189.怠惰の脅威
フェリーが蒼龍王により海底都市の真実を聴かされる少し前。
同じく海底都市内にて、異常事態にの対応に追われる少年。ピース。
「一体、何があったんだよ……」
予定では海精族の歌と、人魚族の踊りで夢心地になっているはずだった。
見渡す限りの美女に心を躍らせる彼を、強い揺れが台無しにした。
海底都市の仕掛けかと思ったのだが、人魚族や海精族の反応が明らかに予定調和のそれではない。
不穏な何かが起きていると判断したピースは、それを解決するべく海底都市を奔走する。
戦闘になった際、庇いきれる自身がないからと人魚族達には避難を促した。
簡単な内部の構造は教えてもらったところ、自分の位置からアメリアの居る神殿が近い事を知り、彼女との合流を試みる。
ピースが抱いていた懸念が現実のものとなるまで、そう時間を要さなかった。
我が物顔で海底都市を歩く鰐の魔物。どこからか現れた暗黒の鰐の群れ。
真っ黒な体表がぞろぞろと並び、鋭い牙をガチガチと鳴らす姿は異様な光景だった。
一目見ただけで、ピースは異物なのだと察する。あれは、海底都市の住人ではない。
「なんだよ、あれ……」
暗黒の鰐はギョロギョロと眼球を動かし、獲物を探している。
ピースの姿を見つけていた魔鰐が、裂けた口を目いっぱい上げる。牙から滴る悍ましい唾液に、ピースは身震いした。
理不尽さを感じながらも、突如現れた無法者の標的となった。
自分が突破されれば、素晴らしい歌と舞を披露していた人魚族や海精族に危害が及ぶ。
選択の余地はないと、ピースは翼颴を起動させる。
「なんだか分かんないけど、片付けるしかないか」
翼颴から『羽・強襲型』を分離させ、翠色の鳥は四方に散る。
美しく舞う『羽』に、暗黒の鰐の注意が削がれる。
その隙を逃さず、翼颴本体から放たれる風の刃。
魔導刃より遥かに威力の上がったそれは、前方に居る暗黒の鰐を真っ二つに切り裂く。
剣を抜いたにも関わらず遠距離から放たれる攻撃に驚いた魔鰐は、視線を『羽』からピース本人へと移動させる。
新たな隙が生まれた瞬間だった。
「はあっ!」
宙を舞う『羽』が暗黒の鰐の脳天に突き刺さる。
魔力で強化された刃は小さな竜巻を生み、魔鰐の頭の中をグチャグチャに掻き乱す。
魔導刀と『羽』が織りなす連携の前に、成す術もなく暗黒の鰐は全滅する。
「やっぱこれ、異常事態だよな。……早く合流しよ」
暗黒の鰐の出現が、先の揺れと無関係ではない事ぐらいは容易に想像できる。
そして、この程度の魔物で海底都市が危険に晒されないであろう事も。
まだ事件は何も解決していない。ピースはいつでも戦闘に入れるよう、『羽』を先行させながら海底都市の中を奔走し続ける。
彼にはそれが最適解だと思えた。
『羽』による先制攻撃と、翼颴による風の刃。
異変が起きているこの状況で単独行動。詠唱をしている時間も、じっくりとイメージを練り込む余裕もないという判断。
ピースの判断は間違っていない。間違っているのは、邪神という悪意の塊が齎す力の方なのだから。
「……は!?」
角に差し掛かろうとした時だった。翠色の刃が突如、力を失う。
魔力の接続が突然切れてしまい、カランと音を立てて床に転がる。
初めての感覚ではない。ミスリアの王都で、一度体験したものと同じだった。
うっすらと脳裏に浮かぶ顔は、正直言って絵面的にも嬉しくない。
「かぁーっ! 少年、なんでいるかなあ?」
だが、ピースの願いとは裏腹にピースは思い描いた人物と三度目の邂逅を果たす。
一度目は港町のポレダ。二度目はミスリアの王都。三度目はここ、海底都市。
「おっさん!? そっちこそ、なんで海底都市に居るんだよ!?」
長い前髪に、中途半歩に伸びた髭。全く生気を感じさせない瞳。
自分の瞳と脳裏に潤いを齎していた人魚族達とは雲泥の、見窄らしい男が視界に現れる。
ジーネス・コルデコル。その汚らしい恰好とは裏腹に、どこか掴みどころのない男。
「何って……。そいつはおめえ、仕事に決まってるだろ。
いくら嫌でも、日銭は稼がんと行かんのだよ。
ワシだって人魚を見られるならそっちの方が良かったのに、そういうわけにもいかねえしよ」
謁見の間で側近の人魚族を見て以降、ジーネスは人魚族の姿を確認していない。
見つかると騒ぎになるので徹底的に人気を避けた結果だが、やはり人魚は見たいし触れたいという口惜しさは感じていた。
「せめて別嬪の女騎士とか、巨乳ちゃんとかにしてくれよなあ……」
人と遭遇したと思えば、緑色の髪をしたちんちくりんの子供。しかも男で、ジーネスは心底がっかりした。
剣や魔術だけではなく、その美貌もよく話題に上がるミスリアの女騎士。もしくは、王都で見た金髪の巨乳辺りならばとため息をつく。
「お前みたいなヤツに、アメリアさんやフェリーさんを会わせられるか!」
逆にピースは遭遇したのが自分で良かったと切に思う。
この助平の嘗め回すような視線に、彼女達を晒したくない。特に耐性の薄そうなアメリアは尚更だ。
若干、自分の事を棚に上げているが。
「……会わせられないったって、お前さんでどうにか出来ると思ってんのか?」
ジーネスが醸し出す剣呑な雰囲気に、ピースは生唾を呑んだ。
向けられているのは明確な敵意。殺気のオンオフが、こんなにはっきり伝わるものなのかと冷や汗が頬を伝う。
「どうにか出来るかどうかじゃなくて、おっさんの目的次第ではどうにかしないといけないんだよ」
気圧されてはいけない。退いてはいけない。
まじないのように、心の中で呟く。脚の指先に力を込め、地面を掴む。
目の前にいる相手は先刻倒した魔鰐とはまるで違うんだと、ピースも意識を切り替える。
「ワシの目的ぃ? そんなもん、毎日酒飲んで、キレイなねーちゃんと仲良くして、喰っちゃ寝して余生を過ごすことだぞ?」
「……正直、ちょっと気持ちは分かる」
「だろぉ?」
自分も前世でどうしようもなく心が折れた時に、似たような妄想をした経験がある。
毎日同じ事の繰り返しなのに、心身は疲弊していく。辛い毎日ではなく、楽しい毎日を繰り返して欲しいと願った。
そうなればいいのにと、何度も願った。
「けど、その目的を達成するために、何をしようとしているんだ?」
だけど、目の前の男は違う。
目的の為に取ろうとしている手段が、受け入れられるものではないと思った。
「……少年。オトナの世界には色々あるのよ」
殺気を出して、多少ビビったと手応えを感じたジーネスだが目論見は外れた。
この少年は、引き下がらない。瞳を見れば、それぐらいは判る。
大人の威厳で「子供に何が解る?」と一喝するような性分でもない。
未来ある若者の芽を摘むのは心が痛むが、海底都市まで来て自分も引き下がる訳には行かない。
「色々あるのは、おれもよく分かってるよ!」
大人の世界はしんどくて、やるせない。そんな事ぐらいは、ピースも理解している。
このまま話を続けていても、きっと平行線を辿るに違いない。
時間を稼ぐという意味では悪くないのかもしれないが、ジーネスの真意が判らない。それすらも危険な可能性が排除しきれない。
何より、彼には妙な能力がある。
王都でも見せた、魔力を消し去る能力。
シンとマレットの立てた仮説だったが、ほぼ間違いないだろう。
現に王都と海底都市、その両方で彼の近くに舞う『羽』は機能を失っている。
直接魔導石と接続されている、翼颴ならあるいはと、ピースは翠色の刃を振り被った。
「はあーっ。結局戦闘になるのか。
ま、この辺が目的地だし、別にワシは構わんが」
ジーネスは気怠そうに、頭をボリボリと掻く。
翼颴の刃を避ける素振りは一切見せない。その必要が、ないのだから。
「っ!」
結論から言うと、翠色の刃がジーネスに届く事は無かった。
彼に近付いた途端、刀身の先が消える。まるで、そこに存在していなかったかのように。
魔導石を通して魔力を供給しているかどうかは、問題では無かった。
この怠惰な男がかき消すのは、魔力そのもの。
「やるだけ無駄だったな。じゃ、これでおねんねってことで」
ピースの刃。その手元が自分の眼前を通過したのを確認し、ジーネスは強く拳を握る。
強靭な鋼で作られた肘まで覆う鈍色の籠手。長年共に戦ってきた、ジーネスの相棒。
魔術付与はおろか、魔力を通す素材すら使用していないただの鋼の塊。
他の誰が扱ってもただの鉄屑だが、ことこの男に関して言えば違っていた。
攻守一体の万能武具。あらゆる攻撃を弾き、あらゆる防具を貫く相棒。
そこに魔力を掻き消す『怠惰』の力が加われば、恐れるものは何も無かった。
しかしピースもまた、翼颴がかき消される可能性は考慮していた。
振り切った刃は、全力ではない。踏み込みは浅く、手はすぐに引ける状態。
柄のみとなった翼颴で、ジーネスの一撃を受け止める。
「――っ!」
ただ、あくまでそれは自分の攻撃が通用しない可能性だけを考えたに過ぎない。
この怠惰な、だらしない男から想像できない程の強い衝撃がピースを襲う。
ミシミシと身体の軋む音が、ピースの顔を歪ませる。
身体がふわりと宙に浮き、続く一撃も翼颴の柄で受け止めたにも関わらず華奢な身体はゴロゴロと床を転がっていく。
「か……はっ!」
食べた物が胃から逆流しそうになるのを、床に這いつくばりながら堪える。
感じた殺気は、決して伊達や酔狂では無かった。間違いなく、この男は強いのだと知らしめる一撃。
「おお、まだ意識があんのか。大したもんだねえ」
肩をぐるぐると回しながら、自分の一撃を耐えた子供に賞賛の言葉を送る。
圧倒的に優位な立場から投げられた言葉は、ピースを苛立たせる。
「うるせ……。おっさんこそ、ただのクズじゃなかったんだな」
「驚いたか? けど、今ので気絶しといた方が良かったと思うんだよなあ。
お前さん、魔力頼りで戦うだろ? ワシとは相性最悪なの、今ので解ってくれると助かるんだがなあ」
「解ったとしても、退けない事情ってのがあってだな……」
ピースはよろよろと立ち上がり、精一杯の強がりを吐いて見せる。
その一方で余裕を見せながら近寄るジーネスに、自分の出来る対抗策を必死に考えていた。
例え魔術でも、魔力による攻撃は意味を成さない。王都でイルシオンの稲妻の槍はかき消されていた。
『羽』も同様で、ジーネスの近くに寄れば魔力の接続が断たれる。翼颴は論外で、斬りつける事は叶わない。
一見して、八方塞の状況。頼れる味方はこの場に居ない。
(何か、使えるものは……)
眼球を最大限に動かし、周囲に使えるものはないかと探す。
彼の願いとは裏腹に、視界に映るのは見渡す限りの床と柱。そして、海が見える壁。
自分の手に取れるようなものを見つける事は出来なかった。
いよいよ本格的に打つ手がないと、冷や汗が顎から滴り落ちた。
一歩ずつ近寄ってくるジーネス。静かな足音がピースの焦りを加速させる。
なんでもいい。何か手はないか。思考をぐるぐると回した結果、ピースはとある記憶を掘り返す。
ひとつだけ思いついた手段。ただそれは、どれほどの代償を伴うのか想像もつかない。
(いや、これは流石に……。けど……)
思いついた策を実行するべきか、逡巡するピース。
気怠そうな足取りでも、決して歩みを止めないジーネス。
代替案は浮かんでこない、ピースは自身の策を実行する決断を下す。
「カナロアさん。あと、みんな。ごめんなさいっ!!」
翼颴に精一杯の魔力を込め、ジーネスの範囲外にある『羽』を起動させる。
美しく舞う翠色の刃にきょろきょろと眺めるジーネスだが、恐れる必要はない事を知っている。
あの武器は魔力を通して動いている。自分の破棄で、十分に対応が可能なのだから。
「いっけえええええ!」
無論、ピースもその刃がジーネスに届かない事は知っている。
だから、彼は狙った。ジーネスではなく、自分と彼の狭間にある海晶体を。
海水は魔力で構成されている訳ではない。自然界に存在するもの。
海晶体の壁を突き破れば、浸水で彼も身動きが取り辛くなるはず。
仮に自分と同じ海底を移動する魔導具を持っていたとしても、その間は魔力を掻き消す事は出来ない。
条件を五分以上に持っていけるはずだと、思いついた手段。
かつてシンがウェルカにて、マナ・ライドを撃ち抜くという荒業を模したものだった。
問題は海晶体を破壊した結果、海底都市にどのような影響が及ぶか。
被害如何によっては、自分は取り返しのつかない事をしてしまったという可能性。
それでもピースは、この男の方が危険だと判断した。そして、その判断は間違っていない。
誤算は、彼の望んだ結果が得られなかったという事だけ。
「なーるほど、ねえ」
自分から離れ、海晶体の壁へ向かって突き進む翠色の刃を見て、ジーネスは即座にピースの目的を理解した。
この少年が打てる手としては、ほぼ満点に近い回答。即座に導き出した事を、褒めてあげたいぐらいだった。
だが、それを許す程ジーネスもお人好しではない。
邪神の分体。結晶体となった右足を、床へ強く踏み込む。たったそれだけの事で、ピースの狙いはいとも簡単に崩された。
広がる不気味な波紋。ピースが生暖かい風のようなものを感じた時には、既に事は終わっていた。
地震と見間違うような大きな揺れと共に力を失い、ごとごととその場へ落ちていく『羽』。魔力の供給が断たれた証だった。
「な……に……!?」
魔力を失ったのは『羽』だけではない。離れた位置に居るはずの翼颴も、その刃が消えている。
破棄の効果範囲は、彼の周辺では無かった。ジーネスはまだ、本気を出していないだけだったのだと、今更になって気付く。
「ガハハ! 少年、狙いは良かったな!」
瞬く間に距離を詰め鋼の籠手を纏った拳が突き付けられる。
先刻同様に防御しようとしたピースだが、ここまでまた違和感を覚える。
(身体が、重い……!?)
思ったように身体が動かず、ジーネスの速度に対応が出来ない。
ジーネスが魔力を掻き消した際に起きた揺れ。それだけが原因ではないのは、明らかだった。
成す術もなく彼の拳を一撃、二撃と受けたピースは血痕による糸を引きながら、床を転がっていく。
「だから言っただろ? 『ワシと相性最悪』だって。
魔力の高い奴はいけねえなあ。その身体能力も、魔力の恩恵を受けてることすら忘れちまうんだからよ」
朦朧とする意識の中で、ピースはジーネスの言葉を理解した。
身体が重いのは、魔力による身体能力の強化が得られなかったから。
彼が魔力を断てるのは、魔術や魔導具だけではない。生き物に宿っている魔力ですら、掻き消してしまうのだと。
(じゃあ、どうしろってんだよ……)
身体能力でも勝てない。攻撃手段は全て封じられた。
だらしないこの男に勝てるビジョンが、全く思い浮かばなかった。
口の中に広がる血の味が、ピースに敗北感を植え付けていく。
「ま、これでわかったろ? ワシとしてはお前さんを殺す必要はねえんだ。
このまま大人しくしといてくれや。どうやら、この辺らしいからな。面白いモン、見せてやるからよ」
「どういう、ことだよ……?」
ピースにはもう、問いかける事しか出来なかった。
ジーネスは弱々しい眼差しを送るピースを見て、歯を見せて笑う。
「この島の、本当の姿をだよ」
そういうと、彼は再び右足を強く踏み込む。
波紋が広がると同時に、何かが千切れるような音が聴こえた。
刹那、彼を中心に海底都市が激しく揺さぶられる。
自らを縛り付けていた物が失われた海底都市は、ゆっくりと浮上を始めていく。