209.少年の影は、未だ拭えず
祀られているのは、一本の剣。
剥き出しとなった翡翠の刀身は、沈黙を貫いている。
主を見放し孤高の存在となったのは、神の造りし芸術品。
魔術大国ミスリア。
その王であるネストルが振るい、数多の戦場をで恐れられた疾風の剣。
黄龍王の神剣は、今日も眠っている。
「……それでは、今日も見守っていてください」
輝きを失った神剣を前にして、礼を捧げる騎士が一人。
ミスリア五大貴族であるエトワール家の嫡女。ヴァレリア・エトワール。
現在ではミスリアの騎士団の頂点に立つ、攻守の要。
彼女はネストルの死後、ミスリアの王宮にて祀られている黄龍王の神剣へ祈りを捧げていた。
ヴァレリアは今日も神剣と己に誓う。
沈黙を保つ翡翠色の神剣を前にして、心に刻まれた感情を決して薄れさせまいと。
三日月島での戦い。
王であるネストル。更には、可愛がっていた妹。グロリアとクレシアを死なせてしまったという怒りと後悔。
負の感情だとは理解している。それでも尚、忘れてはいけないと自らへ言い聞かせる。
怒りを忘れない為に。もう二度と後悔しない為に。
今度こそ、護るべきものがその手から零れないようにと黄龍王の神剣へ誓う。
自己満足だとは解っていても、ヴァレリアは毎日のように足を運んでいる。
無意識に、心の拠り所を神剣へ求めていた。
……*
邪神の顕現とネストルの死を境に、ミスリアの体制も大きな変化が要求された。
発端が第一王子とその臣下である事から、徹底的に内通者の炙り出しを行っている。
尤も、テランやリシュアンの話では直接的に繋がっている貴族はほとんどいないだろうと語っている。
彼らで把握している者ですら、既に国外へ逃亡。もしくは、サーニャが王宮へ現れた際に殺されている。
捕らえる事が出来た貴族はほんの僅かであり、テランとリシュアン以上に情報を持っている者もいなかった。
騎士団についても、大幅に戦力の構成が変わっている。
統括をヴァレリアが担い、王妃と第二王女の護衛をロティスが務める。
ライラスとリシュアンは、アルマの元に居た事もあって警戒は解かれていない。騎士団の目が届く範囲に居るように、命じられた。
「自分は操られていただけだと、証言も得ただろうに!」
「うっせ。とにかくキリキリ働け」
ヴァレリアは機嫌が悪い時は、とにかくライラスに絡んでいた。主に鬱憤を晴らすために。
つっけんどんな態度を取ってこそいるが、陰気な空気を吹き飛ばしてくれるのは有難く思っている。
それ以上に頓珍漢な発言も多いので、苛立つ事も多いのだが。
ミスリア自体の騎士は大きく減ってしまい、代わりに同盟を公にした紅龍族を正式に騎士団へ組み込んだ。
龍族に跨る龍騎士による部隊が構成され、広大なミスリアの地の各地へ配備された。
並行してミスリアは、新たな騎士の育成に励んでいる。
今までのやり方が染みついている騎士と違い、初めから龍族との連携を想定した新世代の騎士や魔術師として。
戸惑いながら、試行錯誤を重ねていく日々。
正直に言うと、アメリアやオリヴィアが抜けた穴はそう埋まらない。
テランが稼いだ時間稼ぎも、いつまで続くかは判らない。ヴァレリアは言いようのない焦燥感に駆られていた。
そんな折の事である。
ミスリアに伝わる三本の神器。その一本である紅龍王の神剣の継承者。
イルシオン・ステラリードが、彼女へ伺いを立てたのは。
「ヴァレリア姉。少しの間、王都を留守にさせてくれないか?」
「あん?」
ヴァレリアの顔が引き攣る。神器を扱えるイルシオンは、現段階におけるミスリアの最高戦力と言っても過言ではない。
それだけの力を有しておきながら、以前の彼はあまり余る権力を笠に自由奔放な振舞いをしていた。
自身を紅炎の貴公子と名乗り、ミスリア国内で起きる厄介事をクレシアと共に解決してきた過去を持つ。
三日月島の一件以降は鳴りを潜めていたのだが、放浪癖が再発したのではないかとヴァレリアは懸念した。
まだミスリアの潜む闇が顕在化していなかった頃はいい。
しかし、自分達を取り巻く環境は大きく変わった。むやみやたらに戦力を分散したくはない。
「……一応訊くけど、どこへ行くつもりなんだ?」
いい顔をしていないというのが、自分でも判る。
個人的感情で言えば、ヴァレリアは彼の放浪癖を悪く思ってはいない。
槍玉に挙がる彼を庇っていたヴァレリアでさえも、流石にこの状況では簡単には頷けない。
それなりの大義名分を出して欲しい。そうすれば、快く送り出せる。
「南の方に行きたいんだ。カッソ砦と、砂漠の国との国境へ」
「砂漠の国か」
アルマ達によるクーデターの前に、砂漠の国の者によるひと悶着がカッソ砦で起きた。
幸いアメリアがその場で居たので最悪の事態は回避できたが、テランの話によるとビルフレストに唆されているという。
事実、国境沿いで幾度となく小競り合いが発生している。異常発達した魔物が暴れる事もあり、対応に追われていた。
砂漠の国を大人しくさせるという意味で、イルシオンが顔を出すといのは悪くないと思った。
「それなら、まぁいいか。王都からは中々目が届かないからな」
「あと、それと」
「あん?」
言い辛そうにするイルシオン。ジロジロと自分の顔色を伺う様子は、彼らしくない。
さてはこっちが本題かと、ヴァレリアは肩を竦めた。
「らしくないな。言えよ」
「……エトワール家に、報告へ行きたい。
クレシアと、グロリア姉のことを謝りたいんだ」
「あー……」
自らの顔を覆い、ヴァレリアは天を仰いだ。それは反則だと思った。
既に二人の妹の死は、両親へ告げられている。文書という形で。
長女であるヴァレリアも、クーデター以降は実家へ顔を出していない。
顔を見て伝えるのが怖かったから。忙しさを理由に、逃げていた。妹が居なくなった事実を、己で認めなくてはいけないから。
イルシオンは自分に代わって、きちんと自分の言葉で伝えようとしている。
彼がどれだけ責任を感じているか。どれだけクレシアを大切に想っていたのかが垣間見えた。
同時に、クレシアの死によって彼へ落とした影の濃さも。
「……イル、悪いな。嫌な役目を押し付けちまって」
「嫌な役目なもんか。オレはきちんと謝罪をしたい」
例え罵られようとも、自分が受けるべき罰だとイルシオンは考えていた。
その上で、為すべき事を成す。彼女が信じてくれたものを、勝手に諦めて良いはずがない。
……*
イルシオンが王都を離れる旨は、ヴァレリアをからフィロメナへ伝えられた。
彼女も察する所があったのだろう。首を横へ振る事は無かった。
「イル、気を付けてな」
「勿論だ……。って言いたいけど。
ヴァレリア姉、これはどういうことなんだ!?」
出発を見送るヴァレリア。相対するイルシオン。
そして彼の両脇には、一体の龍族と一人の少女が佇んでいた。
「なんだ、ボクじゃ不満なのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
左右から聴こえてくる声。片方はよく馴染んだ声だった。
紅龍族の王、フィアンマ。紅龍王の神剣をより扱いきれるように、自分と日々研鑽を重ねている龍族。
この一ヶ月間、彼は自分を鍛え上げてくれていた。
「よろしくお願いします、イルシオンさん!」
もう一人の少女は、本当に知らない娘だった。
肩に触れるぐらいの真っ直ぐに伸びた茶色の髪。紅玉のような瞳と、開いた口から覗かせる八重歯が活発な印象をイルシオンへ与えた。
「コイツはイディナ。新しく入った、騎士見習いだ。
筋は良いから、実戦経験をさせてみようと思ってな。ついでに連れて行ってやってくれ」
「ご迷惑をお掛けしないように、全力で頑張ります! よろしくお願いします!」
深々と頭を下げ、髪が重力に従って垂れる。
羨望の眼差しを送るイディナと違って、イルシオンは困惑のあまりずっと瞬きを繰り返していた。
「いや、ヴァレリア姉。オレの話、聞いてたか!?
まずはエトワール家に寄るって――」
きょろきょろと左右を見渡し、イルシオンはヴァレリアへ耳打ちをする。
聴覚の優れているフィアンマには無駄な足掻きだったが、イディナはきょとんとその様子を眺めていた。
「実家に寄る時は、別行動してくれていても構わない。イディナは、あの辺で育ったんだ。土地勘はあるぞ」
「そうだとしてもだな。カッソ砦だぞ!? 異常発達した魔物が現れるかもしれないんだぞ!?」
「だからフィアンマ殿にも同行してもらった。紅龍王の神剣の件で、お前もなるべく一緒に居たいんだろう? 一石二鳥じゃないか。
イディナについては無理だと思ったら、すぐに引っ込めてくれて構わない。いいか、これは命令だ。嫌なら、王都を離れることは許可しないからな」
「……っ。分かった」
イルシオンは歯軋りをさせながら、視線をヴァレリアから外す。
明らかに納得はしていないが、渋々了承したという感じがありありと伝わる。
ヴァレリアとしては、それで構わなかった。イディナさえ連れて行ってくれれば、目的は達成できる。
フィアンマには伝えているが、ヴァレリアのは別の狙いもあった。
未熟であるイディナを連れて行く事で、イルシオンに無茶をさせない為の保険。
クレシアを失ってからの彼は、少し危険な面が見え隠れしている。
己の事を省みずに、ビルフレストへと斬りかかる。邪神をも凌駕する魔女の姿に、笑みも浮かべた。
魔女を呼び覚ます為の鍵がシンだと気付けば、彼の喉元に刃を突きつけて見せた。
それらはシンの手によって改心こそしたが、心に巣食う闇が完全に取り払われたとは言い難い。
邪神やビルフレストと再び相まみえた時に、本当に冷静に居られるだろうか。
燻っていた復讐心に、再び火が灯らないだろうか。
同時に、ヴァレリアは心配もしていた。イルシオンは自分の命を安く見積もってはいないだろうかと。
鍛錬でも動けなくなるまで自分の身体をいじめている。休むように促しても、二言目には「このままでは、世界を護ることなど出来ない」だ。
英雄になると豪語していた時の彼は、鬱陶しいぐらいの暑苦しさがあった。
落ち着いたという者もいるが、ヴァレリアには自分へ言い聞かせているように見えた。
クレシアとの日々を、価値のあるものにしたい。意味のあるものにしたい。その為なら、どうなっても構わない。
言葉にならない叫びは、彼の身体に収まり切っていない。外へと、漏れ出してしまっている。
だから、ヴァレリアは枷を付けた。自分を大切にできなくても、他人を見棄てるような真似はしないと知っているから。
クレシアを連れまわして、様々な事件に首を突っ込んでは解決する。彼の生き甲斐が、今となってはクレシアが生きた証だ。
元通りとはいかなくても、せめて思い出して欲しかった。大切な妹が愛した、自分の姿を。
「つーわけで、ちゃっちゃと行ってこい!
イディナは、帰ってきたからきちんと報告するように。
イルシオンやフィアンマ殿にあまり頼り過ぎないように」
「はい、ヴァレリア先生! 行ってきます!」
元気よく声を張り上げるイディナとは対照的に、イルシオンは渋い顔をする。
何がそんなに嫌なのかと、フィアンマは眉を顰めた。
「そんなに嫌なのか? 別に孤高を気取っているわけじゃないだろう?」
「別に気取ってるつもりはないが……。フィアンマこそ、どうしてそんなに楽しそうなんだ?」
イルシオンの言う通り、フィアンマはそわそわと落ち着かない様子を見せている。
今すぐにでもミスリアの大地を駆け抜けたいと言わんばかりだった。
「今までミスリアを訪れた時は、王宮の周辺をうろうろしているだけだったからね。
ミスリアの地をきちんと旅するのは、これが初めてだ。ちょっとテンションが上がるよね」
「そうか……」
実は、フィアンマはヴァレリアの要請に二つ返事で頷いていた。
紅龍族の性か、じっと王宮で生活をするのは性分ではない。
龍騎士として各地へ散る同胞を羨ましくも思っていた。
翼こそ失ってしまったが、こうして旅をする機会を得られたのは彼にとって幸運だった。
「では、イルシオンさん! フィアンマさん! よろしくお願いします!」
「ほら、イルシオン。イディナもこう言っているんだ。腹を括れ、男だろ」
「……分かってる。分かってるさ」
大きく拳を突き出すイディナ。彼女へ追従するフィアンマ。
クレシアを思い出し、浮かない顔をするイルシオン。
歯車が噛み合わないまま、三人は王宮を後にする。
再会と出逢いの旅が、始まった。