248.王の証
鬼族の王は、明らかに動揺している。
仲間が現れたというのに、どうして窮地に陥ったような声を漏らすのか。
レイバーンに、まだオルゴの事情までは汲み取れない。理解が及ばない。
しかし、活路は生まれた。制圧するべきは、王なのだと悟った。
祈りを込めるのは、自らが進行するべき神。戦と獣の神。
昨日まで、その名を知らなかった。リタに指摘されるまで、失礼とさえ思っていなかった。
今でも正しく理解しているとは、胸を張って言えない。
けれども、知りたい。歩み寄りたい。この地で得たものを、皆にも教えたい。
決して俯かない男へ、獣魔王の神爪は力を貸す。
逡巡する鬼族。頑なに援護を拒絶するオルゴ。
それらを尻目に、レイバーンは暗闇の中で身体を深く沈める。
足の指で床を掴み、膨張した大腿が生み出すのは驚異的な瞬発力。
迫りくる空気の壁が、魔獣の接近をオルゴに感知させた。
「くっそ、があぁぁぁぁぁ!」
破れかぶれに突き出した漆黒の爪は、レイバーンの肩を抉り取る。
間違いなく肉を裂いたという感触。しかし、その程度では魔獣族の王は止まらない。
岩のように硬い頭を、オルゴの顔面へと打ち付ける。
短い悲鳴と共に仰け反る身体。流れに身を任せ、レイバーンは彼の身体をそのまま押し倒した。
「余だけではなく、仲間の鬼族まで拒絶をして!
お主は本当に王なのか!? 一体何なら、受け入れるというのだ!?」
馬乗りになったレイバーンの左拳が、オルゴの顔面を捉える。
何もかもを拒絶する鬼族の王の姿に、物悲しさすら覚えた。
「テメェには関係ねぇ! オレ様の上に乗るんじゃねぇ!」
貴様に何が解ると、声を大にして言いたかった。
けれども、決して言う訳には行かない。彼の後ろには、まだ大勢の配下がどうするべきかと立ち尽くしている。
レイバーンを払いのけようとも、偽物の鬼武王の神爪を持った左腕が上がらない。
獣魔王の神爪の刃が突き立てられており、がっちりと抑えつけられている。
ならばと右拳を突き上げても、レイバーンへは届かない。
一方的に殴られ続ける状況に、オルゴのフラストレーションは最高潮に達した。
自分達を束ねるはずの王が、自分達を拒絶してまで単身で戦っている。
力を誇示し、横暴に振舞い、他人を手足のように扱う男がだ。
いつもとは違うちぐはぐなオルゴの姿を前にしても、鬼族は決して彼の元を離れようとしない。
それは決して、彼が鬼族に慕われているからではない。
鬼族は知っているのだ。オルゴが、どういう男なのかを。
彼の命令通りとはいえ、この場を離れたとして。
オルゴは必ず不満を漏らす。心変わりをする。糾弾をする。
そういう男なのだと、鬼族の誰もが知っていた。
だから、鬼族達は離れない。
彼が納得をする絶妙なタイミングを見計らっていた。
絶体絶命の危機に手を貸せば、流石のオルゴも納得をするはずだ。
つまらない打算的な考えが、レイバーンにとって不可思議な状況を生み出していた。
どことなく薄気味悪さを感じつつも、レイバーンは拳を振り下ろす事を止めない。
敵に挟まれている自分からすれば、千載一遇の好機。
拳の骨が軋みながらも。段々と振り上げる腕が重く感じようとも。オルゴの顔面に拳を撃ち続けた。
息巻いていたオルゴも、次第に口数が減っていく。
身動きが取れない状況で次第に腫れ上がっていく顔面とは裏腹に、彼の気力は萎んでいく。
鬼族達にとって、オルゴの命をそむいた事が咎められない絶好の機会が訪れた。
「お前! オルゴ様から離れろ!」
金棒による一振りが、レイバーンの後頭部に打ち付けられる。
暗闇に閉ざされた視界が、ほんの僅かな時間ではあるが真っ白へと変わる。
「ぐうっ……! なんなのだ、突然!?」
鬼族がもう一撃を喰らわそうと再び金棒を振り落とす。
無防備に何度も打たれていいものではないと、レイバーンは左腕で受け止める。
オルゴへの攻撃が、止んだ。
「テメェら……! 余計なことをしやがって!」
助けられたにも関わらず、鬼族の王から飛ぶのは怒号。
鬼族の身体が強張る。まだ早かったのかと、口を噤む。
しかし、鬼族の乱入によってオルゴに余裕が生まれたのは紛れもない事実だった。
彼はレイバーンの左手を引き寄せ、体勢を崩す。
「むっ!」
頭を打たれ目の回るレイバーン。金棒を打ち付けられ、左腕も痺れを残している。
抵抗虚しく、オルゴとレイバーンの身体は上下が入れ替わってしまう。
「お前たちの手助けは、不要だったんだよ!」
お返しだと言わんばかりに、オルゴは偽物の鬼武王の神爪をレイバーンの右腕へと突き立てる。
苦痛に歪むレイバーンだが、追撃は止まない。一発、二発。自分と同じように、彼の右拳が顔面に打ち付けられていく。
確かに状況はオルゴが優位に立った。
けれど、その起点となったのは間違いなく鬼族の助太刀によるもの。
頑なに自分の手柄とし、鬼族は不要だと主張する彼の言動がレイバーンは理解が出来なかった。
「お主、どうして……ぐっ!」
――どうしてそこまで、仲間を認めようとしないのか。
問い質すよりも先に、オルゴの拳が打ち付けられる。
またも呆然と立ち尽くす鬼族に「邪魔」だと言い張るオルゴ。
この状況が健全であるはずもない。
だが、まずは自分の状況を変える事が優先だった。
何か手立てはないかと、左手を床に這わせるレイバーン。
(これは――)
その指先に、ある硬い物が触れた。
暗くて姿は見えない。そっと指先でなぞると、刃の形を成しているようだった。
なんとなく。彼にとっては本当に、なんとなくだった。
自分を呼んでいる気がした。導かれるままにレイバーンはそれを掴む。
驚くほどに軽いそれは、刃が四枚連なっているようだった。まるで、獣魔王の神爪のように。
「おおおぉぉぉぉっ!」
無我夢中で持ち上げた刃を振るった。
オルゴの右腕にひっかき傷を作るが、さして深くはない。
にも関わらず、彼は怯んだ。
そのまま彼の胸へ爪を突き立てる。
力が籠っていないにも関わらず、やはり彼は慄いた。
僅かに身体が浮いた瞬間に、レイバーンはオルゴから抜け出す事に成功をした。
「な、んで……だ……」
「お、お頭? どうしたんですか!?」
よろよろと立ち上がるオルゴ。
今までに見た事のない動揺に、鬼族の仲間さえも狼狽える。
鬼族の王が息を呑んだ理由をこの場に居る全員が察するのは、間も無くの事だった。
同じく立ち上がった魔獣族の王が握っている刃。暗闇に溶け込む、四枚に連なる漆黒の爪。
それは鬼族にとって、王の証。真の鬼武王の神爪。
鬼武王の神爪は100年以上の時を経て、主に相応しい人物と邂逅した。
魔狼族と鬼族が入り混じった存在。異端でありながら、誰よりも優しき心を持った男。
レイバーンこそが、自分が力を貸すに相応しいのだと。
漆黒の爪と白銀の爪は、共鳴するかの如く光り輝く。
暗闇に閉ざされた部屋が、レイバーンを中心に照られされる。
「これは……。神器、なのか?」
漸く、レイバーンは自分が手にとった鬼武王の神爪に気が付いた。
とても軽く、手に馴染む。まるでずっと扱ってきた獣魔王の神爪のように。
一方で、彼は訝しむ。
先刻まで、自分のオルゴと互いの神器がぶつかり合っていたはずではないかと、首を傾げる。
見上げた先に映るオルゴの顔は、血の気が引いていた。
彼の左腕には、今も鬼武王の神爪が装着されている。
ここまで露骨だと、いくらレイバーンでも気がついた。
奇しくも、魔狼族と鬼族は同じだった。
共に贋作の神器を用いて、偽りの王が統治をしていたのだと。
「どうやらお主の反応を見る限り、余の持つ神器は本物のようだな」
それなら、オルゴが頑なに鬼族を寄せ付けようとしなかった理由も判る。
彼は恐れていたのだ。鬼武王の神爪が複数あると知られてしまう状況を。
尤も、オルゴとてまさかレイバーンが継承者だとは夢にも思っていなかった。
あくまで、二振りの鬼武王の神爪が同時に見られてしまうという状況を避けたかったに過ぎない。
オルゴとその父が吐き続けた嘘は、最悪の形で鬼族に知られる事となる。
「な、なにを根拠に……。オメェら、騙されるんじゃねぇぞ!」
声を上擦らせるオルゴ。
相手が神器を持っていようと、数で押し通せばどうにかなるはずだと振り返る。
彼が本当に言葉を失うのは、まさに振り返ってからの事だった。
ふたつの神器によって照らされた光で、鬼族の顔にはっきりとした陰影が映し出されていた。
はっきりと刻まれた皺が表すのは、怒り。止めどなく鬼族の王へ送られる、軽蔑の眼差し。
散々助太刀を拒絶しておきながら、掌を返した事に対してだけではない。
王の証である神器の継承者だと偽っていた怒りの方が、彼らにとってはより大きいものだった。
「な、なんだよ……。あ、あんな犬ッコロの持ってる方が本物だと思ってるのか?
そ、そりゃあんまりじゃないのか……? な、仲間だろ?」
「その仲間を騙していたのは、アンタの方じゃねぇのか?」
オルゴは顔を緩め、おどけて見せるが逆効果だった。
長年に渡って横暴に振舞ってきた代償を、払う時が訪れている。
(ううむ、これは……)
魔狼族の時と同じ状況だと、レイバーンは眉を顰める。
詳しくは分からなくても、鬼族の様子を見るにオルゴは『善き王』ではなかったのだろう。
銀狼や黒狼と違い、先陣を切っている様子もない。
ここからどう名誉を回復させるかは、彼自身が歩んできた道筋でしか示せない。
「ひ、人聞きの悪いことを言うんじゃねぇよ。オレ様は、鬼族を円滑に動かす為にだな……」
「アンタの無茶に付き合わされて、死んだヤツもいるんだぞ!?
戦う時も、コソコソ一人で戦いやがって! 偽物の神器だから、本当は隠れていただけじゃないのか!?」
噴出した不満は留まる事を知らない。
次々とぶつけられる罵倒を前にして、ついにはオルゴが開き直ってしまう。
「っざけんな! この犬ッコロが継承者だったら、どうせテメェらにも神器は扱えなかっただろうが!
オレ様が纏めてやってたんだ! 感謝こそされど、罵倒される謂れはねぇんだよ!
調子に乗るのも大概にしやがれよ、この木偶の坊どもが!」
怒りに身を任せ、漆黒の爪を翳すオルゴ。
彼の視界には、全てが敵となって映っていた。
四面楚歌の状況で自分が生き延びるただひとつの術としては、あまりにも心許ないにも関わらず。
「よさぬか」
同胞であるはずの鬼族へ向けられた凶刃を止めたのは、レイバーンだった。
オルゴの肩を力の限り引き寄せ、払い除ける。情けなく尻餅をついたオルゴが、大量の埃を巻き上げた。
「お主らの事情を全ては知らぬ。だが、同胞に手を上げるなどあってはならぬことだ。恥を知るがいい」
レイバーンは鬼族へ安否を問うと、彼らは小刻みに頷いた。
持っている武器を自分へ向ける様子はない。敵意はないのだと感じると、彼は続ける。
「どうやら、鬼族にとっても神器は王の証のようだな。
鬼族ではない余を王と認めなくても良い。
ただ、お主らさえよければ魔狼族との争いは一旦収めてもらえぬか?
決して余が裁きたい訳ではない。ただ、ふたつの神器に免じて話し合いの場を設けて欲しいのだ」
命令ではなく、頼み。彼の言葉に強制力はない。
不思議な現象だった。偽りの王であるオルゴは威張り散らし、全てを手中に収めようとする。
けれども、王の資質を持つレイバーンは頼み事に留まっている。だが、決して嫌な気はしなかった。
「……わかった。だけど、おれらが言ったところで魔狼族が収まるとは限らねぇぞ?」
「余も共に訴えよう。余が双方の神器を扱えるのは、もしかすると神の導きかもしれぬのでな」
まるでリタのような言い回しだと、レイバーンは一人で笑みを溢していた。
鬼族達は顔を見合わせては、頷く。総意ではないが、神器の継承者を認めた。
「待てよ、テメェら! 犬ッコロに尻尾振るつもりか!?」
ただ独り、裸の王となったオルゴを除いて。
矛先を魔狼族へ変えようと試みるも、もう彼の言葉では誰も動かない。
「尻尾を振るつもりはない。この獣人の言う通り話し合いの場を設けるだけだっての。
第一、ただの鬼族であるアンタに言われる筋合いもねぇだろ?」
ただの鬼族。
その一言が、オルゴへ深い屈辱を刻み込んだ。自分は決して赦されない存在だと、認知した瞬間でもあった。
「ふっ……ざけんなぁ!!」
鬼族の持つ巨大な腕力と、オルゴの持つ魔力。
偽物と言えど、きっちりと魔力を受け止めるに値する器である漆黒の爪。
「むっ!」
「お、おい! アンタ!」
感情に身を任せ、力は暴走する。
このままではこの場に居る者全員が無事では済まないと、レイバーンはオルゴを抑えようとする。
「邪魔、すんじゃねぇぇぇぇぇぇ!」
しかし、オルゴは止まらない。
込められた魔力が、腕力に乗せられて暴発する。
生まれた亀裂は瞬く間に広がり、部屋の崩壊を招いた。
全体重を乗せたレイバーンとオルゴの体重を支えきれず、床が崩落する。
「ぐ、ぬぅ……!」
レイバーンとオルゴは吸い込まれるように落ちていく。
悪意の眠る地下へと。