182.新たな役目
海晶体が造り出した全面ガラス張りのように透明な建物。
客間に案内されたはいいが、全てが丸見えだったらどうしようと頭を悩ませていたフェリー。
幸い、部屋にはカーテンが用意されており、任意での目隠しが可能となっていた。
入浴や睡眠まで全開だと、流石に恥ずかしい。蒼龍王の心遣いに、フェリーとアメリアは感謝をした。
ただ一人、ピースだけが残念そうな顔をしていたが。
「ふうー。海の中でお泊りするのって、フシギな気分だね」
「ええ、そうですね」
フェリーは客間に用意されたベッドへ腰を掛ける。
マットの中に水が詰められているのか、その独特な弾力が癖になりそうだった。
背中を預けてみたり、うつ伏せに身体を沈めてみたりと感触を楽しんでいるフェリーとは対照的に、アメリアの表情は硬い。
「アメリアさん、だいじょぶ? キンチョーしてない?」
「はい。……と言いたい所ですが、正直言って緊張はしています」
蒼龍王から提示された内容は、明日の朝にマリンへ憑依した水の精霊との対話を果たすというもの。
蒼龍王の神剣が神剣として復活できるどうかは、この対話にかかっている。
精霊という存在と対面するのは、アメリアにとってはこれが初めての経験。
背負っているものを考えると、決して阻喪は許されない。それが彼女の気負う原因だった。
誰もが自分に蒼龍王の神剣は相応しくないと、言わないでいてくれている。
その事実が、今の彼女を支えている。拭いきれない違和感と、均衡を保つかのように。
アメリアの緊張を少しでも和らげられないだろうかと、フェリーは思案する。
水の精霊と対話は海底都市内の神殿で行うと、蒼龍王は言った。
ただ、そこへ赴くのは蒼龍王の神剣の復活を願っているアメリアと、精霊の依代たるマリンのただ二人のみ。
神聖な儀式に、フェリーやピースが立ち入る事は許されなかった。
「うーん……。あんまり、ムズかしく考えなくてもいいんじゃないかな?
リタちゃんも『神器が戸惑ってるだけ』って言ってたし、カナロアさんだってオコってなかったしさ。
……神器の使えないあたしが言っても、ダメかもだけど。
あ! でも、土の精霊さんとはお話したよ! けっこー話しやすかったから、キンチョーはしなくていいと思うの!」
身振り手振りで、小人族の里での出来事を再現するフェリー。
緊張を和らげようとしてくれているのが伝わり、アメリアは頬を緩める。
同時に、彼女は自覚をする。
なんてことはない、自分は未知の経験に怯えているだけなのだと。
色んな人が力を貸してくれて、背中を押してくれているのに。
自分だけが重圧から逃げるようにして、心の均衡を図ろうとしている。
それは関わってくれた全ての人に対する冒涜なのだと、アメリアは自戒した。
「フェリーさん、ありがとうございます」
アメリアがニコリと微笑むと、フェリーも嬉しそうにはにかんだ。
やはり彼女は、笑っている顔が一番可愛らしいのだと互いが感じている。
「ところで、その。フェリーさん。蒼龍王様からのお誘いを断るためとはいえ……。
す、好いている殿方が居ると言われてしまうのは、その……」
「あ、えと、ごめんなさい……」
「い、いえ! 決して怒っているわけでは!」
アメリアは決して腹を立てている訳ではない。
顔を赤らめて、表情を悟られないように俯いている。
「ううん。でも、あたしが勝手に言っちゃダメだった」
シン本人が居ないとはいえ、フェリーは自分の発言を猛省する。
自分が逆の立場でも、きっと同じ反応をしてしまうだろう。だったら、言ってはいけない事だ。
ましてや、フェリーとアメリアは同じ人間に恋心を抱いている。
最も軽々しく口にしてはいけない人物が、フェリー自身である事を考え見ると余計に失言だった。
「いえ、フェリーさん。そこまで気にしないでください。
……あのままだと、私もどうやって断ればいいのか判りませんでしたし」
それ以前に、大前提として横恋慕をしているのは自分なのだという自覚がアメリアにはある。
妹や主君は自分を応援してくれてこそいるが、やはりそう気持ちのいいものではないだろう。
シンとフェリーだって、相思相愛なのだ。本来ならこの気持ちは、早々に抑え込まないといけないというのも判っている。
実際、シンはフェリーを見る眼だけが明らかに違う事をアメリアは知っている。いや、彼らをよく知る人物ならすぐに判るだろう。
元々入り込む余地は無かった。けれども、始めて抱いた気持ちに蓋をする事は出来なかった。
彼らの関係に割り込んでおきながら、少しでも自分を見て欲しいという生まれて初めての我儘を、今も貫き通そうとしている。
この状況の根底には、本心ではシンに拒絶されているというフェリーの盛大な誤解が招いたものもあるのだが。
「むう……」
あくまで自分を責めようとしないアメリアを見て、フェリーはベッドへうつ伏せに倒れ込んだ。
そのまま顔だけを横に向け、アメリアへ羨望の眼差しを送る。
「アメリアさん。やっぱりキレーだし、やさしいなあ。
あたしもアメリアさんみたいに、なりたいな」
不意の言葉に、アメリアは何度も瞬きをする。
フェリー同様にベッドへ身体を預け、彼女と目線の高さを合わせた上でこう返す。
「私こそ、フェリーさんのように明るくて優しい人になりたいですよ」
ずっと感じている、偽りのない本心だった。
ピアリーでも、ウェルカでも。三日月島でリシュアンと対峙した時も、彼女は優しくて強かった。
本来なら、人生に於いて一度も道が交える事が無かったかもしれない。
シン同様、彼女と出逢えたのは偶然であり最大の幸運だと自信を持って言える。
「私はシンさんと同じぐらい、フェリーさんのことも好きですよ」
ベッドの上へ美しい青髪を無策に広げながら、アメリアが顔をほころばせる。
それは今まで見た事もないような表情で、同性のフェリーですらドキリとした。
「ありがと……。あたしもアメリアさんのこと、すきだよ。
でも、シンはあげない……」
「ふふ、それは残念です」
同じ高さから視線を交わした二人は、同時に破顔した。
アメリアの胸に湧き上がっていた不安と緊張は、いつしか消え去っていた。
……*
翌日。
海底都市の隅に存在するという、神殿にアメリアは居た。
依代となるマリンの装いも昨日とは打って変わって落ち着いたものとなっている。
流水のように流れる羽衣は精霊との同調を高めるものだと、彼女は言った。
「それでは、参ります」
「……はい、お願いします」
アメリアの準備が整っている事を確認したマリンが、自らの手を重ね合わせる。
精霊を降ろす為の、器を貸し出すという儀式。閉じていた瞼が持ち上げられた時、そこに居るのはマリンではなくなっていた。
「初めまして。アメリア・フォスター。わたくしは、水の精霊。
大海と救済の神様の遣いとして、この地に舞い降りました」
アメリアは固唾を呑み込んだ。そこに居るのは姿形こそマリンだが、明らかに違う存在。
口調や雰囲気だけの話ではない。発する魔力の質や気配が、まるで別人のようだった。
紛れもなく、目の前に居るのは精霊なのだという実感が湧いてくる。
「初めまして、水の精霊様。この度は、このような機会を頂けたことを心より感謝いたします」
「感謝は蒼龍王にしてください。彼が居なければ、こうやってわたくしたちが会話する機会は無かったのですから。
……して、要件は解っているつもりです。貴女の持つ、蒼龍王の神剣のことですね」
水の精霊の問いに、アメリアは頷いた。
修復された蒼龍王の神剣を鞘から抜き、新しくなったその身を差し出した。
「私の未熟さ故に、蒼龍王の神剣を破損してしまいました。
小人族の王、ギルレッグ殿の持つ小人王の神槌により刀身の修復はしていただいたのですが」
「神器としては機能していない。とのことですね」
「……はい」
怒りを露わにする訳でも、哀しみを見せる訳でもなく、水の精霊は新たな蒼龍王の神剣をじっと見つめる。
生まれ変わった刀身を指でなぞっては、瞼を閉じる。まるで、神器と対話をしているようだった。
「まず、伝えなくてはならないことがあります。
大海と救済の神様は蒼龍王の神剣の破損を感じておられました。
祈りを捧げられていない神剣。その気配が、一度消えてしまうまで」
きちんと祈りを捧げられていなかった神剣。その気配を、神はずっと感じ取っていた。無論、最期の瞬間まで。
喉をきゅっと窄められるような感触がアメリアを襲う。弁明も、謝罪も、その細くなった喉を通る事は無かった。
「怯えないでください。大海と救済の神様は、ある意味では安心もされていました。
自分は救済を司る。それは同時に、誰かが困っていることを意味している。
祈りを捧げられないということは、救けを必要としない世界に変わっていっているのだと」
「それは、違い……ます」
下唇をきゅっと噛みながら、アメリアが絞り出すように言った。
救済が必要な者は、この世界に大勢いる。魔術大国であるミスリアが、政治の道具として利用していた五大貴族が、救済を必要としていなかっただけ。
リタに指摘されるまで、神の祈りを捧げる為の依代という事すら知らなかった。
一体どれだけの間、神へ不徳を働いたのだろう。考えるだけでも、顔向けが出来ない。
「人間が、私たちが、ただの道具としてしか見ていなかったのです。
まだまだ世界には、神の救いを求めていた人は大勢いるのに。感謝すら、捧げていなかったのは私です」
申し訳なさと恥ずかしさから俯くアメリア。
小さく震えるその肩に、水の精霊の手が添えられた。
「そう、責任を感じなくてもいいのですよ。そもそも、蒼龍王の神剣を含め神器はとうにその役目を終えているのですから。
仮に祈りが捧げられていないとしても、誰も責めたりはしません。大海と救済の神様でさえも」
「……どういう、ことなのでしょうか?」
神器に『役目』なるものが存在しているなんて情報は、初耳だった。
リタさえも、そのような事を言っていない。そもそも、その『役目』とはいったい何なのか。
困惑するアメリアの表情を見て、水の精霊がクスリを笑った。
「そうですね。もうずいぶん、昔の話になるでしょうか。
貴女はミスリアに居るのであれば、聞いた事ぐらいはあるでしょう。
かつて、ドナ山脈を挟んで魔族が人間の世界へ攻め入ったことを」
「……はい。それは、勿論」
ミスリアで学問を嗜んでいれば、知らないものはいない。ましてや、五大貴族であるならば。
かつて攻めて来た魔族の大群。多くの魔王が、人間の世界を支配しようと姿を現した。
最前線であるミスリアは当時まだ小国にも関わらず、優れた魔術師たちによって魔族の進攻を食い止めていた。
中でも優れた魔術師たちの子孫が、五大貴族と呼ばれるようになった。
その戦いを終えた事を示す為に人間の間で制定された暦。それが、法導暦。
今から500年以上前の出来事。
「当時、一部の魔族は強大な力を持っていました。このままでは力が全てを支配する暗黒世界が生まれる。
本来、神は現世に直接介入することは許されていません。もし、介入するとしてもこのように精霊を通してのものとなります。
それでも、折角創り上げた世界が地獄となる様を見るのは忍びない。そういった神の声のありました。
結果、全ては現世に生きる者達へ委ねる。その前提で生み出された精一杯の介入。それが、神器なのです」
「……そう、だったのですか」
水の精霊は更に、こうも付け加えた。
あの時に争っていたのは、何も人間だけではない。人間が戦っている裏側で、魔族に抵抗する種族も居た。
中には、横暴な魔族を止めようとする魔族さえもいたのだという。
きっと、妖精王の神弓や獣魔王の神爪が存在している理由がそこにあるのだろう。
御伽噺の裏側で、神が齎した介入。
きっと神の遣いである精霊が直接話さなければ、半信半疑だっただろう。
「だから、祈りを捧げられなくても神はそのことへ怒りを抱いたりはしませんよ。
むしろ、500年以上も伝え続けられていることに関心すら覚えています」
水の精霊は笑ってみせる。本当に、蒼龍王の神剣が一度折れた事は気にしていないようだ。
その上で、彼女は刀身へ触れた際に感じた事を口にする。
「ですが、正直言って驚きました。祈りこそ大海と救済の神様へ捧げられていませんが、この剣には様々な願いが込められている。
それこそ、何人もの所有者が蒼龍王の神剣へ自らの願いを託していったのですね。
……全てが美しい願いというわけではないのが、哀しいところではありますが」
アメリアは、水の精霊の言葉に心当たりがある。
ミスリアでは代々、神器の継承者となった家が大きな権力を持つ。覇権争いの、道具として使った歴史。
救済の為に生み出された剣が、欲望によって私腹を肥やす為に使われた。役目を終えたとしても、神が怒っていないのが不思議なぐらいだった。
「けれど、ここ数年は純粋に人の幸せが願われています。それこそ、大海と救済の神様のように。
アメリア、誇りなさい。貴女はこの神剣が持つ本来の意味を、その身で体現しようとしていたのですから」
「そんな、恐れ多いです。私は、ただ……」
ただ、一人でも多く護りたかった。そうすれば、その人達もきっと他の誰かを護ってくれると信じて。
青臭い理想を掲げていた彼女は、沢山の命をその手から溢してしまった。主君さえも。
落ち込むアメリア。寄っていく眉根を引き離すかのように、水の精霊の指がアメリアの眉間を抑える。
「落ち込まないで。話には、続きがあるのだから。大海と救済の神様からの言伝です。
わたくしは、生まれ変わったという蒼龍王の神剣を見極めるために来ました。
その上で、わたくしの見解を述べます。蒼龍王の神剣は、新たな役目を必要としています」
「新たな役目……?」
水の精霊は、頷きながら続ける。
「神や精霊の間にも、既に『邪神』の存在は伝わっています。かつてのように、世界に危機を齎す存在。
人々の悪意が生み出した、創られし神」
アメリアは息を呑む。既に、邪神の顕現は神や精霊にも認知さあれていた。
だからこそ、身震いもした。「神は現世に直接介入をしない」という言葉が、重く圧し掛かる。
「本来であれば人々の悪意が生み出した存在は、人々の手で断たねばなりません。
ですが、蒼龍王の神剣はそう思わなかったようですね」
「蒼龍王の神剣が……?」
水の精霊はアメリアの持つ蒼龍王の神剣を、指でなぞる。
姿こそ変えているが、その意志はむしろ力強くなっていると感じた。
「貴女のような真っ直ぐな女性になら、自分を託せると思ったのでしょう。
ずっと重たかったでしょう? 蒼龍王の神剣が、大海と救済の神様へ延々と語り続けているのですから。
『自分は、アメリアと戦うぞ。早く、力を取り戻させてくれ』って」
それがおかしくて、くすりと笑う水の精霊。
ずっと感じていた違和感は、蒼龍王の神剣が神に訴えてくれていたのだ。自分と共に戦う事を。
自分の未熟さ故に折ってしまった剣は、自分の事を考えてくれていた。これから先も、ずっと居てくれる。
ただただ嬉しくて、アメリアは頭を下げた。
「だから、蒼龍王の神剣のことは気にしなくても大丈夫です。
まずは、大海と救済の神様へ申し立てましょう。神器に力を貸してくださいと」
そう言うと水の精霊は、神殿にある祭壇へ蒼龍王の神剣を置く様に促す。
アメリアが彼女に促されるまま、神剣を祭壇に乗せた瞬間だった。
大きな爆発音が、海底都市を大きく揺らす。
異常事態が発生したのは、明白だった。
カタラクト島に何かを求めて訪れる者は後を絶たない。
そしてこの島は、来るものを拒まない。たとえそれが、災いを振りまくものだったとしても。