228.王という名の劇薬
クスタリム渓谷に聳えるふたつの山。
その一方。魔狼族の縄張となっている山には、地底湖が存在している。
手で掬ってみると、ほんのりと温かい。温泉としても使えそうな、透き通る湖。
一切の混ざり物もなく、中に住んでいる生物もいない。
頭上に聳える魔力結晶が放つ、淡く美しい赤を湖は一身に受けている。
長く旅をしてきたフェリーにとっても初めてみる情景。その美しさを忘れたくないと、懸命に網膜へ焼き付けた。
地底湖の存在だけではない。この地では濃度の高い魔力が山の様々な物質と溶け合っている。
純粋に鍾乳石のような形となった魔石もあれば、花崗岩と混ざり合ったもの。
水に溶け込んで、水晶のようになっている物質すらあった。
これだけ数多くの種類があれば、魔硬金属の材料がどれなのか素人目に判別はできない。
実物を知っているのは小人族の長老のみ。それも、遥か昔の記憶を頼りに見つけなくてはならない。
「ふむ、これはテラン坊に作ってる義手の関節部分に使えそうだな。
お、こっちは炎の魔力が篭ってやがる。魔術付与しやすそうだ。
オリヴィアの嬢ちゃんに相談してみるか――」
一方で普段とは違う材質を次々と見つけては、子供のように目を輝かせている小人族の王。
長老が「こんな質感では、ございませぬ」と言っても、全く意に介さない。
むしろ「色々研究に使えて便利だろうが」と片っ端から持って帰るつもりでいた。
「見て見て、シン! あたし、じょうずに削れたよ!」
力加減が難しいとぼやいていたフェリーも、時間が経つにつれて採掘に慣れてきたようだ。
ギルレッグに負けず劣らず目を輝かせては、採掘した物をシンへ見せる。
「ああ、いい感じだな」
「えへへ」
シンが返事を返すと、フェリーは満面の笑みを浮かべる。
一見微笑ましい光景にも関わらず、二人の間には認識の齟齬が起きていた。
念願叶って、シンと一緒に採掘をしている事自体が嬉しいフェリー。
出来栄えを褒められると勿論嬉しいが、第一はシンに自分の仕事を見て欲しい。
初めての採掘で、フェリーが普段とは違い慎重になっていると思っているシン。
削ったり加工する事が主な使用法である事から、彼は原材料の形にはそれほど拘っていない。
「フェリー、そんなに心配にならなくても大丈夫だぞ。
削ったり溶かしたり、色々な使い方があるからな」
慣れない作業で、更に彼女の神経を削らせてはいけない。シンからすれば、フェリーを気遣ったつもりでいた。
けれど、フェリーは違う。ただ単に見て欲しいし、褒めて欲しい。一体感が欲しいだけだった。
「……シンのあんぽんたん」
ムッと口を尖らせるフェリー。
自分にとってだけ特別な出来事だと分かっていても、やっぱり気付いて欲しいという気持ちがあった。
当のシンからすれば、彼女の考えが読めずに首を傾げるだけだとしても。
「ところでよ、魔狼族の方はあれでよかったのか?
確かにワシらは、こうやって石を掘らせて貰ってるけどよ」
採掘する手を止める事なく呟いたのはギルレッグ。
昨日の魔狼族の長。ヴォルクとリュコスから許可を得た為に、シン達は地底湖にいる。
自らの縄張りを荒らされていると憤る魔狼族もいるが、長の命により手出しは無用とされた。
「許可は得ているんだ。気が変わる前に採掘させてもらうに越したことはない」
「いや、そっちじゃなくてだな……」
ギルレッグが言いたいのは、この場にいないレイバーンとリタについてだった。
正確に言えば、レイバーンに対して向けられたものだが。
「魔狼族の間での問題は、本人に任せるほかないだろう。
リタもいるんだ。信じよう」
獣魔王の神爪の偽物を巡っての話し合いは、一応の決着を見せた。
彼らもあっさりと白状をした。自分達の獣魔王の神爪こそが、偽物であると。
そして、こうも言った。「奪い取るつもりはない」と。
反対派の魔狼族を抑え込み、こうやって自分達が自由に動けているのが何よりの証拠。
彼らにとって、神器を力づくで奪い取る事に意味はない。
仮に強硬策に出たとしても、自分達が継承者となる保証はどこにもない。むしろ、永遠に認められないだろう。
結局、偽物の獣魔王の神爪を駆り出さなくてはならない。
ならば無益な争いで偽物を知られる危険を負うよりも、口裏を合わせてもらう方が利があるのだと判断を下していた。
ただ、あくまでそれは獣魔王の神爪の話。
レイバーンの巨体について、魔狼族は思うところがあるようだ。
その為、彼は今も二頭の魔狼と言葉を交わしている。心配だからと言って残った、リタを添えて。
「リタちゃんもレイバーンさんのコトになったら、れーせーでいられるかなぁ?」
彼の顔を潰すような真似はしないだろうが、魔狼族に小馬鹿にされた際、リタはかなり怒りを露わにしていた。
尤も、フェリーは彼女の気持ちが痛いほどわかる。
自分もシンの事となれば、間違いなく感情を露わにするだろうから。
……*
魔狼族の縄張。長である銀狼と黒狼が住まう一室。
天然の洞窟。その最深部に出来上がった空洞を利用しており、辿り着くまでには幾多もの魔狼を退けなくてはならない。
魔狼族自体も易々と入れる場所ではない。
地面に染み込んだ水分や、天井より滴る水は冷気を操る銀狼の領域へ入り込んだ事を意味する。
仮に彼の作る氷の罠を突破したとしても、次は大地そのものを操る黒狼が待ち構える。
何より、罠を抜けた先に存在しているのは百戦錬磨の魔狼だ。
魔狼族の長。その首を獲るには、命がいくつあっても足りない程の死戦を潜り抜けなくてはならない。
その地に案内されたのは、魔獣族の王であるレイバーン。
3メートルはゆうに越える巨体の横に、ちょこんと座るのは妖精族の女王であるリタ。
自由に採掘をさせる傍らで、起きようとしているのは査問。
一触即発とまではいかないが、非常に張り詰めた空気が流れていた。
「魔獣族の王か、大きく出たモンだな」
雪のように美しい毛並みを披露しながら、鼻で笑うのはヴォルク。
獣人どころか魔獣族と言う大きな枠で王を名乗る彼に、少なからず思うところがあった。
「余の父。先代からそう引き継いだのだ。
特に意識していなかったのだが、失礼なことだったのか?」
獣人や魔獣は細かく分類を分ける事が可能にも関わらず、レイバーンの配下には様々な種族が存在している。
元々が身を寄り添ってできた群れだという背景も相まって、レイバーンは今まで疑問に思う事はなかった。
「いーや? お前さんの自由だぜ。周りが納得するかどうかは別としてな」
ヴォルクは偽物の獣魔王の神爪を掲げているにも関わらず、正式な継承者であるレイバーンへ敬意の欠片もない。
それどころか蔑むような視線を送る銀狼に、苛立ちを覚える少女が一人。
「レイバーンは獣魔王の神爪の継承者ですし、何もおかしくはないと思いますけど」
「リ、リタ……」
交渉役という名目はどこへやら。リタは顔をふんと鼻を鳴らし、そっぽを向く。
妖精族だけではない。魔狼族だって、神器の継承者を神聖視しているからこそ偽物を用意している。
本来の継承者に敬う感情があってもいいのではないかと、彼女は主張する。
「……それは、まぁ。そうなんだがよ」
痛い所を突かれ、銀狼はリタから視線を逸らした。
彼とリュコス。つまり銀狼と黒狼は偽物の獣魔王の神爪を継承したと吹聴する事で、長年魔狼族を統治してきた。
怪しまれない程度に、継承者を交互に移しながら。
失われたと思われた本物の獣魔王の神爪が、継承者と共に現れた。
慣例からいけば、レイバーンこそが自分達の長に相応しい者となる。
その先にあるのは、継承者を騙り続けてきた自分達へのしっぺ返し。
実力で言えば、そこいらの魔狼が束になってもヴォルクとリュコスには敵わないだろう。
けれど、長年神器を受け継いできたと言うカリスマは一瞬で塵となって消える。彼らにとって、それだけは避けたい。
レイバーンの獣魔王の神爪を偽物だと断定した事から、本物がこの地にあると信じ切るほどに浸透しているのだ。
「リタもヴォルクも、落ち着くのだ。余は決して魔狼族を掻き乱すつもりではない。
この地にいるという祖先に、一目会ってみたかっただけなのだ」
「祖先、か……」
その単語に思うところがあるのは、黒狼。
彼女は自分に顔立ちが似ているレイバーンが、気になって仕方がなかった。
それこそ、獣魔王の神爪はこの場に連れ込む口実であるぐらいに。
「アンタ、祖先ってのはどっちのことを言ってるつもりなんだ?」
レイバーンは、黒狼の言っている言葉を上手く汲み取る事が出来なかった。
彼だけではない。リタもまた、レイバーンと同じ認識を持ってる。
二人は何も知らないのだ。この地に住まう、もうひとつの種族など。
「どっちと言われても、顔が似ているのはお主だと思うが……」
きょとんと指を差すレイバーンに対して、リュコスは眉を顰めた。
自分に似た顔がここまで間抜け面を晒すと、流石に思うところがある。
だが、今のやり取りで確信をした。
この男は知らない。自身の出生の経緯を。
「そういう意味ではない。貴様、混血だろう」
始祖から続く誉れ高き血脈に、不純物を入れた一族。
知能は得たかもしれない。だが、自らの血を穢すなどと受け入れられない者が多くいるのも事実。
魔狼族をはじめとした魔獣の多くは、獣人と自分達を明確に線引きしていた。
「その言い方も、失礼じゃないですか!?」
「何がおかしい? 妖精族も排他的な種族ではないか」
「今は違いますっ!」
リタは再び憤慨する。他の種族と積極的に関わる道を選んだ妖精族にとっては、自分達を侮辱しているにも等しい言葉。
何より、レチェリがいる。友人である彼女の気持ちを思うと、リタにとっては許容出来ない発言だった。
「リタ、よいのだ。獣人を快く思っていない者が居るのも事実だ。
それに、存在が受け入れられないと言うのは何も余に限った話ではなかろう」
「そうかもしれないけど……」
彼の言うことは尤もかもしれない。
けれど、身体が大きくて心根の優しい彼が全てを受け止める必要はない。
リタにとってはそんな彼が馬鹿にされる方が我慢ならない。
「私たちにとって、魔狼族の血を穢したという事実には変わりがないからね。
ただ、私が訊きたいのはそんなことじゃない。貴様が会いたい祖先は、私たちではないかもしれない」
「……どういう意味なのだ?」
これだけ顔が似ている魔狼を見つけたのだ。
間違いなく、ここが祖先の住まう地。魂の故郷なのだとレイバーンは確信した。
にも関わらず、眼前の黒狼はそれを否定する。
「貴様の体躯。通常の混ざり者では考えられないほどの巨体だ」
「そうなのか? 父も同じぐらいだったから、さほど気にしておらぬが……」
眼前にいる二頭の魔狼。加えて、双頭を持つ魔犬や地獄の番犬。
自分に匹敵する大きさの魔獣はいくらでもいる。レイバーンは自分の巨体をさほど気にした事はなかった。
確かに獣人では自分より大きな個体を見たのは父だけかもしれない。それも、誤差の範囲だと思っていた。
「……どれだけ、世間知らずなんだ」
銀狼と黒狼は呆気に取られる。
その点に関しては、リタも反論できなかった。自分も、つい最近まで外の世界を知らなかった。
レイバーンが大きいとは思ったが、他にもいるんだろうなと呑気に考えていたのだから。
「通常、人間やそれに準じる者と混ざった魔獣族の子は大きくても精々この程度だ」
黒狼が指し示す高さは、2メートルほどの位置にある。
レイバーンよりは、まだ1メートル以上も低い。
「だが、貴様のその体躯。人間に準じる者とは違う存在と、混ざって生まれたと考えるのが妥当だ」
「それが、お主の言う『どっち』とやらか?」
黒狼は頷く。
この先を口にする事は躊躇われたが、それでも伝える事を選んだ。
魔獣族の王と名乗るこの狼人は、劇薬なのだ。
彼の今後の立ち回り次第で、魔狼族の運命を大きく分けかねない。
そして、黒狼自身の命運も。
「その通りだ。この地には、もうひとつ種族が存在している。
魔狼族と長年に渡って争いを繰り広げた存在が」
リュコスは、レイバーンにその種族を教えた。
巨人族と魔族の混血から派生した種族。3メートルを越える体躯を持つ存在、鬼族の名を。
魔狼族の長によく似た顔立ち、鬼族のような体躯。
これはつまり、過去に魔狼族の長。その血縁と鬼族の間で番が生まれている事の証左。
黒狼からすれば、他の魔狼族から受けている羨望が反転しかねない。
実際、自分の行動を訝しむ魔狼族が存在している事は既に耳にしている。
間者ではないのかと、疑われているのだ。
魔狼族の事情などつゆ知らず現れた男は、よりにもよって獣魔王の神爪の正統後継者。
レイバーンという劇薬を、銀狼と黒狼は決して手放してはならなかった。
……*
魔狼族の長がレイバーンを手中に収めようとしている傍ら。地底湖でも事態は動いていた。
シンとフェリーが深部へ向かう一方で、小人族の二人が位置を動かずに採掘を続けている。
ギルレッグはぼんやりと、偽物の獣魔王の神爪を思い返していた。
100年以上が経過しているにも関わらず、刃こぼれのひとつも見当たらなかった。
獣に手入れが出来るはずもなく、正しく維持がされていたとは到底考え辛い。
そもそも、あの偽物はどうやって生まれたのか。
魔狼族に鍛治の心得があれば、この地底湖に価値を見出すに違いない。
路傍の石のように扱った事から、自らが作り上げたという可能性はあり得ない。
「一度、職人に会ってみてぇモンだな。もう死んでいるだろうがよ」
白髭を撫でながら、湖にそって歩くギルレッグ。
人間では通れないような高さの屋根を潜り抜け、新たな功績を求める。
何気なく通ったルートだったが、彼は見つけてしまう。偽物の獣魔王の神爪が、作られたであろう形跡を。
「……ん?」
コツンと自らのつま先に当たるのは、金属の棒。
蹴ってしまうが決して転がらず、向きを変えるだけ。先端の重みが、棒が動いていく事を拒絶していた。
「なんか蹴っちまったな……」
小柄な身を屈め、ギルレッグがつま先に触れた物を確認する。
彼が蹴った物。それは、槌だった。
どれだけの年月が経過したのか。
すっかりと錆びてしまい、自然に還る事も出来ない金属の塊。
「槌……?」
鍛治を営む自分にとっては、他人事だとは思えない。
ギルレッグは錆びた槌を手にとってみる。大きさも重さも、何もかもがしっくりと来る。
この大きさは人間や獣人が使う大きさではない。小人族の使う者だ。
恐る恐る、ギルレッグは槌の錆をなぞって行く。
光を当てて確認をすると、付着しているのは錆だけではない。
赤黒い、強く擦ると剥がれていく膜のようなもの。
指の腹で擦ると、それは粉のように消えていく。
「血、だ……」
ギルレッグは慌てて、槌から手を離す。
彼は見つけてしまった。長老の言う通り、小人族は間違いなくこの地に住んでいた。
そして、この地で命を奪われた同胞がいる。
周囲を見渡すといくつもの槌が、鍛冶場が、石炭が転がっている。
汚れた物の中には、獣魔王の神爪によく似た武器もあった。
あの偽物は、ここで造られたのだ。小人族の手によって。
魔狼族。彼らこそが自分達をこの地から追いやった種族だとギルレッグは確信する。
同時に逃げ遅れた者に神器の偽物を造らせ、口封じとして命を奪った。
自分にとっては縁の薄いこの地に、確かに存在していた同胞。
彼らの無念を汲み取ると同時に、ギルレッグの胸中には魔狼族に対する怒りが湧き上がっていた。