200.救済の神剣
アメリアは固く閉ざされていた瞼を持ち上げた。
霞む視界の焦点を合わせようと、顔を擦ると身体に纏わりつく海水が浸み込んだ。
「つぅ……」
ひとつ痛みを感じれば、我も我もとあちこちに負った傷が手を挙げる。
歯の根を嚙み合わせ、苦痛を紛らわせながら自分の置かれている状況を思い出した。
(たしか……。邪神の分体は消滅して、それから……)
邪神の分体である『怠惰』が消滅した事は、記憶に残っている。
確実に葬り去る為、自分の『羽』に組み込んだ魔法陣で白色の流星を強化した。
無茶をした代償として、己の魔力が枯渇した事も。そのせいで、今も魔力は回復していない。
皮肉にもそのおかげで、左程時間が経っていないのだと理解できた。
思考がクリアになっていくと同時に、自分が現在置かれている状況の異常性が気になってくる。
海底都市が空へ上がり、浮遊島となった。自分は空の上で戦闘をしていたのに、何故海水塗れになっていたのか。
仮に浮遊島から落下したのであれば、どうして無事なのか。どうして、海に沈んでいないのか。
(シンさんと蒼龍王の神剣は……?)
我に返ったアメリアが周囲を見渡す。そこで彼女は、信じられない光景を目にする。
自分が今座っている場所は、一面広がるコバルトブルーの鉱石。ノックをしてみると、コンコンという心地いい音が返ってきた。
掌で触れてみると、奥から魔力を帯びているのを感じた。魔石の一種なのかもしれない。
「……シンさん!」
後ろを振り向くと、そこにはぐったりとしているシンがいた。
歯を食い縛り、覚束ない足元で彼へと近付く。シンからの反応は一切なく、最悪の状況が脳裏を過る。
「大丈夫、大丈夫。絶対に、大丈夫……」
血の気を失い、震える唇をきゅっと噛む。自分に言い聞かせながら恐る恐る彼の胸へ手を当てると、ゆっくりと心臓が鼓動しているのを感じ取れた。
今度は溢れそうになる涙を堪えながら、ふうと息を吐く。
けれど、楽観できる状況ではない。自分同様に海に落ちて、シンも体温を失っている。
大きく腫れ上がっている左腕は、『怠惰』との戦闘で折れたものだろう。
他にも多くの裂傷や打撲が見え隠れしている。彼もまた、心身を削りながら戦っていたのだと突き付けられた気分だった。
こんな状態になっても固く握られている魔導砲が、激闘を物語っていた。
「シンさん……。生きていてくれて、よかった……」
彼が現れなければ、きっと自分は『怠惰』に殺されていた。
また、救われた。いつもいつも、彼はその手を差し伸べてくれる。
自分が特別ではない事を知っている。シンは困っている人を放ってはおけない性質なのだろう。
彼が本当に大切な女性を知っている。フェリーなら当然だと思っている自分がいるのも、承知している。
けれど、その程度で抑えられる気持ちではない事も知っている。どうしようもなく惹かれてしまった。好きになってしまった。
彼の人柄も気持ちも関係ない。自分自身が勝手に抱いた想い。
「――いつも、ありがとうございます」
その先の言葉を口にするのはまだだと躊躇ったアメリアは、伝えたい言葉を喉で堰き止めた。
たったこれだけで物凄い勇気を必要とする行動なら、やはりきちんと眼を見て届けたいと思ったから。
何より、まだ状況が把握しきれていない。浮ついた思考を御しながら、アメリアは再び周囲に注意を払う。
魔導砲を指から外すときに、思ったよりも硬い指先に動揺をしたりはしてしまったが。
シンの折れた腕を固定出来ないかと、添え木になる物を探している時に、アメリアは漸くそれを視界へと取り込んだ。
「……一体、どういうことですか?」
両脇に聳え立つ高く碧い壁が、どこに迷い込んだのだろうという疑問の答えをアメリアに提示する。尤も、状況を理解できるものでは無かったが。
壁の正体は、海だった。まだ半信半疑ではあるが、海が割れて現れた地に自分は立っているのようだ。
まじまじと見つめるが、壁の向こうが海である事は疑いようもない。
珊瑚礁も、海藻も、大海原を駆ける魚も居る。頬に触れる潮風が、海晶体に遮られている訳ではないと教えてくれた。
「どうして……?」
気を失っている間に何が起きたのか、理解が全く追い付かない。
シンはこの事を知っているのだろうか、それとも流れ着いたのは偶然なのだろうか。
状況把握に努めるアメリアの視界へ、反射した光が瞳へと移り込んだ。
光を手で覆いながらも合わせた焦点。割れた海の先に存在するもの。
自分の足場からずっと続いている鉱石に刺さった、一本の剣が発しているものだった。
蒼く輝く、やや細身になった刀身。それが何のか、アメリアは誰よりも知っていた。
「――蒼龍王の神剣」
アメリアが自らの神器の名をぽつりと呟いたのを合図に、蒼龍王の神剣は更に強い輝きを放つ。
今までの経験でどれだけ魔力を注いでも、達する事の無かった領域。
何故? 今である理由は?
様々な疑問を浮かべるアメリアをよそに、海の壁を越えて渡ってきた者達が居た。
「……ぷっはぁ! セルン様、ここがそうです!」
「マリンの言った通りね。何が起きたのかしら……」
自分の知る人魚族と、蒼龍族の龍族。
マリンとセルンが、海の向こうから姿を現す。
「セルン様、マリンさん。どうして、ここが……?」
「どうしてって……。ここは、浮遊島を封印していた場所よ」
「島から何か落ちてきて、そしたら海がぱかーって割れて。只事じゃないと思って、セルン様を連れて来たんです」
突然現れた二人に驚きを隠せないアメリアだったが、それはお互い様だった。
……*
セルンとマリンが合流した事により、自分達が最悪の事態に置かれている訳ではないと安堵するアメリア。
自分とシンの防具、更には魔力が枯渇した為に動かない『羽・銃撃型』を使用して、シンの左腕を固定する。
まだ目を覚まさないが、一先ず腕が固定出来た事には安堵した。
「あまり、治癒魔術は得意でなくて。ごめんなさいね」
「いえ、こうして傷口を塞いでいただけるだけでありがたいです。
私の魔力も枯渇して、きっと治癒魔術の効果が薄れているのでしょうし」
セルンを含め、カタラクト島に住む者は治癒魔術を特別得意としていない。
大体の敵は蒼龍王が無傷で蹴散らし、更には自然治癒の早い種族が数多く存在している。
元々高度な治癒魔術を好んで覚える者は、数えるほどだった。
加えて、枯渇したアメリアは治癒魔術の効力を著しく落ちた状態で受けている。
共振する魔力が少ないとはいえ、シンよりは効果を得ている事には驚いたが。
アメリアが先にシンを治療してもらうように懇願したものの、セルンの治癒魔術はシンには効果を発揮しなかった。
心臓の鼓動を確認していなければ、きっと取り乱していただろう。
治療を進めながら、三人は状況を整理していく。現在地は浮遊島が在った場所。
蒼龍王の神剣の儀式を行っていた場所に立っているのだと、アメリアは教えられた。
「では、神殿の跡地にこのようなものが……?」
「そのようですわね。夫が放つ封印魔術の効力を、きっと鉱物で増幅していたのでしょう」
人型へ擬態しているセルンが、コンコンと足元の鉱物を叩く。
長きにわたって浮遊島を護っていた蒼龍王。その力の源が、足元にはあった。
「では、海が割れたのはどうしてでしょうか?」
足場の謎は解けたとしても、アメリアにはまだ腑に落ちない事がある。ならば、どうして海は割れたのか。
訝しむアメリアを見て、セルンとマリンが互いの顔を見合わせた。
「ええと、アメリア。それは間違いなく……」
「蒼龍王の神剣の力だと思いますよ」
「……え?」
呆れられながら伝えられた言葉に、アメリアは眉根を寄せた。
自分が使っている間、一度たりとも海を割った事などないからだが二人も冗談を言っているようには思えない。
頭を悩ませているアメリアを補足するかのように、セルンが自身の仮説を話始める。
「大海と救済の神の神殿は浮遊島へ行ったのですよね。
恐らく、本来の神殿は海底にあるのでしょう」
セルンが指し示したのは自分の立っている鉱石だった。
海底の更に奥に眠る神殿と浮遊島に造った神殿を接続させて、海底に封印していたのだという推察を加えて。
「蒼龍王の神剣の儀式は中断された。だから、きっと貴女の祈りや願いが細い糸で繋がったままなのでしょう。
そして、大海と救済の神様が蒼龍王の神剣を通して貴女を護った……。というところかしら?」
セルンは最後に「あくまで推察だけれどね」と、茶目っ気を混ぜた笑みを浮かべた。
彼女の推察が当たっているのであれば、自分達は蒼龍王の神剣に救われた。
感謝の意を伝えようと立ち上がったアメリアが蒼龍王の神剣へ触れると同時に、マリンの身体を依代に水の精霊が姿を現した。
「アメリア。この海を脅かす者から護ってくれた事を、心より感謝します」
「水の精霊さん。ご無事で何よりです」
再会を喜びたかったアメリアだが、水の精霊は首を横に振る。
その瞳は物憂げにしており、マリンの身体を通して不安が伝わってくる。
「ですが、まだ全てが終わったわけではありません。
浮遊島に現れた者から、大海と救済の神様は強い重圧を感じています」
「浮遊島に……」
『怠惰』は間違いなく消滅した。それでも尚、襲い掛かる重圧。
新たな脅威が浮遊島に存在しているのだと、アメリアはすぐに理解をした。
「では、すぐにでも向かわないと――」
「落ち着いてください。貴女も、そこの男性も負傷しています。
魔力も枯渇した今、敵う相手ではありません」
「……水の精霊さん。心配して頂けて感謝いたします。ですが、私が戦わない理由になりません」
アメリアの瞳には、一切の躊躇が映し出されてはいなかった。
抱えているのは強い決意と慈愛。ほんの少しの、心配と不安を孕みながらも決意は変わらない。
「どうして?」
「元々、邪神はミスリアが生み出してしまったものです。その結果、多くの人を巻き込んでしまいました」
「けれど、貴女の責任ではありません」
「ですが、誰かが不幸になっていることに違いはありません。
烏滸がましいとは思っていますが、私は一人でも多くの人を護りたい。救いたいと、思っているのです」
元々、アメリアは自国を巡る事が好きだった。
自分が民を護っているという実感が欲しくて、そして美しい世界を護っているのだと確認したくて、行ってきた事。
今まではそれだけで満足をしていた。けれど、自分が見ていた景色は表面だけだった。
奥に潜んでいたモノは、脆くて危うくて。ついには歯車を狂わせてしまった。
自分の底の浅さを思い知らされた気分だった。
もう間に合わない。護れない。救えないと思った時だった。
突然やってきた青年と少女が、大切な物を零れ落ちないように掬い上げてくれた。
感謝をした。憧れた。そして、恋に落ちた。
伝播していく悪意を止めたい。それがミスリアかどうかは、もう関係ない。
世界を救うと宣言して見せたシンの力になりたい。自分も、世界を救いたい。
アメリアが新たに抱いた祈り、願い。そこに嘘偽りは欠片程も存在していない。
「……大海と救済の神様の仰った通りですね」
彼女の決意を聞いた水の精霊は、嬉しそうに頬を緩ませた。
「大海と救済の神様が?」
「はい。大海と救済の神様は、とうに認めていました。
貴女こそが、蒼龍王の神剣を。救済の神剣を持つに相応しいと。
海底に眠る本当の神殿。そこに近付いたことにより、蒼龍王の神剣は神の加護を受けています。
生まれ変わった蒼龍王の神剣を、手に取ってあげてください」
言われるがままに、アメリアは刺さったままの蒼龍王の神剣へ手を伸ばした。
何ひとつ抵抗される事なく抜けた剣は、淡い光を灯らせている。そこに違和感は全くない。まるで身体の一部のように馴染んでいる。
「大海と救済の神様、水の精霊さん。ありがとうございます。
――蒼龍王の神剣も、またよろしくお願いしますね」
「わたくしたちもやるべきことをしたまでです。大海と救済の神様が仰っていましたよ。
『直接話をするのがルール違反なのが、勿体ない』と」
「光栄ですし、恐縮です」
嬉しそうに話す水の精霊を見て、アメリアははにかんだ。
しかし、緊張を和らげるのも束の間。次の瞬間には、既に浮遊島を見据えている。
「……セルン様。無礼を承知でお願いいたします。
シンさんをカタラクト島まで送った後に、私を浮遊島まで連れて行って貰えないでしょうか」
「ええ、勿論です。私も夫の様子が気になりますから。共に向かいましょう」
「はい」
龍族の姿へ戻ったセルンの背に、落ちないようにとシンを固定するアメリア。
筋肉が詰まっているのか、見た目よりも感じる重さに少しだけドキッとした。
続いて、自らもセルンの背に乗り込む。為すべき事を、為す為に。
「ご武運を祈っています。アメリア、またこうやって話せる機会があることを願っています」
「はい、私もです!」
最後の挨拶を交わすと、水の精霊の意識がふっと途絶える。
一日に二度も憑依したからか、ぐったりと疲労したマリンの顔が窺えた。
「マリン。ご苦労様でした。後は、わたくしたちに任せて」
「は、はい。お言葉に甘えさせて頂きます……。
セルン様、アメリアさん。どうかカナロア様と、島をよろしくお願いします」
「ええ、勿論です」
壁を越え、海へと戻っていくマリン。カタラクト島を目指し、海の崖を駆け上がっていくセルン。
彼女が海を突っ切ったのを合図に、割れた海は本来の姿を取り戻していく。
海底に眠る島を巡る戦いは、最終局面を迎えようとしていた。