245.一匹の魔狼と、一人の鬼
初めにレイバーンを見た時、鬼族の王であるオルゴが抱いた感情は侮蔑。
よもや仇敵である魔狼族と、自分達鬼族の特徴を色濃く継いだ存在が居るとは思ってもみなかった。
思い出されるのは、幼少期。
自分の父親が、偽物の鬼武王の神爪を用いて王の座に君臨していた時代。
一人の鬼族が、とある主張をしていた。魔狼族と争うのではなく、手を取り合うべきだと。
身の毛がよだつような提案をした男だった。
……*
男は生来の優しさから、戦闘には向いていなかった。
鬼族の恥さらしだと揶揄されるような存在だった。
王である父が罵倒するものだから、オルゴも男を蔑んでいた。
だが、オルゴの父にとってこの男は使い道があった。
彼は当時の魔狼族の長。獣魔王の神爪の継承者である女王との対話に成功していたのだから。
彼らの馴れ初め。魔狼族と鬼族にとってはいつも通りの場所。
強いて言えば、その日は大雨が降っていたぐらいだろうか。
魔狼族特有の発達した嗅覚が役に立たない。だから、鬼族が戦闘を仕掛けた。
いがみ合う両者が入り乱れる戦場で、傷付いた同胞を懸命に治療する男。
無防備な背中を晒しているにも関わらず、魔狼族の女王は彼の背中に爪を立てる事を躊躇った。
「どうして、刺さない?」
背を向けたままで、男は問う。
自分の存在には気付いているのかと、女王は嘆息した。
「情けを掛けている訳では無い。戦と獣の神は、不意打ちのような卑怯な真似を嫌うだけだ」
「そうか。なら、魔狼族の神に感謝するべきなのかもしれないな」
仲間の治療を終えた男は、女王の顔を見るべく振り返る。
雨を滴らせていても、よく分かる。漆黒の毛と、顔に一本伸びている流星模様の白毛は彼女のトレードマークだ。
戦場を駆け回る一等星は、魔狼族にとっては希望の象徴。
だが、鬼族にとっては、畏怖の対象だった。
男にとってもそれは変わらず、彼はここで命を失う事を覚悟していた。
「悪いが、倒れている同胞は見逃してくれないか?
友人なんだ。彼は気絶している。それとも戦と獣の神は、寝込みを襲うことは認めているのかい?」
それならお手上げだと、彼はおどけて見せる。
仇敵である魔狼族を前にして、この胆力。目を点にしながらも、女王は笑みを溢す。
「……おかしなやつだ」
そっと白銀の爪を地面へ下ろす女王。
命拾いをしたと男が尻餅をつくと、彼女はまた笑みを漏らしていた。
……*
それから男と女王は、時折邂逅を果たしていた。
「鬼族と魔狼族が争う必要なんて、ないじゃないか」
男は元々、争いが好きではない。意味が判らないのだ。
山を手狭にしている訳ではないし、生活も決して困窮はしていない。
悪戯に命を失うだけではないかと、常々考えていた。
「だから、私から和解を持ち掛けろ。そう言いたいのか?」
「そうだよ。鬼族は僕の話に耳を傾けるはずがない。
けれど、君は違うだろう? 魔狼族の女王なら、魔狼族を纏め上げることはできるじゃないか。
そこを皮切りに、鬼族を説得するんだ」
さも名案のように鼻息を荒くする男だが、女王は違う。
呆れるように首を左右に振りながら、男へと反論した。
「魔狼族からの反発は必至だな。最悪、内乱が起きる。
それに、仮に和解の方向で纏まったとしよう。今度は鬼族が増長するのは目に見えている」
「鬼族が?」
「分かりやすく言うと、魔狼族が屈服したと考えるだろうな。
鬼族が魔狼族を蔑むようになるのは目に見えている。そうなれば、また争いだ」
女王は「そうならない為に、私の身柄や神器を寄越せとぐらいは言ってくるかもしれないが」と付け加えた。
同じ鬼族として「それは考えすぎじゃ」と言えないのが、男の辛い所でもあった。
尤も、女王とて鬼族が憎い訳ではない。現にこうやって隠れて鬼族の男と逢瀬を重ねている。
鬼族という集団ではなく、個で見れば分かり合える者はいるのだと彼女は学んだ。
「どうしてもというのなら、お前も鬼族を説得しろ。
私はあくまで魔狼族の女王だ。勝手に鬼族まで纏めさせるな」
「仰る通りで……」
呆れる彼女を前にして、男は頭が上がらない。
男と女王は何度も、何度も話し合った。この不毛な争いを、どうにか終わらせる事は出来ないかと。
その傍らで、いつしか互いに惹かれあっていた。
争いを終わらせたいと願う理由が、また増えた。
尤も、その願いは個の話となる。
鬼族という集団も、魔狼族という集団も彼らの願いに賛同する事は無かった。
そして、彼らが出会った時と以上に激しい雨が降り注ぐ日。
魔狼族の嗅覚と嗅覚がその効力を失う日。男と女王に、今生の別れが訪れた。
……*
「……姉さん? 雨がすごいのに、出かけるの?」
雨で冷える一方、湿度だけが上がっていく洞窟。
その一室で、女王の妹ははっきりとしない眼を擦った。
こんな大雨の日に、外で出ようとしているのだから尋ねるのも無理は無かった。
女王年の離れた妹に頬ずりをしながら、優しく語った。
「少し出てくるだけだ。すぐに戻るさ」
「そう、気を付けてね」
ならば何も心配がないと、妹は再びまどろむ。
一定のリズムで打ち付ける雨音が、彼女を眠りへと誘っていた。
それが姉と、最後に交わした言葉なのだと気付く事は無かった。
女王は雨が好きではない。嗅覚も聴覚も殺され、感覚が大いに鈍る。
気が乗らないにも関わらず、外へと出たのは鬼族の男と会う為。
あの男は雨だろうが雪だろうが、必ず約束を守る。愚直に待ち続けるから、自分も行かざるを得ない。
そんな真っ直ぐなところにも惹かれているのだと、女王自身も自覚している。
だから、地面がぬかるんでいようと、毛が雨水を取り込んでいようと足取りは軽かった。
……*
クスタリム渓谷で、男と女王が逢瀬を重ねている場所。
他に誰も知り得ないはずのその場所に群がっているのは、鬼族。
「どういうことだ……!?」
初めに現れた感情は、驚愕。信じられないと目を見開く女王。
続いて、憤怒が顔を現わした。豪雨に掻き消されながらも、彼女は懸命に叫ぶ。
「貴様ら! どうしてこの場にいる!?」
女王は、決して男を疑ってはいなかった。彼はそんな事をしないと、理解している。
事実、女王の見立ては正しかった。男は、決して同胞に女王との関係を話してはいない。
話しては、いないのだ。
「ちょっと跡を付けさせてもらっただけだ」
一人の鬼族が言う。彼は、男と女王が初めて出逢った時に治療を受けていた鬼族。
死を覚悟していたというのに、まんまと生き延びた。しかも、こんな弱い男に抱えられる形で。
訝しんだ鬼族は、王へと相談した。
雨の日ならば尾行しても気付かれないだろうという指示の下、仲間を連れて決行へ移したのが今日だった。
直前で気付いた男が抵抗を試みても、戦闘能力は圧倒的に劣っている。
何より、心根の優しい彼は同胞を全力で傷付ける事など出来ない。向こうがそうでないと、知っていても。
かつての友人が促すと、仲間の鬼族は男を渓流の中へと放り込む。
慌てて駆け寄る女王は何度も瞬きをする。眼前の光景を、受け入れられなかった。
切り傷、打撲、火傷。明らかに腫れあがった男の身体は、自分の知らないものへと変貌していた。
極めつけは、止めどなく川に溶け込んでいく大量の血液。彼の赤い血が、増水した川で薄まっていく。
「すま――い。きみにめ――をか――、つも――」
喉まで潰されているのか。掠れるような声で、男は懸命に声を出す。
豪雨に掻き消されて、はっきりと声が聴きとれない。それ以上に、無理をしてまで声を出して欲しくなかった。
「もういい! 無理をするな!」
女王の懸命な叫びも、男ははっきりと聞き取れない。
けれど、どちらにしろ同じだった。
彼は悟っている。自分の命はもう尽きようとしていると。
ならば、きちんと伝えなくてはいけないではないか。
心から振り絞った声は、雨音に掻き消されたはずだった。
腫れあがった顔で、視線も女王を捉えてはいないにも関わらず、はっきりと伝わった。
彼と心から理解し合えた、魔狼族の女王にだけは。
――愛している。
男の身体が、力を失う。巨大な身体が、ぐったりと渓流に横たわる。
女王は哭いた。くすんだ空へ、身を凍えさせる雨へ。悪夢のような出来事を、振り払うかのように。
「心配すんな、アンタもすぐに同じ場所へ送ってやるからよ!」
魔狼族の女王を、獣魔王の神爪の継承者を亡き者にせんと襲い掛かる鬼族。
彼らが細切れの肉塊へと変わるまでに、そう時間を必要とはしなかった。
喪失感を振り払うかのように。
怒りを自分以外の場所へ移すかのように。
女王は獣魔王の神爪を振り続けた。
纏わりついた血は、直ぐに雨が洗い流した。
相対する鬼族を殺し尽くした彼女は、肩で息をしながら男の亡骸へと寄る。
「……すまない。お前とあれだけ、語り明かしたというのに」
雨粒と見間違うような、大粒の涙を溢した。
男は何も応えてはくれない。雫が、また渓流へ溶け込んだ。
感情のままに、力を振るった。
神器が自分を見棄てないのが不思議なほど、負の感情に支配されていた。
心の奥に眠る本心が情愛でなければ、きっと神器は女王を見棄てていたであろう。
女王は、哀しみに支配された頭で懸命に考える。
これから、自分はどうするべきなのかを。
怒りの赴くまま、鬼族との戦いへ身を投じるべきか。
男の願いを叶える為に、孤独な戦いを始めるべきか。
どちらもやりたくて、どちらもやりたくない。
立ち尽くす彼女を、運命は待ってくれなかった。
止めどなく振り続ける豪雨で、渓谷の水位が上がっている。
溢れ出た水が、鉄砲のように女王と鬼族達を呑み込んだ。
この日、魔狼族の女王と獣魔王の神爪が魔狼族の元から失われた。
同時に数人の鬼族が姿を消した。この事実は、両者に決定的な溝を生んだ。
真実を知る者は、両者の間には存在しない。
……*
数日後。
クスタリム渓谷で、何度も吠える魔狼の姿があった。
真っ黒な毛並みを持つ、黒狼。彼女へ付きそうのは、古くから付き合いのある銀狼。
「姉さん、居たら返事をして!」
「女王様!」
いくら声を張り上げても、女王の姿は見つからない。
どれだけ匂いを探っても、大雨と洪水によって洗い流されてしまっている。
魔狼族の中では、女王は命を落としたという声が強まっていた。
黒狼も内心では覚悟をしている。彼女を傷付けたのは、女王の生死よりも神器の有無を心配する魔狼族の存在。
彼らはこの期に及んでも、同胞より神器が大切なのだ。隙あらば王の座を射止めんとしている事を隠そうともしない。
「おい、なんかヘンな匂いがするぞ」
信じがたい結果を、黒狼が半ば受け入れようとしていた最中。
普段とは違う匂いを捉えたのは、銀狼だった。
匂いに導かれるまま、二頭の魔狼は渓谷に出来た裂け目を進んでいく。
「ひっ!」
進んだ先居たのは、筋肉質な身体の割に非情に小さい生き物だった。
小人族。かつてこの地に住んでいたが、魔狼族の台頭によって姿を消した種族。
生き残りなのか、逃げ遅れたのか。数名の小人族が、小さな集落を作って営みを続けていた。
「なんだ、小人族か」
つまらなさそうに声を漏らす銀狼だが、初めて見る種族の姿に興味が無い訳ではない。
視線を流しながら、彼らの営みを確かめる。そこで彼が目にしたのは、丹念に造られたナイフ。
到底自分達が扱うような代物では無いが、一目良いものだと判ってしまうだけの魅力が詰め込まれていた。
「このナイフ、お前らが作ったのか?」
「え、ええ。まぁ……」
「そっか。そうか。なら――」
銀狼は黒狼へ提案をする。自分達が王になる為の術を。
銀狼は小人族へ提案をする。いつ戦場になってもおかしくないこの地で、貧弱な小人族が生き延びる為の術を。
……*
頭にもやがかかったように、思考が纏まらない。
非常に気持ちの悪い中、一頭の黒狼は瞼を持ち上げた。
潮の匂いが、鼻腔を擽る。
海岸に打ち上げられた巨体を持ち上げ、べったりと塗りたくられた砂を振り払う。
魔狼は徐に、周囲を見渡す。大切そうに抱えている、白銀の爪が視界に入った。
どうしてこんな場所にいるのか。どうしてこんな物をもっているのか。
彼女はなにひとつ理解していない。
「……ここは? ……私は一体何なんだ?」
かつて女王だった魔狼は、全てを忘れてしまっていた。
呆然と立ち尽くす彼女。どうすればいいのかさえも、分からない。
けれど、身体は正直だった。
漂流し続けた身で下がった体温。鳴りやまぬ腹の虫。
自分は生きようとしているのだと、魔狼は悟った。
「ふ、ふふ……」
笑みを溢しながら、魔狼は歩み始める。
思うがままに西へ放浪する彼女は、行く先々で魔獣と出逢った。
困っている魔獣を白銀の爪で助けてやると、いつの間にかついてくるようになった。
何か思い出しそうになったが、深くは考えなかった。
やがて、自分のお腹が大きくなっている事に気が付いた。
同行している魔獣によると、どうやら子を宿しているらしい。
記憶を失ってからは、身に覚えが無い。
少し不安だったが、とても愛おしいものに思えた。
生まれてきた子は、魔狼ではなく獣人だった。
流石に仲間の魔獣も驚きを隠せなかったが、直ぐに受け入れてくれた。
白銀の爪も、心なしか祝福をしてくれているように思えた。
……*
そして現在。
女王の子孫が、白銀の爪を振るう。
「お主は、魔狼族と戦う以外に選択肢はないのか!?」
「あるわけが、ねぇだろ!」
ぶつかり合う白銀の爪と、漆黒の爪。
神器である獣魔王の神爪と、紛い物である鬼武王の神爪。
漆黒の爪は、交わる度にその刃が欠けていた。
「クソ、がっ!」
毒づくオルゴ。いくら粗暴な鬼族といえど、流石に気付いてしまう。
レイバーンの持つ神器は、正真正銘本物なのだと。
このまま自分の神器が破壊されてしまえば、配下の鬼族にどう思われるか。
偽りの王と知られてしまうのではないかという不安が、脳裏を過る。
「なんで、テメェなんかが神器を持ってやがるんだ!」
右腕でレイバーンの喉を掴み、壁へと叩きつける。
折角、銀狼の持つ神器が偽物だと知ったのに。千載一遇の好機だと思ったのに。
結局、本物が現れてしまっては意味が無い。
怒りのあまり、頭がおかしく鳴りそうだった。
「誰も彼もそう言っておるが、余には知り得ぬことだ!
それよりも、余はお主に訊きたいことがあるのだ!」
「オレ様にはねぇよ!!」
オルゴを振りほどこうと、抵抗を試みるレイバーン。
決して離しはしないと力を込めるオルゴ。
両者の巨大な力に耐え切れなかったのは、二人ではなく壁の方だった。
ガラガラと崩れる瓦礫の向こうには、全く手入れのされていない薄暗い部屋が広がっていた。