246.もうひとつの真作が眠る場所
暗闇に閉ざされていた部屋で、埃が舞い上がる。
背中から差し込む光しか光源は存在しない。
(やべぇ!)
この場所はまずい。
影に覆われる中で、オルゴは顔を歪めた。
闇に紛れれば、嗅覚の鋭い魔獣族が有利なだけではない。
隠してあるのだ。自分が扱えないと嘆いた本物の神器が。
常に目の届く所へ置いておけば、自分の元へ訪れる配下が気付いてしまうかもしれない。
風貌や態度に似合わず慎重だった父を見習って、オルゴも鬼武王の神爪を隠す事を選んだ。
どうせ自分に扱えないのだから、いちいち神経を擦り減らす必要もない。
彼が隠し場所に選んだのは、今は誰も使わなくなった部屋。
山のように積み上げられたガラクタの底に、鬼武王の神爪は隠されている。
漆黒の爪が暗闇に紛れ、万が一誰かが訪れたとしても背景の一部と化している。
尤も、あくまで平時での話。
戦闘が起きている現状では、いつガラクタの山が崩されるか判らない。
横暴に振舞ってきた王が独りで後片付けをしようものなら、たちまち不信感を抱かせるだろう。
一刻も早く離脱しなくてはいけない。
そう判断したオルゴが身体を起こし、離脱を試みる。
「つれぬではないか。押し倒したのは、そちらであろう」
だが、この部屋に招き入れられたレイバーンがそれを許さない。
オルゴの右腕を握りつぶすかの如く強く掴んでは、部屋の中へと引きずり込む。
この場所であれば、嗅覚の発達した自分が有利。
鬼族の王を抑えていれば、仲間にとっても有利に働く。
何より、まだ鬼族の王に訊きたい事がある。
レイバーンは決してこの手を、離すつもりはなかった。
「うるせぇ! 気色悪いんだよ、お前!
犬ッコロの顔にオレ様たちみたいな身体しやがって!!」
乱暴に振り回される鬼武王の神爪は、レイバーンの身を裂いた。
胸板、腕、脚、そして鼻。自慢の嗅覚に、血の臭いが混じる。部屋中にも、同じものが充満していく。
レイバーンの鼻はアドバンテージを失っていく。
「さっきから散々言ってくれるが、今なら顔が見えぬであろう。
そこまで邪険に扱う必要はないのではないか!?」
「ふざけんな! テメェみたいな存在が居ること自体、鬼族への冒涜なんだよ!」
闇に乗じて漆黒の爪を振り回すオルゴ。
右腕を掴んだままでは、身体を斬り刻まれてしまうとレイバーンはその手を離す。
しかし、決して逃がしはしない。離した瞬間に、獣魔王の神爪と鬼武王の神爪の爪を絡ませた。
「冒涜だろうと、余は決して忌み子ではない。余は、祝福されて生まれてきたと言い切れるぞ」
父も母も。臣下にだって、生まれてきた事を祝福された。
友人だって大勢いる。こんな見た目をしているのだ、確かに最初は怖がられた経験だってある。
けれど、すぐに打ち解けた。今では、そんな過去さえも笑い話に出来る掛け替えのない存在がいる。
レイバーンは断言できる。自分は幸せな環境で、沢山の愛情に囲まれて生きて来たと。
「余は確かに、混血かもしれぬ。魔狼族と鬼族の血が混じっているのではないかと、思っている。
けれど、それの何が悪いのだ!? 歩み寄ろうとした結果ではないのか!?」
「鬼族が犬ッコロと歩み寄ろうとしたこと自体が、気色悪いから言ってんだよ!」
オルゴはもう、ある程度察していた。
かつての女王の妹。黒狼の末裔であるリュコスによく似た顔立ち。
彼女が懇意にしていた鬼族の男。
あまりにも弱く、同胞にさえ馬鹿にされていた男は、魔狼族との和解を頑なに主張していた。
不審に思ったオルゴの父へ進言をしたのは、男が友人だと思っていた鬼族。
そこで知ったのは、鬼族の男と逢瀬を重ねる魔狼族の女王。
あの日は強い雨だった。クスタリム渓谷も、その豪雨によって多くのものを呑み込んだ。
それ以来、魔狼族は新たな王を掲げた。銀狼は獣魔王の神爪を抱え、女王の仇討ちだと対処して押し寄せる。
尾行していた鬼族が戻ってくる事は無かった。
同様に女王も姿を消した。女王を消すという企みは上手くいったとが、神器までは葬りされなかったのかとオルゴの父は嘆いていた。
しかし、オルゴは気付いてしまった。
幾重もの偶然が重なった結果、この状況が生まれたのだと。
アルジェントによって魔狼族の持つ獣魔王の神爪が偽物だと知らされた。
魔狼族の女王諸共、神器を葬り去れていたのだとほくそ笑んだ。
今度こそ魔狼族を滅ぼし、この地を鬼族が支配すると意気込む。
得体の知れない右腕を持つ男も、目的さえ終えれば干渉する気はないと言っていた。
魔狼族の嘘は暴かれたが、自分は運がいい。吐き続けた嘘を、まだ真実として扱える。
そう思っていたのに、現れた獣人が手にしているのは獣魔王の神爪。
正真正銘、本物の神器。更には狼の顔に巨大な身体。たどり着く答えはひとつしか無い。
「テメェがどう生きてようが、関係ねぇ! ここで死んで、二度とテメェみたいな存在が生まれないようにしてやるよ!」
右拳を握り締め、レイバーンの顔面へと撃ち込む。
レイバーンの顔に刻まれた傷から、生温かい血が噴き出す。
「そうはいかぬのだ! 余は、存在することに意味があるはずだ!」
歯を食い縛り、レイバーンも左手を突き出した。
伸びきったオルゴの右腕を絡みとり、歯を食い縛る。
踵が埋まるほどに、体重を乗せる。全ての重みを、腰で支える。
「う、おおおおおおおおおおっ!」
筋肉の鎧を纏った鬼族を、レイバーンは持ち上げた。
自分の巨体が浮いた事に、オルゴは少なからず動揺する。
闇に覆われた部屋で、レイバーンが力を振り絞ってオルゴを投げ捨てる。
衝撃で立てかけていた棍棒や斧が、ガタガタと崩れ落ちる。
何かが崩れ、散らばる音が聴こえる。
「このヤロウ……!」
オルゴは身体を起こしながら、レイバーンが立っているである方向へ鋭い眼差しを送った。
積み上げられたガラクタの山がクッションとなり、大きなダメージを受けてはいない。
彼に生まれたのは屈辱。鬼族の王たる自分が、自分達の血が混じっているとは言え獣人程度に投げ捨てられたという事実に怒りを感じていた。
「ぶっ殺してやる!」
手あたり次第にガラクタを、棍棒を、斧をレイバーンへと投げつける。
正確な場所は判らない。一方で、レイバーンにとっても不可視の攻撃。
外した時は音が反響する。当たった時は、レイバーンが声を漏らす。
この状況は、少なからずオルゴにとって心地いいものだった。致命傷は与えられないだろうが、鬱憤を晴らすには丁度いい。
戦意を削がれた彼が逃げようものなら、背中から鬼武王の神爪を突き刺してやればいい。
だが、彼が投げているガラクタは徐々に嵩を減らしていく。
最終的にたどり着くのは、漆黒の刃。本物の、鬼武王の神爪。
暗闇で彼の顔が青ざめたのは、びくともしない本物の神器に触れた瞬間だった。
レイバーンからすれば、不自然に止んだ相手の投擲。
状況を変えるのは今しかないと、傷だらけの身体を押して身を屈めた瞬間。
「いたぞ! あの獣人だ!」
背中越しに響くのは、鬼族の声。
一人の鬼族の声を皮切に、ぞくぞくと仲間が集まっていく。
「くっ、挟まれたのか……」
正確な数は判らない。ただ、多数の声が聴こえる。
簡単には突破できそうにないと、レイバーンは歯を食い縛った。
「オルゴ様、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ! こんな犬ッコロ、オレ様だけで十分なんだよ!
テメェらは、他の奴らを始末してこい!」
しかし、レイバーン以上に狼狽えて見せたのはオルゴだった。
何が起きているのだと、レイバーンは訝しむ。
「し、しかし……」
「オレ様の命令が聞けねぇってのか!? いいから、行ってこいってんだ!」
鬼族の大群に、動揺が走る。
確かにオルゴは単独での戦闘を好むが、この状況では自分達が去っていく理由としては薄い。
暗闇に覆われた部屋で、抜けるには自分達を突破しなくてはならない。
全員で襲い掛かれば何でもない状況ではないかと、彼らもまた眉間に皺を寄せていた。
敵に囲まれ、絶体絶命であるはずのレイバーン。
傍目にはそう映るこの状況で、最も窮地に陥っているのはオルゴだった。
彼の手元で沈黙を貫く鬼武王の神爪の存在を、知られてはならない。
オルゴの額から、止めどなく汗が流れ出る。
……*
階段の上で身を屈めながらも、アルジェントは察していた。
相対する男。シン・キーランドがこのまま黙って回復を待ってくれるはずがないと。
まだ痺れる身体を懸命に動かし、アルジェントは一枚の札を取り出す。
彼の予想は当たっていた。銃を持っているとはいえ、頭上を取られてしまっては戦い辛い。
一刻も早く距離を詰めたいシンは、魔導砲に魔力を充填する。
三発の弾丸が、階段に聳える壁へと撃ち込まれる。
選択したのは、灰色の土壁。三本の突起が、突き出た杭のように姿を現す。
シンは魔導砲の砲身から、魔術付与された縄を生み出す。
灰色の土壁の杭へと絡ませると、縄をしようしながら軽快に階段を飛び上がっていく。
最後の杭を足場に跳んだ先は、芋虫のように蹲るアルジェントの頭上。
一瞬にして立場が逆転したアルジェントは、驚嘆の声を上げる。
「はァ!? 軽業師かなんかかよ!?」
アルジェントは咄嗟に札の封印を解き、氷の矢をシンへと撃ち込んだ。
本来なら行動を制限する為に使いたかった凍撃の槍だが、こうも簡単に距離を詰められてしまうと取れる選択肢が少ない。
痺れる身体に鞭を打ちながら、アルジェントはゆっくりと起き上がる。
一方、無理矢理距離を詰めた代償としてシンは自由落下を余儀なくされている。
迫りくる無数の凍撃の槍は壁のようにシンへと襲い掛かる。充填は間に合わない。
咄嗟の判断でシンは魔導砲の銃身を回転させ、弾丸を切り替える。
込められている弾丸は魔導弾だが、切り替える暇はない。
そのまま構え、凍撃の槍へ対抗するべく放つ。
放たれた魔導弾は、凍結弾。
アルジェントの行動を奪う機会があればと思って、装填していたものだった。
間の悪い事に、凍結弾では凍撃の槍を破壊する事は叶わない。
僅かに軌道を逸らす代償として、凍結弾の氷を取り込んだ氷の矢はその硬度と大きさを増していく。
「ッ!」
無理矢理魔術付与された縄を絡ませ、今度は数本の矢を巻き込む。
それから先は間に合わない。眼前に迫った凍撃の槍が、眼前に迫っている。
いくつかの矢が身体へと刺さり、皮膚が凍り付くような痛みに覆われる。
シンは歯を食い縛って耐える。身体が熱を失い、鈍くなっていくのを感じた。
「まだ……だっ!」
止めどなく襲ってくる矢を受け止めるのは、自分の身だけではない。
自分の身体をどれだけ巻き込もうが、構わない。無茶をした以上は、相応の結果を求めている。
シンは魔導砲の弾倉を凍撃の槍の進行方向と交差するように構える。
左腕と砲身から延びる縄を駆使して、急所への直撃だけを避ける。
痛みを堪えると決めた以上、自分の身に打ち付けられる氷には決して苦痛の声を漏らさない。
相手を喜ばせるだけだとシンは理解している。
右手に握られた魔導砲は、突き進んでいく凍撃の槍によって弾倉が回される。
元々、放たれた凍撃の槍は魔力を有している。効率よく魔力を吸着していき、魔導砲への魔力を高めていく。
「なーんか、やらかしてきそうだよなァ」
アルジェントもまた、凍撃の槍による迎撃で安心しきっている訳ではない。
手応えがあるのは確かだが、空中を跳ぶという以上はこの危険性にも気付いていたはずだと訝しむ。
刹那、一瞬にして無数の凍撃の槍は蒸発する。
たちまち水蒸気が辺りを覆い、互いの姿を視界から消した。
「やっぱり、そうなるよなァ!」
ある意味では予想通りだった。
誰もがこの男が鬱陶しいと言って、自分も実感している。
アルジェントは札を取り出し、魔術付与された武器を顕現していく。
シンが放ったの弾丸は、赤色の灼熱。
凍撃の槍の魔力すら利用したそれは、氷の矢を融かしきる程の威力を有していた。
大量の煙に覆われた視界は、着地の瞬間を上手く隠す事が出来た。
アルジェントの位置は記憶している。覆われた視界を突っ切る事に怖れはない。
距離を詰めるまたとない機会だったが、シンの目論見はアルジェントによって潰される。
「こんな煙、邪魔だもんなァ」
アルジェントが取り出したのは、風の魔術付与が施されたナイフ。
ナイフの扱いに長けたサーニャによって、受け渡された者だった。
彼女はシンの面倒くささをよく理解している。ナイフが生み出す風は、あっという間に煙を吹き飛ばしてしまった。
本来であれば、炸裂の魔剣を使ってもいい場面だった。
しかし、まだ痺れの残る身体で確実に当てるには心許ない。
視界を取り戻した事といい、アルジェントはサーニャに心の中で感謝の言葉を贈る。
目論みが外れ、シンは舌打ちをする。
けれど、彼の足は止まらない。自分も凍撃の槍によって傷を負った。
金色の稲妻による痺れが回復されてしまえば、不利になる事は否めない。
鬼族の城の踊り場で、シンは銃を構える。
遠距離での銃撃は、風の魔術付与によっていなされてしまう。
近距離で確実に当てる必要があると判断してのもの。
対するアルジェントは、ナイフを怪しく光らせた。
接収を持つ『強欲』の右腕を駆使すれば、シンの攻撃は防ぎきれる。
仏頂面を歪ませてみたいという欲が、彼に応戦を選択させた。