184.海底に潜む悪意
「何も逃げなくて良かったんじゃない?」
友人の天馬族に窘められ、頬を膨らます少女。
カタラクト島を返せと蒼龍王に訴える鳥人族、トリィ。
彼女は嫌な事があると決まって森へと逃げ込む。
蒼龍王とよく顔を合わせる人魚族や海精族には会いたくない。
緑に囲まれたここなら、遭遇する確率はグッと下がる。その上で天馬族のマークに甘えるのが常だった。
「だって、人間なんて初めてみたし……!
それなのに、みんなと同じことばかり言うじゃない!
この島は、鳥人族のものなんだもん!
おばあちゃんが言ってたんだから、絶対そうだよ!」
マークの背で、トリィはぎゅっと馬鬣を握り締める。そのまま頬を埋めていった。
分厚い皮膚に守られており、マークは決して痛みを感じる事はない。いつもの仕草だと、マークは慣れている。
むしろ、この程度で彼女の機嫌が直るのであれば安いものだった。
カタラクト島が蒼龍王ではなく、元々は鳥人族のもの。
そう主張をしているのは、この島ではトリィ唯一人。その鳥人族でさえ、移住してきたというのだから訳が分からない。
何度も当て擦られた話題。その度にトリィは憤慨する。初対面の人間に言われたものだから、今日は格別だろう。
トリィの祖母が遺した言葉を信じる者は、カタラクト島には居ない。
鳥人族でさえ、トリィ以外は自分達が移住してきた立場だと言っている。
彼女の祖母が何を思って、そう言ったのか。その真意を知る者は居ない。
いや、唯一居るのだとすれば「返せない」と言った蒼龍王ぐらいだろうか。
それに、鳥人族は元々山に棲息する事が多い種族だ。
カタラクト島にも山はあるが、鳥人族が棲みつく程のものではない。
だからこそ、余計にこの島が鳥人族のものだったとは考え辛かった。
(それ以外は、いい娘なんだけどな)
などとぼんやりと考えていたマークの背中から鼻の啜る音が聴こえ、一気に現実へと引き戻される。まさか鼻水が垂らされていないだろうかという不安に駆られる。
いくらなんでも、背中はまずい。天馬族であるマークは、汚された背中を綺麗にする術を持たない。
砂浴びをしたとしても、鼻水の部分だけ砂が纏わりついてしまう。他の種族に笑われながら、洗ってもらわなくてはならない。
「って、ちょっとトリィ! 鼻水つけてない!?
鼻水だけはつけちゃ駄目だって、あれほど言ったよね!?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。つけてな……、あ」
その「あ」は一体何のか。決して訊きたくないが、すぐに答え合わせがやってくる。
トリィが顔を上げる動きに呼応して、マークの鬣が引っ張られる。もう、何が引っ付いているかは明白だ。
「トリィ! 言わんこっちゃない!」
「ご、ごめんってば!」
慌ててゴシゴシと拭き取るトリィだが、結果として鼻水を広範囲に擦りつける事となる。
薄く引き伸ばされた鼻水が乾いた後に、トリィはばつの悪そうな顔でマークから降りた。
「トリィ……」
「あ、はは……。後で、洗ったげるからさ……」
苦笑いこそしているが、彼女は本当に悪いと思っているようだ。
仕方がないと、マークがため息をついた時の事だった。
「よかったら、その話をちゃんと聞かせてはもらえないかい?」
トリィとマークの遊び場である森に姿を現した虎の獣人。
顔見知りではあるが、積極的に話す機会を作るほどでもない間柄。
そんな彼が突然どうしたのだろうと、トリィとマークは互いの顔を見合わせた。
……*
生命の源である海には、数多くの生物が所狭しと泳いでいる。
小さな小魚であれば、群れを一度に呑み込んでしまう程に巨大な鮫。
彼女らはその体内にて、息を潜めていた。結界で無理矢理覆った僅かな空間にて、仲間からの連絡を待っている。
「……ラヴィーヌは上手くやっているのだろうか」
じんわりと額に滲む汗を拭いながら、トリスが呟く。
一切の光を遮断した深淵の世界。万が一にも存在を気取られてはいけない。
そう考えると、迂闊に魔術で光を灯す事すら躊躇われる。
大鮫が呼吸をする度に、循環するかのように海水が取り入られては吐き出される。
その流れに結界ごと持っていかれそうになるのを、必死に堪える。光の無い、暗闇で試される忍耐力。
少しでも気を抜くと、頭がおかしくなってしまいそうだった。
いや、トリスは本音では発狂したかった。それだけの不快感を、一身に浴び続けている。
「ラヴィーヌ嬢ならだーいじょうぶでしょ。
なんせ、邪神の分体を身に宿してるんだ。ワシと同じでな」
「き……さまっ!」
身体中を弄られる様な、這いずる不快感がトリスを襲う。
触感だけではない。ツンと鼻に刺す酒の臭い、耳元で囁かれる野太い声。
全てがトリスの神経を狂わせそうになる。不快の極み。
結界が狭く、闇に紛れているのをいいことに身体を密着させる小汚い男。
邪神の分体である『怠惰』に適合した男、ジーネス。彼の一挙一動が、トリスの嫌悪感を加速させていく。
「ほらほら、結界に集中しないと。ワシら揃ってお陀仏になるだろ?」
「この……ッ! 痴れ者がッ!」
「もうそれも、なんだかクセになってきちまったぜ」
トリスは身の毛がよだつのを実感した。この男には自分が何を言っても通用しない。
なんでも悦びに変えてしまうのでないだろうかと、汚物を見るような視線を送った。
暗闇の中で彼が気付く事はなく、抑止力として働く事は無かった。
ジーネスは結界を張る事が出来ない。必然的に、両名の命を握っているのはトリスとなる。
その上で、彼はこのような狼藉を働く。トリスは絶対的な立場の違いを、判らせられている。
彼は邪神に選ばれ、自分は選ばれなかった。
アルマにとって、ビルフレストにとって重要なのは自分ではない。この不埒な男なのだ。
(何をやっているんだ、私は……)
五大貴族の分家として、本家の影となる。
そんな状況から抜け出す為に祖国を裏切った結果、こうして今も影となって活動している。
ふと思い出したのは、サーニャの存在だった。彼女は貴族ですらない。侍女という立場を利用して、その身を何度も汚したと聞く。
飄々として心の内が読みづらい人間だが、こうしてジーネスに触れられる事で判った。こんな悍ましい事に、身を委ねていたのだと。
今はもう、サーニャを昔のような眼で見る事は出来ないだろう。その精神力に、感服する。
目的の為ならその身を売ることすら躊躇わないサーニャを、貴族であるトリスは内心では見下していた。
それが今はどうだ。彼女は『嫉妬』に適合して、自分より上の立場にいるではないか。
同じ黄道十二近衛兵だったラヴィーヌも、『色欲』に適合した。
自分は落ちこぼれではないのかと、この闇のように自分の胸中が沈んでいくのがよく分かる。
せめて武勲を挙げればと思い、志願した今回の作戦。
その結果が、海の底でジーネスに身体を弄られる事だというのだからやるせない。
偵察をしているラヴィーヌに、一刻でも早く帰ってきてもらいたかった。
「トリス嬢、どうせ難しいことを考えてるんだろう?」
「当たり前だ! どれだけ今回の作戦が……! って、貴様! やめっ……!」
「作戦? え? トリス嬢、ワシと一緒に居たかったわけじゃないのか?」
「誰が貴様などと共に行動したいと思うのだ! 恥を知れ!」
ジーネスの行動は留まる事を知らない。仮に結界を解いて、共に死んだとしても本望なのではないかと錯覚するほどに。
何より、この能天気さがトリスには許せなかった。祖国を裏切り、邪神までこの世に生み出した。
自分達が生み出そうとしているものが、混沌なのだとこの男は理解しているのだろうか。
一度壊れたこの世界を救世主であるアルマが世界を救う物語に、この男は必要なのだろうか。
「ちぇ。ワシも捨てたもんじゃないなと思ってたんだがなあ……」
「許されるなら、今すぐ貴様を海の底に棄てたい」
「ははは、言ってくれるじゃねえか。そういうのでいいんだよ!」
ジーネスの高笑いが、結界内に轟く。それが不快で、トリスの眉根には縦皺が刻まれた。
ひとしきり笑い終えたジーネスが、トリスへと語り掛ける。
「いいか、トリス嬢。お前さんは気負い過ぎなんだよ。実力以上のものを発揮しようと躍起になってる。
そんなんじゃ、上手く行かねえ。適当にやったって、実力以上の結果がついてくることだってあるんだよ」
「……何を、馬鹿なことを」
そんなはずはないと、トリスは一蹴した。ミスリアに居る者は、常に研鑽を重ねて来た。
アメリア・フォスターなどその最たる例だ。
「話はまだ終わっちゃいねえよ。気負い過ぎりゃあ、実力以下の結果になることだってある。
トリス嬢なんて、特に多そうだもんな。『自分はまだまだやれるはずだ』ってやつ」
「……っ!」
苛立ちを覚えつつも、反論が出来なかったのは図星を突かれたからだった。
心の内を読まれたかと錯覚したほどだった。先の王都での戦いだって、自分はもっとやれたはずなのだと奥歯を噛みしめる。
「ワシからすれば、惜しいのよ」
「何がだ……?」
「トリス嬢が、情けない死に方を死ぬなんて見たくないのさ。こんなに魅力的なのによお。
魔術師特有って言うのか? 前線に出てるやつとはまた違うっていうかな」
そう言うとジーネスは、指をわきわきと動かす。
真面目な話をしていると思ったら、すぐにこれだ。ジーネスに対するトリスの不快感と嫌悪感が、更に増した。
「この……っ、痴れ者がッ!!」
いい加減我慢が出来ないと、ジーネスの顎へ向かって頭突きを一発お見舞いする。
それすらも愉しんでいるようで、トリスの理解から大きく外れた場所にいるのだと実感した。
偵察をしていたラヴィーヌが、魅了で操った海中の魔物を通して連絡をしてきたのはそれからしばらくしての事だった。
頭突きによって痛む顎を摩りながら「じゃ、ワシも動くかあ」と気怠そうにするジーネスだった。
やはりこの男とは合いそうにない。いや、死んでも合うものかと、トリスは暗闇をいいことに軽蔑の視線を送っていた。
……*
翌日。
アメリアが蒼龍王の神剣を復活させる儀式を行う為に、別行動となった時の事である。
海底都市では、時間の感覚が覚束ない。水の弾力で気持ちのいいベッドが、安眠へ誘ったのが拍車をかけている。
フェリーが目を覚ました時には、アメリアは既に部屋から出ていた。
書置きには「おはようございます。私は、儀式に行ってきます」と書かれていたので、きっと朝は通り過ぎているのだろうけれども。
「カナロアさんも、用事があるんだっけ?」
食卓でピースと二人、食事を口にしながらフェリーが尋ねた。
過去に人間を妻に娶った関係からか、人間用に調理された魚料理は絶品だった。シンにも食べさせてあげたいと思うほどに。
フェリー同様、舌鼓を打ちながらピースが頷く。
「そうみたいですね。セルンさんも、謁見の間に向かってるようですし」
「やっぱり王様ってタイヘンなんだね」
海藻のサラダを口に含みながら、フェリーが呟いた。
食事を終えた二人は、海底都市を案内して貰う事となった。
昨日の段階で蒼龍王に許可を貰っており、案内役として人魚族が二人派遣されている。
そして今まさに、二人はその事で揉めている。
「シンにおみやげ! お魚や海藻、おいしかったもん!」
「いやいや、人魚でしょうよ!」
置いてけぼりを喰らったシンに土産を持って帰りたいと主張するフェリー。
対してピースは、人魚族や海精族が泳いで歌うその様を瞳に焼き付けたいという。
「むう。アメリアさんがいたら、ゼッタイにシンのおみやげって言うのに……」
「ぐっ……。それでも、ちゃんと異文化に触れるわけですから! ちゃんと、いい種族だったって伝える義務がありますから!」
小魚の大群でも、あれだけ神秘的だったのだ。人魚となれば、その比ではない。
後学の為に、絶対見ておくべきだとピースは力説する。
案内人の人魚族は、褒められているのが満更でもなさそうだった。
「……ピースくん。人魚さんじっくりみたいだけでしょ」
核心を突かれて、ピースは思わず顔を逸らす。
仕方がないだろう。生前から見てみたいと思っていた存在が現実のもので、そしてやっぱり美しい。
そして、全員が水着。踊る時には羽衣を靡かせるらしいが、それもまたいい。
「ピースくんって、けっこーえっちだよね。
あたしのムネとかも、ちょいちょい見たりするし。
男の子だから、しかたないのかもだけど……」
「いや、その……」
ピースはじっと見るフェリーと、視線を交わす事が出来なかった。
まさか、マレットだけではなくフェリーにもバレているとは思っていなかった。
見た目こそ子供だが、中身はいいオッサンだ。長年かけて染みついた思考が、転生したからと言ってすぐに切り替わる訳がない。
それでも見たいものは見たいんだと、決してピースは譲らない。悪い言い方をすれば、開き直ってしまった。
対するフェリーも、決して人魚が見たくない訳ではない。ただ、シンを土産を用意する事を優先しているだけ。
「むう……」
フェリーは頬を膨らませる。もしこの相手がシンなら、言い合いにすらなっていない。
彼はきっと自分を優先してくれる。尤も、その場合土産の用意が一切必要とならないが。
「おれは、やりたいことをちゃんと主張しますんで……!」
ピースもまた、半ば意地になっている。
普段の自分ならば、きっとどこかで妥協していた。海という景色が、人を狂わせてしまうのだと自分に言い聞かせる。
「あ、あの……」
平行線を辿る争いに終止符を打ったのは、案内人の人魚族だった。
自分達が二手に分かれて、それぞれ案内しますという建設的な意見。
反対する理由もなく、フェリーとピースは共に頷いた。
広い海底都市で、別行動をとる三人。そして、一人カタラクト島に取り残されているシン。
間の悪い事に、散り散りとなったこのタイミングで悪意が顔を現わしていく。