203.悪意を断つ剣
フェリーと蒼龍王がピースの位置を捕捉するに当たった理由。
それは彼の放った颶風砕衝が影響している。
無駄なイメージを省いて生み出した竜巻は細く、それ故に長く見えた。
浮遊島に突如現れる気候の変化が、自然とその場へと向かわせる合図となった。
蒼龍王が傷付いた身体を奮い立たせ向かった先には、漆黒の身体に金色の紋様を纏った異形の存在。
禍々しい重圧は語らずとも、何であるかを主張しているようだった。
これ以上浮遊島を荒らされてなるものかと、身体に鞭を打ちながら戦場へ乱入した。
シンとアメリアが『怠惰』と交戦した位置には、既に誰一人として存在していなかった。
二人の身を案じるフェリーが、ピースやカナロアに相談しようと戻っている最中での出来事。
フェリーもカナロア同様に、颶風砕衝による異常を察知したからこそ一直線に向かう事が出来た。
往路でトリスと遭遇していないからこそ、ピースの魔術が道標となった。
もしもピースが竜巻を発生させていなければ、復路でもすれ違っていた可能性は十分にあった。
……*
「……フェリー・ハートニア!」
「そんなにオコっても、絶対見ないからね」
鋭い視線を向けるラヴィーヌだが、フェリーは視線を交わす事は無かった。
彼女や使役する邪神である『色欲』の瞳を見る事は、敗北に直結すると理解している証拠。
このままトリスを逃がしてしまえば、やがて組織のアキレス腱となる危険性を孕んでいる。
一刻も早く。可能ならばこの手で始末したいラヴィーヌにとっては、やや分が悪い状況となる。
(いえ、違いますわね)
焦る気持ちを落ち着かせ、ラヴィーヌは自分の状況を正確に把握しようと努めた。
確かに敵は増えたが、こちらにも上空に待機する黄龍が居る。
更に、片割れは手負いの龍族。『色欲』であれば十分に対処が出来る。
何より、敵が増えたという事はラヴィーヌにとって駒が増える可能性を示唆している。
一度瞳を覗き込めば、たちまち精神を蝕む悪魔の瞳。自分にとって数は意味を成さないのだと、冷静さを取り戻す。
ラヴィーヌが精神状態を取り戻すにあたって、シンの存在は大きい。
自らの魅了に反応を示さない天敵が、アメリア・フォスターと共に海へと落下した事は確認している。
その証拠として、シンの戦線離脱を切っ掛けにラヴィーヌは浮遊島へと舞い降りる決断をしたのだから。
本来ならばジーネスとトリスの暗殺に使用するつもりだった黄龍を温存できた事は、大きな収穫だった。
「あら、それは残念ですわ。シン・キーランドさんは、じっくりと私を見てくださいましたのに」
「むっ! シンはあなただけ見てるワケじゃないもん!」
フェリーがラヴィーヌの挑発に乗った事により、新たな戦いの火ぶたが切って落とされた。
霰神によって、氷の壁がラヴィーヌと『色欲』を遮断する。
「あらあら、つれませんこと」
この状況は、ラヴィーヌにとって想定内だった。
相手が一番恐れているのは、魅了や精神汚染の影響下へ入る事。
ならば視界を遮りつつ、うっすらとその向こう側が見える氷の壁は極めて効果的だ。
「雷神よ。大気に漂う精霊よ。導を駆け巡り、総てを遮る道を創り給え。
我は望む。雷に抗う者達を拒絶する檻を。――雷光の檻」
氷の壁を伝うように放たれたのは、稲妻による檻。
フェリーが壁を張ったおかげで、ラヴィーヌにとっても詠唱をする余裕が生まれた。
魅了の脅威ばかりが相手に刷り込まれているが、彼女自身も優秀な魔術師である証。
「雷の檻!?」
「わわっ! みんな、だいじょぶ!?」
分断された状態で、雷光の檻に閉じ込められる三人。
慌てて灼神で焼き切ろうとするフェリーだが、詠唱を放つ事で正確なイメージによって発動した雷光の檻は抵抗を見せる。
それでも蒸発していく氷の壁同様に、確実に雷光の檻は灼き斬られようとしていた。
「おもてなしが足りなかったかしら。失礼いたしましたわ」
摩耗していく雷の檻を見て、ラヴィーヌが指を鳴らす。
それを合図に上空から急降下するのは、三体の黄龍。空を司る龍族の三位一体となる息吹が、フェリーを圧し潰そうとする。
「っ……。ジャマ、しないでよっ!」
「あらまあ、人聞きの悪い。邪魔をしているのは、そちらでしょうに」
三体の黄龍が風の息吹を合わせようとも、黄龍王の威力には及ばない。
だが、向かってくる方向が悪かった。上から吹き付けられた息吹は、フェリーを地面へと縫い付ける。
立ち上がろうにも強烈な風が、彼女から行動の自由を奪った。
霰神による氷も、灼神による炎も空を舞う黄龍へは届かない。
「貴女はここで、龍族と戯れて置いてください。貴重な体験でしょう?」
「もう十分体験したよ!」
「あら、それは大層な経験ですこと。羨ましいですわ」
氷の向こうでくすくすと笑うラヴィーヌ。フェリーは止める術を持たない。
仰向けになれば黄龍へ狙いを定められるかもしれないと考えたが、この風の威力では内臓を潰される可能性がある。
いくら不死身といえど、延々と内臓を圧し潰されては反撃の糸口が掴めない。対抗策が思い浮かばない事に、フェリーは焦りを感じていた。
……*
霰神に生み出された氷の壁によって、『色欲』の瞳を見るという最悪の事態は回避出来た。
氷の向こう側でうっすらと見える姿を追いながら、対抗策を考える蒼龍王。
だが、相手もその状況を甘んじて受け入れてくれるとは限らない。
視界を遮断した事により生み出された間。距離を取るべきかと考えた彼を雷光の檻が捕捉する。
雷の檻によって自慢の機動力は奪われ、抜け出す先は上空へと限られる。
そう考えた矢先、空から舞い降りてくるのは三体の黄龍。身構えるカナロアだが、黄龍は揃って一箇所へ風の息吹を吹き付ける。
抵抗するフェリーの声が聴こえた。カナロアが救援に向かうべく翼を広げた瞬間だった。
「――な、にぃ!?」
氷の壁を突き破り、蒼龍王の首を掴むのは漆黒の腕。
雷光の檻へ押し付けられ、焼ける翼へ激痛が走る。
「き、さまっ!」
どれだけ抵抗をしても、『色欲』の身体はびくともしない。
逆に首を絞める力が強まっていく。カナロアの開いた傷口から流れる血を浴び、不気味な笑みを浮かべているのが氷越しでも判った。
「ちょう、しに……のる、なっ!!」
息も絶え絶えになりながら、渾身の息吹を放とうとする蒼龍王。
この瞬間、氷の向こうにいる『色欲』の瞳は届かないと認識していた。
氷を破壊した瞬間に眼を逸らせばいいのだと、意識が弱まる。
大口を広げて、高笑いをする『色欲』。全てが上手く行ったのだという、歓喜の印。
壁を突き抜けた漆黒の腕。添えられている金色の紋様から、無数の眼玉が湧き出てくる。
「――なっ!?」
不意に現れた無数の瞳を避けきれず、カナロアは金色の瞳を眼で捉えてしまう。
精神を蝕む、呪いの魔力が蒼龍王の中を駆けずり回る。
声にならない声を絞り出す。抗う力よりも、侵食する力の方が強い。
世界の景色が、塗り替えられようとしていた。
……*
同じく雷光の檻によって捕らえられたピースも、『羽・強襲型』を用いて上空からの攻撃を試みようとしていた。
半透明の景色で、硬直状態ではない事は把握している。空から現れた黄龍を仕留めるべく、『羽』を空へと打ち上げた。
「させませんわ」
しかし、その目論見はラヴィーヌによって阻止される。
稲妻の槍が『羽』を撃ち抜き、軌道が逸らされた。
「思えば、貴方が邪魔をするからこんなことになりましたのよ。
きちんと顔を向けて、謝罪するのが筋ではありませんこと?」
雷光の檻の術者であるラヴィーヌだけが意気揚々と歩き、見物人のように檻の外から動物を眺める。
客人を愉しませる気の無い動物は、背中を向けたまま氷に映るラヴィーヌの姿に舌打ちをした。
「謝罪される道理はあっても、謝罪する道理はねえよ」
「あら、口の減らない方ですこと。まあ、構いませんわ。
これからたっぷりお仕置きをするのですから」
背中を向けたままのピースへ向かって、ラヴィーヌは雷の魔術を放ち続ける。
ピースも氷に反射する彼女を頼りに、『羽』で魔術を弾き続ける。
ぼやけた鏡面を相手に要求される複雑な魔力操作。元々魔力消費の激しい翼颴と相まって、ピースの魔力と集中力を削っていく。
(いっそこの氷の壁を全部壊すか? いや、でも雷の檻だけ残ったら最悪だ。
そもそも、その隙をこの女が与えてくれるとは――)
加えて、真綿で首を絞められている状況から脱しようと思考を働かせる。
縋ってしまうのは一撃で効果的となる案ばかり。この状況でそれを許してくれる程、甘い相手ではないと理解している。
刻一刻と消耗していく中で、変化を起こしたのはラヴィーヌの方だった。
放たれた稲妻の槍が、氷の壁を削る。
飛び散った氷の破片が稲妻に反射し、ピースの網膜へ光を焼き付けた。
「っ!」
思わず目を背けるピース。同時に新たな思考が脳のリソースを奪っていく。
(どうしてわざわざ氷を? このまま戦っていても、ジリ貧なのはこっちなのに)
直後、その答えをピースは知る事となる。
彼を纏っていた氷の壁、その一方向が轟音を立てて砕け散る。大小入り混じった氷塊の向こう側に現れたのは、蒼龍王だった。
「カナロアさんっ!」
ピースの表情がぱあっと明るくなる。耐えるだけだったこちらとは違い、カナロアの状況は動いていた。
突破口を開く為に、この氷壁を強引に破壊したのだと。
「ア、アアアァァァァァァッ!!!」
だが、現実は非情だった。分厚い皮膚がはち切れんほどに込められた力は、彼の傷口を広がらせる。
何より奇妙なのは、その状況を全く意に介さない。
極めつけは、視線だった。自分を見下ろすその眼は、正気のものではなかった。
「カナロア、さん……?」
ゲラゲラと品の無い笑いを浮かべる『色欲』。
考え得る最悪の事態が発生したのだと、ピースは察した。
振り下ろされた蒼龍王の巨腕は、自らの血を雨としながらピースへと襲い掛かる。
「カナロアさん、正気に戻って!」
いくら叫ぼうが、精神を汚染されたカナロアへは届かない。
カナロアの攻撃を避けるが、追撃で襲い掛かるは鞭のようにしなる尾。
それもまた氷の壁を粉々に砕く。雷光の檻に触れて、身を焼いている事はお構いなしだった。
(まずい、まずい! どうやって止めれば……。そもそも、止められるのか!?)
焦るピースは、思考のリソースを蒼龍王を救う事へ割く。
それにより彼の頭から抜け落ちたものは、ラヴィーヌに対する警戒心だった。
「――あら、ようやく可愛らしいお顔を見せてくれましたのね」
「しまっ……」
距離を置こうと振り向いた矢先だった。
ラヴィーヌの金色の瞳が、ピースの精神を魅了する。
眼を通して侵食を始める魅了。ラヴィーヌにとって、新たな傀儡が出来上がろうとしていた。
だが、全てが悪意に覆い尽くされようとする中でも、抗う者は現れる。
只ならぬ気配に『色欲』の顔が歪んだが、気付く者は誰も居ない。
風を斬る音を響かせながら、接近する一体の龍族。その背には、傷だらけのアメリアが乗っていた。
最速を誇る龍族であるカナロア。その妻であるセルンもまた、彼に匹敵するだけの速度を秘めている。
「――アメリアさん! わたくしはどうすれば!?」
「セルン様は、一度カナロア様を遠ざけてください! 後は私が!」
地を這うように飛ぶセルンから、アメリアが飛び降りる。
魔力の枯渇した彼女に代わって、セルンが置き土産として用意した水の塊をクッションとして利用する。
速度を保ったままのセルンはそのままカナロアを遥か上空へと持ち上げる。
誰の邪魔も入らない。誰の邪魔も出来ない世界で、向き合い二体の龍族。
「あなた。誇り高き蒼龍族の王が、こんな輩にいいようにやられてはいけませんよ。
空の上で、少しお話しましょうか」
「セ、ルン……」
とても正気とは思えない夫の眼と、痛々しい傷を見ながらセルンは諭すように語り掛ける。
アメリアから魅了や精神汚染の話は聞かされている。それでも尚、セルンに焦りは無かった。
「アメリア様……。性懲りもなく!」
「ラヴィーヌさんこそ、浮遊島に居るとは思いませんでしたよ」
龍の背から飛び降りたアメリアは、その勢いを保ったままラヴィーヌへと攻撃を試みる。
だが、彼女の魔力は既に枯渇している。身体能力が落ちたアメリアの斬撃を避ける事は、ラヴィーヌでも可能だった。
「あら、随分とフラフラではありませんか。
戦場へ戻らず、休んでいた方が良かったのではないですか?」
「いえ、私には私の役目がありますから。それに、今の一振りもちゃんと斬れていますよ」
彼女に出来る精一杯の行動は強がりなのだと、ラヴィーヌは嘲笑った。掠りすらしていないではないかと。
ミスリア一の騎士が誇る斬撃も、魔力による身体能力の強化が無ければ容易く避ける事が出来る。
「あのアメリア・フォスターが強がりなど……。みっともないと思わないのですか?」
「思いません。強くあろうとすることを、恥じる必要などありませんから。
ラヴィーヌさんこそ、私を嘲笑する前に確かめるべきことがあるのではないですか?」
「なんですって……?」
意味深な言葉に、ラヴィーヌが眉を顰めるのと同時だった。
巨大な竜巻が残された氷の壁と雷の檻を力任せに破壊していく。
それは空へ居る黄龍をも呑み込もうとして、息吹を吐き続けていた黄龍が散開する。
「なっ……。その少年は、確かに私が……!?」
全てを破壊した竜巻の正体は、ピースの放った颶風砕衝だった。
魅了で支配下に置いたはずの人間が、自分の不利益になる行動を取った。
シンの状況とは違う。明らかに一度、その瞳が虚ろになったにも関わらず。
「ふうぅぅぅぅ……。ええと、アメリアさん。ありがとう……ございます?」
「こっちもだよ。やっと動ける! アメリアさぁん。ありがと!」
魅了から解放され、肩で大きく息をするピース。
同じく息吹による抑圧から解放されたフェリーがアメリアの元へ駆け寄る。
「ラヴィーヌさん。貴女の邪神による繋がりは、蒼龍王の神剣で断ちました」
「……なんですって?」
ラヴィーヌは狼狽える。蒼龍王の神剣は元々、あらゆる結界を斬る事が出来ると語り継がれていた。
だが、邪神は元々ミスリアを仮想敵に想定されている。ミスリアが保有している神器の対策まで込められていたはずだった。
事実、蒼龍王の神剣は邪神の能力に対抗する術は持っていなかった。
魔女によって折られ、再生した蒼龍王の神剣でなければ。
ギルレッグによって打ち直され、所有者であるアメリアの願いが繁栄された救済の神剣。
役目を終えた神剣が、新たな願いを現実とするべく生まれた剣。
蒼龍王の神剣は邪神を討つべく、新たな神器として神の加護を受けている。
神器の扱いに、元々魔力は必要としない。祈りが神を通じて、秘めたる能力を発揮する。
マギアに存在する神器。宝岩王の神槍がいい例だった。所有者であるオルテールは、魔力をほぼ扱う事なく能力を発揮していた。
故に、魔力が枯渇したアメリアでもその能力を存分に発揮する事が出来る。元々、彼女の為に生まれ変わった神器なのだから。
「ラヴィーヌさん。貴女の右眼も、その邪神も。全て断たせて頂きます」
蒼龍王の神剣の切っ先を向け、アメリアは真っ直ぐにラヴィーヌを見る。
魅了の影響を一切受けていないという事実が、彼女の言葉に偽りがない事を証明していた。