219.紅く灯るは嫉妬の眼
夜が明けたばかりの砂漠は、まだ冷え込んでいる。
なんとも形容しがたい物体を見つけた彼女は、口元を抑えながらもわざとらしく素っ頓狂な声を上げた。
「あらまあ! これはまた前衛的な芸術品ですね。
流石は芸術の国出身なだけはありますよ!
いやぁ、ワタシにはとても真似できません。アルジェントさんならではですよ」
砂漠に顔を埋め、逆立ち状態のアルジェント。
足の先までピンと伸び、まるで一本の矢のように地面へと突き刺さっていた。
そんな彼の様子を見て、クスクスと笑う一人の女性が居た。
僅かにベージュへ寄った、艶やかな茶色の髪。左眼を隠すように眼帯を付けた彼女を彼は知っている。
サーニャ・カーマイン。ミスリア内部にて主に情報の収集をしていた密偵の女。
「メチャクチャバカにしてくれるじゃん。サーニャっちよォ……」
顔を引き抜いたアルジェントは、纏わりついた砂を払う。
紅龍族の王に殴られた頬が、随分と腫れてしまっている。
指が触れただけだというのに、アルジェントは激痛に顔を歪めた。
必死に笑いを堪えるサーニャ。ただでさえ、砂に突き刺さる男の姿を見ていたのだ。
十分面白い光景だったというのに、引き抜いてみたらまるで握りこぶしでも蓄えているかのように膨らんだ頬。
二段構えで笑わせに来るとはと、感心すら覚える。
「ぷ。ふ、ふふ……。アルジェントさん、本当に笑わせてくれますね。
そんなに気を遣わなくていいんですよ? ワタシ、これでも結構笑っている方だと思いますから」
「いくらなんでも失礼すぎんだろ。ていうか、オレっちの顔そんなにヤバいのかよ……」
アルジェントはそっと指先で顔面のラインをなぞる。
明らかに膨れ上がった丘に、血の気が引いた。人間の顔で、こんな造形をしていいはずがない。
「そ、それで。一体どうしたんですか? ふふ、も、もしかして女の子にフラれたんですか?
うーん。それにしては強く殴られ過ぎですし……。あ! 博打で負けて金が払えなかったんですね!」
「どっちもハズレ。博打には勝ったし、キレイなネェちゃんとも旨い酒を呑んだよ」
口元を抑えて笑いを堪えるサーニャに、アルジェントは若干苛立ちつつも答えた。
つまらなさそうに「なんだ、残念ですね」と返すサーニャに顔を引き攣らせると、頬の痛みが再発する。
「では、どうしてアルジェントさんはこんな所で砂に突き刺さっていたんですか?
もうワタシには、ただ奇行に走った危ない人っていう結論しか出せないんですけど」
「オレっちの評価おかしくねェ?
……ミスリアの人間と戦り合ってたんだよ。後、神器の槍を持ったジジイとも」
小馬鹿にするようにケラケラと笑っていたサーニャから、笑顔が消える。
眉を顰め、下唇を人差し指の腹で撫でている。考え込んではいるようだが、経緯が判らないとアルジェントへ答えを求めた。
「……何があったんですか?」
「まァ、ちょっとイロイロとな」
屈辱の記憶を掘り返す事に、乗り気ではないアルジェント。
だが、中途半端に伝えただけでサーニャが納得するはずもない。彼の背後にいるビルフレストやアルマも同様だろう。
ガシガシと後頭部を掻く。ボロボロと落ちる砂が、彼から更に屈辱を思い返させた。
……*
アルジェントは、自分の身に起きた事を全て話した。
博打を打ちたくて砂漠の国を訪れたという、サーニャからすれば全く興味の無い部分も含めて。
たまたま異常発達した魔物を退治する為に、砂漠の国で現れたイルシオン達を見つけた事。
賭場では大勝をして、魔物へと変貌する劇薬を敗者達へ飲ませた事。
深夜に街を混乱に入れる形で奇襲を仕掛け、一度は優位に立つも神器を使いこなす老人に一杯食わされ、砂漠に突き刺さっていたところだったのだと。
「……てなことで、オレっちは休暇にも関わらずしっかりとお勤めを果たしたというわけよ。
ま、明け方には撒いた種が芽を出してるんじゃねェの? 後は砂漠の国が日和るかどうかだけだな」
決して一方的に敗けた訳ではないと、アルジェントは強がる。
最後の一手は砂漠の国任せとはいえ、きちんと仕事をしている点は素直に賞賛出来た。
「それは、まあ。楽しんでいるのにお仕事を忘れない精神は立派ですね。結果は置いておいて」
「一言多いよ、サーニャっち。……で、サーニャっちはなんで砂漠の国に居るんだ?」
訝しむような眼で、サーニャを睨みつける。
よもや偶然と答えるつもりはないだろう。小馬鹿にするにしても、速すぎる。
「そうですねぇ。アルジェントさんなら、賭場にいるかと思いまして。
砂漠の国に出向いてみたのですが、まさか賭場ではなくて砂漠に突き刺さっているとは。
ぷ、くく……。思い出しただけでも、面白くて……」
「いいから。用件を言ってくれよ」
「失礼」と言いながら、サーニャは顔を背ける。握りこぶしを口元へ当て、俯く顔は若干震えている。
彼女は微塵も悪いと思っていない。それだけは明確に判る。
「えぇと。二点、お伝えすることがあります。
まずはひとつめ。これは純然たる事実です」
サーニャは神妙な顔つきで、自分達に起きた変化を語り始める。
初めは黙って彼女の言葉に耳を傾けていたアルジェントだが、次第に信じられないと声を荒げた。
「――マジで言ってんのかよ、サーニャっち!?」
「だから、純然たる事実と申し上げたでしょうに」
握った拳。爪が掌に食い込んでいても、アルジェントは決して力を緩めない。
彼女によって聞かされた話は、それ程までに信じられなかった。
邪神の適合者。『嫉妬』のラヴィーヌと『怠惰』のジーネスがカタラクト島で戦死したという情報。
二人だけではない。カタラクト島に封印されていた、浮遊島の奪取へ向かった者。
つまりは黄龍王とトリス・ステラリードも命を落としたという。
適合者が同時に二人。更に、黄龍王とトリスまで。
極めつけは邪神の分体だ。『暴食』と『怠惰』まで消滅させられたというのなら、完敗としか言いようがない。
「そんだけ戦力を割いて敗けるなんて、蒼龍王ってのはよっぽどヤバい相手だったのか?」
「他にも原因を上げるなら、アメリア様や不老不死の少女と遭遇したようですね。いやはや、運が悪いというかなんというか」
何より、サーニャには気になる人物がいた。
シン・キーランド。不老不死の少女がカタラクト島に現れた以上、あの男も同行していたに違いない。
ミスリアの王宮でも、三日月島でも。あの男には煮え湯を飲まされた。
ある意味でサーニャは、敵対する勢力で彼を一番警戒している。
その揺るがぬ意志を動かせる人間はそういないという点も含めて。
「だとしてもだ。こりゃ、気を引き締めていかねェとな」
アルジェントはその心境を現わすかのように、広げた掌へ拳を突き中てる。
決してその衝撃が引鉄となった訳ではないが、彼の脳裏に浮かんだのは素朴な疑問。
「……ところで、やけに詳しい事情を知ってんな?
カタラクト島へ行った奴らはみんなやられたんだろ? 一体、どうしてそこまで判るんだ?」
意外と鋭いものだと、サーニャは感心した。彼の言う通り、人間の言葉を発する者達は全員命を落とした。
だがそれは、全員がカタラクト島でという訳ではない。ラヴィーヌは、ビルフレストの手によって命を落としている。
サーニャが伝えた内容は、ビルフレストが士気を高める為に味方へ発したものと同じ内容。
つまりは、大本営での発表。背後にある事実は、偶々目撃したサーニャ以外知る由もない。
アルマにすら語っていない時点で、薄々と勘付いていた。彼は自分の考えの下、独自に行動している部分がある。
試そうと思った訳ではないが、アルジェントの反応を見る限りは彼も繋がってはいない。
ならば余計な事は言うまいと、サーニャもラヴィーヌの死。その真実は伏せると決めた。
「そこまでは、なんとも。ビルフレスト様の情報網は、ワタシたちより広いのだろうとしか」
「ふぅん……?」
顔を訝しむアルジェントだが、追及はしなかった。
相手は数年もミスリア。それも貴族達を欺き続けた女狐だ。
きっと問い詰めても何も話しはしないだろう。そもそも、今の話が彼女にとって真実の可能性すらある。
無駄な口論を始める事は、お互いにとって好ましい状況とは思えない。
「で、もうひとつの話ってのは?」
空気を入れ替えるかのように、アルジェントが話題を切り替える。
サーニャにとってもありがたかった。これ以上追及された場合、自分の立ち位置が明確に決まってしまう恐れがあったから。
世界再生の民の考えに背くつもりはない。ただ、ほんの少し抱いたビルフレストへの懸念。
本当に小さな、目を逸らせば視界から消えてしまうようなヒビ。そんなものに、己を賭けようとは思わない。
「もうひとつはですね、お仕事です。アルジェントさんが適任ですので」
咄嗟に作った割にはよくできている。鏡を見れば、きっとそう自画自賛をするだろう。
満面の笑みを浮かべながら、サーニャは彼に与えられた任務を伝えた。
「……まァ、そりゃ確かにオレっちが適任だわ」
話を聞いたアルジェントが、納得したと深く頷く。
非常に人使いが荒い内容ではあるが、蒐集家としても強く興味をそそられる。
「ですよね。アルマ様のためなので、よろしくお願いしますね」
「はいはいっと。アルマっちのためなら、しょーがねェなァ」
実質的にビルフレストが世界再生の民を指揮していたとしても、アルマは自分達が担ぐべき象徴だ。
彼の為ならば、二つ返事で動かなくてはならない。やがて邪神すらも統べる絶対の王には逆らえない。
「大事ですよ、その心意気。いやぁ、アルジェントさんは話が早くて助かります」
「……それ、比較対象がジーネスのオッさんだよな?」
いくら何でも、倍以上も年が離れたジーネスと比べられるのは聊か不本意だった。
尤も、彼も最期は任務に忠実だったのだから安らかに眠って欲しいとは思うが。
「では、まずは砂漠の国から脱出しましょうかね。日が昇ったら暑くて敵いません。
突き刺さったままのアルジェントさんを見る限り、ミスリアの方々が追ってくる様子はないですけど」
「だから、サーニャっち。さっきから言葉に棘があるんだよ」
振り返り、背を向けているがサーニャがくすくすと笑っているのは顔を見るまでもない。
ため息を吐きながら、彼女に追従をしようとした時の事だった。
広大な砂地が、まるで水流のように動き始める。
サラサラと音を立てながら、砂丘とは違う砂の瘤がみるみると大きくなっていく。
風船が割れるかの如く、砂がはじけ飛ぶ。
中から現れたのは、異常発達した魔物。砂漠の大蛇と、砂漠蟲だった。
砂漠の上で佇んでいる人間二人を、魔物は餌として認識した。
チロチロと舌を出す砂漠の大蛇は、品定めをしている。
砂漠蟲に至っては、待ちきれないと言わんばかりに涎を砂へと垂らしていた。
「あー……。めんどくせェな、オイ」
アルジェントはつまらなさそうに、夜明けの光を遮る魔物を見上げた。
この程度の相手に苦戦する道理はない。ただ、生き物は接収で札へ変える事が出来ない。
彼にとっては、ただ弱い者いじめをするだけの戦闘。人間と違って反応を愉しめないからこそ、心底やる気が出ない。
「じゃ、サービスです。ワタシが処理してあげますよ」
サーニャはそっと、自らの眼帯を外す。
彼女の後ろを歩いているアルジェントには、その仔細は判らない。
ただ、彼女の左眼は邪神の分体。適合した『嫉妬』が埋め込まれている。
「――!」「――!?」「――――!!!!!」
刹那、魔物達は声にならない悲鳴を上げ始める。苦しみ、藻掻き、のたうち回る。
暴れ回る気力すらなくなった頃合いを見計らい、サーニャは魔物へと近付いていく。その手に握られているのは、二本のナイフ。
そっとナイフを突き立てられた魔物は、絶命する。一切の抵抗すら見せずに。
「全く。返り血で汚れてしまいましたよ」
手持ちの水を惜しみなく使い、サーニャは汚れを洗い流す。
傍から見れば、魔物達が自滅をしていった。けれど、それだけではない。
間違いなく、彼女は『嫉妬』の能力を使ったのだとアルジェントは確信をした。
「……サーニャっち、今のは?」
「はい? 今のですか?」
サーニャは自らの顎に指を当てながら、天を見上げる。
やがて何かを思いついたかのように、彼女は笑みを浮かべた。
「きっと、悪い夢を見ていたんでしょうね。魔物も夢を見る。うん、新発見でしたね」
笑顔とは真逆の熱が籠っていない声に、アルジェントは身震いをする。
自分の接収に負けず劣らず危険な能力だというのは把握をした。
『嫉妬』が発現させたのは、彼女の中で燻り続けた悪意。
ずっと火が灯る瞬間を待っていたかの如く、石榴色の左眼は輝きを放っていた。