187.怒れる瞳
カタラクト島のはるか上空。
雲すらも突き抜けた先で、その龍族は大海を見下ろしていた。
「……どうやら、ジーネス様が『怠惰』を使ったようです。
私が魅了した方々も、いくつか解除されてしまったようですわ」
黄龍王の背に身体を預けながら、ラヴィーヌが残念そうに呟く。
魅了の支配下から抜け出せる程、強い精神力を持った者だとは思えない。
一度に複数との接続が解除された点からも、ジーネスが『怠惰』の力を使用したのは明白だった。
「つまり、蒼龍のと交戦しているということだ」
「ジーネス様の性格だと、戦闘は避けていそうですけどね」
「違いない」
今回、ラヴィーヌは既に表立った仕事を終えている。
邪神の分体である『怠惰』の右足がジーネスへ齎した能力は破棄。
魔力を用いたあらゆるものを掻き消すそれは、魔術師であるラヴィーヌやトリスにとっては厄介どころの騒ぎではない。
敵味方の区別を行わず、容赦なく消し去っていく様はそれすらも面倒だというジーネスの意思を反映しているかのようだった。
だが、それ故に彼は最強に成り得る可能性すら秘めている。
魔術大国ミスリアに於いて、彼以上の脅威は存在しないとビルフレストが語る程に。
欠点があるとすれば、ジーネスの個人技に頼らざるを得ないという点。
ラヴィーヌの魅了とは壊滅的に相性が悪いので、彼女は今回裏方に徹している。
尤も、理由はそれだけではない。
カタラクト島で偵察をした際に、彼女は見つけてしまった。自分の天敵たる存在を。
シン・キーランド。自分の魅了に惑わされなかった、唯一の男。
敬愛するビルフレストならいざ知らず、あのような馬の骨すら操られなかったのはラヴィーヌにとって屈辱でしかない。
醜態を晒しながらもおめおめと逃げ帰った自分すらも受け入れたビルフレストには、どのような言葉を尽くしても語り足りない感謝がある。
更に、ビルフレストによってある仮設が立てられた。
ラヴィーヌの持つ魅了は右眼を介して、魔力による精神の浸食を行う。
魔力を持たないシン・キーランドには、効果が極端に薄いのではないかと。
事実、彼の予測は的を射ており、ラヴィーヌにとっては二度と顔を合わせたくない人間となった。
その彼がカタラクト島をうろついている。下手に行動を起こし、手駒を増やす事すら出来ない。
「……仕方ありませんわね」
ラヴィーヌは黄龍王の背で、「ふう」と息を吐いた。
自分が成すべき事は終えた余裕が垣間見える。後は、残った手駒が自分の為にどう動くか。
魅了は決して、遠隔で操作が出来る能力ではない。
操られた者が各自の判断で、自分の為に行動を起こす能力。
その点では、こういった場面では多少使い勝手が悪い。一発必中の強力な能力である事は、疑いようがないのだが。
「今回、ぼくらは高みの見物と行こう。最強と呼ばれたの傭兵の、お手並み拝見だ」
「……私には、ただの飲んだくれの厭らしい男にしか見えませんけどね」
ビルフレストが一目置いていなければ、関わりたくもない男だ。
雲の上で太陽の光を一身に浴びながら、ラヴィーヌは肩を竦めた。
……*
押し寄せる暗黒の鰐の群れを、アメリアは『羽・銃撃型』で迎撃する。
六枚の『羽』による多角的な攻撃に、暗黒の鰐は次々と撃ち抜かれていく。
意識を蒼龍王の神剣への祈りに割きながら、眼前の魔物と撃退する。その作業はアメリアの想像以上に困難を極めた。
いくら『羽』がそれぞれ独立した動きを可能としても、アメリア自身は一人しかいない。
蜘蛛の子を散らすように分散する暗黒の鰐を逃がしてはならないと、固まった状態での対処が求められる。
「このままでは……」
一体どれだけの暗黒の鰐が、この海底都市へ侵入したのか。
彼女の立つ祭壇からでも、見渡す限りの魔物が隊列を作っている。
アメリアにとって厄介なのは、魔物の存在だけではない。暗黒の鰐によって破壊された、海晶体の壁。
そこから流れ込む大量の海水が、海底都市を埋め尽くそうとしている。穴を塞がなくては、戦闘どころではない。
「ア、アメリアさん!」
「大丈夫です、マリンさん。心配をしないでください」
自分の背後へ隠れ、迫りくる魔物に怯えるマリン。
震えた声が、恐怖を訴えてくる。一刻も早く、この状況を打破しなくてはならない。
このまま『羽』で迎撃するだけでは埒が明かないと判断したアメリアは、追加してもらった機構の使用を決めた。
「『羽』!」
アメリアの『羽・銃撃型』は六枚一組で機能している。
単独で舞う『羽』を連結させ、生み出されたのは三角形の砲身が二門。
それぞれ奥を見通せる筒の状態で、アメリアと暗黒の鰐の狭間で浮いている。
先ほどまで自分達を撃ち抜いていた得体の知れない道具が、その数を減らした。
暗黒の鰐にとっては異様な光景だった。
「――凍撃の槍」
アメリアが『羽』による砲身へ放ったのは、氷の魔術である凍撃の槍。
詠唱を破棄し、イメージも簡潔に済ませた氷の槍が二発。
通常であれば、『羽・銃撃型』から直接魔力の塊を放出した方が威力は高い。
それでも敢えて二門の砲身へ魔術を放った意味は、アメリアの要望によって刻まれた魔法陣にあった。
「――!?」
軽く放たれたはずの凍撃の槍は、砲身となった『羽・銃撃型』を通過する。
刹那、内側に刻まれた魔法陣が魔術へと作動し、その威力を何倍にも膨れ上げさせた。
氷の柱となった凍撃の槍が、瞬く間に視界へ移る魔物を氷像へと変えていく。
『羽』の外壁に刻まれた紋様は、連結して閉じる事によって魔法陣として機能する。
齎す効果は、魔力の増幅。『羽』に供給されている魔力を、魔法陣を通じて魔術へと移していく。
結果、魔導石・廻を通じて得た魔力が乗せられ、簡易魔術を何倍もの威力で発射する事を可能とした。
(これは、思ったよりも堪えますね……)
しかし、当然ながら代償はある。オリヴィアやストルに忠告された通り、魔力の燃費は頗る悪い。
元々、『羽』を起動するには相応の魔力が要求される。継続戦闘を行うのであれば、尚更だ。
『羽』に込められている魔力を、魔術が持っていく。それは魔導石を通じて、使用者であるアメリアへフィードバックされる。
結果、通常よりも多くの魔力を吸い取られてしまう。
魔法陣は『羽』の組み合わせによって、三枚から六枚。増幅する威力を変動できるように設計された。
今回、アメリアが使用したのは最も威力の低い三枚での連結にも関わらず、強い脱力感が彼女を襲う。
魔力を通じて動く魔導具より、魔力の塊そのものである魔術の方が、混ざりやすいのだろうか。
彼女の想定以上に、魔力を吸い取られてしまった。
使用どころを間違えれば、即座に自分が倒れてしまう危険性を孕んでいる。
新たに手に入れた力は非常に強力だが、決しては溺れてはいけないものだとアメリアは肝に銘じた。
「アメリアさん……?」
「もう、大丈夫ですよ。それより、まずは海水が入ってくるのを止めましょう」
マリンは頷くと、海晶体の割れた箇所へ氷の魔術で穴を塞いでいく。
アメリアも同様に『羽・銃撃型』を用いて、手伝っていく。
(他の場所は、無事なのでしょうか……?)
胸騒ぎを感じつつも、静かに輝きを取り戻していく蒼龍王の神剣に、祈りと願いを捧げ続ける。
祭壇から動く事の出来ない自分を、もどかしく思いながら。
……*
魔鰐族の王による猛攻を、蒼龍王はその身を呈して耐え忍ぶことを強いられていた。
獰猛な牙が、剛腕から振られる斧が、龍の鱗を貫き肉を裂く。返り血を浴びる度に、リゲイルは口角を上げていく。
反対に自らの敬愛する王が傷付く様を瞳に焼き付けられ、鳥人族は恐怖にその身を震わせた。
「あなた!」
「オラオラ! 蒼龍王様よォ! いつもの威勢はどうした!?」
闖入者によって齎された混乱は、時間の経過と共に蒼龍王の傷を増やしていく。
苦痛を堪えるカナロアの声が、リゲイルに至福のひとときを齎す。
口から魔物を召喚し続ける大鮫は、いつしか新たな魔物を呼び出さなくなっていた。
潜んでいた術者がその場を離れた事を意味するが、それがまた厄介だった。
魔導具を利用すれば、鳥人族は海でも活動が可能となる。逃がす事も考えたが、魔術師が潜んでいる可能性を否定できなくなった。
結果、鳥人族や人魚族はこの場から動かせない。
セルンは彼女達を護りつつ、召喚された魔物の迎撃に当たっている。
蒼龍王は大きく空いた亀裂から侵入する海水を止める為に、自らの身体で穴を塞いでいる。
身動きが取れなくなった彼を思う存分痛めつけるリゲイル。その意識は、カナロアだけに向けられている訳ではない。
――抵抗すれば、鳥人族や人魚族を殺す。
汚く口角を上げるその顔に込められた意思を読み取れない蒼龍王では無かった。
セルンも召喚された魔物の駆逐に追われており、リゲイルの攻撃から鳥人族と人魚族を護り切る余裕は無いだろう。
決して屈辱と感じたりはしないが、怒りだけは延々と湧き続ける。
元々粗暴な男ではあったが、それ故に力関係には従順だった。
再び拳を振り上げた切っ掛けが、自らを鍛え上げた訳ではなく、卑怯な手段によるもの。
「リゲイル! 貴様には、誇りはないのか!?」
「あるから、こうやって取り戻そうとしてんだろうがよ!
見ろよォ、テメェの大切な家族が怯える様! サイコーじゃねえか!」
カナロアの身体から血飛沫が上がる度に、リゲイルは舌なめずりをする。下品以外の形容詞が、カナロアには浮かばなかった。
それよりも護るべき家族が怯える様を見る方が、カナロアには余程堪える。
「磔のまま、ミンチにしてやるよ! 蒼龍王様よォ!」
今までよりも大きく振り被られた斧。巨大から全体重を乗せた一撃が、蒼龍王の身を裂こうとしている。
鳥人族も、人魚族も。妻であるセルンも、これから起こるであろう惨劇から目を逸らそうとした瞬間だった。
「――そういうズルっこは、ヒキョーだよ」
少女の声が、謁見の間に響き渡る。
小さく呟いたにも関わらず、全員がはっきりと聴こえる程に低い声。
抑えきれない怒りが、込められていた。
彼女の声と同時に、広がっていくのは氷。
瞬く間に部屋中を覆ったそれは、カナロアの隙間から漏れていた浸水すらも完全に止める。
それだけではない。召喚された無数の魔物も氷漬けとなり、活動を停止させていく。目を疑う程の速度で。
「な、なんだテメェは!?」
ただならぬ気配を感じて振り返ったリゲイル。その瞳に映るのは、あどけない少女の姿だった。
金色の髪を長く揺らし、碧い瞳が真っ直ぐに自分を見上げている。
怒りと軽蔑の入り混じった眼は、リゲイルにとって敵である事を証明するには十分なものだった。
初対面ではあるが、その存在をリゲイルも知らされていた。
フェリー・ハートニア。自分達の障害と成り得る、不老不死の魔女として。
両手に握られているのは、魔力で形成された二本の剣。
その一本である魔導刃・改、霰神によって生み出された冷気がこの空間を支配する。
規格外の威力に、リゲイルは戦慄した。よもや、一瞬にして魔物と壁を凍り付かせるとは思っていなかった。
「フェリー……」
「カナロアさん、だいじょぶ? 背中、くっついちゃった……?」
「いや、これぐらい大丈夫だ」
「そっか。よかった」
カナロアもまた、フェリーの持つ力に驚きを隠せなかった。
リゲイルの開けた穴は、相当に大きい。浸水を止めるにしても、相当の厚さが要求される。
離れた距離で、瞬く間にそれを成し遂げた魔導具。そして、その出力に耐え得るだけの魔力を持った少女。
邪神。造り出されたとはいえ『神』と呼ばれる存在に抗う者達。
彼女達の言葉が本心から出たものであるという事を、カナロアは実感した。
「――んだよ。何なんだよ、テメェは!?」
突如現れた少女に、空気が支配された。
自分の独壇場だったはずなのに。憎き蒼龍王を、この手で葬れるはずだったのに。
一瞬で主導権を奪われてしまった。気の短いリゲイルがこの屈辱に耐えられるはずもなく、怒りの矛先をフェリーへと向ける。
振り上げられた斧を、カナロアではなくフェリーへと振り下ろす。
蒼龍王であれば、傷がつく程度で済むかもしれない。しかし、フェリーの体格であれば容易く圧し潰せるだろう。
「不老不死だかなんだか知らねえが、グチャグチャになってちまえ!」
雄叫びと同時に下げられたリゲイルの腕。
それが完全に下を向いた時には、斧の刃は彼の手から離れていた。
「な、に……」
振り下ろされた腕から、時間差でゴトリという音がする。
フェリーの右手に握られた魔導刃・改、灼神。
魔力が生み出す超高熱の刃により、リゲイルの斧は柄からバッサリと焼き切られていた。
残った棒きれを通して彼の掌へ伝わる熱。凍らせた床から立ち昇る蒸気。斧は既に、溶けてその原型を失っている。
全てがリゲイルの想像を、遥かに上回っていた。
「言っておくけど。あたし、怒ってるからね」
空気すら灼き尽くす真紅の刃。
フェリーはその切っ先を魔鰐族の王へ向け、宣言した。




