194.怠惰の目覚め
大蛇のような長い身体に巻き付かれて、何度骨が折れただろう。
幾度となく骨が肺に突き刺さり、その度に呼吸が出来なくなる。
古代から言い伝えられる伝説上の種族にとっては、きっとちっぽけな存在だったに違いない。
彼女が、普通の人間であったならば。
骨が折れようが、身体が拉げようが、フェリー・ハートニアが絶命する事はない。
噂以上の異質さに黄龍王は巻き付いた身体を離せないでいた。
物理的に動けないようグチャグチャにして、この浮遊島の大地と共にしてもらう。
脅威ではあるが、対処が出来ない程ではない。彼のフェリーに対する認識は概ね間違ってはいない。
認識を誤っているとすれば、心情が強さに直結する人種。その際たる者が、彼女であるという事。
「っ……ぅぅぅ!」
悲鳴を上げる分の空気すら、彼女の肺には残っていない。
呼吸が出来ない。身体のあちこちが変な方向に曲がって、身体も自由に動かない。
裏を返せば、たったそれだけ。フェリーが止まる理由は、なにひとつ存在していない。
左の手首を目いっぱい回す。
蒼龍王から浮遊島の事情を聞いた。全てを受け入れて、全力を尽くす。立派な王だと思った。
再び争いの道具になろうとしているのなら、止めなくてはならない。
彼が護り続けた時間を無駄にしたくない。
霰神が、透明の刃を形成した。
右の手首を目いっぱい回す。
この10年間、何度もシンに自らを討たせた。
当時はそれが自分に出来る精一杯の贖罪だと思った。けれど、彼の心を傷付けているだけだと知った。
彼の心中に比べれば、今感じている痛みはただ痛いだけ。フェリーが止まる理由には成り得ない。
灼神が、真紅の刃を形成した。
「ぐ――う!?」
黄龍王の身体を伝って顔にまで及ぼうとしているものは、氷。
霰神から発せられる冷気が彼の自由を奪っていく。
反対に尾へ向かって伸びていくものは熱。灼熱の刃が、龍族の鱗をも焼き尽していく。
ヴァンにとっては、許容しがたいもの。人間に味わわされた屈辱を呼び覚ます鍵。
相反する苦痛が同時に襲い掛かる。あべこべな対処を求められ、締め付けていた力が弱まる。
その一瞬を逃さず、フェリーはヴァンの拘束から脱出をした。
「クソ……ッ!」
顔を覆った氷を砕き振り返ったヴァンを待ち受けていたものは、大量の霧だった。
霰神で造り出した氷を、即座に灼神が溶かしていく。
巨大な水蒸気が瞬く間にフェリーを覆い尽くし、ヴァンは彼女の姿を見失った。
シンが魔導弾を利用して生み出した手段を、魔導刃で模したもの。
「どこだ!? どこに行った!?」
尾を鞭のようにしならせ、周囲の壁を破壊する。
透明な海晶体の壁は次々と砕かれ、太陽に反射してきらびやかに輝いている。
しかし、フェリーの姿は確認できなかった。尾に肉の塊が触れた感触も、残ってはいない。
「どこまでも……!」
自分に手傷を負わせて、姿を消す。三日月島の再現のような状態に、ヴァンは砕けそうな程に歯を食い縛る。
どいつもこいつも、どれだけ自分を虚仮にすれば気がするのか。怒りのボルテージが上がっていく。
(あっぶなあ……)
しかし、フェリーはこの場から離れてはいない。
岩場の影に隠れ、傷付いた身体が元通りになるのを待っていた。
彼の尾が潜伏場所の真上を通り過ぎた時は、気が気ではなかった。
黄龍王は自分が受け持つと宣言した。無責任に放置は出来ない。
万が一にでもシン達に被害が及ぶ可能性を考えると、放置していい相手ではない。
無論、フェリーとて相手が格上だという事は承知している。
不老不死の少女は傷が治ったり年を取らないと言った部分以外にも、身体を鍛える意味が無いと言った副作用がある。
フェリーの身体は不老不死になった16歳以降から成長していない。
無尽蔵の魔力による身体強化と、シンを旅をするうちに研ぎ澄まされた反射と度胸が彼女の礎。
最近ではそれに加えてアメリアに剣術を習ってはいるが、この場で通用する域には程遠い。
龍族の王を相手取るには、少々心許ないかもしれない。
けれども、いくらでもやりようはあるはず。シンを見ると、自然とそう思えた。
幸い、灼神による一撃は分厚い龍族の皮膚にも有効だった。
あの鱗を剥いで、直接一撃を加えれば或いは倒せるかもしれない。
(まずは、ちゃんと灼神を――)
真紅の刃をどうやって急所に突き立てるか。
慣れないながらもじっくりと作戦を練ろうとしたフェリーを、突風が襲い掛かる。
彼女が造り出した霧は瞬く間に消え去り、視界が拓ける。
同時に感じた殺気を頼りに、フェリーは隠れていた岩陰から飛び出した。
「わわっ!?」
岩の上から叩きつけられた黄龍王の尾は、巨大な窪みを生み出した。
中心にある岩。フェリーが直前まで屋根として利用していたそれは、粉々に砕けている。
自分の感覚を信じて正解だったと、血の気が引く。
「そんな所に隠れていたのか、小娘」
「……見つかっちゃったかぁ」
鼻息を荒くするヴァンの姿にフェリーはたじろいだ。
龍族の表情に明るい訳ではないが、はっきりと判る。あれは、怒りだ。
なにより、風の息吹の存在をすっかりと失念していた。
奇襲的に使ったから上手く行ったが、次からはすぐに霧は吹き飛ばされてしまうだろう。
「何度も何度も邪魔をして。このぼくを虚仮にした覚悟は、出来ているか?」
「そんなにジャマしたつもりはないけど……。逃げるつもりは、ないよ」
僅かな時間ではあるが、身体は動く。
灼神と霰神に魔力を込め、フェリーは二本の刃を形成する。
ここから先が正念場なのだと、真っ直ぐに黄龍族の王を見据えて。
……*
自分の景色が海を突き抜け、空の上へと浮かんでいく。事情を知らなくても異常だと判る。
海の中でマリンが言った通り、アメリアも一切の魔術を使えないまま時間が過ぎていた。
どうするべきか悩む彼女に変化が起きたのは、まだ違和感の残る蒼龍王の神剣を抱えて浮遊島の探索を始めていた頃だった。
長い間反応すら起きなかった『羽・銃撃型』に魔力が灯る。
肩から離れた六枚の『羽』が、アメリアの身を護る様に周囲を取り囲んだ。
アメリアは胸を撫で下ろす。
何が起きたのかはともかく、脅威が眼前に現れるよりも先に『羽』が機能を取り戻してくれた。
その一方で、蒼龍王の神剣にはまだ若干の重さが残っている。
儀式の途中で途切れた神への祈りはそのままらしい。
踵を返して、儀式を続ける事も考えた。海底での戦闘では、不甲斐無さを感じながらもそうしたのだから。
だが、状況は変わってしまった。海底にあるはずの街が、空を飛んでいると言う異常事態。
海底都市の正体を知らされていないアメリアにとっては、この状況を正しく判断する事自体が困難だった。
自分はどう動くべきなのか頭を悩ませる彼女にも、襲い掛かろうとする魔の手は忍び寄る。
突如、陽が射しているはずの海晶体の屋根が影に覆われた。
咄嗟に見上げたその先には、巨大な触腕が振り下ろされていた。
「――なんですかっ!?」
透明な屋根を突き破り、そのまま横薙ぎに払われる触腕。
アメリアは『羽』を用いて触腕を撃つが、動きが鈍る事はない。
咄嗟に氷の魔術で作りだした足場を利用して触腕を飛び越えるが、完全に躱しきれた訳では無かった。
「もう一本!?」
時間差で襲い掛かるもう一本の触腕。
宙に浮いてしまった事により、身体の自由は利かない。
二本の触腕の根本にまで視線を向けると、そこに居るのは巨大なイカだった。
悪魔憑きのイカ。海に棲息し、何隻もの船を沈めたという逸話を持つ魔物。
人間の世界で恐れられていた魔物が、更に巨大となってアメリアの前に立ちはだかる。
「っ……! 水の牢獄!」
アメリアは二本の水の牢獄で迫りくる触腕を捕まえた。巨大な触腕に、鞭のように迫りくる威力。
詠唱を破棄した水の牢獄で抑えきれるものでは無いが、締め上げる力により僅かに触腕が盛り上げられる。
その隙間を潜り抜け、ゴロゴロと海晶体の欠片が散る床の上を転がる。
纏わりついた結晶を払いながら、海底ではなくどうして今なのかという疑問を解こうとするが、その謎はすぐに解けた。
悪魔憑きのイカのすぐ傍にいる魔術師。トリス・ステラリードが召喚した魔物だと。
ミスリアの王都同様に、召喚術を用いて呼び出したのだろう。
このタイミングで現れたのは、きっと彼女も魔術を使えなかったから。
そう考えると、一応の辻褄は合う。必然的に、邪神の一味が絡んでいるという事になってしまうが。
海底都市に現れた魔物も、トリス達が手引きをしていたのだろうか。
そもそも、どうして空に浮かんでいるというのか。魔力が途切れた事と何か関係があるのだろうか。
目まぐるしく変化する状況も、彼女に訊けば分かるだろうか。
「トリスさん! どうして貴女が海底都市にいるのですか!?
一体、何を企んでいるのですか!?」
「答える必要は……。ないッ!」
トリスの性格ならば、素直に答えてくれるとは思わなかった。
突き出された右手を合図に、悪魔憑きのイカの触腕が再び唸りを上げる。
彼女が完全に、悪魔憑きのイカを支配下に置いている証でもあった。
「紅炎よ、万物の存在を否定せよ。永遠の暇を与える不滅の刃として――」
同時にトリスは魔術の詠唱を始める。冒頭だけでも、彼女が唱えようとしている魔術を理解した。
紅炎の新星。詠唱とイメージの練り上げに苦労するが、放つことさえ出来れば最上級の威力を誇る炎の魔術。
黄道十二近衛兵を務めていた彼女がきっちりと詠唱した上で放ったものならば、自分の周囲ぐらいは簡単に焼き尽せるだろう。
何としても、撃たせる訳には行かない。アメリアは、『羽』を連結させ悪魔憑きのイカの触腕へと向けた。
「――凍撃の槍」
海底都市の時とは違い、今度は四枚の『羽』が四角形の筒となる。
通過した凍撃の槍は詠唱破棄した魔術とは思えない威力で、悪魔憑きのイカの触腕を凍らせる。
強引に抜け出そうとした悪魔憑きのイカだが、それは悪手以外の何物でもない。
自慢の触腕は氷を剥がすどころか、無情にも根本から折れてしまうのだから。
(なんだ、あれは!?)
理解の追い付かない魔術の威力に、トリスは眼を疑った。
だが、彼女のまた詠唱を止めはしない。驚きでブレたイメージを修正するべく、力強い言葉で詠唱を続けていく。
この紅炎の新星を放たなければ、敗北は必死だと確信したからでもあった。
悪魔憑きのイカも同様に、触腕を失ったその身体にはまだ八本の足が存在している。決死の特攻が繰り広げられた。
「……トリスさん。残念です」
アメリアは、下唇をきゅっと噛んだ。連結した事による虚脱感を悟られぬように、強く地面を踏みしめる。
トリスが紅炎の新星の詠唱を止めるのであれば、まだ対話する余地はあったかもしれない。
けれど、彼女は行動でその可能性を拒絶した。故にアメリアも、トリスを止めなくてはならない。
今回連結した『羽』は四枚。残る二枚は、凍撃の槍の発射と共に隠した。トリスを欺く為に。
交渉の余地が無いと判断したアメリアは、単独で動かしていた『羽・銃撃型』から魔力の塊を放つ。
「なんだと……!?」
放たれた先は、トリスの足元からだった。地面に這うように移動していた『羽』に、トリスの意識が奪われる。
詠唱を止める訳には行かない。イメージを崩す訳には行かない。だが、この魔力の塊は躱さなくてはならない。
トリスの意識がアメリアの存在を希薄にする。ミスリア最強と呼ばれた騎士は、その隙を逃さない。
蒼龍王の神剣を失った事により、ピースに借りていた魔導刃をアメリアは起動する。
水を宿した魔力で形成された細身の剣。それをグンと伸ばし、トリスの肩を貫いた。
「次から次へと、どういう……」
決してミスリアで培われた訳ではない戦法。アメリアは良くも悪くも、教科書にしたいぐらいお手本となる騎士であり魔術師だった。
邪神の顕現による危機感と、今までの人生で触れ合わなかった者との出逢いが、図らずともアメリア自身に型を破る事を教えた。
「お互い、色々ありますから。トリスさんの事情も、出来れば聞かせてください。
きっとイルくんも、知りたいでしょうから」
紅炎の新星の詠唱が途切れ、駆け寄るアメリアに対処する術はない。
最後の抵抗で放とうとした魔術も、イメージを練り込むに至らない。
アメリアの手刀がトリスの意識を奪う。ほどなくして、『羽・銃撃型』による銃撃が悪魔憑きのイカを斃した。
「……やはり、あまり気持ちのいいものではないですね」
トリスをそっと寝かせながら、アメリアはぽつりと呟いた。
ずっと感じていた事ではある。かつての仲間と、命のやり取りをする複雑な思い。
アメリアは、まだ割り切れない自分が強いのか弱いのかすら判らない。
だが、彼女にはそれをゆっくりと考える時間は与えられなかった。少なくとも、今この場では。
「っ!?」
急に感じたのは、寒気。明確な悪意の塊と、嗚咽を漏らしそうになる程醜悪な魔力。
彼女の感覚は正しい。振り向いた先に邪神の分体、『怠惰』の存在に気付いたのだから。
鈍色の身体は、まるで鋼の魔造巨兵のようだった。決して磨かれておらず、汚らしくくすんだ姿。
全身を纏っている魔力は黒く、汚らしい。けれど、禍々しい。
気が付くと、違和感があるにも関わらずアメリアは蒼龍王の神剣を抜いていた。
既に『羽・銃撃型』による連結を二発放っている。吸い取られた魔力では、魔導刃の維持すらも怪しい。
アメリアの判断は正しい。相手の能力を見極めようと、後手に構えた事以外。
「――なっ!?」
地面に大きな足跡を残して、『怠惰』が近付いてくる。
一足飛びで距離を詰め、アメリアの眼前に差し出されたのは巨大な拳。
「っ!!」
蒼龍王の神剣で拳を受け止めるが、彼女の体重ではそれを支えきれない。
真っ直ぐに押し出されたアメリアの身体は吹き飛ばされ、海晶体の壁をいくつも突き破る。
「か、はっ……」
口から血の混じった液体がボタボタと零れ落ちる。広がる鉄の味が、痛みに実感を持たせる。
至近距離で大砲でも撃たれたのかと思った。四肢が残っているのが奇跡だと思えるほどの一撃。
気怠そうにのそのそと歩く『怠惰』。一歩ずつ近付くその姿は、恐怖の象徴へと移り変わる。
一体どうすれば? 今の自分で対処できるのか? 出来なければ、どうなる?
様々な不安が脳裏を過る。最悪の状況を、脳裏に植え付けられていた。
自然と呼吸が浅くなるアメリアを救ったのは、一発の銃撃だった。
銃弾は『怠惰』へと当たり、その巨体を地面へと縫い付ける。
魔導弾のひとつ、重力弾。
その弾丸を持っている者を、アメリアは一人しか知らない。
「……シンさん!」
視線の向こうには、銃を構えたシンの姿があった。
不思議な話だが、たったそれだけでアメリアの不安は取り除かれる。
自分も立ち向かう気力が湧いてくる。彼の強い眼光に、アメリアは救われている。