉えた空気の塊は、オルゴの眼前に水飛沫を上げた。
「しゃらくせえ!」
そんなものはお構いなしに、水の壁を突っ切るオルゴ。
足止めにならない事は、シンも承知している。あくまで彼の注意を引く為の囮に過ぎない。
視界を遮った数秒の間にオルゴとの距離を詰めるシン。
水滴を飛ばしながら拓けた視界には、至近距離で身を屈めるシンの姿があった。
離れた位置から攻撃出来るにも関わらず、彼は距離を詰めた。
不可解な行動には意味がある。オルゴを除く全員が、その事を知っていた。
直近で痛い目に遭ったアルジェントが、目を皿にして観察を試みるが叶わない。
リタの放った妖精王の神弓の矢が、アルジェントを狙い撃つ。
咄嗟に右腕で弾くが、リタの矢に魔力は込められていない。
純然たる神器の力そのものが、瑪瑙の右腕に刻まれた亀裂を広げていく。
「こンの……! 『強欲』、リタを殺れ!」
不快感を露わにしながら、アルジェントは『強欲』へ命令を下す。
悪趣味な色をかき集めた邪神の魔の手が、リタへと伸びる。
「そうはさせぬ!」
刹那、レイバーンは一足飛びに氷塊の上を駆ける。
全力を籠めた一歩は、魔力で張り巡らされた氷塊を踏んだ傍から粉々に砕いていく。
「レイバーン!」
「うむ!」
意識の逸れた一瞬。シンが通り過ぎるレイバーンへ魔術付与による縄を絡めていた。
足元へ放たれた金色の稲妻が、オルゴの身体から自由を奪う。手を伸ばしても、シンへは届かない。
「あたしも行く!」
二人の様子を見たフェリーも、後を追うように氷塊の上を駆けていく。
「使えねェな、オイ!」
何の役にも立っていないとアルジェントはオルゴを蔑んだ。
結局、シンがオルゴとの距離を詰めた真意すら判らない。蹲ったオルゴは、何も発さない。
丸まっている鬼族は、氷の上に乗せられた巨大な岩のようだった。
それ以上も、それ以下でもない。価値が見いだせない。だから、特別気に掛けてやる必要すらない。
アルジェントは自分の乗る氷へ右手を翳し、接収を発動させる。
フェリーの霰神によって創られた氷塊は、魔力を宿している。一瞬して氷は全て消え去り、一枚の札へと収められた。
「ぐっ! な、なんなんだ!?」
未だ氷塊の上に乗っていたのは自分自身と、オルゴのみ。
金色の稲妻により身体を痺れさせているオルゴが水の中に沈んでいくが、知った事ではない。
自分には蒼龍王の造った魔導具がある。水中に潜り、アルジェントは機を伺う。
わざわざ砕けた氷を札に収めたのは意味があった。
『強欲』の持つ模倣は、彼が接収にて形状を覚えさせてやらなくてはならない。
模倣に新たなレシピが追加される。地底湖一面に広がった、大量の氷を。
新たな玩具を手に入れた『強欲』は、口が裂ける程に口角を広げた。
魔力によって質量が再現された氷の塊。石ころ程度の大きさから、レイバーンの身体よりも高くそびえる壁の高さまで。
一斉に生み出されたそれらが、シン達へと立ちはだかる。
「ちょ、ちょっと待ってってば!」
襲い掛かる礫を撃ち落とすべく、リタは妖精王の神弓から矢を放つ。
放たれた瞬間に枝分かれをした矢は、小さな礫を撃ち落としていく。
「突然、なんなのだ!?」
「この邪神、なんかイロイロ造るんだよ!」
灼神と霰神を用いて、フェリーが大きな魔力の塊を破壊する。
開けた視界の向こう側に待ち構えているのは、『強欲』。模倣によって創られた大剣を振り上げていた。
視線の先に居るのは、アルジェントによって指名された少女。リタだった。
「そうはさせぬ!」
振り下ろされた大剣を、レイバーンがふたつの神器で受け止める。
身体が沈み、受け止めた腕に巨大な負荷がかかる。それでも彼は、食い止めた。
獣魔王の神爪と鬼武王の神爪が、大剣の勢いを止めていた。
「ぐ……。戦と獣の神よ、それに名も知らぬ鬼族の神よ。
この戦いが終われば、少しは変わるかもしれぬ……。だから、力を貸してくれ……!」
あまりにも不格好な祈り。しかし、本当に大切なものは込められている。
獣魔王の神爪も、鬼武王の神爪もレイバーンを主として認めた。
淡く輝く神器が、悪意によって模された刃を破壊する。
「――――!?!?」
自分の創り出した武器がいともたやすく破壊された事に、『強欲』は少なからず動揺を見せる。
思い通りに行かない事に憤りを感じ、レイバーンへ怒りを露わにする。
その奥で、シンが銃口を向けている事に気付く由もなく。
模倣によって生み出された氷の壁は、形を取り繕っただけに過ぎない魔力の塊。
その板とも壁とも呼べる巨大な破片の表面を、魔導砲の弾倉が走っていた。
魔導石・輪廻は魔力を吸着する。濃度の濃い魔力の塊であれば、その効率は加速度的に上がっていく。
邪神を貫くべく選択した弾丸は、白色の流星。
『強欲』に照準を合わせ、引鉄を引こうとした瞬間だった。
「……ぐっ!?」
魔力で形を模しただけではない。きちんと魔術の体を成した氷の矢が氷柱のように降り注がれる。
アルジェントが札に保管していた凍撃の槍が、解放された証。
絶妙ともいえるタイミングだった。凍撃の槍の直撃こそ避けたが、同時にシンの手元を狂わせる。
白色の流星は僅かに『強欲』を掠めるに留め、洞窟内の壁を破壊する。
「みんな、だいじょぶなの!?」
凍撃の槍が襲ったのはシンだけではない。
密集こそしていないものの、広範囲に降り注がれた氷の矢はフェリーやリタ、レイバーンをも襲い掛かる。
「わ、私は大丈夫!」
「余も、掠りこそしたが気にする程ではない!」
鮮血を滴らせながら強がるレイバーンだったが、彼の眼前には『強欲』がいる。
負傷する者を見て、愉悦の表情を浮かべる『強欲』。悪意の塊は、魔獣族の王へと狙いを定めた。
「ぐう……ッ!」
彼の身を刻むのは、模倣によって複製された偽物の獣魔王の神爪と鬼武王の神爪。
大剣は破壊されてしまった。破壊したあの神爪は、さぞかし強いのだろうと『強欲』が興味を示した事により生み出される。
純粋な性能では神器に劣るが、力任せに繰り出される攻撃は確実にレイバーンの皮膚を裂いていく。
「レイバーンさん! もう、ジャマだよっ!」
援護を必要としているが、氷柱のように突き刺さる凍撃の槍が進路を阻害する。
灼神で蒸発させながら、フェリーは一直線にレイバーンの援護へと向かった。
(そろそろ、行くかァ……)
水中で身を隠していたアルジェントは、突き刺さる氷の矢を隠れ蓑に姿を浮上させる。
『強欲』が暴れているこの状況下であれば、札による奇襲が可能と考えての事だった。
だが、彼も決して自由には動けない。
彼の眼前に放り投げられたのは、栓に包帯の括りつけられた小瓶。
シンはまだ、彼に対して注意を一切切らしてはいなかった。
「だあァァァァッ!? マジかよ!?」
包帯を引かれては眼前で爆発が起きてしまうと、アルジェントは慌てて炸裂の魔剣で包帯を切る。
これで少なくとも、シンの手動による爆発は起きないと思った矢先。
二の矢が彼に襲い掛かる。放たれたのは、光の矢。リタの妖精王の神弓によるものだった。
「次から次へと……!」
身体を捻り、リタの矢をも躱してみせるアルジェント。
彼は見誤っていた。リタの矢が狙っているのは、決して彼自身ではない。
光の矢はシンが投げた小瓶。その先にある、包帯の切れ端を貫く。
「――ッ!」
栓が抜け、小さな火花が起きる。アルジェントの眼前で起きる爆発。
黒い煙が、彼の視界を覆う。経験上、このままではまずいとアルジェントは咄嗟に札を解放した。
中身は颶風砕衝。巻き上がる竜巻によって、自分を覆う煙を吹き飛ばした。
追撃に対処したはずの一手だったが、妖精王の神弓による更なる矢が颶風砕衝へと突き刺さっていく。
この颶風砕衝は、一度使用した魔術を再度札へ収めたもの。
元来の性能で発揮するはずの頂点は過ぎており、追撃で放たれる光の矢が確実に威力を削いでいく。
結果、風の最上級魔術である颶風砕衝は周囲の一部を破壊するに留まった。
竜巻による防御壁が消えた瞬間、シンによる銃弾がアルジェントへ放たれる。
「後は俺に任せてくれ。リタは、フェリーとレイバーンを頼む!」
まだどんな手札を隠し持っているかは判らない。
札による攻撃が仲間を巻き込む事を嫌い、シンはアルジェントとの距離を詰めていく。
当初の予定に変更はない。
フェリーを傷付け、涙を流させたあの男は決して許さない。
「うん、分かった!」
走り出すシンを見送り、リタは『強欲』と戦う二人の援護へ意識を向けた。
『強欲』は、フェリーとレイバーンの二人がかりでもまだ均衡を保っている。
邪神の分体を一撃で破壊するだけの威力を、リタは求められていた。
レイバーンはその皮膚を先、鮮血を散らせる。『強欲』もふたつの神器を警戒しているのか、後一歩は踏み出せていない。
きっとフェリーの援護も邪神へ二の足を踏ませているのだろう。灼神を神器同様に警戒しているようだった。
二人が必死に邪神を抑え、あの場所へ留めてくれている。
悪戯に妖精王の神弓の矢を放つだけでは、きっと意味がない。
リタは自分に出来る事。自分が求められている事を考える。
彼女は決意をした。フェリーとレイバーンを信じた。きっと、この均衡を保ってくれると。
魔力によって張られた弦を引く。妖精王の神弓が、淡く輝く。
大きく息を吐き、リタは語り掛ける。自らが信仰する神、愛と豊穣の神へ。
「慈しみ、我らを導きし大いなる神よ。数多の想いを糧に今一度、奇跡の御力を我に貸し賜え――」
愛と豊穣の神へ祝詞を捧げながらも、リタは瞳に焼き付ける。
禍々しい邪神の姿と、果敢に立ち向かう勇敢な者の姿を。
決着の刻は、もう目の前にまで迫っていた。