236.暗闇で中で、吐露するもの
「くそ……っ! 持てねえ!」
「次はおれだ!」
レイバーンの持つ神器、獣魔王の神爪へ群がる魔狼の群れ。
白銀に輝く四枚の爪は、梃子でも動かない。自身が認めた者以外に扱われる事を拒絶する。
リタが提案した魔狼族の王を決める方法。
偽物の獣魔王の神爪を目の当たりにしていた直後であるだけに、魔狼族は警戒をしていた。
先刻とは違い、誰一人として神器を手にする事は出来ない。
我こそはと参戦していくが、玉砕するまでに数十秒。獣魔王の神爪は、魔狼族を一切受け入れようとはしなかった。
それもそのはず。既に継承者は決まっている。
魔獣族の王、レイバーン。神器が認めた男は、既に存在しているのだから。
「おい、妖精族。本当にこれは神器なんだろうな?
ただの重しだったら承知しねぇぞ?」
継承者が見つからない状況に、既に挑戦済みの魔狼が文句を垂れる。
ここまでは予想通り。そろそろ、誰も持てないから文句を言う頃だろうと感じていた。
「自分が扱えないからって、責任転嫁は良くないよ。
ほら、扱おうとしていない私は持てるんだから」
そう言って魔狼族に割り込んで見せると、リタは獣魔王の神爪をひょいと持ち上げる。
リタに獣魔王の神爪を自分の力にしようという野心はない。故に、彼女にとってはただの荷物と同様だった。
「魔狼族がみんな、私より力が無いっていうなら話は別だけど……」
頬に手を当て、挑発まがいにリタは言ってのける。
小柄な妖精族の少女。その貧相な腕より力がないとは口が裂けても言えない。
魔狼族はこれが神器である事を認めざるを得ない。
まだ挑戦していない魔狼も、挑戦済みの魔狼も獣魔王の神爪を取り囲む。
長となる千載一遇の好機を、諦めきれずにいた。
「魔狼族の信仰している神様がいるなら、祈っておいた方がいいよ。
神器は、そういう所をきちんと見ているからね」
地底湖で見せた妖精王の神弓も、そうやって力を発揮したのだと言うと効果は覿面だった。
魔狼族は皆、次々と同じ神の名を口にし始める。
「戦と獣の神……! おれにこそ、神器を!」
戦と獣の神。それが魔獣全般の信仰すべき神の名らしい。
黒狼の様子を見る限り、獣魔王の神爪が祈りを捧げるべき神である事にも間違いないだろう。
「……貴様、どういうつもりだ?」
当然ながら神へ祈りを捧げても、結果は変わらない。
いつまでも続ける茶番に、黒狼は眉を顰めた。
「あの混ざり者が継承者だから、我々の王だと認めさせる算段か?
純血ならいざ知らず、混血など……」
「そういうのじゃないよ。ただ、レイバーンは自分のご先祖様に会いたかっただけ。
その末裔が命を落としちゃったら、きっと傷付くと思ったから。
私には治療をさせてもらう方法がこれしか思いつかなかったの。
別にレイバーンを王として扱ってもらいたいわけじゃないし、きっとレイバーンも求めてないよ」
「……それだけ、なのか?」
リュコスは俄かには信じ難かった。
そんな事をしても、この妖精族には何の得もない。
だが、現に彼女は銀狼を治療してみせた。何も見返りを、求めずに。
「そりゃあ、私も素直にヴォルクを治療させてもらえたら提案しなかったよ。
獣魔王の神爪はレイバーンのものだし」
リュコスはそれ以上、何も言えなかった。
逢ったばかりの。自身には縁も所縁もない魔狼の為に動いてくれた彼女へ、これ以上何かを問うのは失礼だと感じたからだった。
「ただね、おかげで獣魔王の神爪から目を離せないんだけどね」
その一点について、リタは明らかに不機嫌そうな声を漏らした。
本当なら自分もレイバーン達を救出しないといけないのに。もどかしさが、息苦しさを生み出す。
下唇を噛み、不安な顔を見られないように振舞うリタ。
銀狼の恩人に出来る事は何かと考えた時。黒狼は自然とこの場から離れて行く事を選択した。
自分に王となる資格はないと、認めた瞬間だった。
……*
サラサラと砂の零れる音で、シンは意識を取り戻す。
暗闇の世界から脱却するべく瞼を持ち上げたが、その先に移るのも黒一色。
身体を動かそうにも、足が何かに挟まっている。そっと手を伸ばすと、固くて冷たい感触が掌の温度を奪っていった。
(そうだ、俺は……)
シンはまだ回り切らない頭から、必死に記憶を掘り起こした。
自分達は邪神の適合者達と交戦をしていた。
邪神の分体を相手取っていたレイバーン諸共、崩れた岩盤の下へ生き埋めになったのだと。
叩きつけられた際に頭を打ち、意識を飛ばしてしまったようだ。
足は崩れた岩に挟まれてしまったようだが、上半身は比較的動かす事が出来る。
何故かという問いを漏らす前に答えを提供したのは、良く知る男の声だった。
「シン、起きたか。血の臭いがしているからな、心配したぞ」
頭上から空間に響く様に流れるのは、レイバーンの声。
心配と安堵の入り混じった、優しい声色だった。
彼の言った「血の臭い」という言葉に反応して、シンはそっと後頭部に触れた。
頭を打った際に恐らく切ったのだろう。固まった自らの血が、髪に張り付いていた。
浅い傷だったのか、既に血が止まっているのが幸いだった。
同時にシンは、自分の周囲にある空洞の存在に疑問を持った。
岩盤が崩れて来たのなら、レイバーンと一緒に圧し潰されていてもおかしくはない。
上半身だけとはいえ、身体を動かす余裕があるとは考え辛い。
「レイバーン。お前、まさか……」
頭上から聞こえる声。傍に居るのに、存在している空洞。
何が起きたかを察するのに、時間は必要なかった。
「なに、余はこう見ても力には自信がある。気にするでない」
彼の顔から滴る汗が、シンへと垂れる。
間違いない。彼はずっと、崩れた岩盤から自分を護ってくれていたのだ。気を失った自分が、潰されないように。
どれだけの時間、どれほどの重みに耐えてくれていたのだろうか。訊いたとしても、笑って誤魔化されそうだった。
「待ってろ。今、なんとかする」
このままではレイバーンが力尽きるかもしれない。
シンは手探りで、自らの近くに転がっているであろう魔導砲を求める。
途中、自分の指や腕の皮がめくれている事に気付いたがどうでもよかった。今は、レイバーンの負担を軽減する事が重要だ。
岩に挟まっていた魔導砲を慎重に引き抜き、魔力を充填する。
地面を創り出す魔導砲の弾。灰色の土壁を細かく撃ち、手で感触を確かめながら慎重に積み上げていく。
やがて、ほんの隙間ではあるが生まれた空間がレイバーンの背中を岩石から解放した。
「おお、シン。助かったぞ」
真っ暗で顔は見えないが、どんな笑顔をしているかは想像に難くない。
いつものような明るい笑顔を、彼は見せてくれているのだろう。
「それはこっちの台詞だ。ありがとう、助かった」
とはいえ、状況はなにひとつとして改善していない。
あくまでレイバーンを重みから解放しただけで、彼は四つん這いの状態を強いられている。
シンもレイバーンのお陰で比較的上半身は動かせるが、足は挟まったままだ。
灰色の土壁を乱発して、バランスが崩れてしまう事を憂慮した結果、無茶は出来ないと判断した。
「……問題は、ここからどうするかだな」
「魔導砲で、思い切り吹き飛ばしてはまずいのか?」
「無理だ、反動で俺たちも無事で済まない。それに、射線上に誰がいるかもわからないんだ」
「そうか……」
確かに魔力を最大限充填すれば、この岩盤を吹き飛ばす事は可能だ。
ただ、この狭い空間でそれだけの魔力を吐き出せば自分達が無事では済まない。
付け加えるならば、射線上の誰かを巻き込む可能性も高い。
最悪、『強欲』の男に魔導砲の一撃を札へ封じ込められてしまう事を懸念していた。
外の状況が判らないが故に、迂闊に動けない。
かと言って、このままの体勢は維持できない。
ヒューヒューと風の流れる音が聴こえているのが、不幸中の幸いだろうか。
息苦しさは感じるが、酸素が断たれたという訳ではなさそうだった。
「余も、四つん這いでは流石にどうしようもなくては……」
「無理をするな。拳も、砕けているんだろう?」
痛みを堪えながらも、砕けた拳で自分を護ってくれていた。
シンは申し訳なさと不甲斐無さで、自分に苛立ちを覚える。
「すまない。俺が不甲斐無いばかりに……」
「謝るでない、お互い様だ。それにシンが居なければ、またリタの矢がフェリーを貫いていたのだ。
リタが辛い思いをしなくて済んだのは、シンのお陰だ」
思い出されるのは、妖精族の里でのいざこざ。
あの時はレイバーンへ放った矢を、フェリーが身を呈して受け止めた。
リタは今のその事を悔やんでいる。再現されなくてよかったと、レイバーンはシンへ心からの感謝を贈った。
……*
あれこれと脱出する手段を考えてはみたが、どれも決行とまでは至らない。
外の状況が判らないというのが、二人にとって大きな痛手だった。
今はじっと、崩れた岩盤の下で耐える事しか選択できないのがもどかしい。
「ところでシン」
「どうした?」
次第に減っていく口数に耐えかねたレイバーンが、意を決して話し掛ける。
「……魔狼族が、小人族の故郷を追いやったこと。シンは知っていたのか?」
シンは、奥歯を噛みしめた。懸念していたが、彼には伏せていた事。
今ここで彼の口から聞かされたという事は、きっと知られてしまうような出来事があったのだろうと察する。
「……もしかすると、そうかもしれないとは思っていた。
黙っていたのは、悪かった」
「リタにも謝られたな。皆、余に気を遣ってくれていたのだな」
「……すまない」
「すぐに謝るのは、シンの悪い癖だぞ」
暗闇でシンへ与えられるのは、苦笑するレイバーンの声色だけ。
それがとても寂しそうに思えたのは、きっと気のせいではない。
「気が付いたのは、ギルレッグだ。余は魔狼族へ食って掛かるのを偶然聞いてしまってな。
この地で殺されてしまった小人族も居るらしい」
「……そうか」
「余たちがしたことではないと解っていても、今は顔を合わせたくないと言われてしまった」
「……そうか」
シンには、相槌を打つ事しか出来なかった。
ギルレッグの心情も理解できる。かつてフェリーが、自分を責め続けていたのと同質のものだろうから。
「それで、シンに訊きたかったのだ。お主は初めて逢った時、余に魔獣族を殺したことを怨んでいないのかと訊いたな?」
「……ああ」
予想外の質問に、シンは目を丸くした。
レイバーンと出逢った時に、確かにそんな事を口走った。
それほど時間が経っていないにも関わらず、随分と昔の事のように思えてくる。
「余があの時語ったのは、間違いなく本心だ。
だけどな、今になってどうしてシンがそんなことを訊いたのかが知りたくなったのだ。
余がギルレッグのように、怒ったかもしれないであろう?」
レイバーンの言う通りだった。
あの時は初対面で、レイバーンが心根の優しい男だとは知らなかった。
それでもあんな事を口走ったのには、あくまでシンの胸中だけの問題。
怒りを、憎悪を向けられてもいいと思っていたのは間違いない。
「……それ、必要か?」
「無理にとは言わぬが、気になったのだ」
真剣な声色を前にして、シンは黙り込んだ。
少しの沈黙を置いて、シンは語り始める。あの時の、自分の心境を。
「きっと、俺は咎められたかったんだ」
そう語るシンの声色は、いつものものより弱々しかった。
「俺は多くの命を奪ってきた。だけど、どれだけ手を汚しても誰も本気で咎めたりはしない。
フェリーに至っては、あの時は俺に殺されようとしていた」
フェリーは、自分に殺されようとしていた。
マギアで人の命を奪った時は、貴族が歓喜していた。
マレットは、全てを察してそれでも背中を押してくれていた。
一度だけ、ピースに殴られた事があった。
シンはあの時、少しだけ救われた。やってはいけない事だと、ちゃんと言ってもらえた。
自分は決して正しい道を歩んでいた訳ではないと、自覚ができた。
イリシャと出逢った時もそうだ。
彼女は少し先の自分を知っていた。だから、ギャップがあったのだろう。
自分の本心を確かめようとしてくれた。
平気でいられるはずが無かった。
一番大切な女性を、手に掛け続けるなんて。
あの時は苛立ちを覚えたが、今は気持ちを吐露出来て良かったとさえ思う。
だから、レイバーンにも咎められたかった。
理由や内容が違っていてもいい。ただ、自分を否定して欲しかった。
思い返せば、驚く程に自分の心が弱いのだとシンは改めて気が付いた。
「初めて逢ったお前なら、俺へ忌憚なく怒りをぶつけられると思ったんだ。
……悪かった、俺の勝手にお前を巻き込んだんだ」
「なんだ、そんなことか。人間のいざこざはさておき、魔獣は襲い掛かってきたのだろう?
命のやり取りをしていたのだから、シンが撃退するのは当然の話だ」
シンの話を一通り聞き終えたレイバーンは、いつもの声色であっけらかんとしてみせた。
初めて逢った時と変わらない彼に、シンは安心を覚えた。
「それに、確かにシンは余の知らないところで多くの命を奪ってきたのだろう。
だが、余は知っておるぞ。シンはそれ以上に、多くの命を救っておることを」
シンは言葉を失った。暗闇で良かったと、心から思う。
きっと彼の顔は、これ以上ない笑顔で満ちている。自分には眩しすぎて直視できなかったに違いない。
「……救ったかどうかは、判らないだろう」
「む。もっと自信を持つが良い。少なくとも、余とリタはお主とフェリーに感謝しておるのだから。
つまり、魔獣族と妖精族だろ。ルナールに、ストルに……。
ギランドレの子供も、シンが行ったから助けられたのだぞ」
自分の知っている範囲で、レイバーンは次々と名前を挙げていく。
指折り数えているであろう彼は、きっとこの瞬間も笑顔なのだろう。なんだか気恥ずかしくなってきた。
「ただな、教えて欲しいことがあるのだ。シンは後悔しているのか? 人の命を、奪ったことを」
「……後悔はしていない」
「ほう?」
ぽつりと呟いた後に、シンは沈黙を創り出す。
レイバーンは明らかに待っている。続きの言葉を。
シンは躊躇った。何から何までひどく自分勝手な理由を、彼へ話すべきなのか。
沈黙が流れるにつれ、レイバーンが再び「ほう?」と口にする。是が非でも、聞きたいらしい。
結局、根負けをしたのはシンの方だった。
絶対に口外しない事を条件に、シンは己に秘めていた想いを吐露する。
「フェリーが――……。――だからだ」
絞り出すように、消え入るような声で吐き出した気持ち。
数秒の間を置いて、レイバーンが笑みを溢した。
本当に暗闇で良かったと、心から思う。自分がどんな顔をしているか、シン自身にも判らない。
「フハハ! 安心したぞ! やはりシンは、フェリーが一番大切なのだな!」
「……そうだよ」
不貞腐れ気味に、シンは呟いた。気恥ずかしい一方で、どこか胸が軽くなった。
本心を吐露出来たのも、きっと彼なら受け止めてくれるだろうと心の底で感じていたからなのだろう。
「フェリーは愛されているな!」
「……もういいだろ」
いつしか二人は、傷の痛みを忘れていた。
ギルレッグ達により崩れた岩盤が片付けられ、外の空気へ触れたのはそれから少ししての事だった。