幕間.幸運な少年
妖精族の里に造られた研究所。
あちこちに散らばった魔石や、マレットが書いている図面。造りかけの魔導具。
これだけならマレットの家と何も変わらないのだけど、今はもうちょっと状況が違う。
転移魔術を創るために、皆が書き写したメモや魔法陣の案も散らばっているのだ。
何なら、ギルレッグが作った魔導具の試作品も転がっている。
新築とは思えない、嵐が過ぎ去った後のような部屋が出来上がっていた。
当然ながら、主に使用しているのは研究チームだ。
尤も、おれやシンはよく出入りをしている。
二人ともマレットに用事が多いからだろう。
おれの場合は、身体検査も含まれてるけど。アイツ、こないだわざと鍵かけなかったからな。
入ってきたのがストルだから良かったけど。オリヴィアだったら師匠に合わす顔が無かったぞ。
あと、ほっといたら飯も食べないからおれたちが運ぶことも少なくない。
カタラクト島に行ってる間、ちゃんと飯は食ってたんだろうか……。
それはさておき。
研究所の一室でおれはシンと向かい合いながら、紙の上でインクを伸ばしていく。
おっと、シンだけじゃない。時々はマレットもおれたちの様子を覗き見してくる。
「……ピースの世界は不思議だな」
「はは、そっくりそのまま返しますよ」
眉間に皺を寄せながら、シンが呟いた。
おれからすれば、お互い様だ。こっちの世界には魔術もあるし、魔物や亜人も居る。
神は……見たことないだけで、生前も居たかもしれないけど。
今更になって、シンがこんなことを言っているのかには理由がある。
おれは今、彼に物を教えているのだ。教わるのではなく、教えているのだ。
それは、文字だった。日本語と簡単な英単語ぐらいだ。
英語の文法? なにそれ?
日本語と言っても基本は平仮名と片仮名だ。
山とか川とか簡単な漢字は教えてあげられるけど、難しい漢字は流石に書けない。
読んだりは出来るんだけどなぁ。いざ書くとなると、詳細がなぁ。
シンは混乱しつつも、平仮名と片仮名はマスターしつつある。
因みにマレットは、おれがマギアにいる間で覚えてしまった。
平仮名と片仮名を覚えたのに、漢字とアルファベットが出てシンは怪訝な顔をする。
漢字が何万もあるって言ったら、卒倒しそうだ。
一応、この行動にもちゃんと意味がある。決して暇だからやっているわけではないのだ。
発端は研究チームで刻と運命の神の解読をしている時に、オリヴィアが放った一言だ。
「なんとなく解読は出来てきても、合っているかどうか自信がありませんよ!
うぅ、せめてどこかの種族の元となる言語があればよかったのに……」
「妖精族の文字は愛と豊穣の神様の文字を基礎にしているがな。
刻と運命の神様は、全く違う文字だ……」
ぐったりと机に顎を乗せるオリヴィアと、身体を伸ばしながら書き写した文字とにらめっこしているストル。
テランも含めて、主な解読はこの三人が行っている。マレットはどっちかというと皆に任せている。
なんせ転移魔術や武器だけじゃなくて、生活に役立つ魔導具まで造ってくれているのだ。
隙あらば何か造っている。おれの生前の話も、色々と取り入れようとしてくれている。
ありがたいし、おれも生前の話を楽しく聴いてもらえるのはなんとなく嬉しい。
話は戻るけど、解読で頭を悩ませている時にマレットが冗談交じりで言った。
「案外、ピースの世界の文字と関係あったりして」と。
この時テランは初めておれが別の世界で命を落として、何故かこの世界で転生した身だと知った。
隠してたわけじゃなくて、単に言うタイミングが無かっただけらしい。
隠し通すのも面倒だからいいんだけどね。
そんなこんなで、研究チームには既に文字を教えてある。
結果的に役立たなかったけれど、まあ好奇心の塊どもはえらく食いつきが良かった。
「でも、折角覚えたから何かに使いたいですね」
一通り平仮名と片仮名を覚えたオリヴィアが、ぽつりと呟いた。
その時、研究所に顔を出していたのがシンだ。彼は、少し考えた後にこんなことを提案してきた。
「暗号としては、使えるかもしれないな」
確かに、新しく文字やパターンを作る必要はない。おれたちだけが使える暗号としては、比較的容易に活用できそうだ。
というわけで、主に外へ出る人を中心に文字を覚えようという流れになったのだ。
……*
「ピースの世界は、このニホン語とエイ語以外の文字もあるのか?」
「それはもう。おれなんかが知らない文字もたくさんありますよ」
シンはペンを持ったまま、親指でこめかみをポリポリと掻いた。
理解が出来ないといった顔をしている。
「……そんなに、言語が必要か? 人間しか文字を使わないのに」
まあ、言いたいことは分かる。
こっちの世界は人間の文字や妖精族の文字、魔獣族の文字と種族間では分かれている。
けれど、どの国でも共通の文字が使えるのだ。ミスリア語とか、マギア語とかはない。
言語に至っては、みんなと普通に話せるし。転生直後のおれも、なんか話せたぐらいだし。
「そういう意味では、アタシらの世界では神サマがバチバチにやりあった結果なのかもな」
キリの良い所まで進んだのか、マレットは身体を伸ばしながらこっちの様子を窺う。
知ってる。おれをからかう為に、わざと目の前で身体伸ばしてるんだ。
シン経由で聞いたのだが、リタ曰く神々の遺跡に描かれている古代文字は皆バラバラとか言ってたな。
皆好き勝手に作って、統一しようってなったもののマウント合戦始めたんだったか……?
うーん。結果、反面教師として種族間で文字が統一されたのなら意味はあったのか?
「神サマの粋なプレゼントってやつだ」
「プレゼントかぁ……」
「なんだよ? 腑に落ちないって顔をしてるけど」
そんな顔してたか? と言いたいけど、まぁしてたんだろうな。
神々が暴れた結果、統一されたというこの世界の逸話。逆パターンなら、おれは知っているというぐらいの認識なのだけど。
「なんていうか、おれの世界でこんなに言葉が多いのはこんな言い伝えがありますよってぐらいだよ」
「ほう?」
「どんな話なんだ?」
意外と、シンもマレットも食いついてきた。うろ覚えなんだけど、まあいいか。
おれが話したのは、バベルの塔。
天の上。人類が神にも届く塔を建設しようとした話。
色々あって塔は出来上がらなかったし、その結果怒った神によって言語が分断されたというものだ。
「神に逢うために、空まで塔を建てようとしたのか。地上や、海の神じゃ駄目だったのか?」
「いや、そこまでは判らないですけど……」
カタラクト島で、師匠が水の精霊を通して大海と救済の神の話を聞いたもんね。
そりゃ、海の神って発想が出てくるわ。
「つまり、怒った神によってピースの世界では言葉がバラバラになったのか?」
「あくまで言い伝えの話だよ。真実は知らない」
神じゃないけど、人間のマウント合戦が元になって言語が分かれたのかもしれないし。
分かれてることに、疑問は無かったもんな。覚えられないって嘆いたことはいくらでもあるけど。
「……相手は邪神か?」
「そこまでは断定できねっす……」
そう思う気持ちは分からないでもないけど。
おれにとって神は、御伽噺のような眉唾物だった。
けど、この世界は違う。神は居るし、世界に強い影響を与えている。
「なんにせよ、ピースの話は色々と面白いんだよな。
……って、それで思い出した。ピース、なんか子供達が遊べるようなものはないのか?」
「大勢?」
「必要なら魔導具も造る。こないだ切り株闘技場で白熱しすぎちまってさ。
切り株がグチャグチャになったんだよ。イリシャのやつ、カンカンでさ」
カタラクト島から帰ってきたら切り株が綺麗に片付けられていたのはそういうことか……。
子供達の貴重な遊び道具だったから、イリシャも怒ってるんだろうな。
なんて思いながら、イリシャの怒っている顔を想像した。
あれだけの美人も、怒れば台無しになるんだろうか。想像もつかないな……。
「因みにコリスはおろおろしてたぞ」
「そこはフォローしてやれよ!」
ケタケタと笑うマレットだが、コリスが不憫で仕方ない。
イリシャと一緒に子供の世話を初めて、少しずつ明るくなってきたってのに。
「まぁ、とにかくだ。出来れば大勢で遊べる方がいいんだが。
かくれんぼや追いかけっこは、保護者も走り回って体力が相当きついらしい」
人数が増えると、どうしてもその手の遊びは周囲に散らばってしまう。
イリシャやコリス。後はフローラが主に世話をしているけど、炊事洗濯を考えるとそう遠くまで探しにはいけないだろう。
そうなると、思いつくのは団体競技ぐらいしかなかった。
「うーん……。野球とか、サッカーはどうだろう」
「ヤキュウ? サッカー?」
顔を見合わせる二人。知らなくても無理はない。
「ええと、どっちもボールを使う遊びなんだけど――」
おれはマレットとシンに野球とサッカーのルールを簡単に説明する。
生前では大人から子供まで、たくさんの人がやっていたことも伝えつつ。
「成程な。妖精族の里なら広い土地はあるし、提案してみるか」
「そうだな。子供たちも食いつくかもしれない」
シンもマレットも、意外と乗り気だ。
やんちゃな子供も増えて来たらしいし、これで少しでも収まるといいんだけど。
「しっかし、やっぱりピースの世界は面白いな。まだまだ知らないことがたくさんあるんだもんな」
「そうは言っても、おれもうろ覚えのものが多いからなあ。段々説明できなくなってくると思うぞ」
「それは許さん。意地でも覚えてろ」
「無茶言うなよ……」
いくらなんでも、こっちの世界が長くなれば記憶は上書きされていくって。
概要とかは覚えているだろうけど、細かいところはきっと朧気になっていく。
でもそれは、決して悪いことじゃない。
マレットはおれの世界を楽しんで聞いてくれるけど、おれだってこの世界で色んな体験をすることは楽しい。
住めば都って言葉を、身を以って経験している気がする。
もう、好きなんだ。この世界が。記憶が薄れていく代わりに、たくさんのものが得られるに違いない。
なんて、少しセンチメンタルになっているおれの顔をマレットがまじまじと見る。
少し鋭い目つきは睨みつけているようにも感じられた。
「あ! 解かったぞ!」
マレットが勢いよく突き出した人差し指を、おれへ向ける。
彼女が研究所を訪れたのは、まさのその瞬間だった。
「ベルさん! おっはよーございまーす!」
ドアの向こうから勢いよく現れたのは、ほんの少しウェーブの掛かった青い髪の少女。
師匠の妹、オリヴィア・フォスター。転移魔術の研究をしているから、おれ以上の常連なのは間違いない。
しかし、マレットはオリヴィアに目も暮れない。
おれに人差し指を突きつけながら、心底楽しそうに言った。
「どうせお前、『ムネ触ったら、思い出すかも』とか言い出すんだろ!」
オリヴィアの動きが固まる。シンが眉を顰める。おれは目だけが泳いでいる。
空気が凍って、時間が止まったこの世界。マレットだけが、ケタケタと笑いながら流れに逆行していた。
「え、あの。ピースさん。そういうのは、ちょっと引きます……」
「や、誤解! 誤解ですオリヴィアさん!」
オリヴィアが両腕で身体を隠しながら、おれの顔をチラチラと見る。
普段テンションが高い彼女にこんな反応を取られると、流石のおれも傷付く。
シンは何も言わない。会話の一部始終を聴いていたし、マレットがこういう性格だと知っているからだろう。
だったら、フォローして欲しかったな!
マレットはずっとケタケタ笑ってる。むしろ喜んでる。
最高のタイミングでオリヴィアが入ってきたと言わんばかりに。
「ベルさん。研究熱心なのは判りますけど、あまり自分を安売りしちゃダメですからね?」
「ん? あぁ、大丈夫大丈夫。どうせ、ピースにそんな度胸ないし」
「だとしても。です!」
オリヴィアに窘められている中で、マレットは横目でおれを見る。
「フォローはしてやったぞ」と訴えているのだろう。
原因はお前だし、フォローになってないんだけどな。
濡れ衣を着せられることもあるけど、おれはこの世界を気に入っている。
繰り返すが、住めば都だ。決して自分に言い聞かせているわけじゃない。
戦う理由だって出来たし、離れたくない人だっている。
きっとおれは、物凄く幸運なのだろう。今、この瞬間を除けば。