185.砕かれる平穏
早朝に轟くのは、鳥の鳴き声をバックに歌を奏でる鳥人族と海精族。
朝にも関わらず、その音は聴く者の心を穏やかにする。カタラクト島の、いつもの朝。
ここは猫精族の集落。
見渡すばかり猫の魔物が視界を覆い尽くすその場所で、凡そ似つかわしくない人間が瞼を持ち上げた。
身体を起こすと、腹の上に乗っていたタマが眼を覚ます。
タマだけではなく、そこら中に一肌を求めて寄り添う猫精族がシンを囲んでいた。
野営で普段から魔物との遭遇に警戒をしているシンからすれば、落ち着かないの一言だった。
フェリー達が無事に蒼龍王との謁見が叶ったかも含めて、頭を悩ませる問題は後を絶たない。
鳥人族のトリィの言葉ですら、気にしてしまっている。
お節介で余計な干渉だとは思いつつも、喉に引っかかるような感覚がシンの意識から切り離す事を許さない。
(もう少し、慎重に訊くべきだったか)
迂闊だったと、自分を戒める。自分にとってはただの疑問でも、彼女にとっては大切な思い出だったに違いない。
初対面の少女に問いかける言葉では無かった。まずは、彼女の言い分をきちんと聞くべきだったと反省する。
「シン、どうしてぼんやりしてんだニャ?」
身体を起こしたきり、動かないシンに対してタマが首を傾ける。
これでは自分が起こされ損ではないかと訴えているのようにも見えた。
「いや。とりあえず、この恰好をどうにかしようと思ってな……」
寝ている間に、猫精族が好き勝手やってくれた結果。
シンの身体中に纏わりつく猫の毛。服も同様でに、繊維の中に絡みついている。
「……ゴメンだニャ」
タマは少しだけ、ばつの悪そうな顔をした。
……*
シンは今日も釣りに勤しむ。
森で木の実や果実を採取するのも悪くは無いが、世話になった猫精族にせめてもの礼をと思い釣り竿を振る。
早朝の浜辺は穏やかという言葉がよく似合う。満ち引きする波に、砂の上に小さな足跡を刻みつけていく蟹。
海底都市もこんな風に穏やかだったらいいのだが、それはフェリー達からの土産話次第だろう。
ただ、海底都市の事を考えるとどうしてもトリィの言葉が脳裏を過る。
島民は皆、蒼龍王に好意を抱いている事は疑いようもない。
突然の来訪者である人間を受け入れてくれたのも、蒼龍王の方針だと口を揃えて聞かされた。
不満に思う者が居なかったというのが、彼の人柄を証明しているだろう。
勿論、長い時間を経て真実を知る者が居なくなったという可能性は否定できない。
けれど、タマの様子からすればトリィの祖母が島を奪還する為に決起したという事実は存在しない。
それどころか、病に伏せながらも最期は満足げに逝ったという。
益々、意味が判らない。自分の持つ断片的な情報では、ただ無闇に想像を積み重ねる事しか出来ない。
しかも、その全てが伝聞だ。何が正しいかさえも、判らない。
それでも考えてしまうのは、やはり海底都市にフェリー達が居るからだろう。待つ身としては、やはり万が一を想像してしまう。
もどかしさを感じるシンの元に、今日も彼女は姿を現した。
「あ゛……」
複数の足音と共に、表情を強張らせる鳥人族の少女。トリィ。
今日は翼の生えた白馬。天馬族の背にその身を寄せている。
「トリィ、あの人がそうなの?」
天馬族のマークは、眼前にいる人間の男を知らない。
ただ、答えにたどり着くのは容易だった。今のカタラクト島に、住んでいる人間はいない。
彼の傍には猫精族のタマがぴったりとついている。あれは人魚族と仲のいい子だ。
よく蒼龍王や人魚族の頼み事を引き受けている。
トリィの反応からも、特定としたといって差支えが無い。昨日、トリィと遭遇した人間は彼なのだと。
「うん、そう……」
自分の首元にトリィの顔が擦れる。彼女が肯定の合図を出した証だった。
マークは「なるほど」と相槌を打ちつつ、人間の男をじっと見た。
多少、鋭い目つきはしているが不思議と嫌悪感は無い。傍にいるタマが緩衝材の役割を果たしているからだろうか。
敵意を感じない事もあって、マークは彼と話してみようと思った。
「初めまして。ぼくは天馬族のマーク。よろしくね、人間サン」
「ちょっと、トリィ!?」
トリィが、マークの背に埋めていた顔を上げる。
空気を読んでこの場から立ち去ってくれるかと思えば、まさかの接触。
なんて思いやりのない友人なんだと、憤慨した。
「ああ、俺はシン。人間だ」
挨拶を返すシンを見て、マークは安心をした。
少し愛想が足りない所とは思うけれど、ちゃんと意思疎通は取れそうだ。
現に、彼は自分の背に乗るトリィを気にしている。それだけで安心できる。
「それと、トリィだったか。昨日は、すまない。
逢って早々、不躾な質問だった」
「えっ、あっ、ううん。私こそ、突然怒ったから……。
ところで、ブシツケって何……?」
初っ端の謝罪に、トリィの毒気が抜かれる。加えて、知らない単語が飛び出した事によりトリィの頭がショートする。
くすくすと笑いながら、マークが説明をしていた。
怒りが尾を引いていないようで安心こそしたが、このまま同じ話を蒸し返しては意味が無い。
どう、話題を切り出すべきかとシンは頭を悩ませる。
「俺たちも、今は妖精族の里で世話になっているんだ。
様々な種族が共生しているこの島が、参考になればと思って。
文化の違いから衝突する事もあるだろうから、つい込み入った話を訊いてしまったんだ」
「そうなんだー……」
実際、嘘はついていない。その件についても、情報収集はしておきたかった。送り出してくれた彼らへの、せめてもの礼として。
妖精族の里だって、これから先の発展で様々な問題に直面するだろう。
その時に先駆者の話を知っているのと知っていないのでは、大きな差があるに違いない。
鳥人族の事情と重ねたのは、こじつけではあるが。
「シン、そんな事考えてたのかニャ? タマたちに言ってくれれば、なんでも答えたニャ」
実際、猫精族にも訊こうと思っていた。
けれど、集落にたどり着くや否や子猫たちの相手に奔走させられてしまう。
猫精族に訊かなかったのではなく、訊けなかったというのが真実である。
「へえ、妖精族と……。妖精族って、排他的って聞いたけどそうでもないのかな?」
「それも色々とあってな」
シンはあまり深い部分を話すのは良くないと考え、簡潔に説明をした。
妖精族の女王であるリタと、魔獣族の王であるレイバーンが……仲が良いと。
結果として、カタラクト島のように人間は小人族と言った種族の入り乱れる集落が出来上がったという事実のみを。
マークとタマは、魔獣族の王が妖精族と共生している事に驚いていた。
彼らも分類としては魔獣に属するらしいが、魔獣族にも様々な王が存在する。
言われてみれば、レイバーンは犬や狼を従えている。天馬族のマークや猫精族のタマは、違う王から派生する一族だという。
尤も、彼らもカタラクト島で生まれ育っている。自らの種族が何名、王を名乗っているかすら知らない状況らしいが。
「タマたちの王は、蒼龍王様ニャ!」
ピンと手を伸ばすタマに、マークとトリィも頷く。この時点で、トリィ自身も蒼龍王に対して悪意を持っていない事は窺える。
彼女からすれば、ただ祖母の遺言を重く受け止めているだけなのだろう。
「ところで、もしも蒼龍王様が島を返してくれたとして。トリィはどうするつもりニャだニャ?」
「え? 何も……。蒼龍王サマに、そのまま居てもらいたいけど……」
場の空気が固まる。いくらなんでも、無計画にも程がある。
結局、彼女は祖母の言葉をそのまま蒼龍王へ伝えているだけに過ぎない。
(だからか……?)
シンはその言葉から、蒼龍王の真意を探ろうと考えた。
トリィに明確な未来設計が無いからこそ、「返せない」なのか。
(いや、違うか……)
例えそうだとしても、鳥人族が移住してきた事実は覆らない。
カタラクト島が鳥人族の所有物だったと、証明が出来ない。
シンは言葉を選びながら、移住してきた鳥人族。トリィの祖母について、尋ねた。
「トリィ。嫌なら答えなくていい。
君の祖母は、移住した頃からそう言っていたのか?」
ちらりとタマを見ると、小さな首を左右に振っている。
少なくとも、自宅の外で口にはしていないようだ。
「ううん。おばあちゃんが病気で苦しくなってから。寝てる時に、うなされながら言うの。
こうやって手を伸ばしながら、『島は、渡せません。私たちの、島なのです』って」
会話をして少しは打ち解けたからだろうか。トリィは戸惑いながらも祖母の様子を教えてくれた。
その上で、やはり違和感を覚えた。カタラクト島とも言っていない。ましてや、誰に向けて言っているのかさえも。
だが、蒼龍王はトリィに「返せない」と答えているという。思考が堂々巡りとなり、一向に答えへ辿り着かない。
これ以上踏み込んでいいものかと、シンがトリィの様子を窺っている時だった。
海面から、数名の人魚族が顔を出す。急いでいるような、焦っているような。表情に余裕がない。
「……いた! トリィ!」
人魚族の一人が、浜辺で談笑するトリィを見つける。
どうして名前を呼ばれたのか判らず、トリィはマークやタマと目を合わせる。
行動を共にしていたマークは兎も角、蒼龍王の手伝いをしているタマすら首を振る。
トリィ自身、心当たりはないと首を傾げる。
毎日大声で訴えてはいるもののその件を咎められた事は無い。
けれども、息も絶え絶えな人魚族の様子から只事ではないというのは伝わってくる。
「どうしたの?」
きょとんとするトリィに、人魚族は怪訝な顔をする。
急いで泳いだ結果、口内に溜まった唾液呑み込んだ後に、彼女は言った。
「蒼龍王様に、他の鳥人族全員が謁見に来られているのよ!
凄い剣幕で口を揃えて、『島を返してくれ』って! トリィ、一体何があったの!?」
「え? ……え?」
人魚族の訴えが一番理解できないのは、他でもないトリィだった。
同胞は皆、移住した身だと言っていた。蒼龍王が護ってくれているから、この地で生きていけると。
その彼らがどうして、今更になって「返せ」と言うのか。しかも、自分に何も報せずに。
「わからない。わからないけど、私も行ってみる!」
「トリィ、ちゃんと状況を教えてもらった方が――」
マークの制止も聞き入れず、トリィはその翼を羽搏かせて入口である滝へと向かう。
「ああ、もう!」
彼女は思い立ったらすぐ行動に移す。いつも振り回されているマークは、長い首を大きく垂らす。
思いつきで単独行動をして、いい結果に繋がった事なんてない。追い掛けなければと、マークは白い翼を広げた。
今にも飛び立とうとするマークを引き留めたのは、シンだった。
「俺も連れて行ってくれ」
海底に潜られてしまえば、魔導具の扱えないシンは追いかけようがない。
唐突に考えが変わったのであれば、それに準する何かがあったはずだとシンは推察する。
力になれるとは限らないが、何もしないというのは彼の性分ではない。本質的には、シンもお人好しの域を出ない。
「いいけど、飛ばすからしっかり掴まっていてよね」
マークの決断は早かった。ここで押し問答をしてしまえば、トリィには追い付けない。
シンを乗せて大きな翼を上下に動かすと、マークはトリィを追ってカタラクト島の空を駆け抜けた。
……*
海底都市に存在する、半球状の城。
謁見の間にて、蒼龍王とその妻であるセルンが相対するのは鳥人族の一族。
人魚族が慌てて海上へと上がったように、横にずらりと並んだ鳥人族が島の返還を訴えている。
トリィ以外は一切主張をしてこなかった内容に、セルンは頭を抱えながら夫であるカナロアを見た。
カナロアは黙り込み、何かを見極めるかのように鳥人族の一団を観察する。
ジャック、エマ、ホセ、ダヴィ……。皆、この島で共生する大切な家族だからこそ、蒼龍王は違和感を覚える。
力強い言葉とは裏腹に、瞳に光が宿っていない。
カタラクト島に住む者は、皆活気に溢れている。ここに居る者とは正反対の瞳だ。
「貴様達は誰だ?」
「何を言っているんですか!」「話を逸らさないでください!」「逆らったから、島から追放ですか!?」
カナロアの問いに、口々に異を唱える鳥人族。
あくまで自分の意思で言っている体らしい。いや、もしかするとそう思い込まされているのだろうか。
だとすれば大したものだと思いつつ、カナロアは新たな疑問を投げかける。
「我は、トリィに『返せない』と伝えた。彼女以外は、納得していたはずだが?」
「気が変わったんだ!」「元々は、オレらのもんだろ!」「いいから、返せ!」
一度は納得した事に、不満を撒き散らす。
自分の知っている鳥人族は、ここまで愚かではない。
若干の怒りを覚えつつも、カナロアは最後の質問を投げかけた。
「一体、誰の入れ知恵だ?」
カナロアの最後の質問に鳥人族が答える事は無かった。
正確に言えば、答えられる状況は終わってしまった。
「相変わらず、勘のいい野郎だなぁ! オイ!」
海晶体の外側から、突如現れる巨体。海底に擬態する事により、その身を隠していた魔物。
魔鰐族の王。リゲイル。この海域で、最も粗暴かつ獰猛と呼ばれる魔族だった。
大昔に蒼龍王率いる蒼龍の一族に完膚なきまでに叩きのめされ、カタラクト島には近寄らないようにしていた。
カナロア自身、島に危害を加えないのであれば無闇に殺すような真似はしたくない。頭を失った魔族が、世界中に散らばる事を危惧した結果でもある。
荒くれ者の一番の武器は、異常なまでに発達した鋭い牙と顎。あらゆるものを噛み砕くという言葉に偽りはない。
事実、その牙は海底都市の壁として使用されている分厚い海晶体へヒビを入れる。
「貴様……! 性懲りもなく!」
格の違いを見せつけるだけでは足りなかったかと、カナロアは奥歯を噛みしめる。
同時に、何故今なのかと疑問を抱いた。リゲイルと鳥人族が結託している事はあり得ない。
力で全てを従えさせる彼のやり方は、このカタラクト島からは最も遠い存在なのだから。
しかし、今のカナロアに考える猶予は残されていない。
押し寄せる水圧が、一瞬にして亀裂を壁中に広げていく。
自分やセルン。海に生きる者はともかく、鳥人族や客人である人間が耐えられる代物ではない。
まずは亀裂を塞ぐべきだと龍族の姿へと擬態を解くのとほぼ同時に、それは起きた。
巨大な鮫が海晶体の壁へ突撃を行い、破片で自らを傷付けながらも大胆に侵入する。
大量の水が注水される中で、出来た穴を塞いだのもその鮫だった。
正しくはその鮫を壁に貼り付け、氷の魔術を唱えている者がいる。
自分でも、セルンでもない。当然、リゲイルでも。間違いなく、魔力はこの部屋から発せられているのに。
その答えは、直ぐに分かる事となる。
「さてと、お仕事しますかねえ……」
大鮫の口の中から現れたのは、一人の男。
気怠そうに首を鳴らしながら、ゆっくりと海底都市へ足を踏み入れる。
蒼龍王はこの異常な光景を目の当たりにして、アメリアの言葉を思い出した。
目の前の男が、災いを呼ぶ者。この男が、悪意を伝播させに来たのだと。