226.魔獣の邂逅
クスタリム渓谷。旧小人族の里が存在する地の名を、ギルレッグはそう呼んだ。
向かい合うふたつの山の間に生まれた川。足場もしっかりとしており、川には清らかな水が流れ続けている。
山の麓に洞穴を作り、移り気な天気から身を隠す。
戦闘に長けない小人族にとっては、クスタリム渓谷と向かい合う山が繁栄には欠かせなかった。
「あぁ、ここですじゃ。ここに、里がありました……」
小人族の長老は感慨深さから、思わず涙を流す。
どれだけ時間が経とうとも、記憶が曖昧になろうとも。
心に刻まれた思い出が全て失われた訳ではない。数百年ぶりの故郷に、感動もひとしおだった。
長老は語る。この山は火山で、そこから採れる石炭を川の水で蒸すのだと。
そうする事でしなやかな鋼が出来上がり、質の良い刀剣が造られていく。
今も伝えられている小人族の技術は、この地で得た物が礎となっている。
「そうか、ここがワシらの……」
ギルレッグは、向かい合うふたつの山。そして、その間を流れる川を見てポツリと呟いた。
初めて見る地ではあるが、自らの持つ神器である小人王の神槌が反応を示している。
元々小人王の神槌を司る神である炎と鍛治の神と共鳴しているのだろうか。
「……こう言っちゃなんだが、やっぱり何も解らねえな。
小人王の神槌はすっかり反応を示してるんだがなぁ」
白髭を撫でながら周囲を見渡すが、その反応は思っていたよりも軽い。
かつて先祖が鎬を削った地だというのに。涙を流す長老とは対照的に、ギルレッグの反応は軽いものだった。
逆説的に考えれば、あの穴倉生活が決して嫌だったという訳ではなかったのだろう。
「ま、それでも長老や小人王の神槌にとっては帰ってきたことには違いねぇ。
悪いが、ここで小人王の神槌に祈りを捧げてやってもいいか?
小人王の神槌は久方ぶりに帰って来れたことが嬉しいようだ。挨拶させてやりてぇ」
「勿論です! 是非とも祈りを捧げてあげてください!」
この場にいる誰よりも神への信仰心の強いリタは、強く頷いた。
今から魔硬金属の材料を採取しようというのだ、現地の神へ祈りを捧げるのは悪い行動ではない。
シン達にとっても断る理由はなかった。
「炎と鍛治の神様。小人王の神槌が久方ぶりに帰ってきた。
どうか、再会を喜んでやってください……」
ギルレッグは小人王の神槌を地へ置き、篝火を焚く。
小人族の長老と共に跪き、炎と鍛治の神へ深く祈りを捧げ始めた。
「私も、せっかくの機会だしね」
彼らの行動に感化されたのか、朝方に祈りを捧げたにも関わらず、リタも再び愛と豊穣の神へ祈りを捧げる。
見知らぬ地での神への祈り。かつて故郷を追われた小人族に、新たな実りがあればいいと思ってのものだった。
「む……。余も……」
自らが祈りを捧げるべき神が判らないまま、レイバーンは彼女達の行動に追従する。
獣魔王の神爪を置き、両手を合わせる。
所作が正しいのかどうかも判らないが、誠意だけは精一杯込められていた。
「あたしたちも、したほうがいいのかな?」
「どっちでもいいんじゃないのか?」
キョロキョロと三者三様の祈りを眺めるフェリーは、自分達も祈りを捧げるべきかとシンへ問う。
誰も強制している訳ではない。好きにすればいいというシンの言葉通り、フェリーは見様見真似で祈りを捧げ始めた。
シンはというと、神へ祈りを捧げるような真似はしなかった。
レイバーンが居るとはいえ、儀式に集中して反応が鈍る可能性は否定出来ない。
水を差してしまいそうで口にする事は憚られたが、この地に小人族を追い出した者の末裔が残っているかもしれない。
何が現れても対処できるようにと、シンは周囲への警戒を怠らない。
そして、彼の懸念は小人族が祈りを終えると同時に現実のものとなる。
焚べた火を川の水で消す事により、炎と鍛治の神への祈りは終える。
今まさに、篝火が消されて黒煙が立ち昇った瞬間の出来事だった。
向かい合う山。その一方で大地が唸る。
起伏の奥でいくつもの音と影が重なりあうのをシンは察知した。
(7、8……いや、10じゃ済まないか)
二桁を越えた段階で、シンは数える事を諦めた。
俊敏な動きの裏に、明確な意図が存在する。
重なった影は数を悟らせない為。大地を蹴る音は、進行方向を錯覚させる為。
明らかに二足歩行のそれではない動きも相まって、自分の目と耳だけでは追いきれない。
いくつもの影が壁のように立ち塞がる。
視界に入っている以外にも、数多くの者が潜んでいるだろう。
その中で先頭に立つ漆黒の魔狼がゆっくりと。だが、鋭く刺すように口を開いた。
「何の目的で、この地を訪れた?」
威風堂々とした立ち振る舞い。敵意が向けられている様子ではないが、いつそれが反転するか判らない。
上を取られ、立地関係が有利とは言えない状況。
シンは仲間の様子を確認した。
フェリーはある意味でいつも通りだ。目の前の状況に「どうしよう?」と相談しつつも、怖れてはいない。
小人族の二人は、フェリーとはやや違う。記憶にその姿が残っていなくても、本能がそうさせるのか。
長老は怯えており、ギルレッグも尻込みをしているようだった。
流石は妖精族の女王というべきか。リタはすっと立ち上がり、黒狼を見据えている。
妖精王の神弓を手に取ってはいるが、構えてはいない。
ただ、自分達を見下ろす黒狼の姿には思うところがある様子だ。きっと、似ているからだろう。
最後に、レイバーンは口を半開きにした状態で声の主を見上げていた。
相手は四足歩行で、完全に狼の体を成している。自分とは似て非なる存在。
それでも、思うところはあった。赤の他人と言い切るには、顔立ちが自分に似すぎている事に。
誰もが慎重になり、声を出そうとはしない。
相手に完全に主導権渡してもいいものかと疑問に思うシンが、黒狼の問いに答えた。
「俺達は、この地にあるという魔硬金属の材料を集めに来た。
アンタらの土地を荒らすつもりはない」
まずは無難な答えを差し出す。
小人族が里を追われた存在である以上、別の種族が居座る事は予想の範疇。
交渉の余地を残す為に、予め用意していた言葉をシンは口にした。
直接目的を問いながらも、漆黒の魔狼は自らの眼でその存在を見定めようとしていた。
だが、口を開いた人間の言葉が真実か否か。黒狼は彼の本心を測りかねていた。
黒狼が。というよりも、この地に住む魔狼族が人間と邂逅するのは初めてとなる。
こんな場所まで訪れる奇特な人間が現れなかったという話なのだが、それ故に黒狼は人間という種族を想像の上でしか知らない。
魔力も力も脆弱でありながら数だけは多く、大地の多くを牛耳る種族。
単一の種族でありながら、群れの間でも争いが絶えない種族。
では何故、この世界で最も栄える事ができたのか。
それは単に、彼らが進化を止めない生き物だと聞かされているから。
最も、その数故に愚かな個体が生まれる事も後を絶たないとも聞いている。
では、眼前にいる個体はどうなのだろうかと興味は尽きない。
自分が現れてからただの一度も意識を逸らさない人間の男は気になるが、それ以上に黒狼はこの一団が奇妙に感じられた。
彼が特別な存在とは思えなかったのだ。あくまで、意識を一度も逸さなかっただけ。
他の者も、一部を除いて自分の姿に怯えているとは思えない。
クスタリム渓谷を巡って争う種族。鬼族以外の種族からこんな視線を向けられたのはいつ以来だろうか。
警戒心や恐怖心の希薄な大馬鹿者なのか。それとも、本当に恐れていないのか。
金色に輝く黒狼の眼は、その一段の姿を改めて視界へ入れる。
人間の男と女は、魔狼族に決して怯んではいない。
魔力の欠片も感じさせないというのに、自分から目を逸らそうとしない男。
キョロキョロと周囲を見渡し、隙だらけにしか見えない金髪の少女。
けれど、黒狼の本能が訴える。この少女に、迂闊に手を出してはいけないと。
妖精族の少女も、同様に隙が窺える。
そもそも、奇妙な話だった。周囲との交流を絶っているはずの種族が、何故人間と行動しているのか。
握られた弓から感じる威圧感と相まって、見た目通りだと侮ってはいけないのだと察した。
この三人、そして自分達の存在に尻込みしている小人族はまだいい。
経緯は不明だが、普段交流のない多種族がこの地を訪れただけ。
相手も敵対心を露わにしていない事から、青年の言葉は真実なのだと受け入れた。
黒狼にとって。いや、魔狼族にとって問題となるのは残りの存在。
戦車を曳いていた魔犬と、主人と思わしき狼人。魔獣族に分類される者達。
魔狼族を始祖として、枝分かれした存在に違いないだろう。
魔犬はある意味では、魔狼族よりも知れ渡った存在かもしれない。
双頭を持つ魔犬や、地獄の番犬といった存在が幅を利かせているのだから。
黒狼も、派生した種族があそこまで力をつけているのは素直に感心している。
明確な壁は存在しているが、魔王の眷属にまで上り詰めたのだから鼻も高くなる。
そして、もう一体。悠然と立つ狼人の男。
レイバーンの存在こそが、黒狼の感情を揺さぶる存在だった。
「混ざり者か……」
明らかに見下した態度で、黒狼は小さく呟く。
魔獣が人間や、それに準ずるものと交わる事は珍しくない。
それを繰り返した結果生まれたのが、獣人なのだから。
始祖の末裔である自分達からすれば、獣人は唾棄すべき存在でもあった。
魔犬とは明確に違う。獣である誇りを棄て、一線を超えた種族。
だが、それだけでは済ませられない事情が黒狼にはあった。
あまりにも似ている。自分と、目の前の狼人の顔が。
毛色こそ鼠色と漆黒で違いはあるが、暗闇で顔だけ見てしまえば判別は困難だ。
配下の魔狼も、驚きのあまり自分の顔色を窺っているほどに似てしまっている。
それだけなら、黒狼も大事だと思わなかったかもしれない。
彼が問題にしたのは、レイバーンの姿そのもの。
3メートルをゆうに超える大男の姿は、敵対する鬼族そのもの。
通常の獣人は、ここまで大きくはならない。
巨人族もしくは、そこから派生した者の血が混じっている事は想像に難くない。
(よもや、このような獣人がいるとは。まさか、私の血縁……。そんなはずは……)
戦場でどれだけの敵を屠っても、どのような危機に陥っても。
黒狼が動揺する姿を見た者は殆どいなかった。長きに渡る相棒である銀狼ですら、数える程だろう。
その相棒ですら、この男の存在を知ればどう思うだろうか。身体が汗ばんでいくのを、黒狼は止められない。
「もしや、なのだが。お主は余と関係があるのか?」
黒狼の事情や鬼族の存在などつゆ知らず。
レイバーンは祖先が居たというこの地で、よく似た狼を見つけた。
その事実は、少なからず彼の心を躍らせた。
能天気に訊かれた内容は、彼らにとって神経を逆撫でするもの。
激昂した黒狼はざわめく群れを合わせて一喝するかの如く、声を荒げた。
「世迷言を! 私のような誉れ高き魔狼が、貴様のような混ざり者と関連付けられるとは屈辱の極み!」
立場が、誇りが、反射的にレイバーンを拒絶する。
鬼族にも似た獣人が自分と近しい者だったとなれば、周囲に示しがつかない。
真実はどうであれ、黒狼はこの場でレイバーンを受け入れる事など決してできない。
「屈辱とは、余の方こそ心外であるぞ!
余は、自分の祖先がこの地にいると耳にしていた! ただ、訪れただけだ!」
だが、レイバーンも食い下がる。自分の起源を見つけたかもしれない。
何か信用を、信頼を得られるような物はないだろうか。
そう考えたレイバーンが、それを手に取るのは自然な行動ではあった。
「祖先だと? 笑わせてくれる!」
鼻で笑う黒狼だったが、数秒後に彼の眼は大きく見開かれる。
レイバーンの取り出した、それによって。
「余は神器を、獣魔王の神爪を持っておる!
もしお主たちにも関係するのであれば、話を聞かせて欲しいのだ!」
彼が手に取った神器。白銀色に輝く、神が生み出し爪。
それが新たな争いの原因になるとは、シン達の誰一人として想像ができなかった。
魔狼の群れから発せられるのは畏怖や尊敬などではなく、明確な敵意と怒りだった。