24.魔犬と魔導弾
文字通り身を引き裂かれる痛みで、双頭を持つ魔犬は一際大きな悲鳴を街中にへ轟かせる。
残ったもう片方の頭が苦悶と憎悪の入り混じった顔でアメリアを睨み付ける。
――まただ。
シンは再び、違和感を覚えた。
確かに魔犬の首を落としたのはアメリアだが、彼女に怒りを向けるというよりは自分を避けたようにも見える。
思い過ごしだろうか? この状況で感じたモノを、そんな言葉で片付けても良いのだろうか?
アメリアは蒼龍王の神剣にありったけの魔力を注いだ影響で、既に余力は残ってはいなかった。
眼前に迫る魔犬の残る頭を破壊しなくてはならない。
頭では理解しているにも関わらず、身体がその命令に従わない。
このままでは牙を向けるその頭部を避ける事も、受ける事もままならない。
迫ってくるのは明確な殺意……『死』へのカウントダウンのように思えた。
しかし、アメリアの眼前に迫る『死』を否定するかの如くオルトロスの頭が凍り付く。
「あれは……」
シンの凍結弾が魔犬の頭を凍らせる。
口、瞼、鼻の感覚を失いながらも、オルトロスは攻撃の意志を止める事はない。
その巨体を力任せに回転させ、尻尾を振り回す。
「くそっ!」
このままではアメリアに直撃する。
シンは咄嗟に彼女の腕を引き寄せるが、回避するには至らずオルトロスの尾を背中で受ける。
そのまま二人の体は宙を舞い、民家の壁を貫いていった。
「つ……ぅ……」
ガラガラと壁の崩れる音が、閑散とした部屋に響く。
避難をしたのか、もしくは魔物と変貌してしまったのか。
主人が居らず空き家となった民家の一室でシンは身体を起こす。
全身を打ち付け、絶え間なく襲い掛かる痛覚がシンの思考と意識を乱していく。
もしかすると骨の何本かは折れているかもしれない。
一緒に飛ばされたアメリアの様子を確認すると、意識を失っているようだった。
元々、彼女は自分達より遥かに早く戦闘を開始していた。
心身に抱えていた負担は自分達の比ではないだろう。
その緊張の糸が、ここにきて切れてしまったのかもしれない。
敬意を示しつつも意識を失っている彼女に「後は自分が受け持つ」とは言い難かった。
オルトロスが何故自分ではなく、アメリアを狙うかがハッキリしていない。
距離を置いた隙に気絶したアメリアを狙われてはどうしようもない。
かと言って、気絶した彼女を庇いながら応戦出来る相手ではなかった。
シンは砕けた壁の隙間から、オルトロスの様子を確認する。
まだ凍結弾はオルトロスの頭を氷漬けにしていた。
踠きながら氷を割る事を試みる魔犬の姿を見て、まだ少しは猶予があるように思えた。
それならばと、シンはぐったりとしたアメリアを背負う。
いつ魔犬が攻撃を再開するか判らない。
弾き飛ばした先に、いつまでも彼女を置いておくのはいくらなんでも危険だと判断した。
立ち上がった際にシンは、自分の太腿に装備している小鞄が破れている事に気付いた。
足元に弾丸や魔導弾を含む、いくつかの道具が散ってしまう。
その中で焚き付け用に小さく切られた薪が入っている事に気付いた。
ピアリーで購入した、オクの樹から作られた物だった。
それは魔物が忌避する臭いを放つと、村で説明を受けた。実際、野営の際にはかなりの効果を発揮していたように思う。
「……まさか」
オルトロスが自分よりアメリアを優先したのは、この臭いを嫌がったからなのだろうか。
それならば、この薪をアメリアの側に置いておく事で狙いを自分に向ける事が出来るのではないだろうか。
更にこれを手放す事で狙いを変えてくれるのであれば、自分が魔犬との一対一に持ち込める。
まずはアメリアを安全な位置へ移動させ、それを前提とした作戦を考え始める。
満身創痍なのはシンも同じで、恐らくこれが最後の攻防になる。
決して失敗は許されない。
……*
鼻と口を塞がれていたオルトロスは、漸くその氷を砕き終える。
上手く呼吸が出来なかった事もあって、砕くのにかなりの時間を要してしまった。
張り付いた瞼を開き、瞳に破壊された街を映しだす。
視界の許す限りでは、生きている人間の姿は見えない。
封じられていた嗅覚も徐々にその能力を取り戻していく。
鋭い嗅覚を持つが故に、魔犬を苛立たせていたその臭いは微かな物に変わっていた。
恐らく自分の鼻が遮られている間に、その効果が及び辛い場所へ移動をしたのだろう。
事実、アメリアは少し離れた位置でオクの薪と共に寝かされていた。
オルトロスの鼻はオクの樹が放つ不快な臭いではなく、血と汗の混じった臭いを捉えた。
その主は壁の崩れた民家。その先に居る。
オクの臭いが微かに民家に残っている事から、あの男だろう。
先刻よりは大分臭いが抑えられているので、忌避する程ではなかった。
それ以上に強い血生臭さに誘われるように頭を向け、その四肢に大きく力を溜め込む。
膨らませた筋肉を爆発させるが如く、オルトロスは大地を蹴った。
対面するシンもそのまま、魔犬の接近を許すつもりは無い。
凍結弾を放ち、足止めを狙う。
オルトロスは予測していたのか、銃声が鳴ると同時に傷付いた前脚を地面に叩きつけた。
前方へ投げ出された石畳の破片が凍結弾に着弾し、周囲を凍結させる。
シンは舌打ちをした。自らが張った氷の壁を睨む。
流石に凍結弾を使い過ぎた所為で、対策を取られてしまった。
氷の膜越しに見える影へ、風撃弾を放つ。
オルトロスは俊敏な動きで躱し、空気の塊に巻き込まれた氷の膜だけだバラバラになる。
意趣返しでもされているかの如く、オルトロスはシンとの距離を一瞬にて詰めていく。
至近距離から再び放たれた風撃弾が魔犬の巨体を掠めるが、構う事なくシンへと覆い被さる。
「ぐ……っ!」
オルトロスの前脚が、銃を持つシンの右手を押さえ込む。
自らを苦しめた銃口が向けられない事に、魔犬は嘲笑った。
「ぐあぁぁぁ――ッ!」
オルトロスの牙がシンの左肩に突き刺さる。
何度も刺し込まれる牙は、回数を重ねる毎に赤い面積を増やしていく。
決して楽には殺さない。自分を虚仮にした人間へ、己の力を誇示するようにそれは続けられた。
シンは手首だけ動かして、銃を撃つ。
オルトロスの方を向いてすらいない高熱弾は、民家の壁へと突き刺さった。
見当違いの方向へ飛んでいく銃弾。
瀕死の人間が無駄な抵抗をする。
その惨めな様に魔犬は自尊心が満たされていくのを感じた。
――もっと痛ぶってやろう。
――四肢を裂くのも面白い。
――頭は最後だ、悲鳴が聴けなくなる。
思わず舌舐めずりをするオルトロスが、もう一度生き血を味わおうと口を開けた瞬間――。
爆発がオルトロスの巨体を揺らす。
それは魔犬を中心にあらゆる方向から襲い掛かる。
魔力の爆発が自分を巻き込んでいる事はオルトロスにも理解した。
しかし、近くにあの女の臭いはない。
この魔力の主が誰なのか、オルトロスには理解が出来ない。
ただ、拘束が弱まった一瞬でシンの右腕を解放してしまう。
「そのまま動くなよ」
オルトロスの下顎を銃口に突きつけ、稲妻弾を放つ。
ゼロ距離から撃ったせいで自分の身体も痺れるが、承知の上だった。
稲妻弾は脳天を突き抜け、魔犬がぐりんと白眼を剥く。
シンに覆い被さったまま魔力の爆発を浴び続けたオルトロスは、やがて絶命した。
「――終わったか」
爆発が収まった事を確認して、シンはオルトロスの死骸から抜け出した。
自分をすっぽり覆う程の巨体の全体重が乗せられていたので、流石に潰されると思った。
「なんとか上手く行ったな」
シンが部屋中を見渡すと、半透明な結晶が細かく割れて部屋中に転がっている。
爆発の原因となった魔導石の残りカスを見て、大きなため息を吐いた。
魔導弾の先端に埋め込まれている魔導石は、高濃度の魔力が圧縮されている。
雷管の術式を通して本来は魔術を発射する仕組みだが、今回は魔導石のエネルギーだけを利用した。
オクの薪を削った物と一緒に、部屋中に魔導弾を配置する。
魔導弾と並べるようにオクの薪を置いたのは、あくまで仕掛けを壊されず自分に注意を向ける為でもあった。
はっきりとした形でオクの薪を置くと、そもそも魔犬が部屋に入ろうとしない可能性もあった。
仕掛けに気付かれない為の折衷案として削ったオクを使用したのは、半ば賭けでもあった。
部屋に向かって撃ち込まれた高熱弾が、設置された魔導弾を誘爆させていく。
シン自身は稲妻弾でオルトロスの動きを止め、その巨体を盾に爆発から身を守らせてもらった。
欲を言えば、最初の一発も出来るならオルトロス本体を狙いたかった。
それなら大量の魔導弾を誘爆させず、至近距離から仕留める事が出来る。それが理想だった。
高価な魔導弾を惜しみなく使い過ぎてしまい、金額に直すと頭が痛くなる。
普段フェリーの浪費癖に小言を言っておきながら、ありったけの魔導弾を使ってしまった。
尤も、命には代えられないのだからと自分に言い聞かせる事とした。
……*
「目が覚めたか」
「シンさん? ――はっ!
双頭を持つ魔犬は一体!?」
目を覚ましたアメリアは傍に置かれていた蒼龍王の神剣を手に取り、周囲を見渡す。
魔犬の巨体も見当たらなければ、圧し潰されそうな重圧も感じない。
「安心しろ、斃したよ」
「斃した……って……」
返ってきた言葉に眼を見開くアメリアだが、彼が嘘を言っているようには見えない。
それどころかシンの身体はボロボロで、特に左肩は真っ赤な染みで胸まで覆われていた。
どれだけの戦いがあったのだろう、どれぐらい自分は寝ていたのだろう。
己の未熟さを悔むと同時に、それを成し遂げたシンに感嘆せずには居られなかった。
「それより、フォスター卿。身体の方は大丈夫か?」
そう言われてアメリアは、自分の身体を見渡す。あちこち包帯が巻かれている事に気付いた。
肌が露出している部分だけだが、丁寧に傷口を覆っている。
左手の小指は折れているのか、添え木が括り付けられていた。
「一応、応急処置はしておいたが無理はしない方がいい」
「えっ!? あ、ありがとうございます!
何から何までお世話になりっぱなして……」
普段は治癒魔術を使っている所為か、こんな経験をする事は初めてだった。
包帯を巻くシンの姿を想像すると、なんだか顔が赤くなった。
そういえば、先刻も咄嗟の事ではあるが「アメリア」と名前で呼ばれた気もする。
自分の記憶を掘り返しても、親以外の異性に名を呼び捨てにされた記憶が無い。
それは決して嫌な気持ちになった訳ではない。
上手く言語化出来ないが、アメリアは兎に角恥ずかしくなった。
「……フォスター卿?」
「あっ! い、いえ! すみません!
身体は大丈夫です! ありがとうございます!」
「それならいいが……」
シンが顔を訝しめる。
自分は今、どんな顔をしていたのだろう。変だと思われなかっただろうか。と、アメリアは心配をした。
「――それで、俺はフェリー達を追う。
フォスター卿は残っている人を避難させて欲しい。
俺じゃ、魔物になる瞬間が判らない」
「えっ……」
アメリアは耳を疑った。
この青年はまだ戦う意思を見せている。
これだけボロボロになって、動くのもやっとのはずなのは誰の目から見ても明らかなのに。
「む、無茶ですよ!」
「……まだ終わっていないんだ。
同じように双頭を持つ魔犬やそれに近い魔物が居るなら、援護をしてやらないといけない」
双頭を持つ魔犬の出現時に感じた重圧は、ここだけではなかった。
きっと、フェリー達も交戦しているに違いない。
自分はフェリーの決断を肯定した。だから、その想いを最大限尊重する。
シンの瞳は真っ直ぐにアメリアを見つめる。
「〜〜〜〜っ!!」
きっと自分が何を言ってもこの男性は止まらない。
短い付き合いだが、アメリアにもそれぐらいは判る。
「……わかりました。
その代わり、絶対死なないでください」
「それは約束するよ」
シンは「フェリーを殺す約束もしているしな」と、自嘲気味に呟いた。
アメリアには聞こえていないが、それはシンにとって何よりも重い約束だった。