202.色欲の悪魔、再び
トリス・ステラリードは立ち尽くしていた。
瞳に映るのは自分の認識とは真逆の光景。
(判らない……)
味方であるはずのラヴィーヌ・エステレラが自分の命を狙う。
敵であるはずの緑髪の少年が、必死に彼女から自分を護っている。
三日月島では補佐に周り、王都ではまんまと邪魔をされた。
浮遊島でもアメリアに敗北したと思えば、ラヴィーヌに魅了されてしまったという。
どうして、こんな事になっているのだろうか。
理由を聞いたところで、納得できるものなのだろうか。
そもそも、誰に訊けばいいのだろうか。
自分の腕の中で眠るジーナスを握る力が、自然と強くなった。
熱は失われ、ジーナス自身が身体を支える事はもうない。魔術師であるトリスの細腕には重く感じられた。
彼が死に際に放った言葉を、頭の中で反芻する。「逃げろ」「死ぬな」。ジーネスだけが、この場で自分の身を案じていた。
「わ、たし……は……」
召喚した魔物達も戸惑っている。術者であるトリスが狼狽えているのだから、指示が得られなくても無理はない。
彼女自身が扱いきれる魔物を召喚した事により、横槍は入らない。
実質的にはピースとラヴィーヌの一騎打ちで戦闘は続けられていた。あくまで現状は。
「敵であるトリスさんを護ろうなど、おかしな子供ですわね!」
「うっせえ、急に現れてイキリやがって! お前こそ、なんでおっさんを殺したんだよ!?」
「イキ……ッ! 貴方のような子供に、教える義理はありませんわ」
ピースは舌打ちをした。ラヴィーヌへ怒りをぶつけているのは事実だが、あわよくば味方であるはずのジーネスを討った理由を知りたかった。
碌でもない理由だと思いつつも、訊かずには居られなかった。
「第一、言えばこの争いは収まるのですか?」
「んなわけあるか!」
ラヴィーヌの操る雷の魔術と、ピースの『羽』は幾度となく交差する。
隙あらば魅了で操ろうと考えていたラヴィーヌだが、ピースもまた翠色の刃を駆使して上手く視界を遮っていた。
一方で、ラヴィーヌが下級魔術を連射する為にピースも近寄る事が出来ない。翼颴の本体による斬撃が届く位置まで、たどり着けそうになかった。
ラヴィーヌの立場からすれば、ピースを操る事で得られるものは多い。
このままトリスを殺しても不自然ではない人間。
その少年が強い魔力を持ち、更にはマギアの天才ベル・マレットが持つ魔導具すら手中に収められる。
既にその言動で殺してやりたいと思ってはいるが、最大限利用してからでも遅くはない。先刻仕留めた、ジーネスのように。
彼も誘った時点では、殺す予定は無かった。貴重な邪神の分体の適合者を、仲間割れで殺すなど考えられなかった。
問題は適合した『怠惰』の能力にある。魔力を容赦なく掻き消す破棄は、仮想敵であるミスリアとの決戦に大いに役立つだろう。
ジーネスが単騎で、挑むのであれば。
発端がミスリア内部のクーデターである事から、邪神の一味にも魔術に長けた者は多い。
黄道十二近衛兵が多数裏切っている事が、何よりの証拠だった。
加えて、邪神やその分体。更には他の適合者の能力も魔力に依存している。それらを掻き消す破棄は、扱い辛い事この上無かった。
尤も、新たな本拠地で殺す訳には行かない。知られてしまえば、内部分裂の恐れもある。
ただでさえ、テランの手によって多くの隠れ家が知られている彼らにとっては死活問題だった。
黄龍王の情報提供による浮遊島の存在は、彼らにとって非常に都合のいい状況が揃っていた。
空に浮く島は目につくが、制空権を取れるという点では自分達の要塞として非常に都合のいい存在。
世界に宣戦布告をする事にはなるが、要塞として活用するその日まで黄龍王に所有させておく案もあった。
海底都市に施された封印の鎖は魔力で出来ている。通常なら、蒼龍王を退けて封印を解くのは困難を極める。
そこでジーネスの破棄が必要だといって、カタラクト島へ送り出す事に成功した。
表向きは浮遊島の奪取という命令。ジーネスは勿論、提案したヴァンも浮遊島には執着を抱いていた。
その裏で動いていたのは、魔力を掻き消す危険因子であるジーネスの暗殺だった。これはアルマも知らない、ビルフレストが直接ラヴィーヌへ下した命令となる。
邪神の分体に適合した事により、本体は完全顕現へと近付いた。矛盾した存在であるジーネスの役目は、終わっていた。
トリスに関しては、運が無かったとラヴィーヌは評している。彼女がカタラクト島へ訪れなければ、操る必要も命を奪う必要も無かった。
ただ、汚名を返上したい彼女は決して譲らなかった。故にラヴィーヌも彼女を利用した上で暗殺をするべきだと判断した。
操ったままだと不審に思う者が現れる。かといって、生真面目なラヴィーヌが同胞殺しを受け入れられるはずもないのだから。
事実、魅了の解けた彼女はジーネスの亡骸を抱えたまま固まっている。連れ帰る事自体が危険因子となっていた。
「どうして、頑なにお顔を隠すのですか? 可愛らしくて、素敵ですのに」
「いきなり取り繕いやがって! 狙いが見え見えなんだよ!」
ラヴィーヌの声に耳を傾けず、ピースは決して彼女と視線を交わさない。
交わしたが最後、操られた自分はトリスを手に掛けるであろうと察している。
決して仲が良かった訳でも、絆された訳でもない。けれど、ジーネスの最期の願いぐらいは叶えてやりたいと思っていた。
飛び交う『羽』の一枚を駆使して、視線を遮り続けるピース。
彼女の放つ雷の魔術にも反応が追い付き始めた。一歩ずつでも距離を詰めるべきだと、思考を攻撃へと切り替える。
ここまでピースは、ラヴィーヌの持つ魅了を警戒し続けていた。
彼の判断は決して間違ってはいない。しかし、見通しが甘かった。
ラヴィーヌの右眼を警戒しすぎるあまり、彼女が見ている物を考えようとしなかったのだから。
「さあ、可愛い魔物さんたち。私の為に、働いては貰えませんか?」
ピースが一歩を踏み出した瞬間を見計らって、ラヴィーヌは魅了を発動させる。
対象となったのは地を這う血牙の猟犬に、空を舞う岩爪の鷹。
手頃な位置に居る魔物を操り、支配下に置く。
「しまっ……!」
前のめりの自分では、回避は困難。そう判断したピースは、襲い掛かる魔物の迎撃を選択した。
握っている魔導刀で血牙の猟犬、『羽・強襲型』で岩爪の鷹。
空と地面。両方からの爪をその身に掠らせながらも、一撃で葬り去る事に成功する。
だが、それさえも囮だった。ラヴィーヌの本命は、あくまでトリス。
ピースが魔物に意識を割いている一瞬を狙って、稲妻の槍がトリスへと襲い掛かる。
「くそっ!」
『羽』を盾として使用するべく動かすが、疾走する稲妻には追い付かない。
雷の矢は、未だ固まって動けないでいるトリスへと襲い掛かる。
自分へ放たれる稲妻の槍。眩い光が視界の大半を覆っていく。
トリスは走馬灯のように、その光景をスローモーションで捉えていた。
祖国を裏切った結果、同胞に命を狙われる。これで二度目だ、もう疑いようもない。
どうすればいいのか。この雷を浴びる事が自分の役目なのかと問答する中で、彼女を突き動かしたもの。
それはだらしなくて、助平で、凡そ自分とは相いれないであろう怠惰な人間の言葉だった。
「――炎防壁!」
咄嗟に唱えた魔術は、自らの身を護る物。炎の壁が、雷の矢を遮断する。
トリスは自分の腕に眠るジーネスを、そっと地面に優しく寝かせた。
「……貴様の言う通りにするのは癪だが、忠告を謹んで受けさせてもらう」
最初から最後まで、自分を裏切らなかったのはこの男だけだというのに。
こんな言い方しか出来ない自分が嫌いになりそうだった。
トリスは決意した。
任務は失敗し、このまま犬死をしてしまえば自分の存在意義が解らなくなる。
ならばせめて、ジーネスが最期に遺した言葉ぐらいは実現するべきだと。
「……あのまま、貫かれていればよかったものを」
苛立つラヴィーヌが追撃を放つよりも早く、魔物を突破したピースが彼女の懐へと到達する。
風を押し固めたような翠色の刃が、彼女へと襲い掛かる。
「こちらもいい加減、鬱陶しいですわよ!」
「おれは最初から、アンタに腹を立ててたんだよ!」
後ろへ下がり間一髪刃を避けるラヴィーヌだったが、その顔色が変わる。
決してピースの翼颴を脅威に関したからではない。
トリスが自ら召喚した炎爪の鷹に抱えられ、飛び立とうとしていたからだった。
(ジーネス、すまない。貴様を共には連れていけない……)
宙に浮きながら、地面へと寝かせたジーネスを憂いを帯びた表情で見下ろすトリス。
ずっと恥辱を味わわせられた相手へ最後に抱いた感情が感謝と謝罪なのは、不思議な感覚だった。
「そこの子供! ……私を護ってくれたこと、感謝する」
「子供じゃねえっての。おっさんに頼まれたからだ。次遭った時は、どうなるか分かんねえからな」
「……ああ」
振り向く事なく答えたピースに、トリスは精一杯の感謝を送った。
炎爪の鷹は高度を上げていき、浮遊島から離脱を始める。
「トリスさんっ!? お待ちなさい! 貴女、敵を前にして逃亡するつもりなのですか!?」
目を見開き、感情を露わにするラヴィーヌ。怒り狂う彼女に、トリスは見向きもしなかった。
再び操られてなるものかという強い意思が、そこにはあった。
「こ、の……っ! 逃がすわけには――」
「行かせてやれっての!」
ラヴィーヌは飛び立っていく炎爪の鷹へ、稲妻の槍を放とうとする。
させまいと妨害するピースの存在に、怒りのボルテージを上げていく。
「――ッ! 鬱陶しいですわね! 黄龍、炎爪の鷹を追いなさい!」
金切声で叫ぶラヴィーヌには、気品の欠片も存在していなかった。
上空で待機していた五体の黄龍族の龍族うち二体が、慌ててトリスを連れた炎爪の鷹を追う。
まだ敵が居たのかと、ピースがそれを妨害しようとした時だった。
突如、覆いかぶさる影。
とてつもない重圧が、ピースへと圧し掛かる。
見てはいけないと本能が訴えつつも、ピースはその姿の端を視界に収める。
女性的なシルエットながら、漆黒の身体。刺繍のような金色の紋様は、不気味に輝いている。
本能に従って、顔を直視しなかったのが幸いした。
見なくても判る。邪神の分体、『色欲』なのだと。
「貴方も調子に乗り過ぎですわ」
リタによって深手を負わされていた『色欲』は、ラヴィーヌの右眼にてその力を蓄えていた。
再生が不完全故に、再度の顕現にはラヴィーヌ自身の魔力を大いに消耗してしまうが構わなかった。
幾度となく邪魔をしたこの少年は、許せない。再び顕現した悪意の塊を以て、ピースの命を奪おうとしていた。
「が……はっ!?」
口を裂いて笑みを浮かべる『色欲』。握られた拳を、真上からピースへ打ち付ける。
不意打ちである事は関係ない。体格差も、絶対的な腕力も違う。ピースの額は地面へ叩きつけられ、割れた頭から血が流れ出る。
(やばい! まずは一旦距離を取って――)
「逃がすとお思いなのですか?」
再び振り下ろされようとする『色欲』の拳を避けようと、身体を転がすピースをラヴィーヌが足蹴にする。
鳩尾を蹴られ、苦痛に身体を歪めるピース。止まった身体に向かって、拳を振り下ろす『色欲』。
抗う術はない。絶体絶命だと覚悟をしたピースだったが、拳が彼の身体を潰す事は無かった。
「――うおおおお!」
地を這うように飛んでいた一体の龍族が、強烈な体当たりで『色欲』を吹き飛ばす。
蒼い巨体が翼を広げ、ピースを護る様に最速の龍族が『色欲』との間に立ちはだかる。
「大丈夫か、ピース!?」
「その声……。カナロアさん!?」
「そうか。昨日は龍族の姿ではなかったからな」
初めて見る蒼龍王の真の姿に、ピースは眼を丸くした。龍族を束ねる存在だけあって、雰囲気がある。
けれど、その身体には幾つもの痛々しい傷が刻まれていた。心なしか、息も荒い。
「今度は蒼龍王ですか……」
次々と現れる邪魔者を前にして、ラヴィーヌは無意識に己の人差し指を噛んでいた。
一刻も早くトリスを始末しなくてはならないというのに、彼女との距離は広がるばかり。
だが、苛立つ一方で好機でもあった。自分か『色欲』が、蒼龍王の瞳を見る事が出来れば一気に片が付く。
蒼龍王の突進を見る限り、トリスへ追い付くのも一瞬で済むだろう。どうにかして、操りたいと考えていた。
「ところで、この化物が邪神の手の者だと考えていいのだな?」
ラヴィーヌと『色欲』。その両方から意識を切る事なく蒼龍王が尋ねる。
ピースの背筋が凍った。本来であれば頼もしいその行動だが、相手が悪すぎる。
昨日交わしただけの会話では、信用を得る事が目的だった為に邪神の姿や能力まで伝えきれてはいない。
一刻も早く、瞳の危険性を伝える必要があった。
ラヴィーヌもまた、ピースの反応から蒼龍王は魅了や精神汚染への警戒心が薄い事を察知した。
先手を打てば必ず成功すると、笑みを堪えながら言葉巧みに誘導しようとする。
「ええ、その通りですわ。世界を震撼させる悪意の神、その分体。
それが今、貴方様の目の前に居るのです」
「やはりか……!」
「カナロアさん、ダメだ! そいつの眼を見ちゃ!」
蒼龍王が『色欲』への警戒心を高め、重心の向きを変える。
自ずと上がる視線を止めようと叫ぶピースだが、意図が存分に伝わっていない。
このままでは、ミイラ取りがミイラになる。どうすればいいか思案する時間が無い。
「カナロアさん、ダメだよ!」
完全なる窮地を救ったのは、一枚の巨大な壁。
カナロアが『色欲』の瞳を見るよりも早くに出現した氷の壁は、ラヴィーヌと『色欲』から彼を分断する。
止めどなく入り続ける邪魔に、ラヴィーヌはその顔を怒りで歪めていた。
振り返った先に居る少女は、良く知っている。敵対している以上に、ビルフレストが興味を持っていた事が憎たらしい。
彼女にとっては、忌み嫌うべき存在。
「……フェリー・ハートニア!」
ラヴィーヌは金色の髪を靡かせる少女の名を、敵意と悪意の籠った声で呼んだ。