212.砂漠の国へ
ラットリアを後にした三人は、ミスリアを更に南下していく。
向かう先は砂漠の国との国境を監視する、カッソ砦。
「イルシオンさん。ほんとうに、ご実家には寄らなくていいんですか?
ぼくは寄ってもらったのに……」
道中、イディナは何度もこの質問を繰り返した。
まだあどけない少女にとっては、家族が帰りを喜んでくれるというのはとても嬉しい。
だから、きっとイルシオンだって喜ぶはずだという気遣いからだった。
「いい。絶対いい。カッソ砦に父上が居るんだ。実家に帰る必要はない」
一方のイルシオンも、毎回同じ返答を繰り返した。
彼はもう二年も実家に帰っていない。今回も、帰るつもりはなかった。
(実家になんて帰ってみろ。母上は必ず――)
イルシオンは母親が取るであろう行動のシミュレーションを始める。
まず、数日は屋敷から出る事は出来ないだろう。質問攻めと、甲斐甲斐しく世話をし続ける為に。
クレシアの件はもう耳にしているはず。きっと自分の心境に配慮はしてくれるだろう。
その上で、しばらく拘束されるのは間違いない。
母の興味は、イディナとフィアンマにも移るだろう。
あらかた自分との交流を終えた後、更に数日が潰されるに違いない。
特にイディナは、自分の身分を鑑みると五大貴族である母親を邪険に扱うなんて出来るはずもない。
結論として、実家に帰るのは無しとなった。
罪悪感が無い訳ではない。今はその時ではないというだけ。
子を想う母の気持ちはエトワール家で、理解したつもりだ。
いつか、きちんと帰ろうと思う。ついでではなく、帰る事を目的として。
「ねえ、イルシオンさん。本当にいいんですか?」
「いい、大丈夫だ! このままカッソ砦に行くぞ!」
「やれやれ……」
気を遣うイディナ。有難迷惑のイルシオン。
そのやりとりを見て肩を竦めるフィアンマ。
やがて不揃いな一行は、目的地であるカッソ砦へと到着する。
……*
「おお、イルシオン。本当に来たのか」
イルシオンの父であり、カッソ砦の責任者でもあるルクスは驚嘆の声を上げた。
ふらふらと放浪し、連絡も一切寄越さない。そんな息子が「向かう」と手紙を寄越して本当に現れたのだから無理もない。
「本当にって、言われてますけど……」
「お前、どんだけ信用されてないんだ」
目をぱちくりとさせるイディナ。対照的に、じっと白い眼を向けるフィアンマ。
どちらもイルシオンにとって心地の良い視線ではない。背後から送られているにも関わらず、はっきりとその様子が伝わってきた。
「来るに決まっているだろう! 父上、何を言っているんだ!」
「いや、昔なら目を輝かせながら父の仕事ぶりを見てくれていただろうがな。
神器を手にしてからのお前は、神器ばかりにかまけていたからな」
ルクスが思い出すのは、幼少期のイルシオン。父の仕事ぶりを見せてやろうと、母であるイザベラが連れて来た日。
全てのものに目を輝かせ、羨望の眼差しを送る愛くるしい息子の姿を忘れるはずもなかった。
紅龍王の神剣を継承した時は、嬉しくもあり寂しくもあった。
息子はこれからミスリアの為に、もっと高みへと昇る。才覚は疑っていなかったが、想像以上に早かった。
そして、まさか英雄になると言って放浪を始めるとは夢にも思っていなかった。さっぱり顔を見せなくなり、心配もした。
五大貴族の当主が集まる際、自分に送られる視線が痛かった。
「イルシオンさんも、やっぱりお父さんに憧れるんですね!
わかりますよ、ぼくもお父さんのようにもっと料理を上手に作れたらって思いますもん!」
イルシオンの背中越しに、昂ったイディナの声が上擦っている。
見なくても判る。彼女は明らかに目を輝かせている。
「最初にボクと逢った時も、目を輝かせてたっけな。
お前、あんまり子供の時と変わってないんじゃないか」
対してフィアンマは、呆れたような口調だった。
前方の父。後方のフィアンマとイディナ。言いようのない居心地の悪さを、イルシオンは感じていた。
「……とにかく、父上! 先日の件で、話したいことがある」
「勿論だ。場所を変えよう」
本題に入ろうと、強引に話題を切り替えるイルシオン。
あの日。ミスリアが真っ二つに分かれた日。
第一王女より挟撃の命が出ていたルクスは、彼が何を語ろうとしているのか容易に想像が出来た。
重い事実を受け止める顔つきは、いつしか父のものではなくなっていた。
……*
司令室でルクスは、イルシオンとフィアンマの言葉に耳を傾けていた。
イディナはこの部屋には居ない。王が死亡したという事実を知らない彼女に、聴かせる訳には行かなかったからだ。
幸い、彼女は「偉い人達の会話だから、邪魔をしてはいけない」と快く承諾してくれた。
今はカッソ砦の精鋭を相手に、剣の稽古をつけてもらっている。
「……そうか」
俄かには受け入れられない話をいくつも聞かされ、ルクスは天井を見上げた。
深く腰を落とした椅子が、僅かに沈む。頭の中を整理させようと、軽く瞼を閉じる。
(ネストル様……。どうか、安らかにお眠りください……)
王の最期の瞬間を知る者は、ミスリアには居ない。
故に、仔細を語れる者は居なかった。それは同時に、王たるネストルを孤立させた事に他ならない。
自分がその場に居れば、身代わりになれたかもしれないという後悔がルクスを襲う。
(……いや、きっと違うのだろう)
仮に自分が三日月島に居たとしても、ネストルの傍に居られたとは限らない。
相手はビルフレストを擁しており、黄道十二近衛兵も半数以上が第一王子に寝返ったという状況。
更に黄龍族と邪神という得体の知れない存在まで手中に収めている。分断する事など、造作もなかっただろう。
或いは、ネストルがその状況を願ったのかもしれない。自らの息子に刃を向ける状況を、見られたくがない故に。
ミスリア内の混乱にも関わらず、非常に多くの者達が力を貸してくれた。
この場に居る紅龍族の王を初めとして、マギアから訪れた青年と少女。彼らと同行していた、妖精族の女王と魔獣族の王。
これだけの者がいて、戦場に居ない自分が不甲斐無いと断ずるのは烏滸がましいの一言だった。
「概ね、理解した。報告ご苦労だった。それで……。エトワールのご令嬢は……」
イルシオンの表情に影が落ちる。訊かれると解っていても、やはり慣れるものではなかった。
エトワール家に謝罪へ向かった事を伝えると、ルクスは「そうか」と短く返した。
「それで、父上。今度はこっちが教えて欲しい。
今の、砂漠の国との関係。それと――」
「第一王女派はどうなったのか。だな」
イルシオンは、小さく頷いた。第一王女から出撃命令が出ていた事はアメリアを通して聞いている。
そして、カッソ砦に到着してから気付いた事がある。人員が、明らかに減っているのだ。
「武勲を上げる為か、フリガ様には逆らえないのか。一部の者は姿を消した。
今はどうしているのか判らん。三日月島で、フリガ様もお亡くなりになられたようだしな」
離反者はカッソ砦の兵士だけに留まらない。分家の者も、離反した数は決して少なくない。
イルシオンは、王都で会ったトリスの存在を思い出した。ステラリード家は、唯一黄道十二近衛兵が分家のみで構成されている。
当主たるネストルが国境沿いのカッソ砦を防衛しており、一人息子のイルシオンは放浪癖のせいで捕まらない。
その為、分家の出であるトリスともう一人。別筋の分家が黄道十二近衛兵を務めていた。
尤も、今となっては第一王子派に寝返ってしまったのだが。分家の者が離反した理由に、彼女達の存在が関係している事は間違いないだろう。
「王都より派遣された龍騎士で、何とか回している状態だ。紅龍族には、どれだけ感謝の言葉を尽くしても足りない」
「気にするな。困ったときは、お互い様だ」
深々と頭を下げるルクスを、フィアンマが手で制した。
話題はやがて、国境を越えた先にある国。デゼーレへと移る。
「奴らは最近よく斥候を放っている。魔物が居ない時に限るがな」
呆れながらにそう口にするルクスは、疲労が蓄積しているようにも見えた。
砂漠の国の斥候だけではない。異常発達した魔物が、国境を越えてミスリアへ侵入してくるという。
「砂漠蟲だけに留まらず、砂漠の大蛇まで現れ始めた。
時折、デゼーレの兵までも襲われている」
「ふむ……」
それを聞いて、イルシオンが何やら黙りこくる。
ルクスの経験上、良からぬ事を考えている仕草だ。
「父上、どれほどの頻度で国境を越えてくるんだ?」
「そうだな……。週に二、三度。多い時は四度ぐらいか……」
「成程、それは良くないな。互いの兵が困っているだろう」
久しぶりに思い出す感覚。困っている人を見かけては、クレシアと共にその原因を力づくで解決してきた。
「おい、イルシオン。お前まさか……」
恐る恐る尋ねるルクスだが、返答を待つのが怖い。
息子がやろうとしている無茶が、ありありと目に浮かぶからだった。
「ああ! 砂漠に行って、ちょっと魔物達を懲らしめてくる!
それだけ頻繁に出ているなら、近くに巣があるだろう。それごと叩いてくるから安心してくれ」
「そうじゃない! 砂漠に入るということは、国境を越えるんだぞ!?
それがどういうことか、分かっているのか!?」
「分かってないのは、父上の方だ」
声を荒げるルクスとは正反対の、静かな声。それでいて、絶対に向かうという強い意思。
隠しきれていない怒りに、フィアンマがイルシオンの心中を察した。
「ビルフレストは、砂漠の国を唆している。ミスリアがじきに疲弊すると言って。
斥候が放たれているのは機を見誤らないためだろう。
異常発達した魔物を駆逐しないのは、奴らからすれば手を汚さずに疲弊を加速させることができるから」
「手を汚さない」の下りには、テランから得た情報が反映されていた。
ミスリアに居る間、交わした情報交換。その際に共有されたのは、アルフヘイムの里での事件。
テラン達はギランドレを唆し、更には妖精族の裏切り者を利用して妖精族を手中に収めようとしていた。
表向きではミスリアと無関係の事件だが、その奥にある悪意は紛れもなくミスリアのものだった。
それと同じ事が、再現されようとしている。
砂漠の国や異常発達した魔物を利用し、疲弊を誘う。
離脱した第一王女派の人間や、ステラリード家の分家。
龍騎士こそ配備されたが、砂漠の国が侵略を開始する下地は出来上がりつつあった。
「砂漠の国の兵が魔物に襲われているのなら、好都合だ。向こうの国境を警備している人間に恩を売る。
そうすれば、侵略する時に前線は躊躇うかもしれないだろ? 挟撃を止めた、父上のように」
「お前というやつは……」
「ビルフレストの好きにはさせない。オレが必ず企みを阻止してみせる」
ルクスは呆れながらも、頼もしく思えた。このまま対処療法的に国境を越えた魔物だけを倒す事に、彼も限界を感じていた。
勿論、それなりの危険性はある。しかし、ルクスはイルシオンという劇薬に身を委ねた。
「そこまで言うなら、分かった。後始末は私がしてやる。
お前は、魔物の退治だけを考えてくれ」
「流石はオレの父上だ。話が分かる」
「……調子のいいやつめ」
イルシオンとルクスは互いの顔を見合わせて、笑みを溢した。
話がある程度纏まったこの段階で、フィアンマが水を差す。
「イルシオン。魔物を駆逐するのはボクも構わない。
けど、イディナはどうするんだ? 砂漠での戦闘は、かなり過酷だぞ?」
「あ゛……」
彼女の存在をイルシオンはすっかりと忘れていた。
ため息をつくフィアンマと肩を落とすイルシオンを他所に、窓の向こうではイディナが懸命に素振りをしていた。
……*
「行きます! ぼくも、砂漠の国へ行きます!」
汗を拭いながら、イディナがあまり余る元気を声にして放つ。
彼女はすっかりカッソ砦の面々と打ち解けているようで、外野からも援護の声が飛んで来る。
「だけどな、イディナ。砂漠での戦闘は想像以上に足を奪われる。
実戦経験の乏しい君では無理だ。大人しくカッソ砦で待っていてくれないか?
ほら、砦の者とも仲良くなったようだし……」
「……でも、イルシオンさんはどんな相手にも立ち向かう人だって聞きました。
ぼくだけ、危ないからってのけ者にするのはおかしいです」
耳が痛い言葉だった。そう、自分は決して退かない。
退かないからこそ、大切な女性を失った。
「それに、置いて行かれるならヴァレリア先生にちゃんと報告します」
「う゛……」
またも耳が痛い言葉だった。彼女の同行が、イルシオンが旅に出る為の条件。
その約束を反故にしては、ヴァレリアへ合わせる顔がない。
「イルシオン、観念しよう。イディナも連れて行ってあげるしかない」
「フィアンマ……」
まさかフィアンマがイディナに賛同するとは思わず、イルシオンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
彼もまた、ヴァレリアから同行における事情を聞いている。イディナを置いて行こうとしたのなら、無茶をする可能性は高い。
ならば、イディナを護る方に神経を集中させてやるべきだと判断する。
「そうですよ! イルシオンさん、ご実家には顔を出さないし、約束も守らないっていうのはナシだと思います!」
「……ああ、もう! 分かったよ! だけど、絶対に無茶はするな。
危ないと思ったらすぐに逃げるんだ、いいな? オレたちがピンチだとしてもだぞ!? オレたちは自分で逃げられるんだからな!」
半ばヤケになりながら、イルシオンは声を張り上げた。
対照的にご満悦のイディナが、腕を天に向かって伸ばす。
「はい、分かりました! 精一杯、頑張らせていただきます!」
「だから、頑張らなくていいって……」
本当に理解しているのかと、イルシオンは天を仰いだ。
そんな二人のやり取りを見て、フィアンマは「どっちもどっちだよ」と肩を竦めていた。