213.伸ばした手は、今度こそ
真上から降り注がれる日光をこんなに疎ましく思ったのは初めてかもしれない。
イルシオンは砂漠の真ん中を放浪しながら、今日何度目か分からない水分の補給を行った。
「イルシオンさ~ん……。方角、ほんとに合ってますか?」
ストールを巻いた頭から、茶色の髪がはみ出す。初めの感覚に、体力が奪われていくのを実感する。
垂れた布に同調するかのように、犬のように舌を出したイディナが不安げに尋ねたものだった。
「目撃情報はこっちから来ているんだ! 巣があるのは間違いない!
多分。いや、きっと……」
「なんで段々と弱くなっていくんだよ」
言葉から力が失われていく様に、紅龍族の王は呆れるほか無かった。
火口でさえ生活できる火龍のフィアンマにとっては、なんてことのない暑さ。
けれど、人間の二人にとっては慣れない環境は過酷なもののようだ。
「イルシオンさん。せめて、せめて自信だけは持っていてください……。
不安になると、余計に暑さが気になって……」
「分かってる、分かっている!」
「分かっているように見えないけどね……」
焦るイルシオンと、呆れるフィアンマ。「暑い」以外の思考が停止しかけているイディナ。
忍耐力勝負の様相を見せながら、一行は砂漠の中を歩いていく。
……*
数時間前、砂漠の国へと入国を果たしたイルシオン達。
筋を通す為に訪れたのは、砂漠の国の国境付近を警備する者達。
斥候に対する牽制を兼ねてのものだった。
「しかしだな、それでは我が軍の尊厳が……」
煮え切らない態度で尻込みをする、デゼーレの警備隊長。
周囲を見渡しても、明らかに魔物の被害が出ている。それでも、ミスリアの人間を前にして首を縦に振ることは出来なかった。
「尊厳より、兵の安全を考えてやるべきだろう。
お前は、争う為に魔物が彷徨う砂漠に兵を派遣するのか?」
紅龍族の王であるフィアンマは、兵士を駒のように扱う事に憤りを感じていた。
予め龍族と伝え、証明として姿を見せておいたのが功を奏したのか警備隊長は肩を落とした。
「……承知した。魔物の駆除は貴公らに頼む。
兵士達にも家族がいる。私とて、無闇に命を落として欲しくはない」
「それと、上手く行った暁には……」
イルシオンの要求について、警備隊長は渋い顔をする。
「そちらについては、全てが私の権限行われている訳ではない。
……努力は、させてもらうが」
「十分だ! 話が早くて助かる」
彼の回答について、イルシオンにとっては予想の範疇だった。
国王直々の命令とあれば、逆らえないのも無理はないだろう。
だが、結局前線に赴くのは兵だ。戦意を削ぐ事が出来れば、行き足も鈍るだろう。
こうしてイルシオン達は、砂漠の国の邪魔立てが入らないように釘を刺した。
彼らのメンツを守るため、表向きは近くの街にある冒険者ギルドで討伐依頼を請けたという形で。
……*
そして現在。彼らは魔物の巣が見つけられないまま砂漠を彷徨っている。
チリチリと焼き付ける日差しが、不快感を加速させていく。
「イルシオンさーん……」
「分かってる!」
駄々をこねる姿は、まだ子供と言ったところだろうか。
見兼ねたフィアンマが龍族の身体となり、イディナを乗せて歩いている。
慣れない索敵に、イルシオンも焦りと苛立ちが隠せなくなってきた。
これまでの旅で、彼は敵の本丸を最短距離で叩いてきた。
クレシアの持つ魔力探知能力と、風を操って周囲の状況を探る探知。
今なら痛いほどに分かる。彼女が自分に、どれほどの恩恵を授けてくれていたのかを。
(本当にオレは、なにもかもクレシアに助けられていたんだな……)
情けなさと寂しさで、イルシオンは感傷に浸る。
そんな折だった。自分の足元が、僅かに緩んでいると気付いたのは。
慎重になりながら、ゆっくりと砂を踏みしめる。
間違いない。先刻よりも、靴が深く砂に埋まっている。
「……フィアンマ、気を引き締めてくれ。イディナはオレとフィアンマの後ろに。
決してオレたちから離れるなよ」
「分かった」
「は、はい!」
鞘から抜いた紅龍王の神剣に、魔力を伝わらせる。紅の刀身が光を放つ。
フィアンマはイディナを下ろし、彼の死角をカバーするべく陣取る。
イディナはというと、言いつけ通りに二人の間に挟まっている形だ。
剣こそ抜いてはいるが、イルシオンにそれを使わせるつもりはない。
空気が代わり、言いようのない緊張感がイディナを襲う。
固唾を呑み込み喉が音を鳴らしたと同時に、砂の中から大量の魔物が姿を現した。
砂と同じ色をした身体に、目玉とも見間違うような黒い模様が塗りたくられている。
地中を這い、獲物を丸呑みする蛇の魔物。砂漠の大蛇。
四方八方から砂を突き破って現れた砂漠の大蛇は、まるで噴水のようだった。
「現れたか!」
挨拶代わりにと、イルシオンは眼前の砂漠の大蛇を紅龍王の神剣で斬り払う。
まるでバターのように容易く真っ二つとなった砂漠の大蛇は、その場へと崩れ落ちる。
一瞬で斃された仲間の姿を見て、砂漠の大蛇は攻め方を改めた。
砂の中から奇襲をかけるのではなく、まずは敵の意識を分散させるべく動き始めた。
「イルシオン! ボクは上のやつを!」
「任せた! イディナは、小さい蛇だけでいい!」
「はいっ!」
地中から飛び出した砂漠の大蛇は、砂を撒き散らしながら上空へ高く跳んだ。
砂の雨と太陽の光が目に入り込み、一時的に視界を奪う。
「目が……」
反射的に空へ飛んだ砂漠の大蛇を目で追ってしまったイディナは、砂粒をもろに浴びてしまう。
地面を這う砂漠の大蛇が生まれた隙を狙うが、イルシオンの炎の魔術にとって焼き払われる。
「イディナは地面だけに注意するんだ! 上空はフィアンマに任せろ!」
「す、すみません!」
ゴシゴシと眼を擦り、不十分ながらイディナは視力を取り戻す。
ぼやけた輪郭の中、僅かに動いている珍妙な模様を剣で斬り払う。
分厚い皮膚によって守られている砂漠の大蛇は、自分の力では一撃で斬り払えない。
それでもイディナは何度も刻みつけるように剣を払う。時には、ぱっくりと開いた口から胴体を裂く様に無我夢中で剣を振るった。
上空へと飛んだ砂漠の大蛇は、目眩ましを済ませたと思えば急降下を開始する。
イディナ同様に砂と太陽光で視界を奪われたフィアンマだが、魔物しかいないと見るや味方の頭上をカバーするかの如く炎の息吹を放った。
灼熱の砂漠といえど、所詮は生物が生息できる範疇。地面の中となれば、更にその温度は下がっている。
そんなものは茶番だと言わんばかりに、火龍が一瞬で砂漠の大蛇を焼き尽くしていく。
黒い煙を放ちながら、灰となって風に乗って消えていく砂漠の大蛇。
難を逃れた個体は、その存在を危険だと長い身体をフィアンマの首や胴へと巻き付かせた。
獲物を丸呑みするだけではなく、強靭な肉体によって相手の骨を砕き、絞め殺す。
熟練の冒険者であろうと、捕まれば最後。その拘束に抗う術はない。そう、相手が人間であれば。
「あまり抱き着かれても、趣味じゃないから勘弁してくれよ」
フィアンマは視力が完全に回復しておらず、自分の身に這いずる気味の悪い感触に不快感を露わにした。
感触の大元である首や同に爪を立てると、砂漠の大蛇はその身を仰け反らせる。
そのまま身体から引き剥がそうとするフィアンマ。砂漠の大蛇の抵抗も虚しく、その身は引きちぎられてしまった。
「全く、失礼な奴らだ。仮にも龍族の王だというのに」
鼻息を荒くするフィアンマの足元には、引きちびられた砂漠の大蛇の血液が砂へと浸み込んでいた。
イルシオンは地中から現れる砂漠の大蛇を斬り伏せると、その出現位置をある程度把握しつつあった。
砂の中から姿を現すより先に、紅龍王の神剣の切っ先を突き立てる。僅かに砂に滲んだ血が、答えを示していた。
「これで、終わりだ!」
そのまま自らの魔力を紅龍王の神剣へと喰わせる。
熱は砂漠の大蛇の通った通路を伝って行き、日の目を浴びる事なく砂漠の大蛇は焼き尽くされていく。
新たに地中から現れる個体が居ない事を確認して、イルシオンは神剣を砂から引き抜いた。
「ふう……」
イルシオンはほっと一息をつくと同時に、砂漠の大蛇の死体を見ながら物思いに耽る。
大きな個体は上空へ向かって飛び、小回りの利く小さな個体が砂を這いずり回っていた。
砂漠の大蛇は明らかに統率の取れた動きを見せていた。一人だと、もっと苦戦していたに違いない。
(オレもまだまだだな。こんなことでは、クレシアの仇が取れるはずもない……)
気付けばイルシオンは、紅龍王の神剣の柄を強く握りしめていた。
刻み込まれた後悔の念と同じ分だけ、神剣に想いが乗せられる。
だからなのかもしれない。戦闘が終了したという安心感から、彼の意識は味方から切り離されていたのは。
(もう蛇が居なくなっちゃった。イルシオンさんも、フィアンマさんも凄いなあ)
まだ輪郭をぼやかせた視界で、イディナは自分の足元を見る。
小さな個体だけと戦ったとはいえ、自分が斃したと言い切れる砂漠の大蛇は僅かに二体。
大量の魔物を一瞬で葬った二人とは雲泥の差だった。
それでも自分なりに頑張ったと、イディナは自らを褒める。
敵の動きに釣られてしまったのは反省しなくてはならないが、その後は言いつけを守って自分に対処できる範囲で動いた。
この場で彼らと戦闘出来たのは幸運に違いない。目標にするべき存在だと、自らを鼓舞する。
(できることから、コツコツとやらなきゃ!)
奮起するイディナは、砂漠の中にある者を見つける。
輪郭がぼやけてはいるが、人影のように見える。蹲った人が二人、お互いを支え合うようにしているのだ。
(大変だ! さっきの戦闘で、近くに人が居たのかも!)
イディナは周囲を確認して、魔物が居ない事を確認する。
もしも魔物に襲われそうになっていたのなら、保護をしなくてはならない。
安全な街まで連れて行ってあげようと、イディナは人影へと速足で駆け寄る。
「イディナ?」
「人影が見えたんで、保護してきます! すぐ戻りますから!」
同様に目を擦りながら、離れていく彼女の名を呼んだ。
イディナは一瞬だけ振り返ると、また人影の方へと身体を回転させる。
「人影……?」
イディナの弾むような声で、イルシオンが我に返る。
この周囲は砂漠だらけだ。隠れるようなところなど、何処にもない。
魔物を見つけるまで、一面砂に塗れた世界だったのを自分達はよく知っている。
「イディナ! 待て!」
イルシオンは振り返り、イディナが走っていく方角を見る。
彼女の奥で蹲る黒い影に対して、目を凝らす。
気付けば彼は、紅龍王の神剣を手に取ったまま走り始めていた。
「大丈夫ですって。あ、決してあの方は怖くなんて――」
少しでも打ち解けておこうと、冗談めかして人影へと寄るイディナ。
彼女はまだ気付いていなかった。いくら近付こうとも、その人影の輪郭がはっきりしていない事に。
人影との距離が埋まり、彼女自信の目もその機能を完全に取り戻しつつある。
そこまで近付いて、イディナは漸く気付いた。自分が追っていたものが、『人』では無かった事に。
「えっ……?」
眼前にあるのは黒い模様をした袋のようなもの。
イディナの近付いた振動により、袋は大きく形を崩してしまう。
この模様には見覚えがある。直前まで戦っていた、砂漠の大蛇と同じ模様だった。
脱皮した砂漠の大蛇の皮に砂を詰め込み、模様の陰影を利用して生み出された囮。
後方でイルシオンが叫んでいるが、イディナの耳には入っていない。目の前の状況が整理しきれず、思考が定まらないでいた。
「え……?」
「イディナッ!」
刹那、彼女の景色は真っ黒に塗りつぶされる。
イルシオンの叫びは、イディナに届かない。
砂の中から現れたのは、今までよりも一際大きい砂漠の大蛇。
異常発達したのか、親玉なのか。そんな事はどうでも良かった。
飛び出した砂漠の大蛇は、周囲の砂ごとイディナを丸呑みにした。
閉じられた口とギョロギョロと動く目玉が、イルシオンの視線を釘付けにした。
優越感か、はたまた達成感か。余裕を見せるかのように砂漠の大蛇は舌をチロチロと動かす。
結論から言えば、それは余計な行動だった。砂漠の大蛇は、イルシオンの逆鱗に触れた。
「ふっ……ざ、けるなァ!!」
鬱陶しい口を縫い付けるかのように、見下すような眼を潰すかのように、紅炎の槍を何本も砂漠の大蛇の顔面へと放つ。
顔を焼き焦がす熱に苛立ちを見せる砂漠の大蛇だったが、イルシオンの怒りはそれ以上だった。
「返せっ!!」
強引に魔力を喰わせ、力任せに振るわれた紅龍王の神剣は砂漠の大蛇の長い身体をいとも容易く両断する。
イディナと思われる膨らみを斬り取るかのように蛇の輪切りを造ったイルシオンは、そのまま切っ先を砂漠の大蛇の顔面へと突き立てた。
「お前は、死ね」
怯える視線も、懇願する表情も関係ない。彼の怒りを買った砂漠の大蛇は、呆気なく焼き尽くされる。
イルシオンは輪切りにした砂漠の大蛇の身体を、慎重に裂いていく。
中からイディナが無事に現れたのを見て、安堵で膝を崩した。
「あ、あの……。えっと……」
突然視界が暗転したと思えば、傍にはイルシオンが居る。
目まぐるしく変わっていく状況に、イディナは自らが呑み込まれたという事実さえ理解しきれていない。
ぺたんと座り込み、砂の熱で尻も脚も火傷してしまいそうだった。
けれど、同様に座り込んでいるイルシオンも放っては置けない。急いで走ってきたのか、彼の息はとても荒かった。
「イルシオンさ――!?」
一先ず、彼に声を掛けようと寄った時だった。
不意に覆い被さられ、イディナは目を丸くする。
「バカかお前は!? 離れるなと言っただろう!」
耳元で鳴り響くのは、イルシオンの怒号。力の限り寄せられた身体は、剥がす事を許さない。
彼の肩越しに周囲を見渡すと、砂漠の大蛇の死体が転がっている。
ここまでされて、イディナは漸く気が付いた。自分の危機を救ってくれたのは、この男性なのだと。
「はい。あの、すみません……でした」
段々と記憶が鮮明に蘇る。人影と見間違えたものは、砂漠の大蛇の作った囮だった。
丸呑みにされてしまった自分、イルシオンが助けてくれた。そうでなければ、今頃自分は消化されていたのかもしれない。
そう思うと恐怖で、涙がぽろぽろと零れていく。イルシオンの背中越しに、砂漠へ雫が落ちていく。
「……無事でよかった」
それは本心からの言葉だった。イディナが呑み込まれた瞬間、イルシオンの脳裏に蘇るのは三日月島での戦い。
ビルフレストの『暴食』にクレシアが喰われた一件。それは紛れもなく、彼の精神的外傷として植え付けられた。
似たような出来事が眼前で再現されつつあり、イルシオンは正気が保てなかった。
こうして彼女の温もりがある事に救われたのは、イルシオンの方だった。
その隙を見て、地中から姿を露わそうとする魔物が居た。
同じく砂漠で頻繁に人間を襲っている魔物、砂漠蟲。
多くの個体はイルシオンによって巣ごと焼き払われたが、生き残った個体が好機と見計らって砂の中から現れる。
「はい、そういう野暮なことはしなくていい」
だが、砂漠蟲は地上へ現れた事を後悔する。
飛び出た自らの身体を掴むのは、龍族の爪。紅龍族の王が、その身を掴んでいた。
悲鳴を上げる事すら許されず、砂漠蟲はその身体を握りつぶされる。
異常発達の証明ともいえる、琥珀色の結晶と共に。
「……全く、イルシオンも砂漠蟲に全く気付いていないじゃないか。
世話が焼けるよ、本当に」
ため息を吐きつつも、フィアンマの眼差しは優しかった。
腕の中に居るのは彼が護ったもの。今度は失わずに済んだ。
伸ばした手は、間に合ったのだから。