232.灼熱の札
魔力が濃い。どれだけの魔狼が存在しているのか、はっきりとしない。
人間の国と違い、リタの感覚を惑わすものはあまりにも多い。
それでも、彼女は気付いた。微かに感じ取っただけでも、不快感を覚えるには十分だった。
忘れようのない悍ましい感覚は、三日月島のそれと酷似していた。
「レイバーン。ごめん、ちょっとだけ急いで!」
「む、どうかしたのか?」
リタは小柄な自分を担いで走ってくれているレイバーンへ、急ぐように伝えた。
彼の鋭敏な鼻は、まだその存在を捉えてはいない。代わりに段々と濃くなっていく血の臭いに、顔を顰めていた。
「邪神が出て来た時と似たような、気持ち悪い魔力を感じたの。
もしかすると、邪神に適合した人がいるのかも」
ここはミスリアではない。にも関わらず、邪神の気配を彼女は捉えた。
リタは今更「どうして?」とは思わない。妖精族の里でも間接的に関係していた。カタラクト島の一件もある。
悪意は、この世界にどこで顔を覗かせるか判らないと知っている。
「なんだと!? 小人族と魔狼族の関係も捨て置けぬが、まずは皆の無事を優先するしかないか……」
思い浮かべるのは、怒りを堪えるかの如く震えるギルレッグ。顔を見たくないと言われてしまった。
彼の同胞を手に掛けたのが魔狼族であるならば、連なる種族である自分を避ける気持ちは理解できる。
背に乗る少女が、時間が必要だと教えてくれた。少しだけ、安心をした。
下がった自分の眉を、彼女はいつも上へ押しあげてくれる。
だが、邪神に適合した者がこの地に現れたのであれば話は別だ。その時間さえも、訪れないかもしれない。
ギルレッグだけではない。自分の大好きな者達まで、悪意は容赦なく飲み込もうとする。
決してそのような蛮行を許してはおけない。レイバーンの顔は、自然と前を捉えていた。
「リタ、しっかり掴まっておるのだぞ」
「う、うん」
言う通りに従って、リタはレイバーンの鬣を力いっぱいに握り締める。
痛くはないのだろうかと心配をしたが、彼からはそのような素振りは一切見えない。
安堵するリタだったが、彼女は一瞬だけ失念してしまった。何のために、しっかりと捕まっておく必要があるのかを。
「――っ! ちょ、ちょっとレイバーン! 速いよおぉぉぉぉぉ!」
全力とまで行かないにしても、今までの比ではない。
小柄な少女の身体が置いて行かれそうになり、足は靡いている。
決して手を離す訳には行かないと必死に喰らい付くリタを他所に、レイバーンは全力で洞窟内を駆け抜けていった。
……*
右へ跳んだと思えば、既に左へ切り替えしている。
魔狼族の長が繰り出す巨体に似合わない身のこなしに感嘆したアルジェントは、無意識に口笛でそれを表現していた。
「うお、さっすが犬ッコロ。はえー、はえー」
装着した偽物の獣魔王の神爪により、前脚の攻撃範囲が伸びている。
幾重ものフェイントを重ね、斬り刻もうとするもアルジェントには届かない。
銀狼が得たのは柔らかい肉が裂かれた感触ではなく、固い鉱石が砕かれていく感触。
「チッ、逃げ足だけはいいモン持ってんだな」
舌打ちを交えながら、ヴォルクが吐き捨てる。
だが、捕えられない動きではない。今度こそは斬り刻んで見せると、白銀の爪を嵌めた前脚に力を籠める。
対して、ため息を吐くのはアルジェント。
不敵な笑みを見せながら、巨大な銀狼を見上げた。
「いやいや、逃げ足しか見せてないだけだっての。
いいモンはもっと沢山持ってるぜェ?」
彼が取り出したのは一枚の札。ヴォルクにとっては見た事のない道具。
得体の知れない者を好きに扱わせてはいけないと彼の本能が訴える。
白き獣が立ち上がり、その巨体を以てアルジェントを呑み込まんとする。
振り被られた獣魔王の神爪を目いっぱいに掲げる。
後ろへ跳ぼうが、左右に逃げようが決して逃しはしない。
「おお、こうして見てみると壮観だなァ」
逃げ場がないにも関わらず、アルジェントは危機感を決して表には出さない。
それどころか、色眼鏡の向こう側では笑みさえ浮かべている。
「余裕コキやがって! あの世で後悔しろ!」
ヴォルクは己の身体に秘められし氷の魔力を解き放ち、白銀の爪が氷を纏う。
更に鋭さを増した爪に伸びた攻撃範囲。渾身の一撃がアルジェントを襲う。
「いやァ、後悔するのはオレっちじゃなくてアンタだろうなァ」
縦一直線に、覆いかぶさるように振るわれた銀狼の前脚。
近付いてくる冷気と殺気。そして視界を覆っていく影を前にしてもアルジェントの笑みは崩れない。
代わりに瑪瑙の右手に握られた一枚の札が、反対にヴォルクの顔を変えてしまう。
札から放たれたのは、炎。それも、ただの炎ではない。
ミスリアの魔術師といえど、使用する者は限られる程の大魔術。紅炎の新星。
紅の炎が、銀狼の視界を赤一面に染める。
「――!?」
一瞬にして獣魔王の神爪の纏った氷は溶け、同時に前脚が、無防備に晒された腹が燃やされていく。
口からだけではなく、鼻からも熱気が入り込んでは肺を焼いているかのような熱気を吸い込む。
美しい毛並みは焦げていき、銀狼の身体は黒や茶と斑に染め上げられていく。
「な……ん、だと……」
「あら? この至近距離なのにまだ起きてんの? タフすぎてこえーよ」
息の根が奪えるとまでは思っていなかった。
一方で、この至近距離で紅炎の新星を受けて意識を保っている事にも驚いた。
よく見ると表面こそ焦げているが、五体満足だ。纏っている氷の魔力がそうさせるのだろうか。
何れにしても、想定よりも形を保っている事に対してアルジェントは思わず拍手をする。
「大したもんだ。オレっち、感動しちまったよ」
「ふざけるな。人間ごときに、ナメられて……!」
形を保っているとはいえ、言葉とは裏腹に声に力はない。
眼も白眼を剥き掛けているのが滑稽で仕方ない。
楽にしてやろうと、アルジェントはヴォルクの懐へと潜り込む。
「ナメるも何も、決着ついたじゃんよ。テメェは、オレっちに敗けたの」
「まだ、オレ様は敗けて……ねぇ……」
銀狼は前のめりに倒れ、懐へ潜り込んだアルジェントを圧し潰さんとする。
強がりに限界が訪れたのか、それとも鼬の最後っ屁なのかは定かではない。
ただひとつ言えるのは、これが今の彼に出来る最大で最速の攻撃。
「往生際が悪いなァ……」
そんな捨て身とも言える攻撃を、アルジェントが真面目に取り合うはずもない。
軽い身のこなしで銀狼の巨体を躱しては、倒れた衝撃で僅かに身体を浮かせるに留まる。
緊張の糸を切らしたヴォルクは、そのまま意識を失った。
「ほい、討伐完了ってね。
小人族のジイさん! 憎き魔狼族をとっちめてやったぜ!
こっち来て、見てみろよ!」
大きな口を開け、アルジェントは小人族の長老を手招きする。
長老は表情を読み取られないよう、必死に奥歯を噛みしめて堪えていた。
奇妙な腕から放たれる、奇怪な術。そんな恐ろしいものを嗤いながら操る男に、自ら近付かなくてはならない。
今は敵とみなされていないが、いつ自分のついた嘘がバレるかは判らない。
長老は一歩ずつ摺り足で、アルジェントへ近付いていく。自らの足で、悪意へ寄っていく事に背筋が凍った。
「わ、わしなんかが見ても……。いいんですじゃ……?」
「遠慮すんなって、オレっちが許す! 辛い思いしてたんだろ?
だったら、スカッとする権利はジイさんにもある!」
戸惑いを見せ、少しでも時間を稼ごうとする長老の思惑は外れた。
アルジェント自らが彼へ駆け寄り、長老の皺だらけとなった腕を引く。
みるみる焦げた銀狼へ近付いていく。焦げた臭いが、長老の脳へ警鐘を鳴らしていく。
「おい、テメエ! どこから現れた!?」「人間が何をしてやがる!?」
騒動を聞きつけてか、異臭を嗅ぎ付けてか。
徐々に近付いていく足音と大きくなっていく振動。
眼前に広がっていくのは、魔狼の群れ。
「はァ……。外の鬼族は何やってんだよ、ったくよォ」
一体、自分をどれだけの魔狼族を交戦させれば気が済むのか。
掻き乱すとは言ったがいい加減飽きて来たと、アルジェントは不満を露骨に露わにする。
抜け出す好機と見た長老だが、彼はその手を離さない。むしろ、今まで以上に力が籠められていた。
「人間! テメエ、アイツらの仲間か!?」
魔狼族の言う「アイツら」とやらに、面識はない。あるのは心当たりだけ。
アルジェントにとっては、その状況こそが都合のいいものだった。
この地に現れた、邪神に抗う者達を掻き乱す絶好の機会。
気を失った銀狼の背に立ち、芝居じみた動きで魔狼達の視線を釘付けにする。
長老は手こそ離されたが、彼と一緒に魔狼族の長に乗せられた事で逃げ場を失った。
「そうそう。驚く事なかれ! みーんなオレっちの仲間だ!!」
両手を天へ掲げ、大げさに言ってみせる。
馬鹿な狼はこれで、訪れた人間へ怒りを向けるだろう。
魔獣族を連れてきてあわよくば良い関係を築きたかったのかもしれないが、全てが台無しになる。
混乱する彼らを目に焼き付けられない事以外は、万事解決。
「地底湖にも、手引きしてもらって――」
……とはいかなかった。
銀狼の背でうろうろと歩き続けるアルジェントの鼓膜を揺らした音は、乾いた音。
アルジェントが咄嗟に身体を背けると銃弾は左肩を掠め、天井へ弾痕を生み出した。
「勝手なことを言うな。俺たちは、お前なんか知らない」
「そうだよ! フーヒョーヒガイってヤツだよ!」
地底湖から連なる細く小さな脇道。
中から現れたのは、邪神の計画を悉く台無しにしてくれた一組の男女だった。
黒髪の青年、シン・キーランド。構えた銃口の奥にある瞳は、力強かった。
不老不死の少女、フェリー・ハートニア。憤慨しているようだが、すぐに攻撃に移る様子ではない。
初めて邂逅する二人の姿を、アルジェントは色眼鏡越しにまじまじと見つめた。
サーニャが描いた人相書きによく似ている。
自分から一切視線を離さないシン。彼の目を盗むのは、苦心を強いられるだろう。
不老不死の少女は、金色の髪をポニーテールにまとめている。
動きやすそうな服装も相まって、健康的で非情に可愛らしいと思う。敵である事が、非常に残念だった。
「ここだな!? リタ!」
「う、うん……」
邪神へ仇名す存在は彼らだけではない。
別の道から現れたのは、3メートルはあるという巨大な魔獣族と彼にしがみついている妖精族。
魔狼族の顔を持ち、鬼族のような巨体を持つ狼人。レイバーン。
背中で必死に捕まって、ぐったりとしている耳の長い小柄な少女も知っている。
妖精族の女王であり、妖精王の神弓の継承者。リタ・レナータ・アルヴィオラ。
「……どうも、みんなお揃いのようで」
自分達の計画を邪魔してくれた、ミスリア外の存在がこぞってこの場に現れている。
彼らは邪神が相手だとしても怯まない。そんな奇特な連中を四人同時に相手取るのには骨が折れる。
「おい、獣人! 本当にこの人間は知らないのか!?」
「なんのことか解らぬが……。この男は、余たちの知り合いではないぞ」
自分達の近くに現れたからか。はたまた、一番信用に値すると見たのが獣人のレイバーンだったからか。
魔狼は怒号にも似た声で、シンの言葉に偽りがないかを確かめる。
意図が読み切れた訳ではないが、結果的にレイバーンは正しい答えを魔狼へ提示した。
「レイバーン、リタ。この男は、魔狼を傷付けた罪を俺たちへ擦り付けようとしていた。
間違いなく、敵だ。……恐らくは、邪神の一味の」
アルジェントから目を逸らす事なく、シンはレイバーンへ必要な情報を伝える。
瑪瑙のような縞模様を纏った右腕。あの異質な存在は、邪神の適合者が持つ者と酷似した不快感を発している。
手段こそ不明だが、銀狼を一蹴した事からもかなりの実力者だと窺える。シンの引鉄を引く指に、自然と力が籠る。
「かーっ。余裕見せすぎたかァ。もっと楽したかったんだけどな」
ボリボリと頭を掻くアルジェント。
聞きなれない存在に、魔狼達がざわめく。
地底湖に転がる魔狼を、長であるヴォルクすらも倒したその実力と関係するものだろうかと空気が張り詰めていく。
「ね、ねえ。それよりもさ……」
そんな中、最初に彼の存在に気がついたのはフェリーだった。
真っ白な髪が身を包み、銀狼と一体化している小人族。
銀狼の背で小さな身体を丸くして蹲っている老人。
「アレ……。小人族のおじいちゃんじゃないかな……?」
フェリーが指した方向へ、シンを除く全員の視線が導かれる。
彼女の言った通り、そこに居るのは紛れもなく小人族の長老だった。
「お、おじいちゃん!? どうしてその人と一緒にいるの!?」
驚きのあまり、何度も瞬くを繰り返すリタ。
目を開く度に確認をするが、小人族の長老は決して幻では無かった。
「おい、本当にテメエらの仲間じゃないんだろうな!?」
「違う! 余たちも驚いているだろう!」
魔狼から鋭い眼光を向けられ、レイバーンもしどろもどろになる。
一体何がどうなって、小人族の長老が彼と行動を共にしているのか。
その答えを出せる者が、本人達を除いてはいなかった。
「なんだ、やっぱり知り合いだったんじゃん。ジイさん、オレっちを騙そうとするなんてやるねェ」
色眼鏡越しに笑顔を見せるアルジェントは、彼をひょいと担ぎ上げた。
銃を撃てば盾にするという、シンへの牽制を兼ねて。
小刻みに震える小人族の長老だが、アルジェントは怒ってなどいない。むしろ彼の評価を上げた。
あの状況で、咄嗟についた嘘。一瞬も緊張を途切らせる事なく、嘘を貫き通そうとした。
何より、彼は魔硬金属を造る可能性を秘めている。
利用価値があるのだから、殺すのも勿体ない。返すのなんて、もってのほかだ。
「……クソガキが。いつまで、オレ様の背に乗ってやがる」
喧騒の中、意識を失っていた銀狼が短い眠りから目を覚ます。
身体を起こし、背に乗る狼藉者を振るい落とそうと躍起になるが、アルジェントは軽々と地面へ着地する。
「なんだ、もう起きたんだ。やっぱタフだねェ」
「黙れ! テメェこそ、覚悟しやがれ! この距離なら外しようがねぇんだ。
今度こそ、オレ様の神器で斬り刻んでやる……!」
焦げ付いた前脚を持ち上げ、振りかざすのは偽物の獣魔王の神爪。
配下の魔狼は「そうだ、お頭! やっちまえ!」と盛り上がっている。神器の闘いが見られるのだと、羨望の眼差しを送る者さえいた。
「神器? 神器、ねェ……」
未だ王を気取っている彼を見て、アルジェントは思わず吹き出してしまった。
まずはこの男が積み上げて来たものを台無しにする。それも悪くないと、口角を上げた。