210.その想いは、永遠に
群青色の夜空を星明りが照らす。
強く輝きを放つ星へ手を伸ばすかのように、一本の煙が立ち昇る。
王都を出て三日目。イルシオン達にとって、初の野営だった。
「そろそろできますからね。待っていてください!」
八重歯を出しながら、屈託のない笑顔を見せるのは、騎士見習いのイディナ。
特段命令をした訳ではないのだが、彼女は率先して野営の準備を始めた。
慣れた手つきで料理を次々と作っている。
魔術で石かまどを造り始めた時、イルシオンは一体何をしているのかすら判らなかった。
気付けばあくせくと働くイディナの手によって、丸太に腰を掛けているだけの自分の目の前に料理が現れた。
道中で仕留めた猪の魔物をあっという間に解体し、香辛料で臭みを取る。
キノコやバターと一緒に包み焼かれたそれは、開いた瞬間に脳髄を駆け巡るような香りとして襲い掛かった。
ご丁寧にもうひとつ造った石かまどでパンまで焼いている。いつの間に用意したのか、気付いてすらいなかった。
付け加えると、余った肉は燻して保存食にするという徹底ぶりだった。もう、口を挟む事すら烏滸がましい。
「簡単なものですみません! でも、腕によりをかけて作りましたので!」
(簡単とは?)
イルシオンは、イディナの言う『簡単』がどの基準で語られているのかすら判別に困った。
彼はミスリアの誇る五大貴族。その次期当主である彼は、それはもう豪勢な食卓を囲んできた。
成程。一流の料理人達が全力を尽くして作る物を比較にするのであれば、確かにイディナが出した料理は簡単と言って差支えはないだろう。
けれど、彼らがイディナと同じ状況で同じ実力を発揮できるかと言うと、見つける事は至難の業だろう。
次に、イルシオンはかつてクレシアと共にミスリア国内で起きる災難を解決していた。
その中には賞金首も珍しくなく、実家の持つ太いパイプと合わせて旅の路銀に困った事などない。
身体が弱かったクレシアにあまり野営をさせたくないという理由もあるが、こうなって夜空の下で食事をする経験は殆どなかった。
様々な不運が重なって、野営をした事はある。だが、その時の料理がとても食べられた物では無かった。
どちらがどうという訳では無く、単純に二人とも炊事能力が壊滅的だったのだ。
その苦労を知っているからこそ言える。
イディナが眼前に差し出した物は、彼にとって神の所業と言っても過言では無かった。
香辛料とバターが絡み合った猪の魔物の肉を、そっと口へ運ぶ。
一噛みするたびにバターの塩味と香辛料が混ざり合い、口内を覆っていく。
肉を一切れ食べ終わると、次は野菜を口へと放り込む、野菜の甘味が、口の中をリフレッシュしていく。
「……美味い」
「ホントですか!? やった!」
頭上ではフィアンマが長い首を上下に動かしている。
やがて龍族の姿では一瞬で終わってしまうからと、擬態魔術を用いる程だった。
一心不乱に料理を貪る二人の男。
その様子を見ていたイディナは、ニコニコと嬉しそうに眺めていた。
……*
「ご馳走様でした」
「お粗末様です!」
そういうと、彼女は手際よく後片付けを始めていく。
最初から最後まで、イルシオンとフィアンマの出る幕は無かった。
「あー……。イディナは、何歳だったか?」
居た堪れなくなって、イルシオンはイディナへと話し掛ける。
飲み物を要求していると感じた彼女が、水を差しだしたのを見てまた居た堪れない気持ちになった。
「この間、13歳になりました!」
「じゅ……」
幼いとは思っていたが、想像以上だった。
見た目よりしっかりしているので、むしろもう少し年を重ねていて欲しかったと思うほどに。
「冒険者をやっていたのか?」
「いえ、剣を持ったのはついこの間です! 王都が大変だって聞いたから、ぼくも力になれたらいいなって思ったんです!」
フィアンマの問いに、イディナは握りこぶしを両の手で作る。
荒い鼻息が漏れそうなぐらいの気合で、両腕をぶんぶんと上下に動かした。
この三日間、あまり脅威ではない魔物で彼女の能力を試していた。
荒さとやや視野が狭くなるのは玉に瑕だが、反応自体は悪くない。ヴァレリアが「筋が良い」と評価するだけのものはあった。
その程度の認識だったが、彼女の言葉によってその考えは覆される。
ヴァレリアとイディナの話を合わせると、彼女が剣を握ったのは騎士見習いになった頃だろう。
時期を考慮すると「筋が良い」なんて言葉で済ませていいものかと思う才覚だった。
「……じゃあ、料理とかはどうしたんだ? 明らかに手際が慣れていただろう」
「あ、それはですね!」
両手をパンと合わせ、イディナは八重歯を覗かせる。
彼女の実家はエトワール家の存在する街、ラットリアで食堂を営んでいると言う。
ラットリアには教会があり、定期的に炊き出しを行っている。
広場で大量の料理を作る必要があり、手際が求められる。
その活動を手伝っていたイディナは、自然と魔術を用いて効率化を図っていた。
「いやー、あっはっは。だから、魔術も石かまを造るのと火を点けるぐらいしか出来ないんですよね!」
後頭部に手を当て、イディナは満面の笑みを浮かべる。
器用に魔術を使うものだと感心していたが、既にイメージが染みついたものしか使えなかったらしい。
言われてみれば、戦闘で魔術を使おうとした形跡はない。
「だからヴァレリア先生にも、『イルの戦い方を見てこい』って言われたんですよね。
ぼくは先生ほど魔力が強くないので、似たような戦い方は出来ませんし。
イルシオンさんは上手く剣を魔術を併用しているので、勉強させてください!」
「買いかぶり過ぎだ。ヴァレリア姉も、イディナも」
「え?」
イルシオンの顔に影が落ちる。突然の事で、無礼を働いたのかと不安になるイディナ。
見兼ねたフィアンマが、安心を促すかのように首を左右に振った。
「オレは強くない。クレシアが居てくれたから、オレは……」
自分の戦いは、常にクレシアが傍にいた。
類まれな魔術の才を持つ彼女が居たからこそ、後先省みずとも戦い抜く事が出来た。
クレシアが居なければ、何度死んでいたか判らない。
いや、本当なら自分が喰われているはずだった。ビルフレストの『暴食』によって。
「イルシオン……さん?」
おずおずと話し掛けるイディナが視界に入り、イルシオンは我に返る。
感傷に浸るのは、きっとラットリアが、エトワール家が日に日に近付いているからに違いない。
「……いや、悪かった。今日はそろそろ休もう」
「あ……。ハイ、です」
これ以上ない満足感を得た食事だったのに、空気を重くしてしまった。
悔やむイルシオン。時々物思いに耽る彼を心配をするイディナ。
彼の心に巣食った闇を察して、ため息を吐くフィアンマ。
三者三様のまま、夜は更けていった。
……*
それから時に野営を。時には宿に宿泊をしながら一行はミスリアを南下していく。
宿を使えば、龍族であるフィアンマは自ずと人間の姿へ擬態を求められる。
皮肉にも翼を失った事で魔力が抑えられ、擬態した姿は人間とほぼ遜色が無くなっていた。
ただ、常に人間の姿に擬態するのはフラストレーションが溜まるらしい。
彼を休ませる為にも、時には野営を選択した。
野営では、やはりと言うべきかイディナが活躍をする。
身の回りの世話は全て彼女がやっていると言っても差し支えない。
夜は龍族の姿で寝ているフィアンマを見て、襲い掛かろうと言う無謀な魔物や夜盗も現れない。
快適な夜を過ごす事が出来た。ただ一人を除いて。
(……オレ、何もしていないぞ)
夜空を見上げる日。イルシオンは毎晩こんな事を考えるようになってしまった。
自分の出番がほぼないのだ。フィアンマとイディナだけで全てが完結してしまう。
魔物討伐だって、イディナが張り切って戦う。鬱陶しい時は、フィアンマが龍族の姿になるだけで逃げだしてしまう。
イルシオンは道中、ほぼ馬に乗っているか歩いているかの二択だった。
なんだか申し訳なくなってくる。クレシアとの旅ではそんな事無かったのにと、どうしても比較してしまう。
フィアンマやイディナは何一つ悪くないと、解っているのに。
(明日には、エトワール家に到着できるな……)
許されないかもしれない。憎まれているかもしれない。
あれだけ世話になった、気心の知れた家へ赴くのが今は少しだけ怖い。
この日、イルシオンは瞼を閉じても意識を失う事は出来なかった。
……*
「じゃあ、オレはエトワール家へ行く。話が長くなるかもしれないから、自由に動いてくれ。
イディナは、実家に顔を出してくるといい。合流は明日にしよう」
ラットリアに到着したイルシオンは、宿の手配を済ませながらそう言った。
今気付いたが、宿泊費を支払うこの瞬間だけは皆の役に立っている。
「わかりました! フィアンマさんは、イルシオンさんについて行きますか?」
「いや、ボクも街を見学しようかな」
フィアンマはイルシオンの表情を見てそう決めた。
伏し目がちでありながら覚悟を決めたような瞳。自分が居ては、きっと腹を据えて話す事は出来ないだろうと気を遣った。
「なら、街を案内しますよ! 実家の料理も、食べてってください!」
「お、いいね。イディナの家だったら期待できそうだ」
「へへ、期待してくれていいですよ!」
早速食べてみたいと促し、フィアンマはイディナを連れてその場を去る。
イルシオンも一人になる時間が必要だろうと判断してのものだった。
その心遣いに感謝しながら、見据える先はこの街で最も大きな屋敷。
エトワールの本家だった。
……*
使用人に案内された待合室で、イルシオンは独りでソファへと腰掛ける。
いつも訪れる時は、居間からクレシアの部屋へと向かう。
見知った屋敷の知らない部屋は、自然と彼の顔に汗を滲ませた。
「……イルシオン君」
侍女が連れて来たのは、クレシアの母。セシル・エトワール。
以前、クレシアと訪れた時より頬が痩せこけている。彼女の胸中を思うと、イルシオンは言葉を失った。
「ご無沙汰、しており……ます」
絞り出した言葉は、微かに震えていた。
なんと言われても受け入れるはずだったのに、いざ本人を前にすると恐れてしまう。
自分の情けなさが、嫌になった。
「ヴァレリアからの手紙で知ったわ。グロリアと、クレシアのことを」
きゅっとイルシオンの喉が絞まる。言葉を発さなくてはいけないのに、身体がそれを拒絶する。
あんなに傍若無人で、自信の塊だったイルシオン・ステラリードは何処へ行ったのだと己を鼓舞しても、身体の震えは止まらなかった。
「オレの……せいです。オレのせいで、クレシアは……」
漸く絞り出した言葉。一言一言、ゆっくりと語り始める。
三日月島での戦いを。グロリアは邪神の手によって死んだと。
そして、クレシアは自分を護って死んだ。身代わりになったのだと。
イルシオンが語る間、セシルは頷きながら彼の言葉に耳を傾けた。
きちんと溜め込んだものを吐き出せるように、一切の邪魔をしないようにと。
……*
「すみません。オレが護るなんて言っておきながら。護られているのはオレでした。
本当に、すみません……」
涙声になっても、イルシオンは決して涙を溢す事は無かった。セシルを前にして、泣く事は許されないと自分を戒めていたから。
自分が泣いてしまえば、彼女の感情は行先を失ってしまう。自分に対して振り上げた拳も、下ろせなくなってしまうかもしれない。
精一杯の、誠意のつもりだった。
「……イルシオン君。来てもらえるかしら?」
ゆっくりと立ち上がったセシルは、彼に手を差し伸べながらそう言った。
どんな顔をしているのか怖くて、イルシオンは窺う事が出来なかった。
セシルが連れて来たのは、自分のよく知った部屋。
幼い頃から二人でよく話し合った、クレシアの部屋。
「これを見て」
彼女は主を失った机の引き出しから、一冊のノートを取り出す。
言われるがまま捲ったノートには、様々な魔術付与の術式が殴り書きで掛かれていた。
――風がイルの盾になる。どんな衝撃も吸収する。
――風で敵を吹っ飛ばす。イルから離れさせる。
最後のページには、術式と共にこう書かれている。
――イルのピンチを、絶対に護ってみせる。ずっと、永遠に。
どの術式にも、自分の名前が一緒に書かれていた。何度も書き直され、破れているページさえあった。
拙い文字が、段々と綺麗な線へと変わっていく。幼少期からずっと書き殴っていたのだと理解するのに、時間は必要なかった。
「クレシア、いつも君に贈る装飾品を造るときに込める魔術付与を考えていたみたい。
全部、イルシオン君を護るためのもの」
イルシオンは自然と涙が溢れだしていた。大粒の雫が、クレシアのノートへと落ちる。
インクが滲んで、文字が消えないよう慎重に拭き取った。彼女が生きた証を、これ以上失いたくない。
「あの子が君を庇ったのは、必然よ。クレシアにとって、一番大切なのは君だった。
君のお陰で、クレシアは笑うようになったのだもの。当然よね。
勿論、愛しい娘を二人も失ったのは辛いわ。けれど、私だってイルシオン君も同じぐらい大切に想っているわ。
可愛い娘の、大好きな男性だもの」
子供をあやすように、セシルは頭を撫でた。
「でも、ひとつだけ教えて? クレシアのこと、好きだった?」
彼女の問いに、イルシオンは顔を上げる。
喉を絞めるものは、いつの間にか消えていた。
「はい。世界で一番、愛しています。これまでも、これからも」
「……ありがとう。そう言ってもらえると、あの子も喜ぶわ」
自信満々な彼には似つかわしくない、僅かに下がった眉。
それでも口にした言葉に、セシルは満足げに微笑んだ。