238.感じたもの、見つけたもの
獣魔王の神爪へ群がる魔狼達。
とうに全員が試したというのに、魔狼族が諦める気配はない。
戦と獣の神へ祈りを捧げ、手に取る者もいる。だが、その祈りはひどく独善的なもの。
自分が魔導族を導いてやるといった志の大半は、支配欲から来ているものだと見ているだけのリタでさえ判る。
神器を扱う事に、必ずしも滅私奉公が求められる訳ではない。
かの魔術大国ミスリアでさえ、貴族の覇権争いに使われていたのだから。
結局のところは神器が、更に言えばその奥に存在する神が持ち主として相応しいと認めるかどうかなのだ。
万が一、魔狼が扱えるとすれば現在の継承者よりも魅力的に映る存在が獣魔王の神爪の前に現れた時だけ。
手前味噌ながら、そんな者は存在しないとリタは確信している。
彼は祈りを捧げる神の存在すら知らないが、心根の優しい偉丈夫だ。神器が浮気など、するはずもない。
そう確信しているからこそ、リタはこの提案を魔狼族へ行っているのだから。
(とはいえ、いくらなんでも長すぎるよ……)
正直、リタは焦れていた。何度ため息を吐いたか判らない。
いつの間にかいなくなっている黒狼の事を気にしている余裕すらない。
一向に終わらない神器への挑戦は、着実にリタにフラストレーションを蓄積していた。
砕かれた岩盤の山は、ギルレッグ独りで撤去するには骨が折れる。
早く自分も、救出へ向かいたい。皆は無事でいてくれているだろうか。
眉に刻まれる皺の数が、時間を追うごとに増えていく。
いっそ、自分もこの場を離れるべきではないか。
これだけ神器に執着していれば、逆に獣魔王の神爪は梃子でも動かないのではないか。
そう考え始めた矢先、聞きなれた少女の声がリタの鼓膜を揺らす。
「リタちゃん!」
フェリーの声を聴き、リタの顔が一瞬ぱあっと明るくなる。
無事に救けられたのだと、声のする方へ顔を向けるリタ。視線の先には、満面の笑みを見せるフェリー。
「フェリーちゃ……」
だが、フェリーは笑顔とは裏腹に身体の至る所を血で赤黒く染めていた。
美しい金色の髪や白い肌が血と土埃に塗れ、服はあちこちが破けている。
彼女の体質故に、傷ひとつ見当たらないのが余計にその汚れを際立たせていた。
「だ、大丈夫なの!?」
「服はボロボロだけど、あたしはだいじょぶ。けど、シンとレイバーンさんが……」
「俺も問題ない。掠り傷だ」
隣に居るシンは、フェリーよりも汚れてはいない。
けれど、肩から背中に掛けては真っ赤に染まっている。なんでも後頭部を切ってしまったらしい。
他には岩盤に挟まれていた脚が痣となり、手の皮がいくらか剥けているようだ。
掠り傷とは思えなかったが、本人は頑なに痛みを訴えなかった。
「そ、それで……。レイバーンはどうしたの……?」
問題は、この場に居ないレイバーン。
何かあったのではないかと、恐る恐るリタが尋ねる。
「レイバーンは、俺を庇って――」
「お、大怪我しちゃったの!?」
それならば、この場に居ないのも納得できる。
急いで地底湖へ向かわなければ。神器の継承者争いに構っている場合ではない。
「いや、大怪我をした訳ではない。大分負担を掛けてしまったが……」
「だ、だったらどうしてここに居ないの!?」
募る心配とは裏腹に姿を現さないレイバーンへ、リタはやきもきしていた。
先の戦闘で拳が砕けたのも知っている。治癒魔術が必要なはずなのに。
シンとフェリーの顔を何度も見返し、理由の説明を求める。
「あのね。レイバーンさんは、ギルレッグさんにお呼ばれしたの」
「ギルレッグさんに?」
「ああ、ギルレッグが二人で話をしたいと言って呼び止めた」
リタはきゅっと口を閉じる。それはそれで、彼女にとっては心配の種となる。
魔狼族が小人族をこの地から追いやったと憤慨するギルレッグを、彼女はこの眼で見ている。
顔を合わせたくないと言ったのも知っている。思うところがあったのかもしれないけれど、やはり不安を拭い去る事は出来ない。
「大丈夫かなぁ……?」
「心配しなくていい。レイバーンが善い奴だって一番知っているのは、リタだろう」
そうだ。自分は誰よりも知っている。
少し惚けた所もあるけれど、彼はいつも優しいひと。傷付いた人の事を考えられるひと。
小人族の件だって、きっとレイバーン自身も傷付いたのにまずは他人の心配をしていた。
シンとフェリーの話では、ギルレッグがレイバーンを呼び止めたという。なら、きっとレイバーンは彼に寄り添ってくれるに違いない。
「……うん、そうだね」
だとすれば、レイバーンを信じよう。
リタは力強く頷いた。
レイバーンが独り、この場に現れたのはそれから少ししての事だった。
……*
枝分かれした洞窟内部。その一部屋で、銀狼は横たわっていた。
リタの治癒魔術によって峠を越えた彼の元へ現れたのは、漆黒の体毛に覆われた魔狼。
「具合はどうだ?」
「いいわけがないだろう」
リュコスの問いは彼を苛立たせるものだった。
大きな声を出しては傷に響く。弱り切った身体でヴォルクが懸命に絞り出したのは、獲物を狩るかのような鋭い眼光だった。
彼にとって、今日は過去最悪の日と言っても差支えが無い。
偽物の獣魔王の神爪を用いて座っていたのは、仮初の玉座だったと知られてしまった。
意識が朦朧とする中で、同胞の怒りと軽蔑の怒号が頭に響いているのは記憶に新しい。
ヴォルクを苛立たせるものはそれだけではない。
瑪瑙の模様を象った、気味の悪い右腕を持つ男。
たかが人間に良い様にあしらわれたのは屈辱の極みでしかない。
加えて、瀕死の自分を救ったのは妖精族。
自分の命の灯を紡いだのは、魔狼族ではなく赤の他人だった。
ヴォルクは自分が魔獣の始祖から連なる一族である事に誇りを持っていた。
その高貴たる存在が、脆弱な種族に尊厳の総てを破壊された。
肉体は一命を取り留めたが、精神は殺されたも同然だと考えている。
何度も舌を鳴らしているのが、その証拠だった。
「そうか。だがな、私は良かったと思うよ」
苛立ちを募らせる銀狼とは対照的に、安堵の表情を見せる黒狼。
今までの彼からは、到底考えられない表情。誉れ高き魔狼族が蹂躙されて、何が良かったというのか。
自らの傷も省みずに銀狼は、腑抜けな相棒に怒号を浴びせる。
「こんなに好き勝手されて『良かった』だと!?
お前は、何を言っているんだ! どれだけ苦労して、ここまでやってきたと思ってるんだ!?」
狭い部屋に反響する銀狼の声。途中、顔を歪めたが決して弱音を吐かない。
そう、彼は弱音を吐かないのだ。こうしている今でも強がり、他者の上に立とうとする。
「私が『良かった』と言ったのは、ヴォルク。お前が生きていることだよ。
生きていてくれて。妖精族の女王が治療をしてくれて本当に良かった」
魔狼族は、たとえ戦場で仲間が命を落としても省みる事はない。
ギルレッグへ語ったように、弱肉強食の世界がそうさせるのなら弱い事は罪なのだから。
銀狼も、黒狼も。他の魔狼族も当たり前のように、受け入れている不変の理。
けれど、本当は違った。正しい意味で理解をしていなかっただけだった。
銀狼の命が消えようとした時に、黒狼はそれを知った。
弱肉強食が真実だとしても、辛い事や悲しい事はある。避けたいと、思ってしまう。
ずっと秘密を共有してきただけではない。幼少期から共に育って来たからこそ、ヴォルクを失いたくはなかった。
突如現れた、この来訪者達もそうなのだろう。
この場で他人の大切な存在を護れるのは自分だけだと知っているから、妖精族の女王は出来る事を精一杯やった。
自分の為ではなく、他人の為に。
月並みだが、リュコスは自分の知らない価値観に感化された。
そして、それが悪いものではないと知った。
だから、今なら小人族の王が怒りを露わにした理由も判る。
互いが当事者ではなくても、彼にとっては大切な事だった。小馬鹿にしていいものでは、無かった。
「……んだよ、それ。オレ様が生きていても魔狼族が収まるわけじゃねぇんだぞ?
むしろ、今までのツケを払う時が来たんだ。どうしたらいいのか、オレ様はおちおち寝てもられねぇ」
彼の言葉は、魔狼族の掟に於いては正しかった。
偽りの玉座に座り続けていた代償を払う時が来た。自分だけではなく、何代も遡って糾弾されるだろう。
そうなると、共犯者である黒狼も無事では済まない。ひょっとすると、自分より酷いかもしれない。
あまりにもレイバーンとリュコスの顔が似ているから。そして、あまりにもレイバーンは鬼族の体格に似ているから。
「そのことだがな。我々も変わるべきではないのか?
神器が選んだのは、魔狼族ではないのだから」
自分達の身の安全を確保する為という理由も、勿論ある。
一方で、黒狼はずっと考えていた。
どうして獣魔王の神爪は、混ざり者を主に選んだのか。
意味を求めた時、自然とその回答へと辿り着いていた。
「……正気か、リュコス?」
リュコスの言わんとしている事を察したヴォルクは、目を顰める。
冗談ではないと、本心では思っている。純血の自分達が、混ざり者の軍門へ下るなど誇りが許さない。
「正気かどうかは判らないが、本気だ。
私たちが糾弾を避けつつ、魔狼族を纏める方法があるとすればこれしか思いつかなかった」
リュコスは自嘲気味に微笑んでみせる。
純血が絶対の存在ではないという前例を作る事に、リュコス自身も抵抗はある。
だが、あの獣人は自分達を決して悪いようにはしないだろうという確信もあった。
彼の下になら、自分は就いてもいいとリュコスは考える。
「……どっちにしろ地獄だな、こりゃ」
受け入れ難い事実を呑み込むか、同胞からの憎しみを一身に受け取るか。
究極ともいえる二択を前にしたヴォルクは、大きく息を吐いた。
納得がいかないと言った様子で、ヴォルクは天井を見上げる。
いつもと変わらない景色のはずが、なんだか違うものに見えてしまった。
……*
地底湖に独りで残り続けている男。
小人族の王、ギルレッグは汗を流していた。
レイバーンからは「皆の元へ戻らなくてはいいのか?」と訊かれたが、ギルレッグは首を横に振る。
自分にはまだ仕事が残っていると言って、この地に残る事を選択した。
まずは、命を落とした同胞を弔う。
彼らが使っていたであろう槌を、小人王の神槌で叩いていく。
炎と鍛冶の神の加護により、熱を持った小人王の神槌がどんどんと槌の形を変えていく。
「いくらかは、使わせてもらう。悪いな、ご先祖様」
自分にはまだ仲間が居る。救わなくてはならない、同胞がいる。
一緒に戦ってくれという願いを込めて、小人族の槌は一部を残してギルレッグの元で何物でもない姿へと回帰した。
残った一部は、慰霊碑として彫った岩の傍へと添えていく。
魔狼族が入り込めないであろう、小さな隙間へそっと隠すように設置する。
これだけでは不憫だからと、アルフヘイムの森で同様の物を置かせてもらおうと考えていた。
「さて、と。次はこっちか……」
続けてギルレッグは、偽物の獣魔王の神爪へ手を伸ばす。
銀狼の血がこびり付いた白銀の刃は、相当な時間が経ったにも関わらず美しさを保っていた。
「改めてみると、コイツはすげぇな……。
あのクソ狼ども、これの凄さが判らねぇってどういう眼してんだ?
全然神器にも負けてねぇぞ」
輝きも、鋭さも神器と比較して遜色ないと言える程に素晴らしい物。
熱処理も完璧で、硬さとしなやかさを相当高い力量で両立させている事が窺える。
小人王の神槌を使ったとしても、これだけの武器が生み出せるだろうかと考えてしまうほどの物。
まさしく逸品というに相応しい。
神器ではないからといって、ガラクタのように棄てて良いものではなかった。
同時にギルレッグは嬉しく思った。小人族は、自分の造る物に対する誇りはいつの時代だって同じなのだと。
「形も一切歪んでねぇな……」
相当な年月を、魔狼と共に過ごしてきただろう。
幾度となく、強力な魔力に晒されてきただろう。
けれど、ここにある獣魔王の神爪は新品同様だ。
惚れ惚れとしながら、手触りや加工を調べていくギルレッグ。
そこで彼は、ある疑問を抱いた。素材は、一体何で出来ているのかと。
現在の小人族の里で採れる鉱石では、間違いなく生み出せない。
ミスリルを使ったとしても、経年劣化には耐えられないだろう。ましてや、魔力を浴びせ続ければその年月は更に縮まる。
この地で造れる、これだけの強度を誇った金属。
それを求めているから、そう思い込みたいのかもしれない。
何度考えても答えは同じだった。
「まさか、こいつに使われている金属が魔硬金属か……?」
偽物の獣魔王の神爪に使われているであろう金属の名を、ギルレッグぽつりと呟いた。
思わぬ形で出逢った魔硬金属は、追い求める小人族の姿を鏡のように映していた。