198.断罪の流星
決して外せない一撃。慎重に事を進めていたと思っていたはずだった。
シンがまさに崖へと追い詰められる寸前に至って、それは臆病風に吹かれてのものだったのではないかと後悔が脳裏を過る。
(私がもっと積極的に動いていれば……)
己を責めるアメリアだが、落ち度は全くない。
彼女は己の神経を犠牲にして『怠惰』へ確実に傷を負わせていた。
自身が気付かぬ程、汗に塗れた姿が何よりも物語っている。
加えて、彼女は同時に『羽』の操作を行っていた。
主にその身を晒していたのはシンだが、負担の割合はアメリアが圧倒的に上回っている。
その事を理解しているからこそ、シンも積極的に注意を引き付けようと模索していた。
だが、子供と評した『怠惰』は移り気だ。何を切っ掛けにして、興味を引き付けるのか。
明確な答えが出ないまま、時間が過ぎていった。
シンは左手に持っていた魔導砲を、利き手の右へと持ち替える。
魔導弾や『羽』。そして『怠惰』の存在で魔力濃度は上がっている。
囮になりつつも充填された魔導砲は、確実に威力を高めている。
右手に握られた魔導砲。それは次の攻防で、充填した魔力を全てぶつけるという合図。
アメリアは固唾を呑む。成功率を少しでも上げる為に、これまでのような一撃離脱では足りないと判断をした。
幾度となく繰り返された攻防の再現だが、今回は空気が違う。
幼さを感じさせる『怠惰』とはいえ、悪意を礎に生み出されている。
シンやアメリアが考えている以上に、敵意には敏感だった。
羽虫のように周囲に纏わりつく『羽』から、水の砲撃が放たれる。
手を伸ばしても届かない、面倒な存在に『怠惰』は辟易する。
水の塊を浴びても、無視を決め込んだ。自分に傷を負わせることが出来ないという絶対の自信。
「今だ!」
左手に持ち替えられた銃から放たれる凍結弾。
利き手ではなくなり精度が落ちる事を見越して選んだ弾丸は、『羽』の放った水の塊へと着弾する。
凍結弾により水が凍っていく。その先に繋がるのは、煩わしいと無視をした『怠惰』の身体があった。
ほんの僅かだが鈍色の巨体が動きを鈍くする。
シンはもう一度凍結弾を放ち、『怠惰』へ着弾させる。
表面のみとはいえ、氷漬けとなった邪神の分体。身体の動きは更に鈍くなり、その歩みを止めた。
(ここしかない――)
確実に手傷を浴びせられる場面。決して逃せない好機。
アメリアは飛び出し、一太刀で終わらせる訳には行かないと蒼龍王の神剣を構える。
『怠惰』は氷の向こう側で、拒絶にも似た怒りの表情を見せた。
ミシミシと音を立てながら、自分の表面に張り付いた氷を剥がしていく。
邪神の分体が自由を取り戻すその前に、ひとつでも傷を増やしたいアメリアは賭けに出る。
今までの事件や実際に撤退させたピースの証言から、『怠惰』にも必ず『核』がある。
表面を削るだけではなく、直接『核』を攻撃出来れば大きなダメージを与えられるはずだという判断。
無論、シルエットこそ人間に近いが、中身は全く異質な存在だと承知している。
純粋に心臓部分を狙ったとしても、そこに『核』があるとは限らない。
魔力の濃度に違いはないだろうかと探っても、アメリアは妖精族であるリタ程の精度を持っていない。
『怠惰』の全身を覆う増強が彼女の判断を惑わせる。
「狙うとすれば――」
確実に表面の氷は『怠惰』から剥がれていき、鈍色の身体が露わになっている。
迷っている時間は無い。迷った分だけ、攻撃する機会が失われていく。
「ここでっ!」
アメリアが出した結論は、右脚を攻撃するというもの。
適合者であるジーネスと戦闘をしたシンの証言から、彼は右足に邪神の核を移植していたという。
『暴食』や『色欲』も、適合者と同じ箇所から異能を発現していた。
力の源となっている可能性は決して薄くないという判断からだった。
力強く振り下ろされた蒼龍王の神剣は、『怠惰』の右足に傷をつける。
『怠惰』は苦悶の表情と共に、夥しいほどの奇声を上げた。
「……やはり、右脚が『核』のようですね」
確かな手応えがそこにあった。
傷を負わせることは勿論、足を削れば簡単にシンを追い詰める事も出来ないだろうという判断から、アメリアは追撃を試みる。
先刻傷付けた傷口に神剣を突き立て、全体重を乗せて貫く。
「――――!!!」
「っ……。耳が……」
声にならない悲鳴が、浮遊島に響き渡る。
思わず耳を塞ぎたくなるほどの高音は、アメリアの平衡感覚を失わせる。
彼女は一線を越えた。確実に効いている証左ではあるが、大胆に踏み込み過ぎてしまった。
真上から『死』の足跡が聴こえている事に気付いた時には、もう遅かった。
「アメリア、上だ!」
アメリアの頭上に打ち付けられようとしているのは、鈍色の巨腕。
魔導砲は魔力を充填しすぎた。
このまま『怠惰』に向けて放てば、密着しているアメリアも無事では済まない。
しかし、敵を排除するべく大槌のように打ち付けられようとしている腕を放置してはおけない。
瞬時の判断が求められる中、『怠惰』の巨腕を止めたのは魔力で生成された縄だった。
腕力では到底叶わないと知りつつも、シンは銃身に魔術付与された縄でその動きを奪う。
奴自身の首と左腕を同時に巻き付かせれば、自由には動かせない。アメリアにも逃げる隙が生まれる。
「すぐにそこから離れるんだ!」
「はっ、はい!」
身体を起こしたアメリアは、自分の背中が冷や汗でぐっしょりと濡れている事に気が付いた。
シンが止めていなければ、確実に殺されていたであろう一瞬。焦りから、死線を読み違えてしまっていた。
そして、今もそれは継続している。
「か……はっ!?」
蒼龍王の神剣を引き抜いたと同時に浮きあがったのは、自分の身体。
自由を得た『怠惰』の右膝が、離れようとするアメリアの胸を打ち付けたものだった。
酸素と胃液が共に吐き出され、理解と思考が追い付かない。
「アメリア! ……ぐっ!?」
邪神の神経を逆撫でしているのは、何もアメリアだけではない。
打ち付けるはずだった拳を妨害したシンもまた、同様だった。
左腕と首に巻き付いた縄を強引に引き千切り、振り下ろすはずだった巨腕は縄ごとシンを宙へ放り投げる。
(まずい……)
魔術付与で生成された縄を解除する間すら与えられずに、行動の自由が奪われる。
歯噛みする程にもどかしい時間は、永遠のようにも感じた。
身動き出来ない空の世界で、『怠惰』の暴挙を指を咥えて見る事しか出来ない。
シンほどではないが、『怠惰』の膝によってふわりと浮いたアメリアの身体もまた自由が奪われている。
空いた右腕をピンと伸ばし、鋼の塊と見間違えそうな巨腕がアメリアに打ち付けられようとしている。
「――っ!!」
思考も判断もなく、咄嗟に出た行動だった。
蒼龍王の神剣を持ち上げ、自分の身体と『怠惰』との腕の間に挟み込む。
しかし、片手で持ち上げた神剣は盾として機能しない。ほんの小さな傷をつけるに留まっている。
増強によって強化された一撃を受け止めるにしては、彼女の身体はあまりにも華奢だった。
まるで指で小石を弾いたかの如く、彼女の身体は吹き飛ばされていく。海晶体の壁にぶつかるまで止まらず、壁には大きな亀裂が刻まれていた。
「ぁ……。っ、か……はっ」
頭が割れたのかもしれない。視界の半分が血で真っ赤に染まっている。
地面や周囲の岩や木にも身体を打ち付けられた。全員が痛んで、どこが無事なのかすら判らない。
『怠惰』の右腕のほんの僅かな傷を負わせる代償としては、あまりにも大きかった。
「つ、ぅ……。シン、さん……」
意識を途切れさせてはならないと、アメリアは歯を食い縛る。
半分を赤く染めた景色が映すものは、絶望であってはならない。
「く、そ……っ!」
何も出来なかったと、シンは歯を軋ませた。
だが、彼が悔しがる事に共感する者は居ない。そこに居るのは、新たな玩具と遊ぼうとする無邪気な悪魔。
『怠惰』は魔術付与によって生まれた縄を乱暴に引き、空中に浮くシンを手繰り寄せる。
余程、アメリアを吹き飛ばした際に得た感触が気に入ったのか、まだも腕をピンと伸ばし打ち付けるつもりでいた。
「お前は、必ずここで仕留める」
シンもまた、『怠惰』へ急接近するのは願ってもない事だった。
敢えて魔力の縄を解除しなかったのは、子供のような無邪気さを持つ奴ならば必ず手繰り寄せると信じていたから。
自由の利かないシンが『怠惰』へ接近する為の、数少ない手段として利用させてもらっていた。
シンは魔術付与を解除し、魔導砲を構える。銃身から縄が発生している以上、照準をズラされる訳には行かない。
二人の距離が段々と小さくなっていく。『怠惰』の巨腕が触れれば、自分はひとたまりもないだろう。
それでも尚、シンは逃げない。世界を救うと宣言した。あの言葉を、決して嘘にしてはいけない。
「おおおおおおおっ!」
『怠惰』の腕がシンの身体を打ち払うよりも早く、彼は引鉄を引いた。
選択した弾丸は白色の流星。魔力の属性を付与しない代わりに、威力に特化した一撃。
十分すぎる程に充填された白色の流星は、純粋な魔力の塊を放出する。
打ち付けられようとした『怠惰』の右腕はあらぬ方向へと曲がり、その全身をも魔力の塊が覆い尽くす。
巨大な爆発にも似た衝撃が、轟音と共に浮遊島を揺らした。
『怠惰』の間近で放った為に、撃った張本人であるシンの身体さえも反動で浮かせた。
再び奪われる自由。爆発による砂埃で、『怠惰』がどうなったかは見えない。
けれども、確かな手応えを感じた。――はずだった。
「アアアアアアァァァァァァァッ!!!」
「なっ……!?」
だが、砂埃の向こうから、うっすらと影が見えた。
それが『怠惰』だと認識した時には、既に邪神の左腕が砂埃を突き破っている。
今までのような鈍色の身体ではなく、白と黒の入り混じった腕。中心が純白にも関わらず、その周囲をドス黒いものが侵食していくような気味の悪さがある。
外皮を失った『怠惰』の、本当の身体ともいうべきそれはシンの左腕を掴んでいた。
「コイツ、まだ!」
シンは弾倉を肩に当て、強引に魔導砲を充填する。
僅かではあるが、腕の伸びる先へ向かって再び白色の流星を放つ。だが、邪神の分体は止まらない。
激しい痛みと、鈍い低音が身体の芯を伝ってシンの表情を歪ませた。掴まれている左腕の骨が折られた、すぐに理解をした。
「――ぐ、あっ」
到底人間の力では剥がせない握力を持って『怠惰』はシンの身体を地面へと叩きつける。
苦痛と激痛が身体の感覚を支配するが、まだシンの眼光は死んでいない。
剥き出しとなった白黒の身体が、相手も苦しんでいる証拠だと察しているからだった。
地面へ擦りつけるようにして、魔導砲を充填する。
弾丸を変更する余裕は無い。三度発射される白色の流星が、『怠惰』の顔面を捉えた。
邪神の分体は頭を仰け反らせ、掴んでいたシンの左腕を離した。
「これで――ッ」
倒れるまで決して止めはしないと、シンが魔導砲の弾倉を回転させようとしたその時。
「アアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァッ!!!!!」
長い時間に渡って心身に強い負荷を受けた『怠惰』が、雄叫びを上げる。
駄々をこねる子供のように地団駄を踏む。ただ、それを行っている者は子供ではない。悪意と魔力を糧に生まれた、邪神の分体。
そして何より、度重なる激闘で海から脱したばかりの浮遊島は限界を迎えようとしていた。
『羽・銃撃型』や最大限にまで充填した白色の流星が着実に大地にダメージを蓄積していた。
止めと言わんばかりに強く踏み込まれた『怠惰』の足は浮遊島に地震を引き起こす。
大地の端に生まれた亀裂が、シンだけをこの島から切り離す。
「っ!」
身体を起こし飛び移ろうとするシンを、『怠惰』の吐息が襲い掛かる。
突風のように吹かれた息は、彼のバランスを崩す。浮遊島へ戻る事は叶わず、シンの身体は海へと落下していった。
「シンさん!」
崩れた大地の隅。ギリギリではあるが、浮遊島にその身体を残したアメリアは、落ちていくシンに向かって叫んだ。
どうすればいいのか、激痛の走る頭で必死に考える。焦りが正常な判断を下してはくれない。
歪な笑みを浮かべた『怠惰』が、一歩ずつ近付いてくるのを感じる。
(どうすれば、どうすれば……!)
焦りと恐怖に支配されそうなアメリアを正気に戻したのは、シンだった。
シンは左腕をだらんと垂らしながら、天へ向かって放った魔導砲の一撃。
風の弾丸、緑色の暴風は僅かな充填であるが故に弱々しい風を生んだ。
アメリアは違和感を覚えた。最後の足掻きにしては、弱すぎる。
これならまだ魔導弾の方が強力だ。そうしなかった理由は、必ずある。
見なくても分かる。シンの眼はまだ死んでいない。
自分に成すべき事があるはずだと、アメリアは天を仰いだ。
不思議と近付いてくる『怠惰』は、意識から消えていた。
やがてアメリアは、太陽の光を浴びて輝く物体を視界に捉えた。
「あれは……!」
シンの狙いを、彼女は理解した。同時に自分の強力が必要不可欠である事も、理解した。
アメリアは最後の力を振り絞って『羽』を動かし始める。
陽光を浴びて反射する物体を、『怠惰』もまた気付いていた。
子供のように興味を持ち、視線を移した物は銀色の輪だった。
転移魔術を起動する為の魔導具。その片割れが、緑色の暴風の風によって打ち上げられている。
銀色の輪からシンが現れたのは、『怠惰』が存在に気付いて間も無くの事だった。
度重なる使用で限界を迎えた銀色の輪は、シンの転移が完了すると同時に砕ける。全ての仕事をやり終えたと言わんばかりに。
目の前で手品が起きたと喜ぶ一方で、自分を痛みつけた存在に憤慨する『怠惰』。
落ちてくるシンを迎撃せんと、その足を止めた。
「シンさん、使ってくださいっ!」
「……アメリア、ありがとう。使わせてもらう」
アメリアもまた、気力を振り絞って『羽』を動かす。
落下するシンへ寄り添った六枚の『羽』は連結し、滑走路のように魔導砲の弾倉をカラカラと回していく。
『羽』に込められているアメリアの魔力を吸着して、魔導砲はその威力を高めていく。
シンもアメリアも、『怠惰』さえも、これが最後の攻防になると確信していた。
大地をぐっと踏みしめ、持てる力の全てをシンへ向けようとする『怠惰』。
対してシンは、その拳が近付いた事により魔導砲を『羽』から離す。
動かない左腕に代わって、魔力の縄を身体に縛り付けて照準を合わせる。
そしてアメリアは、シンの想定を超える一手を選択した。
「シンさん。私の魔力も、全て使ってください」
魔導砲の銃身。その先に現れるのはアメリアの『羽・銃撃型』。
六枚の『羽』が連結し、魔力を増幅させる筒を形成する。
彼女の要望によって内側に刻まれた魔法陣。その能力を最大限に発揮する陣形を魔導砲へ託す。
「――これで」
「終わりです!」
『怠惰』の拳が届くよりも早く、シンは引鉄を引いた。
再び充填された高威力の白色の流星は、アメリアの創り出した魔法陣を通過する。
「――――――!!!!!!」
白い流星が『怠惰』の身体を全て包み込み、立っていた大地にさえも大穴を開ける。
閃光の中で白黒の不気味な紋様は消え去り、純白へと姿を変えていったがシン達には知る由も無い。
断末魔を上げる事すら許さない断罪の流星は、『怠惰』の存在をこの世から完全に消し去った。