幕間.後悔先に立たず
お姉さまは美しくて、強くて、聡明で。
誰よりも努力をして、誰よりも優しい。
幼い頃からずっと見て来た。だから知っている。
蝶々が止まりそうなほどのろのろとした剣閃が、目にもとまらぬ速さに至るまでの過程を。
コップ一杯の水を出すのに四苦八苦していた魔術が、別の生き物のように操れるようになった瞬間を。
教えて欲しいと懇願するわたしに、嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた日々を。
才能があったから、人より早く上達していったかもしれない。
けれど人一倍努力していたからこそ、その才能の開花が早かっただけ。
わたしはそんなお姉さまを尊敬しているし、幸せになって欲しい。
ううん。必ず幸せになるものだと、思っていた。
……*
「フラれてしまいました」
カタラクト島から戻ってきたアメリアお姉さまは、気恥ずかしそうにそう言った。
わたしは耳を疑った。
嘘ですよね?
奥手なお姉さまがしっかりと告白したことにも驚きましたけど、フラれてしまうなんて……。
アメリアお姉さまは、カタラクト島で起きた出来事を話してくれた。
蒼龍王といい関係が築けたことも。
信仰すべき神である大海と救済の神の遣いである、水の精霊と会話をしたということも。
蒼龍王の神剣がきちんと神器として甦ったことも。
極めつけは邪神の一味との戦闘。ラヴィーヌこそ逃がしたものの、『怠惰』と『色欲』の邪神は撃破したことも。
トリスもいたようだけれど、邪神の一味と仲間割れをしていたことも。
(案外、一枚岩ではないかもしれませんね……)
勿論、アルマ様やビルフレストがミスリアの人間だけで組織を構成しているとは思っていなかった。
けれど、仲間殺し。それも、邪神の分体に適合した男の命を狙ったとなれば話は別だ。
テランが稼いだという時間以上に、猶予が生まれるかもしれない。
そう思う一方で、わたしはサーニャのことを思い出した。
彼女には手痛い目に遭わされた。けれど、ずっと仕えてくれた。あの笑顔が全部、嘘だとは思いたくない。
願わくば、もう一度きちんと話がしたい。だから、生きていて欲しいとは思った。
話を聞く限り濃密な一ヶ月を過ごしたと思ったけれど、一連の事件は割と序盤に終わったらしい。
残りは皆の療養。主に治癒魔術の効果が薄い、シンさんの快復を待っていたという。
人魚族や海精族だけじゃなくて、天馬族や猫精族、鳥人族とも仲良くなったという。
特に猫精族のタマさん? が可愛かったらしい。とても羨ましい。
カタラクト島での旅は、結果的に休暇がセットでついてくることになった。
働きづめのお姉さまにとっては、いいことだ。きっとこんな事態でもならなければ、永遠に休まないと思うから。
結果的に見れば、充実した旅になったのだろうと思う。
お姉さま発案の、『羽・銃撃型』の仕組みも大活躍したようで何よりだった。
なのに。
それらを全部ひっくり返すような衝撃が最後に待ち受けていた。
錆びついた螺子のように、わたしはぎこちなく首を回す。
偶然にも、フローラさまが左右非対称で同じ動きをしていたらしい。わたしたちは、顔を見合わせた。
だらだらと冷や汗が流れる。
「わ、私たちが焚きつけたからかしら……」
「その可能性が否定できなくてですね……」
わたしたちが不用意に焚きつけたからこそ、お姉さまを悲しませてしまった。
後悔してもしきれないわたしたちを、お姉さまは叱ることなく続けた。
「いえ、その。確かにフローラ様とオリヴィアに言われたというのも全くないとは言い切れませんが。
気持ちを伝えた時は、お二人のことは頭にありませんでしたよ。あの時言わなければ、二度と勇気が湧かなかったでしょう」
つまり、二人きりでそれなりの流れになったということ……。
なのに、失敗した。足りなかった物は、何なのか……。
「はっ! お姉さま! ちゃんと水着で悩殺はしましたか!?」
聞くところによると、海で遊んだりもしたとお姉さまは言っている。
アメリアお姉さまの美貌なら、お姉さまが言葉を発するより先にシンさんが落ちてもいいはずなのに……。
「悩殺はしてませんけど……。一応、見ては貰いましたよ。その、とても恥ずかしかったですけど……」
はい。もうその恥じらう態度だけで、普通ならイチコロなんですけどね。
「ど、どうだったの!?」
ぐいっと顔を近付けるフローラさま。ああもう、フローラさまも可愛い。
お姉さまは天井を見上げて、黙りこくる。そして、赤面をした。
「その……。『似合っている』と、言っていただけました」
顔を赤らめたまま、アメリアお姉さまの表情がほころぶ。
いやいや、シンさん。この表情見てくださいよ。そして自分の行いを悔いてくださいよ。
「その、話を聞く限り全くダメな要素がないのだけれど……。
アメリア。貴女が悪い方に解釈しているとかではなくて?」
フローラさま、その質問ナイスです。
お姉さまはこれだけ美人で人柄もいいのに、謙虚ですからね。
初めての恋で不安になって、マイナス思考になっている可能性は十分にあるわけですよ。
「いえ。フェリーさんが好きとはっきり仰いましたし、私の気持ちには応えられないとも」
シンさーーーーん!!!!
いや、知ってますよ。分かってますよ。シンさんとフェリーさんが両想いなの、誰もが知ってますけどね。
思いのほか、はっきりがっつり断っている。あの人本当に、フェリーさんが好きすぎる。
頭を抱えるわたしとは対照的に、フローラさまは考えに耽る。
いつになく真剣な声色で、ぽつりと呟いた。
「……マギアの婚姻制度は、どうなのかしら?」
居住特区で色んな種族と関わるから「ちゃんとお互いの秩序を確認しなきゃ」ってリタさんが言ってた。
たまたまその場に居たわたしは、ちゃっかり話し合いに参加していた。というか、研究チーム全員だけど。
ええと、確かマギアの婚姻制度は……。
「一夫一妻だった……ような」
ベルさんがそんなことを言っていた気がする。
本人は全く気にしていない様子だったけれど。
「……シンさんをミスリアへ迎え入れましょう」
突拍子もない提案に、アメリアお姉さまの目が点になる。
わたしはなんとなく、フローラさまの言いたいことが予想できた。
「ミスリアなら、貴族は一夫多妻よ。彼はこれまで、ミスリアに多大な貢献をしてくれたわ。
爵位を与えたってなんら問題ないぐらいの功績は――」
「ちょちょ、ちょっと待ってください!」
フローラさまの提案を、アメリアお姉さまが慌てて止める。
わたしもいい案だと思ったけれど、どうやらダメのようだ。
「たとえミスリアの制度がそうだったとしても、シンさんはフェリーさんを愛しているんです。
一夫多妻だからどうという話ではありませんよ」
「でも……。アメリアが……」
「フローラ様。私のことを考えてくださるのは、本当に嬉しく思います。
ですが、はっきりと断られてしまいましたから。たとえ一夫多妻でも、シンさんはフェリーさんしか愛さないと思いますよ。
それに……。私は、シンさんにはフェリーさんをずっと大切にしてもらいたいです。
フェリーさんも、シンさんとずっと仲良くしてもらうようにお願いしましたから」
「アメリア……」
そう言って微笑むお姉さまは儚げでありながら、どこか爽やかだった。
アメリアお姉さまの初恋は実らなかったけれど、いつか必ず幸せになって欲しい。
「うぅ……。じゃあ、今日は飲みましょう。
リタ様から貰った妖精族特製の果実酒で、ぱぁーっとやるわよ!」
そう言うと、フローラさまはどこからともなく酒瓶を取り出してきた。
栓を抜くだけで、芳醇な香りが部屋中に立ち込める。あ、これ絶対美味しいやつだ。
「あ、あの。フローラ様? 全く落ち込んでいないとなれば嘘になりますけど。
その、お酒を飲む程ではないと言いますか……」
「けれど、もう開けてしまったわ。香りが落ちないうちに、頂いてしまいましょう」
わたしも、アメリアお姉さまも気付いている。わざとだと。
きっとフローラさまは、三人でお酒が呑みたかったに違いない。お姉さまを労ってあげたかったのだ。
後になって思えば、わたしは自重するべきだったと後悔している。
……*
「アメリアぁ……。私、アメリアには幸せになって欲しいのよ……。
いつも仕えてくれて、気に掛けてくれて。何かあったら、すぐに護ってくれるから……。
いつも感謝してるのよぉ……。焚きつけちゃって、ごめんなさいぃ……」
「お心遣い、ありがとうございます。大丈夫ですよ、フローラさまがいつも私やアメリアのことを考えてくださっているのは伝わってます」
「ほんとぉ……?」
「はい、本当です」
フローラ様は、すっかり出来上がっている
お酒が入ると、フローラさまは泣き上戸になる。それを宥めるのは、お姉さまの役目。
お姉さまはお酒に強い。本人は「お水を交互に飲んでいるからですよ」と言うが、それを差し引いても酔ったところを見たことがない。
その為、こうやって介抱に回ることは珍しくない。更に言うと、お姉さまの膝枕は気持ちいいからフローラさまが羨ましくもあった。
「フローラ様。あまり飲み過ぎないようにしてくださいね。
明日も、イリシャさんのお手伝いをなさるのですよね?」
「わかってるけどぉ。今はアメリアの幸せしか考えられない……」
「はい、ありがとうございます」
頭を撫でられるフローラさまは、とても気持ちよさそうにしている。
その姿はまるで聖母さまのようだった。凄く綺麗だと思う。
こんな美しくて甲斐甲斐しい女性をフる男が居るらしい。そう思うと、なんだかわたしはムカムカしてきた。
「こんなに素敵なおねえしゃまをフる男、おかしーれすよ!
ちょっろ、シンしゃんにガツンと言ってきましゅ!」
「え? ちょ、ちょっと。オリヴィア?」
そう言い残して、部屋を飛び出したわたしをお姉さまは追い掛けない。いや、追い掛けられない。
膝に乗っているフローラさまが、これでもかというぐらいに甘えている。そのフローラさまも可愛いんですけどね。
羨ましさで後ろ髪が引かれる想いだけれど、わたしはふらふらと夜の里を歩いていく。
行先は勿論、シンさんのところだ。
言うまでも無いが、わたしはお酒に強くない。
普段ならもう少し考えて取る行動を、一切思案せずに身体を動かしていた。
……*
千鳥足で夜の里を歩くわたしは、非常に運が良かった。
研究所から出てくるシンさんと、会うことが出来たのだから。
きっとベルさんと魔導砲について話をするって言っていたから、その帰りだ。
「ちょっろ! シンしゃん!」
「……オリヴィアか?」
「見ららわかるれしょ! オリヴィアちゃんれすよ!」
蛇行しながら近付いてくるわたしを、シンは怪訝な顔で見ていた。
「……酔っているのか?」
「よっれないれすよ! そんなことより、シンしゃん!
ろーしてスケコマシじゃないんれすか! スケコマシなら、おねえしゃまもフェリーしゃんも、好きになれたれしょう!」
シンさんはキョロキョロと周囲を見渡している。
わたしが大きな声を出しているからだろう。誰かに聞かれたら誤解されると、困っている様子だった。
ずっと難しい顔をしているから、初めて見る反応だった。尤も、この時のわたしはそれさえも愉しんでいた。
「オリヴィア。何が言いたいのか判らないんだが。
とりあえず、誤解を招くようなことはだな……」
「ごかい? ここはじめんれす! ヘンなこと言わないでくだしゃい!
しょれよりも、ろーして――」
全てを言い終わるより先に、わたしの口が塞がれる。
ほんのりと香る果実酒の匂い。一緒にお酒を呑んでいた、アメリアお姉さまの手だった。
「あ、あの! シンさん! い、妹が失礼しました!
明日、必ず本人にも謝らせますので! それでは!」
「え? あ、ああ……。お、おやすみ」
「は、はい! おやすみなさい!」
ポカンとするシンさんを尻目に、わたしはお姉さまに引き摺られていく。
シンさんに「おやすみ」と言われて嬉しそうにするお姉さまは可愛らしいと思っていた。
それが、わたしの中に残るこの日の記憶で一番ほっこりした瞬間だった。
……*
「あたまいたい……。足が、痺れます……」
「自業自得です」
夜が明けて、わたしは早朝からお姉さまにずっと怒られている。
お姉さまは声を張り上げることはしなかった。だから余計に怖い。
「全く、夜中にあんなに大声を出して。シンさんも困っていたんですよ」
「ずびばぜん……」
目配せでフローラさまへ助けを求めると、そっとお水を置いてくれた。
確かにありがたいんですけど、足が痺れてテーブルまで手が届かないんですよね……。
「後できちんとシンさんにも謝っておいてくださいね」
「でも、お姉さまが行った方が話す機会ありますよ……」
「オリヴィア」
「すいません」
お姉さまの迫力に、わたしはそれ以上何も言えなくなった。
午前中を目いっぱいに使ったお説教の後、わたしはシンさんへ謝りに行こうとした。
「え? シンさ、スケコマシだったのか? 何やったんだ? ちょっとアタシに教えてくれよ」
「……やめてくれ。本当に」
わたしより先に居たのは、ベルさんだった。
がっつり昨日の会話を聴いていたらしい。シンさんを存分にからかっている。
しかも、ベルさんは絶対解ってからかっている。
これはあれだ。シンさんに謝って、きっとわたしもベルさんにからかわれて、そしてまたお姉さまに叱られる。
「……もう、お酒はこりごりですね」
わたしは痛む頭を抑えながら、まずはシンさんへ謝りに行った。