25.魔犬と魔導刃
双頭を持つ魔犬によって嚙み砕かれた右手が徐々に感覚を取り戻す。
嚙み千切られていなくて本当に良かったと、フェリーは思う。
噛み千切られたぐらいで自分の再生が止まらない事はシンを通して確認済みだが、失ってしまった腕の分だけ時間が掛かる。
当分の間、片腕。更に魔導刃を飲み込まれてしまえば、この魔犬相手に勝機を見出せそうに無かった。
現に今は左手で魔導刃を握っているが、交互に襲いかかる双頭を上手く捌く事が出来ずにいた。
細かく破れていく皮膚や服が、その不便さを証明している。
噛みついてくる右の頭を躱したと思うと、左の頭から頭突きが飛んで来る。
咄嗟に後ろへ飛んで勢いを殺したが、尻餅を着いてしまった。
「いった……ぁ……っ」
その隙を逃さず、オルトロスの前脚がフックのように襲い掛かってくる。
「なンの……っ!」
脚に交差するよう、フェリーは身体を捻りながら魔導刃を斬り上げる。
カウンターを狙った形だが、オルトロスが既の所で脚の軌道を変える。
結果、魔導刃は魔犬の脚を掠める。
魔犬の毛先を焦がし、臭いが鼻腔を衝く。不快な臭いだった。
かすり傷にも満たないが、野生の直感で危機を察知したオルトロスが一度距離を置く。
その間にフェリーも体勢を立て直し、右手の感触を確かめた。
(よし、治った!)
魔導刃を右手へと持ち替え、重心を下げる。
防戦一方だったが、漸く攻撃に移る事が出来る。
それにあまり位置を押し込まれると、今度は自分の後ろにいるピースや街の人が危険に晒される。
フェリーは爪先で地面を掴むようにして、その力を前へと押し出す。
オルトロスも迎撃を試みるが、魔導刃を警戒してか茜色の刃には触れないようにしている。
対するフェリーもオルトロスの鋭い爪が薄皮を剥いで、血が滲む。
ふたつの頭から覗き込む牙も、既にその恐ろしさは身に刻まれている。
「もう噛まれるのはコリゴリだよ……っ!」
互いが互いの武器に注意を払いながら、攻防が繰り広げられていた。
これが体格差の小さい相手であれば、フェリーは多少の負傷は必要経費として懐に潜り込んだかもしれない。
しかし、自分の身体より一回り以上大きい魔犬に対しては悪手だと判断をした。
万が一あの巨体に遠くへ吹っ飛ばされようものなら、自分の護るべき人が危険に晒される。
それだけは阻止しなくてはならない。フェリーの目的は魔物退治ではないのだから。
あまり得意ではない我慢比べが、フェリーの集中力をじりじりと削っていく。
その様子をピースはじっと見ている事しか出来なかった。
フェリーが尻餅を着いた瞬間に、自分が援護をするべきだったのではないかと後悔する。
身に刻まれた恐怖が、身体を動かそうとしない。
もし下手に手を出して、矛先が自分に向いたら――。
見え隠れする『死』が、ピースの身体を重くした。
――情けない。
頭でそう思っていても、魔導刃を握力が弱まっていくばかりだった。
フェリーは確かに死ぬ事が無い。さっき噛みつかれた傷だってたちまち治ってしまっているようだった。
でも、痛みは感じるはずなのだ。現に彼女は攻撃を受ける度に顔を歪めている。
口では「死なない」と軽口を発しているのに、ちゃんと『痛い』という事は見ているピースにも伝わっている。
それなのに抵抗も躊躇いもなく、自分の命を危険に晒している。
どんな理由があったとしても、自分に同じ事が出来るだろうか?
前世で自分が戦えたのは、あくまで身の安全は保証されているからに過ぎないという事を思い知らされている気分だった。
ピースはフェリーに対して、物悲しさと畏敬の念を抱くことしか出来ない。
「きゃあああああああああああ!」
「!!」
物思いに耽るピースを我に返らせたのは、悲鳴だった。
慌てて声のする方を向くと、離れた位置に居てもらった8人が下級悪魔へと変貌していた。
他の避難民を襲おうと、今まさにその身を宙へ浮かせている。
(くそっ! 何をしているんだ、おれは!)
ピースは予測が当たっていた事より、怒りの感情が先にやってきた。
フェリーが身を挺してやってきた事を、自分が台無しにしようとしている。
情けなさ過ぎてピースは自分に腹が立つ。
若草色の刃を形成し、空を飛ぶ下級悪魔へ風の刃を弾き出す。
ピースは無我夢中で何本もの刃を空に向けて放った。
ある個体は風の刃が直撃し、灰となる。
ある個体は翼を捥がれ、地面へ墜ちる。
乱れる気流で上手く飛ぶ事が出来ず、その身同士をぶつける個体もいた。
自分への怒りをぶつけるかの如く、ピースは下級悪魔を斬り伏せていく。
変貌した下級悪魔は全て片付けた。
「あ、ありがとう!」
「助かったよ坊主!」
避難民はその身を寄せながら、ピースへ賛辞を贈る。
このタイミングで避難民からも魔物が発生すると、最悪の事態に陥るのでピースは手を振りながらもその様子を凝視していた。
どうやら、杞憂のようだったが油断は出来ない。
先刻までの自分なら読みが当たっていた事と、被害を出さなかった事を自画自賛していただろう。
しかし、今は自分の不甲斐無さが慙愧に堪えない。
状況を楽観視せずに避難民から魔物が出ないように注視する事が、今のピースに出来る精一杯だった。
その様子を横目で見ていたフェリーは、口角を上げた。
自己嫌悪に陥るピースとは対照的に、フェリーは「やるじゃん」と彼を賞賛する。
ここに彼を巻き込んだのは自分なのだから。と、自分が罪悪感を抱えていた。
それなのに彼は、自分の頼みを成し遂げてくれた。
だったら自分も応えなくてはならない。
自然とフェリーの身体が軽くなる。
刹那、悲鳴にも聞こえる甲高い声が遠くから鳴り響く。
アメリアが蒼龍王の神剣でもう一体の双頭を持つ魔犬の首を斬り落とした声だった。
仲間の負傷を察知したのか、魔犬の身体が一瞬強張る。
好機と見たフェリーは地面を蹴り上げ、魔導刃でオルトロスを頭から両断しようと試みる。
魔王の眷属は身体を強張らせながらも、断じてそれを許さなかった。憤怒の混じった前脚が、力任せに払われる。
跳んだ事が仇となったフェリーへと直撃し、石畳にその身体を打ち付けられる。
「カ……ハッ」
強制的に肺の空気が全て吐き出され、酸素を失ったフェリーの脳は、活動を一瞬止めてしまう。
彼女の思考が復活する前に、オルトロスはその脚を横たわる彼女へ叩きつけた。
巨体の体重が乗った前脚を何度も、スタンプのように打ち付けられていく。
ピースの位置からでも血が飛び散っているのが容易に判り、彼にその凄惨さと恐怖心を植え付けていく。
フェリーは意識を失っているのだろうか。微かにその身を痙攣させるだけで、魔導刃を握る力が段々と弱まっているように見える。
ピースは血に染まった彼女を直視できない。それでも、先刻の反省から戦闘中に目を逸らすわけにはいかなかった。
気を強く持とうとしたピースだったが、オルトロスと目が合う。「お前はいつでも殺せる」とでも言いたいのか、魔犬の舌なめずりに鳥肌が立った。
「う、うわあああああっ!」
恐怖心から錯乱したピースが、無我夢中で魔導刃から風の刃を繰り出す。
オルトロスは身を丸め、受ける面積を最小限に留める。僅かに傷ついた皮膚から漏れる血が、魔犬の神経を逆撫でした。
明確な殺意の混じった咆哮がピースの身体を震わせる。
――怖い。ここから逃げ出したい。
勝てる見込みもなく、眼前に約束された『死』の使いがいる。
ピースの脳裏に走馬灯が駆け巡る。
前世の事。魔物と戦った事。ウェルカに来た事が凝縮された映像として、ピースの脳を支配する。
すぐ終わりそうな新しい人生に、後悔はしていない。きっとこのまま逃げた方が、後悔する。
走馬灯が逃げ出したいという思考を消し飛ばし、地に足をしっかりと根付かせた。
今までで後悔した事は、親友の異変に気付かなかった事と、勘違いでシンに殴りかかった事ぐらいだ。
ピースの覚悟は決まった。
「……あんた、好き放題してくれたわね」
「!!」
若干の怒気を含んだフェリーの声が聞こえる。
喘鳴を鳴らしながら、膝を突きながらも彼女はその身を起こした。
「カクゴ、して……もらう、からね……」
確かに放たれた殺気にオルトロスが気付くより速く、フェリーの魔導刃が身を屈めていた魔犬の顎を貫く。
凝縮された熱が、魔導刃を通してオルトロスの頭へ伝播していく。
口を開く事も出来ず、オルトロスはもう片方の頭が苦しみの悲鳴を代弁していた。
頭を上下させて振り落とそうとしても、フェリーは決して魔導刃を離さない。
このままでは焼き殺されてしまう。
オルトロスは苦肉の策として今まさに焼かれている自らの首を、噛み千切った。
頭がずるりと落ち、それは瞬く間に炭へと変わっていく。
ふらふらと立ち上がり、身体を真っ赤に染めながらも抵抗を続ける女の姿に魔王の眷属が畏怖の念を抱いた。
呼吸を整えながら、フェリーは自分を睨みつける魔犬を睨み返した。
魔導刃を警戒している事はすぐに判った。
自分はまだ満足に動けない。それがオルトロスに選択を絞らせている事にも。
どちらが先に動くか。茜色の刃は魔王の眷属だろうが、容赦なく焼き尽くす。
もしフェリーに攻撃を仕掛けて、接触する位置に魔導刃を添えられてしまえば?
先刻受けた痛みが、オルトロスを迷わせる。
そして、自らが踏みつけた所為でフェリーとオルトロスはほぼ密着状態にある。
狙いを自分以外に定めようものなら、彼女は迷いなく魔導刃で突く。
その確信がオルトロスにはあった。
互いの命を賭けた硬直状態が続く。
時間が掛かかるのは、フェリーとしては願っての事だった。
自分の身体が回復する時間を稼げる。それに、さっきの遠吠えはきっとシン達だ。
きっとシンなら、こんな魔物は倒しているだろう。自分も負けてはいられない。
ピースにも感謝をしなくてはいけない。
彼が放った風の刃が自分を掠めて、意識を取り戻した。
それから身を護ろうとして屈めてくれたおかげで、頭をひとつ落とせた。
膝が、握力が段々と力を取り戻していくのを感じる。
オルトロス交わした視線は互いに逸らす事無く、時間が進んでいく。
硬直状態を崩さんと先に動いたのはオルトロスだった。
眼前にいる人間は、明らかに傷の治りが早すぎる。
はじめは治癒魔術を使用していると思っていた。
しかし、明らかに彼女は何もしていない。
自分の片割れを焼き尽くした時から、片時も目を逸らさなかった。間違いない。
魔王の眷属である双頭を持つ魔犬が下等生物と見下している人間の事を、正しく把握しているわけではない。
それでも数多の人間を屠ってきた経験から、眼前の人間が異常である事は察した。
それが攻撃への転換期となり、オルトロスは咆哮を上げる。
呼応するように、フェリーは魔導刃を振り上げた。




