204.魔眼は燃え尽き、砕けていく
意識を取り戻したシンが自らの置かれている状況を把握するには、やや時間を要した。
アメリアを抱えながら海へ落ちたはずだったが、どういう訳か日差し避けの傘の下にいる。
左腕を動かそうとするが、脳からの命令は激痛によって拒否される。
相当に無茶をしていたのだと、改めて実感をした。
「シンが起きたニャ!」
寝起きで聴くには騒がしい、やや甲高い猫の声。猫精族のタマが放ったものだと、理解をした。
タマの言葉を皮切に、マークやトリィまでもが駆け寄ってくる。
「起きた! 良かった……!」
「ひどい怪我だけど、大丈夫なのかい?」
若干暑苦しいとも思ったが、彼らのお陰でここがカタラクト島なのだとよく分かった。
運よくか、助けられたのか。自分は命を拾ったらしい。
安心をする一方で、一緒に落下したはずのアメリアの姿が見当たらない。
意識を失った際に、離れ離れとなってしまった可能性を懸念する。
しかし、その可能性も自分の左腕が否定をした。
折れた左腕を固定しているのは、彼女が身に着けていた物。
他でもない、アメリア自身が施したのだという証明。
「なあ、タマ」
シンはゆっくりと身体を起こしながら、タマの名を呼ぶ。
軋むような痛みが、腕だけではなく肋骨も折れているのだとシンへ気付かせた。
「どうしたんだニャ? 痛いのかニャ?」
痛みを堪えるシンを心配するように、タマが顔を見上げる。
「フェリーやアメリアは……。他の皆は、どうしているんだ?」
タマが息を呑む。マークとトリィが、互いの顔を見合わせた。
逡巡しながらも彼らが指し示したのは、空に浮かぶ島。
「フェリーはまだ戻っていないよ。青い髪のお姉さんは、セルン様と一緒にまた昇って行ったんだ」
マークのその言葉で、シンは凡その状況を把握した。まだ、戦いは終わっていない。
共に落下したアメリアが無事でいる事には安心をした。けれど、彼女もきっと満身創痍のはずだ。
自分もじっとしている訳には行かないと、シンは悲鳴を上げる身体に鞭を打つ。
「……マーク。無理を言ってすまないが、もう一度浮遊島まで乗せて行ってくれないか」
マークの顔が強張る。自分が戦場まで向かう事に対してではない。
こんなに傷ついても、まだ戦おうとするシンが信じられなかったからだった。
「ちょっ、シンは休んでおくように言われてるニャ!」
「そ、そうだよ! 酷いケガしてるのに……」
休むように促すタマやトリィを、手で制する。
「まだ、皆が戦っているんだ。援護だけでもいい。出来ることは、全部やる。
それに、蒼龍王が言っていた。トリィに、鳥人族に故郷の地を踏ませてやりたいと。
浮遊島を奪おうとする奴らから、取り返さないといけない」
「……シン」
どれだけ傷つこうが、シンの意思は揺らがない。
決意と覚悟は、とうに決まっている。その視線は真っ直ぐ、浮遊島を捉えていた。
……*
ピースの放った颶風砕衝により、隊列を崩された三体の黄龍。
ラヴィーヌより課された命は不老不死の魔女を抑える事。
空から放つ風の息吹で再び願いを成し遂げようとしたところを、二本の鞭がその身に打ち付けられた。
蒼龍王とその妻であるセルンが各々放った尾は、蛇のように細長い黄龍の身体を容易く曲げていく。
「あなた。気分はどうかしら?」
「……ひどく、最悪な気分だ」
天を仰ぎながら、蒼龍王が呟いた。
彼もピース同様、アメリアの蒼龍王の神剣によって邪神との繋がりを断たれた。
共に戦ってくれている仲間や、妻であるセルンを傷付けていない事を心から安堵する。
「正気に戻ったのならなによりですわね。では、わたくしたちは空中で露払いを務めましょうか」
カナロアとセルンを囲むのは、三体の黄龍。不意を突かれたとはいえ、空での戦いは流石に黄龍族に一日の長がある。
その誇りからか、あるいは黄龍王の敵討ちからか。たとえ蒼龍族の王とその妻であろうとも怯む様子は見せなかった。
「そうだな。我らは先に黄龍族を片付けるとしよう」
空を飛べない人間にとって、頭上を取られる事の脅威。黄龍王すら焼き尽くす炎を放ったフェリーでさえ、真上からの攻撃に成す術がなかった。
戦いの場所を地上へと集中させる事が何よりの援護なのだと、カナロアは息を吐く。
「というわけで、アメリアさん。空はわたくしたちが!」
「ありがとうございます、セルン様」
その声に応えるかの如く、アメリアは大地を蹴る。
満身創痍でありながらも先陣を切るその姿に、フェリーとピースが感化される。
「っ! そうはいきませんわ!」
魔力はとうに枯渇しているというのに。身体能力でさえ、魔術師の自分とそう変わらないはずなのに。
恐れずに向かってくるアメリアを脅威に感じる。それは決して、蒼龍王の神剣の存在だけではなかった。
「『色欲』! やってしまいなさい!」
巨大な身体を持つ『色欲』を矢面へ立たせ、ラヴィーヌ本人は後衛へと回り込む。
数的不利は、邪神の分体である『色欲』が埋めてくれる。自分はそれを援護するのが最適解だと判断した結果だった。
「オオオオオォォォォォ!」
『色欲』もまた、ひどく腹を立てていた。
傀儡にしたはずの蒼龍王との接続を一方的に断たれ、不快な感触だけがその身に残る。
リタの妖精王の神弓へ向けた興味とは違う。蒼龍王の神剣へは純粋な嫌悪感を抱いていた。
真っ先に所有者であるあの女を潰さなくてはならない。邪神としての本能がそう告げる。
肩から、胸から、腕から。上半身のいたる所に存在する金色の紋様から、無数の目玉が生まれてくる。
人によっては吐き気を催しかねない禍々しい眼球が一斉に、アメリアへと襲い掛かる。
「それぐらいでは……!」
だが、それぐらいでは今のアメリアは止まらない。
蒼龍王の神剣を振り、『色欲』の眼球から放たれる精神汚染を次々と断っていく。
『色欲』もムキになり、執拗にアメリアの精神を汚染しようと試みる。
彼女にとって全ての生物は自分が操る玩具に過ぎない。たとえ操られなくても、サンドバッグのように破壊衝動をぶつけられる物。
そのどちらにも属そうとしないアメリアへ、苛立ちを隠せない。
ラヴィーヌもまた不審に感じていた。
いくら蒼龍王の神剣が邪神の能力を断てるとしても、扱うアメリアはとうに限界を迎えているはずだった。
『色欲』の精神汚染を全て回避している事に、違和感を抱いた。
(まさか――)
疑惑の答えへは、直ぐにたどり着いた。アメリアは、満身創痍だからこそ操られていないのだと。
自分が三日月島で体験した同様のケースとして、シンへ魅了を試みた事が挙げられる。
ほぼ魔力を持たない彼に、魔力を介して侵入する魅了は意味を持たない。
魔力を枯渇させたアメリアにも、同様の事が当て嵌まるのではないかと察する。
「『色欲』ッ! アメリア様ではなく、他の方を――」
今の彼女は、限りなくシン・キーランドに近い。
そう考えるだけで、ラヴィーヌはぞっとした。すぐに狙いを変えるべきだと『色欲』へ指示を出す。
自らも魔術で援護するべきだと、イメージを練り込む彼女を妨害するかのように翠色の刃が迫る。
「っ!」
襲い掛かる『羽』を雷の魔術で迎撃するが、あくまでそれは囮。
距離を詰めたピースから、翠色に輝く翼颴の刃が振るわれる。
渾身の一振りはラヴィーヌの前髪を掠め、美しい黒髪が風に舞って昇っていく。
「……構って欲しいのですか? お子様は、寂しがりやですわね」
「無理すんなって。散々焦っておいて、今更格好つかないだろ。
おっさんの分、悪いけどおれがお仕置きさせてもらう」
「本当に、可愛げのない子供ですわね。私の玩具になっていればよかったというのに」
互いに舌打ちを交わし、翠色の刃と雷の矢がぶつかり合う。
ピースとラヴィーヌがぶつかり合う一方で、アメリアとフェリーは『色欲』との距離を詰めていた。
「オオオオォォォォォォッ!」
精神汚染がアメリアへ通用しない。蒼龍王の神剣は、自分に不快な感覚を与え続けている。
癇癪を溜め込む『色欲』は、ラヴィーヌの出した指示が聴こえてはいなかった。
ただ本能のまま放たれた漆黒の右拳は、最短距離でアメリアへと襲い掛かる。
蒼龍王の神剣で拳の軌道を逸らすが、強い衝撃が身体のバランスを崩す。
踏ん張り切れずによろめくアメリアだが、その眼光は決して輝きを失ったりはしない。
「アメリアさん!」
「っう……! 大丈夫です、このままいきましょう!」
体勢を立て直そうとするアメリアに、『色欲』の左拳が突き付けられる。
不可避の一撃が、満身創痍の彼女を打ち抜こうとする。
「ダメだよっ!」
その拳を振るう事は許さないと、フェリーが灼神で左腕へと斬りかかる。
真紅の刃が漆黒の巨腕へ食い込み、悲鳴を上げる『色欲』。
彼女の標的がアメリアから、フェリーへと変わった瞬間でもあった。
声にならない悲鳴を上げながら、『色欲』は顔をフェリーへと向ける。
怪しく輝く金色の右眼と同様の、眼球が、斬りつけた左腕からボコボコと湧き上がる。
フェリーの精神を汚染すべく、無数の眼球が彼女の中へと入り込んだ。
「フェリーさんっ!」
「……え?」
蒼龍王の神剣でその繋がりを断とうと、アメリアが剣を振り被る。
邪魔はさせないと『色欲』は突き出した右腕を払い、アメリアを弾き飛ばそうとする。
アメリアは合わせるように蒼龍王の神剣を『色欲』の右腕へと突き立て、そのままバターのように斬り落とす。
だが、足止めは喰らってしまった。悪意の瞳が、フェリーへ侵食するのを止められなかった。
この瞬間、『色欲』の放つ精神汚染は触れてしまう。
禁忌の存在。彼女の中に存在するモノへ。
――私に、触れるな。
「――――!?!?!?」
刹那、精神を汚染しようと試みた『色欲』の眼球が全て、炎に包まれる。
左腕に宿った金色の眼は次々と焼き尽くされていき、炭となり漆黒の身体に溶け込んでいく。
何が起きたのか一切理解できず、『色欲』はただ激痛に苛まれていく。
「……あれ?」
尤も、状況が理解できていないのはフェリーも同様だった。
意味も判らないまま、彼女は灼神を握る腕を振り切る。
黒い煙を揚げながら、『色欲』の左腕が地面へと転がっていく。
フェリーの意識に宿る、フェリーとは別の意思。
かつて妖精族の里でテランが己の右腕を犠牲にした時と同様の事が、この場でも起きていた。
彼女の中に眠るモノは決して、フェリーを護った訳ではない。己に触れるという大罪を犯した者を、ただ焼き尽くすのみ。
たとえそれが神を名乗っていようとも、毛ほども興味は持たなかった。
「フェリーさん、大丈夫ですか!?」
「う、うん。よく……わかんないケド」
『色欲』が苦しみ藻掻いた為、アメリアも結果的に態勢を立て直す隙を得られた。
きょとんとするフェリーだが、空気を灼く臭いがかつての三日月島を思い起こさせる。
(また、フェリーさんの中にいる魔女が現れたのでしょうか……?)
フェリーの様態について様子を見たい所だったが、幸い彼女はきょとんとしている。どこも異常はなさそうだった。
アメリアは安心のあまり、大きく肩で息をした。結果的に助かったとはいえ、危うくフェリーの精神が汚染される所だった。
「そんな、一体何が……。つう……っ!?」
魔女の逆鱗に触れた事により、『色欲』に起きた異変。
同じ『色欲』を冠するラヴィーヌにも、その痛みはフィードバックされる。
突如、高熱を持ち始める右眼。視界が閉ざされ、脳が焼けるように熱い。
鼻、口、喉と熱は伝播していく。身体が焼けるような苦しみからの解放を求めて、ラヴィーヌは氷の魔術で己を鎮める。
この瞬間、彼女の意識からピースの存在は切り離されていた。
「く……ら、えっ!」
小柄な体格を生かし、ピースは懐へと潜り込む。
翼颴の刃が風を纏い、大地を抉り取るように渦巻いている。
(まずいですわ!!)
魔術師である彼女は、今まさに斬りつけられようとしている自分への対応策を多くは持っていない。
ましてや苦しみに悶え、冷静な判断力を奪われている今の彼女が持つ手札は、イメージの容易な得意魔術を我武者羅に放つ事だけ。
威力も精度も出鱈目な小型の稲妻の槍を、足元へ向かって無数に放つ。
そのうち何発かはピースへと命中している。だが、ピースもこの千載一遇の好機を逃したりはしない。
「でえええええい!」
痛みに耐えながら、ピースは翼颴を斬り上げる。
稲妻の槍を大量に打ち込んだ影響で、彼の重心が微かにズレている。ラヴィーヌは、翠色の刃を間一髪仰け反る事に成功した。
「まだだ!」
しかし、ピースはまだ諦めていない。稲妻の槍を撃たれた時点で、ラヴィーヌの意識は下を向いていると判断する。
無我夢中で操るのは、彼が持つ六枚の刃。『羽・強襲型』が、ラヴィーヌへ襲い掛かる。
灼熱の痛みを堪え、翼颴の一撃を間一髪躱したラヴィーヌ。
心身共に削り切った彼女が、『羽』を再び認識したのは回避不可能の距離まで詰め寄られてからだった。
「――アアアァァァッ!!!」
浮遊島全体に響き渡るような金切り音が、ピースの鼓膜を強く揺さぶる。
『羽』の一枚が、ラヴィーヌの右眼を貫いた証。
纏った風はドリルのように、金色の瞳を砕いていく。多くの人生を狂わせた悪魔の眼が、その力を失っていく。
「はぁはぁ。これで、もうアンタに操られる心配はしなくてよさそうだな」
「この、クソ……ガキ……」
肩で息をしながら、翼颴を構えるピース。稲妻の槍によって貫かれた傷は、焦げついていた。
砕けた右眼から血の涙を流すラヴィーヌ。既に気品を取り繕う余裕すら失われている。
時を同じくして、トリスを乗せた炎爪の鷹を追っていた二体の黄龍が浮遊島へと戻ろうとしている。
それは浮遊島を巡る戦いに、終わりが近付いている事を意味していた。