188.蒼龍王の一撃
あどけない顔には似付かわしくない、怒りを孕んだ視線。
左右の手に握られている灼熱の刃と、凍結の刃。
小さな身体にどれほどの魔力が秘められているのか、測り知れない。
その怒りを向けられているリゲイルは勿論、蒼龍王でさえを息を呑んだ。
(冗談じゃねえ……)
か細い少女に気圧され、魔鰐の王が後退りをする。
自分はただ、恥をかかせた相手。蒼龍王に意趣返しが出来ればそれでよかった。
矮小な目的の為に、都合のいい相手として邪神の者と手を組んだ。
リゲイル自身には信仰する神など存在せず、邪神がその席に着く事もない。
暴力で相手を蹂躙し、相手の心身を屈服させる。
その力さえも通じない蒼龍王が現れれば、目の届かない場所で悪さをする器の小さな男。
決して揺らがないと思われた力関係が、逆転するかもしれない。
甘い話を聞かされて、勝ち馬に乗ろうとしただけの哀れな男。
リゲイルの本質は鋭い牙でも、強靭な顎でもない。弱者を甚振るだけの、情けない男だった。
割った海晶体は、霰神によって氷漬けとなっている。
蒼龍王も同時に張り付けてしまったみたいだが、パリパリと氷の剥がれる音が聴こえる。
身体が完全に離れたが最後。あの男は、黙ってはいないだろう。
この海を支配する誇り高き龍族の王と正面から戦う程、リゲイルは腹の据わった男では無かった。
「チッ、ここは逃げさせてもらうぜ! テメエらと戦ってたら、命がいくつあっても足んねえ!」
「あっ! ちょっと!」
強靭な顎で海晶体を突き破り、リゲイルは海へと脱出する。
|蒼龍王と不老不死の魔女を相手に出来ないという事実上の白旗。
自分の保身の為ならば、ジーネス達は愚か海底都市を襲わせていた部下さえも容易く見棄てる。
とても王とは思えないその振舞いに、同じく王である蒼龍王の堪忍袋の緒が切れた。
「……フェリー。すまないが、我が出た後に穴を塞いでくれ」
「えっ?」
フェリーの返答を待つまでもなく、カナロアも氷漬けとなった壁を破壊して海へと飛び出る。
皮膚から流れる血が、海水へと溶け込んでいく。
「ちょっと、カナロアさんってば!?」
ぽっかりと空いたふたつの穴を、フェリーが慌てて霰神で凍らせる。
時間にして、数秒。その間に、全てが終わっていた。
「なっ……!?」
必死に逃げるリゲイルだったが、蒼龍王たるカナロアにとっては牛歩のようなものだった。
龍族の中でも最速を誇ると言われている一族。その王が、一匹の虫を狩るために全力を出している。
リゲイルが殺気を感じた時には、手遅れだった。振り向いた時には、既にカナロアが眼前に迫っている。
「ま、待てよ。あんなの、ちょっとしたジョークじゃねえか。
ほら、お前んとこにもバケモノみたいな人間いたじゃねえか!?
こっちもあんな人間にムリヤリせがまれてよぉ!?」
魔鰐族の王が命乞いをする姿は、情けないの一言だった。
いや、命乞いをするだけなら可愛げがあっただろう。
何とか生き延びようと取り繕う事に精一杯な彼は、許されざる言葉を吐いた自覚すら持っていない。
「……我の家族を危険に晒しておいて、冗談だと?」
「い、いや! 悪い、誤解だ! 本当はちょっとビビらせるだけだったんだよ!
オレだって海でナメられっぱなしってわけにはいかねえの、分かるだろ!?
同じ王なんだからよ、カナロア! いや、カナロア様!」
「黙れッ!」
聞くに堪えない言葉をつらつらと並べられ、カナロアの怒りを更に加速させていく。
「貴様のような矮小な男の考えなど、我には解らぬ!
それだけではない。貴様、フェリーを化物と言ったのか?」
新たな友人であり、自分達を救ってくれた恩人を『化物』と称した。
可憐で真っ直ぐな瞳をした少女を、『化物』として扱えるその神経に辟易する。
カナロアは怒髪天を衝く程の怒りを、リゲイルへと向ける。
暴力で相手を屈服させ、反論する者を全て捻り潰してきたリゲイルには、カナロアの怒りの矛先が読み取れない。
ただ、言い訳で取り繕って逃げる事だけを考えていた。
「や、考えて見ろよ!? あの女、不老不死だって聞いたぞ!
あんな一瞬で部屋を凍り付かせて、オレの斧を――」
これ以上、余計な言葉は不要だった。
リゲイルの話に耳を傾けても、怒りで傷口が広がるだけ。情状酌量の余地が生まれる事はないだろう。
結果として、魔鰐族の王は最期の言葉を言い終える事なくその生涯を終えた。
海面へ届く程に力強い、蒼龍王の渾身の息吹によって。
「すごい……」
霰神によって張り巡らされた氷の壁。その向こう側で、フェリーはぽつりと呟いた。
魔鰐族の王も、決して泳ぎが遅い訳ではない。むしろ、フェリーが泳いでも到底追い付ける速さでは無かった。
だが、蒼龍王の速度はそれを遥かに上回る。壁を凍らせたと思った時には、既にリゲイルの元に居たのだ。
そして、怒りの咆哮が魔鰐族の王を消し尽くした。フェリーが状況を理解する前に、方は付いていた。
「あたしも、ケッコー怒ってたんだけどな……」
怒りの行き場を失ったフェリーが、灼神と霰神の刃を解く。
立ち尽くしているフェリーに、人間の姿へと擬態したセルンが声を掛ける。
「フェリー、貴女のお陰です。本当に、ありがとう」
気付けばセルンだけではなく、鳥人族や人魚族すらも頭を下げている。
見渡す限り、蒼龍王を除いては誰も大きな怪我をしていないというのが幸いだった。
「い、いえ。キョーシュクです……」
カナロアが戻ってくるまでの間、ずっと頭を下げ続ける彼女達にフェリーは照れながら頬を掻いていた。
……*
「改めて礼を言わせてくれ。フェリーが居なければ、どうなっていたことか」
セルンと同じく人間の姿となったカナロアは、彼女達と同様に頭を下げる。
リゲイルによって負わされた傷は、浅くない物もの多いのだろう。擬態した姿でも、痛々しさが残っていた。
「プライアちゃんが、こっちの方に案内してくれてたからだよ」
プライアというのは、フェリーの案内役を受け持った人魚族だった。
彼女はフェリーの要望通りにシンの土産になりそうなものを見繕っている最中、海底都市の揺れを感じ取った。
謁見の間にいる蒼龍王が心配だと言った彼女の、ファインプレーだった。
「そうだったのね。プライア、ありがとう」
蒼龍王に代わり、セルンが頭を下げるとプライアは恐れ多いと恐縮してしまう。
視線を一斉に浴びて恥ずかしいのか、そのまま人魚族達の群れの中へと隠れてしまった。
「……時に、フェリーよ。謁見の間に来るまでに、妙な男に逢わなかったか?」
「ミョーなおとこ?」
「こう、なんというか。その、だらしなくて見窄らしい男だ」
両手を動かしながら、何とかジーネスの容姿を表現しようとするカナロア。
珍妙にも見える動きに、思わずセルンが噴き出してしまう。
フェリーはプライアと互いの顔を見合わせるが、揃って小首を傾げる結果に終わった。
「ううん。ここに来るまでは、誰も逢ってないよ」
「そうか……」
カナロアは背筋を伸ばして、思案する。
違う経路によりフェリーと遭遇していないのか、もしくは上手く隠れたのか。
魔物を召喚していたであろう魔術師も、姿を見せていない。まだまだ問題は山積みだった。
本来ならば、王たる自分が動かなくてはならない。
その気力とは裏腹に、リゲイルによってつけられた傷がカナロアの顔を苦痛に歪ませる。
自分の不甲斐無さに下唇を噛みながら、カナロアはその頭を深々とフェリーへ下げた。
「ちょっと、カナロアさん!?」
何が何だか分からず、フェリーは手をぶんぶんと左右に振る。
セルンに頭を下げられた以上に恐縮してしまい、とりあえず頭を上げて欲しいと頼んだ。
「フェリー。客人である君にこんなことを頼むのは心苦しいが……。
我らは今、危機に面している。この島の、危機が」
「この島って……カタラクト島?」
小首を傾げながら、フェリーの指は天を指し示す。
海底都市に異常があると、海面のカタラクト島に異常があるのだろうかという疑問だったのだが、カナロアは首を横へと振った。
「いいや、違う。カタラクト島とは別の、もうひとつの島だ」
カナロアが指し示した場所は、上ではなく下だった。
今、自分達が立っている場所。海底都市に向かって、指は伸びている。
「ここも……島なの?」
言っている意味が理解できず、フェリーは反対側に小首を傾げる。
海底都市は海の底に建物が立っていて、とても島には見えない。
シンなら分かるのだろかと、眉間に皺を寄せてみたが答えは出てこなかった。
「今から、それを説明しよう――」
フェリーの疑問を解決するべく、カナロアがこの島の真実を語ろうとしたその時だった。
大地が揺れる。それはリゲイル達が襲い掛かった時のような横の揺れではなく、激しい縦の動きだった。
「……もう、始まったのか」
「え? え? どーいうコト?」
舌打ちをする蒼龍王に対して、状況の整理が追い付かないフェリーは困惑していた。
止まる事のない揺れを前にして、フェリーはカナロアの口から海底都市の真実を聴かされる事となる。
……*
カタラクト島にある大きな滝。
その裏側にあるのは、海底都市へと続く道。
同胞の鳥人族がどうして島の返還を求めて蒼龍王へ謁見をするのか。
真意が知りたいトリィだったが、滝の入り口で思わぬ足止めを喰らう。
「海底都市へ向かうのための魔導具は、もう無い。諦めろ」
「そんな!」
蒼龍王は来るものを拒まない。海を潜るための魔導具の絶対数がそんなに少ないはずはないとトリィは訴える。
しかし、門番は聴く耳を持たず「無い物は無いのだ!」と強く怒鳴るばかり。
カタラクト島の人間とは思えない粗暴さに、トリィのフラストレーションが溜まっていく。
「絶対隠し持ってるよね!? 一個で良いから、貸してよ!」
「ええい、無いものは無いのだ!」
人魚族へと食い下がるトリィだったが、向こうも決して主張は曲げない。
半ば虚ろな眼をしているにも関わらず、口調は強い。そのアンバランスさを、トリィは薄気味悪く感じていた。
けれども、ここで引き下がる訳には行かない。再び詰め寄ろうとしたトリィに、人魚族の持つ銛が突き立てられようとしていた。
「えっ……?」
カタラクト島に於ける、最も重要な約束。それは共生する者での争い事。
元々は生まれも育ちもバラバラであるからこそ、寄り添う際に決められた絶対の法。
破られてしまえば、魔鰐族の王のような存在が蒼龍王の目を盗んでは暴力を振るうのは明らかであるからこそ、固く禁じられた。
人魚族の銛による一突きは、禁を破るもの。
まさかそこまでは無いと思っていたトリィの身が強張る。鋭い先端が自分を貫こうとしていると思っても、身体が動かない。
だが、その銛がトリィに触れる事は無かった。
淡い、透き通るような半透明の縄が、銛を縛り上げては軌道を逸らす。
「トリィ!」
縄の行きつく先を眼で追って、トリィは振り返る。
視線の先に居るのは、翼を持った一頭の白馬。そして、銃の砲身から延びた縄を操っている黒髪の青年だった。
「マーク!? それに、シンも……」
「タマもいるニャ!」
シンの肩に乗ったタマが目いっぱい手を広げ、自分の存在を誇示する。
困った顔を見せるマークとは反対に、シンは強い視線を向けている。
トリィは突然出ていった自分に怒っているのかと思ったが、彼は自分を見ていない。その先に居る、人魚族へ向けてのものだった。
決して、シンとこの人魚族が知り合いという訳ではない。
たった今出逢った、縁も所縁もない男。だが、その男の様子を見逃す事は出来なかった。
粗暴な態度に似合わない、虚ろな眼。
シンが直接相対した訳ではないが、『色欲』によって操られていた者は皆虚ろな眼をしていたと聞く。
邪神の一味であり、他人を操る魅了の持ち主。ラヴィーヌ・エステレラ。
自身にこそその効力を発揮はされなかったが、その能力を聞くだけでどれほどの危険性を孕んでいるかは想像に難くない。
術中に陥れた者を意のままに操れるでのあれば、自身が出張らなくても暗躍する事が容易な能力。
実際に魅了の影響下にあったライラスの話によれば、「彼女のためなら何でもしてしまう」らしい。厄介極まりない能力だった。
だから、シンは確かめる事を決めた。
眼前の人魚族が、魅了の影響下にあるのかどうかを。
「……誰のために、こんなことをしている?」
正気であるなら真意の伝わりにくい質問だったのだが、魅了の影響下にある人魚族にとっては何よりも容易い質問となる。
「あの少女のために決まっている。人間の少女の!」
恐らく、この人魚族は使い捨てにしようと思ったのだろう。
はっきりと名前を言っていない事から、彼女の考えが窺える。同時に、確定とまではいかなくてもシンはクロだと断定した。
人魚族の反撃体勢が整う前に距離を詰め寄り、一撃で気絶をさせる。
ライラスの話通りであるなら、起きた時には正気に戻っているだろう。
「え? ちょ、ちょっと!?」
島に住む仲間を気絶させられ、トリィが目を見開いた。
本来ならばシンを敵だと断定するべき場面だが、彼は人魚族に突き付けられた銛から自分を護ってくれた。
その事実が、彼女を混乱させる。
「すまない。もしかすると操られていたかもしれない。
だから、気絶してもらった」
「シン、強いんだニャ……」
シンが攻撃に移る際、肩から転げ落ちたタマは頭を摩りながらぽつりと呟く。
カタラクト島にたどり着ける人間だから腕は立つと思ったが、想像以上だった。
「操られているって、誰によ……?」
「それは――」
どうしてそんな事を言うのか。どうしてそんな事を知っているのか。
怪訝な顔をするトリィの顔を見て、シンは思案する。
トリィが返せと言っている島と、人魚族が操られていたのはとても偶然だとは思えなかった。
このふたつが交わる場所に、トリィの求める答えもあるのではないかと考えた瞬間。
「な、なんだ!?」
海面が爆発したかのような轟音。魔鰐の王を海の藻屑と変えた蒼龍王の一撃が、海を貫いた衝撃だった。
打ち上げられた海水は粒となって、雨のようにカタラクト島へ降り注いでいく。
この島で、蒼龍王の元で何か異変が起きている。
地上にいるシン達でさえ、それを理解するのに時間を必要とはしなかった。