201.遺した言葉
その状況に最も驚いているのは、他でもないジーネス自身だった。
口を閉じたまま、ジーネスを見据えるトリス。
愚直さはそのままに。けれど、決して自分へ向けられる事が無かった視線。
トリスの性格は熟知しているつもりだったのに、向かい合っている彼女の目的が窺い知れない。
「……おい、おっさん」
隣でピースが険しい顔をしている。声も心なしか重くて低い。明らかに疑っている。
無理もない。「外に連れて行ってくれ」と言ったら、ものの見事に敵と鉢合わせたのだから。
ジーネスも逆の立場であれば「騙しやがって!」と喚いている自信がある。
「待て、ボウズ! 気持ちは分かるが誤解だ!
なあ、トリス嬢! お前さんからも言ってやってくれ! ここで遭ったのは偶々だと!」
敵から受けた誤解を解く為、味方に弁明を頼む。なんとも情けない姿ではあるが、致し方ない。
すぐに下がる、あまり価値の無い頭を下げながらジーネスはトリスへ懇願した。
「問題……ない」
頭上から聞こえた声は、淡々と呟かれた声。
自分に対して突っ慳貪な態度を取るのは相変わらずだが、言葉に熱が籠っていない。
本来の彼女であれば「敵に捕らえられるなど、言語道断だ! 痴れ者め!」ぐらいは言ってきそうなものだ。
そもそも、自分を抜きにしても問題は起きている。
この緑髪の少年は蒼龍王側に付いている。ミスリアの王都でも、ミスリア側の者と戦闘を繰り広げていた。
明らかに敵対している人物と邂逅しているのだ。
トリスがこのような態度を取るに至った経緯が分からないにも関わらず、症状に心当たりがある。
持っている状況を整理すると、ジーネスがたどり着くのはひとつの答え。
「なあ、トリス嬢――」
確信を得る為に、もう一度彼女の様子を把握したい。
そう顔を上げようとするジーネスだったが、動きが止まる。トリスを中心として魔力によって描かれた魔法陣を見つけてしまった。
「お、おい! お前さん何を考えて――」
声を荒げた時にはもう遅かった。魔法陣によって、次々と魔物が召喚されていく。
炎爪の鷹。岩爪の鷹。血牙の猟犬。機動性に優れた魔物がトリスによって次々と召喚されていく。
流石のジーネスも、もう言い逃れは出来ないと感じた。
「おっさん!」
「~~っ! 本当に誤解なんだが……。 ああ、もう! ワシが悪かったよ!」
憤慨するピースに、ジーネスは謝る事しか出来なかった。
そして、謝罪を受け入れてたとて状況が変わる訳ではないとこの場に居る全員が認識をしている。
「くそっ、素直に待っておけばよかった!」
毒づきながらピースはジーネスの背後で翼颴を起動する。
彼の背中に引っ掛けてあるボウガンはまだ活きている。万が一、破棄を使われるとしてもジーナス自身が命懸けだ。
ならば邪魔はされないだろうと、『羽』を展開する。
六枚の『羽』に対して、召喚された魔物は多数。本体の魔導刀と魔術を駆使して戦わなくてはならない。
加えて、ジーネスが奪還されないように立ち回る必要がある。非常に集中力を要求される場面となり、ピースはジーネスの背中をじっと眺めた。
(いっそ、盾にしてやろうか)
などとあくどい事も考えてみたが、そこで疑問が浮かぶ。
仮にこの展開がジーネスの手引きだったとしても、いつ連絡をしたのか。
自分はずっと彼と行動を共にしていた。その間、フェリー以外とは接触をしていない。
何やら意味深な言葉を発してはいたが、「自分の運を信じろ」と言っていた。
トリスと遭遇するのが必然なら、言わないであろう言葉。
ジーネスの言い分を信じるなら目の前に居る少女が自発的に動いた結果、偶然鉢合わせた事になる。
本来なら自分達が居た場所まで移動するつもりだったのだろうか。それならどちらにしろ、遭遇は避けられなかった。
「とにかく、やるしかないか……!」
ジーネスによって殴りつけられた身体は、万全といえる状況ではない。
素早く身体を動かそうとすると、容赦なく顔を出してくる痛み。
皮肉にも破棄によって消耗を抑えられた魔力が、ピースにとっての生命線だった。
空を舞う炎爪の鷹は炎を纏った鉤爪を。岩爪の鷹は岩のように硬い鉤爪を持つ。
浮遊島に火の手が回るのを恐れたピースは、『羽・強襲型』による迎撃は炎爪の鷹を優先した。
岩爪の鷹に対しては、風刃を地上から放ち対応していく。
しかし、頭上を多くの敵に取られている状況は想像以上に厄介だった。
どうしても意識が空へと向かい、地上が疎かになる。
大地を駆け回る血牙の猟犬が二頭、横の動きによってピースの視界から消えた。
「くっそぉ!」
破れかぶれで翼颴本体による風の刃を、大地を滑らせるように放つ。
一頭は運よく命中したが、もう一頭の姿が見えない。けたたましく動く眼球に、魔術をイメージする余裕が奪われる。
完全に見失った血牙の猟犬を相手に神経をすり減らせるピースだったが、やがてその時間も終わる。
再び視界に現れた猟犬が、鋭い爪と牙を鮮血で紅に染めた。引き裂かれたのは、ジーネスの肩と胸。
「ぐう……っ」
「……は?」
痛みによる悲鳴を噛み殺すジーネスだが、明らかに傷は深い。
瞬く間に紅へ染まっていく彼の服が何よりの証拠だ。再びジーネスを狙わんと飛びかかる血牙の猟犬。
縛られて手の自由が利かない彼では、回避する手段は無かった。
「――なんなんだよっ!?」
目まぐるしく変わる景色。更には敵が同士討ちを始めた。
全く状況を呑み込めないピースが取った行動は、ジーネスを一時的にでも護る事だった。
詠唱を破棄し、無駄な情報を全て省いてイメージした颶風砕衝。
ピースとジーネスを中心に巻き上がる竜巻は、二人とトリスや魔物を遮断した。
「おっさん、一体どうなってんだよ!?
……いや、それどころじゃなかったな。先に止血する」
傷口から流れ続ける血を、ピースは抑えつける。肉が抉られており、思ったよりも痛々しい。
このまま手で抑えつけておく訳には行かない。かといって、自分は治癒魔術が使えない。
悩み抜いた末に、ピースはジーネスの手首を縛り上げていた縄を解いた。
「ボウズ、いいのか?」
「いいも悪いもあるか! これでキツく縛っておかないと、血が止まらないんだよ!」
鼻息を荒くするピースを見て、ジーネスは思わず笑ってしまった。
雑談をしている間も思ったが、大層なお人好しだ。
「……なんで笑うんだよ?」
「あ、いや。悪ぃ。さっきまで騙された感じでいた癖に、ちゃんと治療してくれるのがおかしくてな」
「ちゃんとはしてねえよ。ただ血を止めてるだけだ」
「それでも、あんがとよ」
ジーネスはピースの頭をぽんと撫でた。
感謝の印を送ったつもりだったのだが、ピースの眉根は寄せられている。
「子供扱いすんな。おっさんに頭撫でられても、なんにも嬉しくねえぞ」
「ガハハ! そりゃそうだな! すまんすまん! ……っ」
「おい、折角止めたのにまた血が出るようなことすんなよ」
笑った事により、再びジーネスの服に血の染みが広がる。
ため息を吐きながらも、ピースは再び止血を試みた。
「で、なんでおっさんが狙われたんだよ?
あれか? 『弱者には用がない』的なやつか?」
先刻より硬く締め上げながら、ピースが尋ねる。
ジーネスを奪還する為の戦いだと思ったのだが、まさか彼が狙われた事により混乱しっぱなしだった。
「その弱者にやられたのはどこのどいつだ?」
「……うっせ」
茶化しながらも、ジーネスは考えていた。
彼は自分の身に起きている状況をほぼ正確に把握しつつあった。
問題はその理由をピースに話すと、明確に邪神の一味を裏切る事になる。
僅かばかり持っている傭兵としての矜持が、ジーネスを躊躇わせる。
「もし、ワシが話さなかったらどうするつもりなんだ?」
「そんなの決まってるだろ。とりあえず生き延びる手段を考える。
おれは勿論、出来るならおっさんも」
ピースの立場からすれば当然の回答だった。この戦闘は彼にとって本当に不要なものだ。
だが、ジーネスをこの場まで連れてきてしまったという失策がある。
失策をもみ消そうとしている訳ではないが、シンが彼の力を必要としている可能性がある以上、可能な限り連れて帰りたい。
一方で、ジーネスは驚きを隠せなかった。この状況でも自分を見棄てない甘ちゃんを。
思えば不思議な子供だった。自分ですら理解していなかった心情を言い当てたり、騙されたと疑いつつも自分を助けた。
そして今も、自分と一緒に生き延びる術を考えようとしている。
「あー……。やっぱ、ナシだ。ボウズ、お前さんの勝ちだわ」
「は?」
ジーネスは腹を括った。
邪神の一味と、自分を助けた少年。どちらかを裏切らなくてはならない。
どちらについても、自分の最期は見えている。ならば、後悔しないほうを選びたい。
(それに、浮遊島を空へ浮かばせた時点でワシの仕事は完了しているしな)
最低限の義理は果たしたのだと、ジーネスは自分自身を納得させる。
誰も納得しなくていい。自分が選んだ事を、後悔しない為の決意。
「というわけでだ。ワシの予測で良かったら説明しよう」
「何がどういうわけなんだよ」
訝しむピースをよそに、ジーネスは現在の状況を語り始めた。
憶測が多分に入り混じっているが、間違っていないだろうという確信がある。
「まずトリス嬢だが、あの娘は操られている」
「お、おう? うちのメンツに洗脳するような人、いないけどな」
いきなり突拍子のない発言をするジーネスに、ピースは戸惑った。
脳に血が回っていないのかと思ったが、彼の顔はいたって真剣だった。
「お前さんのとこじゃねえよ。邪神の一味にだ。
目が虚ろになっていたし、何より反応がおかしい。
トリス嬢が正気なら、ワシが取っ捕まってる時点で罵詈雑言を投げているはずだ。
普段から色んな所をちょいと失礼していたからな」
「おっさん、それ自分で言ってて哀しくならないか?」
若干呆れているピースだが、妙な説得力がそこにはあった。
ミスリアの王都で邂逅した時もそうだった。あの時はジーネスが助ける立場だったが、逆ならそれはもうどれだけ意趣返しをしても足りないだろう。
「とにかく、だ! トリス嬢は操られてやがる。
恐らくは『色欲』に適合した、ラヴィーヌ嬢だろうな」
その名はピースも知っている。実際に操られていた者とミスリアで逢ったのだから。
ライラスは言っていた。操られている意識はなく、ただ彼女の為に頑張っていたのだと。
彼の証言を信じるのであれば、操られているというトリスの行動が意味するものはひとつしかない。
「おい。じゃあ、まさか――」
「ワシを始末したいって、ことだな」
ほんの僅かだが、二人の間に沈黙が流れる。竜巻の音だけが、二人の鼓膜を揺らし続けた。
ピースにとっては、意味の分からない公表。邪神の分体に適合した人間が、どうして同じ適合者に命を狙われるというのか。
「――ここにいるのですね?」
風の向こう側で、声が聴こえた。どこか艶のある、高揚した声。
知らない声に対して、ピースが警戒するよりも早くそれはやってきた。
「か……はっ……」
「おっさん!?」
颶風砕衝で造られた竜巻の壁を容易く突き破るのは、雷の矢。
複雑なイメージを全て省略したが故の、見た目以上に強度が落ちていた。魔物の攻撃は防げても、一流の魔術師には通用しない。
ラヴィーヌの稲妻の槍が、ジーネスの身体を貫いていた。
「おい、おっさん! 大丈夫か!?」
「来るな!」
咄嗟に歩み寄るピースだが、巻き添えを喰らうと判断したジーネスが突き飛ばす。
こんな状況でも自分を心配する。絶体絶命にも関わらず、ジーネスは笑みを浮かべた。
「なあ、ボウズ。無理を承知で頼みがある。
トリス嬢は操られていただけだ。それはワシがなんとかするから、今回だけ見逃してやってくれねえか……。
次に敵として遭ったら、流石にワシも諦めるがよ……」
再び稲妻の槍が、ジーネスの身体を貫く。
竜巻に隠れながらも、醜悪な高笑いがピースの鼓膜を揺さぶった。
「なんだよ、それ。なんとかするって……」
ピースの質問に答える事なく、ジーネスは続ける。
「あとよ。お前さんのこと、案外気に入っていたぜ。
もう少しばかり早く出逢ってれば、良かったんだがな」
ジーネスが何を考えているのか、ピースも理解をした。
きっと止めようとしても、もう遅い。傷だらけの彼の結末が、もう見えてしまっている。
「……おっさんがマレットとコリスに触った時点で、マトモな出逢いにはならねえよ」
「ガハハ! 言うじゃねえか! ボウズも、頼み込んでみろよ。案外オッケー貰えるかもしれねえぞ」
それだけ言い残すと、ジーネスはピースに背中を向けた。
見据える先は竜巻の壁の向こう側。トリスが立っている場所。
「終わりですわ!」
ラヴィーヌによって放たれた三本目の稲妻の槍。
またも容易く竜巻の壁を突く破る雷の矢だったが、今度はジーネスへは届かない。
「じゃあな、ボウズ」
ジーネスは己の右足に渾身の力を込めた。発動した破棄が、周囲の魔力を全て掻き消す。
『怠惰』が斃された事で、元々亀裂の入っていた右足が割れる。
右足がボロボロと砕けていき、ジーネスの足は半分ほどの太さになっていた。
合わせて背中にボウガンの矢が突き刺さるが、全く意に介さない。とうに痛覚が消えるほどの傷を負っていた。
稲妻の槍も、颶風砕衝も。トリスの描いた魔法陣すら消え、自ずと全員の姿が露わになる。
「っ! 魔力を掻き消したのですね!? 死にぞこないの割に、足掻くではありませんか!」
ピースの視界に現れたのは、右眼を前髪で覆った少女。
どこか色気を感じるが、今はそんなものに心を揺らされたりはしなかった。
翼颴が起動していれば、とっくに『羽』で斬りつけている。
「私は、ラヴィーヌに頼まれて。それで……」
破棄の効果で魅了から解放されたトリスは、己の行為を振り返る。
同時に、血の気が引いていく。確かに不埒な輩だが、邪神に認められた者。
自分が手に掛けて良い相手ではない。いや、そういう問題ではない。味方なのだ。力を合わせるべき存在なのだ。
どうして、そんな行動に出てしまったのか。どうして、ラヴィーヌはジーネスを消そうとしたのか。
混乱と後悔でこめかみに爪を立てるトリスの前に、ジーネスが現れた。
召喚された魔物達は、トリスの指示を待っている。
今回、確実にジーネスを葬る為にトリスの力量で制御できるだけの魔物が召喚されている。
故に彼女が正気に戻った今、新たな指示が出ない事に魔物達も戸惑っていた。
「ジ、ジーネス。私は――」
どうしてこんなことを。そう言いたいのに、言葉が出てこない。
普段から忌み嫌っていた者の謀反。何を言っても納得してもらえるとは思えない。
意趣返しを恐れている? 違う。祖国を裏切り、それでも尚数少ない仲間を裏切った自分の行動が信じられない。
青ざめた唇は、小刻みに震えていた。
「なんでい。操られてたんだから、もうちょっと被害者面すればいいじゃねえか」
「あ、いや。わ、私は……」
後悔に打ちひしがれるトリスへジーネスが向けたのは、怒りではなくて笑顔だった。
小汚い恰好をしているのにも関わらず、普段と変わらない様子に安心をした。同時に、後悔を抱いた。
トリスの姿を見て、ジーネスは肩を竦めた。
真面目な彼女の事だから狼狽えるだろうと思った通りだった。
自分に遺された時間で、最期に伝える言葉を口から絞り出した。
「な、言った通りだろ? 気負い過ぎても、お前さんの望んだ結果がついてくるとは限らねえんだ。
……待てよ。普段からワシを殺したかったなら成功か? だったら、大したもんだ」
傷だらけになりながらも普段と変わらないジーネスの様子にトリスは身体の震えが止まっていた。
普段通りの彼に、普段通りの自分で言葉を交わさなくてはならない。そんな気がした。
「……バカを言え。私はそこまで愚かではない」
「ガハハ! そうだな、トリス嬢は賢いからな。
だからよ、情けない死に方なんてするなよ」
とうに気力ですら支えられなくなり、ジーネスの身体は前のめりに倒れ込む。
気が付くと自然に、トリスは彼を受け止めていた。
「……悪いね」
「謝るのなら、普段身体を触っている時にしろ。痴れ者が」
「はは、違いねえ」
トリスの肩に頭を預けながら、ジーネスは苦笑した。
「なあ、トリス嬢。どうするかはお前さん次第だが。
この場からは、逃げろ。魅了を使った以上、ラヴィーヌ嬢はお前さんも始末するつもりだ」
「……そんなはずは」
俄かには信じがたい事だったが、妙に確信めいていた。
どうして有無を言わさずに自分を操って、ジーネスを殺そうとしたのか。
初めから自分も殺すつもりではなかったのかと納得させるだけの材料が、そこにはある。
「信じるかどうかは、任せる。ただ、死ぬなよ……」
「おい、ジーネス……? ジーネス!」
トリスの身体に加わる重みが、ぐっと増した。
いくら揺さぶっても、彼の反応はない。
カランと転がっていたピースの『羽』が翠色に輝く。
それは破棄の効果が失われた事を、意味していた。
「ジーネスさんはお亡くなりになりましたのね。女性の胸で逝けたのなら、さぞかし本望でしょう。
これでビルフレスト様もお喜びになられますわ。
それに、トリスさんも身動きが取れないようですし。このまま――」
魔術が使用可能になった事を確認したラヴィーヌは、身動きの取れないトリスを狙う。
ジーネスの遺体ごと貫こうと放つのは、稲妻の槍。
「――っ!」
躱す手段も、稲妻の槍に対抗する速度で放つ魔術も咄嗟には容易出来ない。
せめてジーネスの遺体は傷付けさせまいと覆いかぶさろうとするトリスだったが、雷の矢は彼女にまで届かない。
宙に浮く翠色の刃。ピースの『羽』が、稲妻の槍を受け止めていた。
「……お前、ちょっと黙ってろ」
怒りで声を震わせながら形成するのは、翠色の刃。
大した思い出がある訳ではないにも関わらず、ピースは翼颴の切っ先をラヴィーヌへ向ける。
この女だけは許せない。その気持ちを原動力にして。