180.カナロア・ガール
大地を司る紅龍。大空を司る黄龍。
数ある龍族の中でも、別格の強さを誇る一族。
それらと名を連ねるのが、大海を司ると言われている蒼龍だった。
王たる蒼龍王は、龍族の中で最も表に出てこない。
それは彼が、最も護るべき者を持つ龍族だから。
来るものを拒まずを旗印に掲げている彼の噂を聞きつけて、救けを求める者は少なくない。
レイバーンが口伝で聴いた「様々な種族」を妻として迎え入れているという噂の背景には、彼の懐の深さがあった。
彼に窮地から救われた者もいれば、種族内で折り合いの付かなくなった者。
中には大嵐に呑まれ、漂流した者までも存在している。
その全てが蒼龍王へ嫁いでいる訳ではない。
彼自身は、ただ自分を頼ってきた者を支えているだけ。種族へ見返りを要求した事など、ただの一度もない。
蒼龍王を中心としたコミュニティは、やがてひとつの島へと移り住む事となる。
カタラクト島。そこに住む者が他人に語る機会があれば、こう口を揃えるだろう。
この島こそ、楽園だと。
……*
「蒼龍王様! 沖に停泊する船が!」
臣下である人魚族の女が、予期せぬ来訪者の情報を伝えんと水中を掻き分けていく。
蒼龍族が統治するこの島を訪れる種族は多岐に渡るが、船での来客は数えるほどだった。
「船……? 人間が、この島に訪れたというのか」
乗り物を使ってまで、この島を訪れる物好きな種族を蒼龍王はひとつしか知らない。
先代が一族の宝である神器を預けるに足ると決断した種族、人間。
その一国の王たるネストルとも、もう何十年逢っていないだろうか。
悪いと思いつつも、自分とてこの地を治める者。彼も人間の国の王として、互いに優先すべきものが在る。
寿命の短い人間ならば、既に老いてしまっているのだろう。
近々、会いに行く事も考えよう。愛する我が子が増えた自慢もしなくてはならない。
「来訪者は、王との謁見を求めています」
「まあ、そうだろうな。良いぞ、我も準備を整えよう」
「はっ! では、そのようにお伝えいたします」
漂流者ならいざ知らず、カタラクト島を訪ねて、蒼龍王たる自分を無視しようという不届き者が居るはずもない。
久方ぶりの来客に、自ずと心が昂ろうとしていた。
「さて、此度の客は何を求めてこの地を訪れたのだろうかな」
「あら、相変わらず嬉しそうだこと。妬けちゃうわね」
「そう言うな。お前とて、心が躍っているのだろう?」
妻である蒼龍は、蒼龍王と眼を合わせる。互いの心中を悟って、互いが口元を緩ませた。
この島は、来るものを拒まない。蒼龍王は、自らの眼で全てを見極める。
……*
停泊した船に乗っている人間は、遭遇した人魚からの連絡を待っていた。
船という文化が無いのであれば、当然港も存在しない。
勝手に上陸してもいい物なのかと迷っていたところに、人魚が様子を確認しにきてくれたのはまさに僥倖だった。
ピースに至っては、その目的の大半を既に達成した事となる。
ウェーブの掛かったエメラルドグリーンの髪。動きやすい様にと水着を着ただけの上半身は、惜しみなく肌を晒していた。
まさに眼福である。引かれないように、表情筋に神経を集中させていたぐらいには。
「さっきの人魚さん、キレーだったね」
フェリーが甲板から海を覗き込むと、海は透き通る碧に対して美しい以外の言葉が思いつかない。ただただ、見惚れてしまう。
流石に船体の近くを人魚が泳いだりはしていないが、ついつい引き込まれてしまいそうな透明度だ。
旅を初めてから、こんなに美しい島を訪れたのは初めてだ。それだけで、フェリーの頬が自然と緩む。
「え、ええ。そうですね」
フェリーとは対照的に顔を強張らせているのがアメリアだった。
目的地ではあるが、とうとうカタラクト島に到達してしまった。
人魚族の女性の口ぶりから察するに、数時間後。ひょっとすると数十分後には、蒼龍王との謁見が叶うかもしれない。
フットワークの軽さもさることながら、来訪者を簡単に受け入れる器の大きさにも感服した。
反面、どうしても不安が拭いきれない。
謁見が叶うという事は、蒼龍王の神剣の破損を伝えるという事になる。
ギルレッグによって修復こそしてもらえたが、刀身はまるで別物。神器として完成しておらず、『器』の状態となった剣。
信用して預けていた宝が姿を変えてしまった事を、一体どう説明するか。
失礼に当たらないようにと考えれば考える程、顔が強張っていく。
「その、アメリアさん……。ごめん……」
神妙な顔つきで蒼龍王の神剣を見つめるアメリアを見て、フェリーは浮かれていた事を反省した。
元はと言えば、自分が神剣を破壊したのが発端だと頭を下げる。
「いえ、ですから。フェリーさんが謝ることではないですよ。
あの時、刃を向けたのは私なのですから」
「そう言ってはくれたけど……」
謝り足りないと言わんばかりに、フェリーは眉を下げる。もう、何度このやり取りをしただろうか。
苦笑して緊張が解れると同時に、いつまでも責任を感じさせる訳には行かないと思った。
「それよりも、レイバーン殿が言った通り好意的に接してもらえそうでよかったですね。
ここまで来て門前払いだけは、避けたかったですから」
「うん。人魚さんもキレーだったし、蒼龍王さんもどんな人か気になるね!
リタちゃんやレイバーンさんも、来たがってたけど……」
「ストルさんとルナールさんに、止められていましたね」
新しい冒険となれば、本来ならリタが黙っているはずが無かった。
彼女が行くとなれば、当然レイバーンもついて行くと言い出す。
それを良しとしなかったのは、彼女らを支える側近の二人。ストルとルナールだった。
小人族とも同盟を結んで、また移住者が増えた。新たな魔術や魔導具を創ろうと研究所の用意までしようとしている。
天手古舞の妖精族の里で、長が揃って抜けるなど許されるはずもなかった。
本来なら挨拶をするべきであろうフローラですら立場を弁えて妖精族や魔獣族との交流に時間を割いている。
オリヴィアだって転移魔術を組み上げるべく我慢しているのだから、リタは大人しく諦めた。「行きたいところリスト」という不穏な単語を残して。
「お二人に、良い報告が出来るように頑張りましょう」
「うん、そだね!」
アメリアの表情が柔らくなったのを確認して、フェリーは少し安心をした。
出来ればこのまま、恙なく神器としての力を取り戻して欲しいと切に願う。
蒼龍王に確認を取るため、海へと潜った人魚が戻ってきたのはそれからすぐの事だった。
問題なく謁見が出来るという事で、アメリアは胸を撫で下ろしていた。
……*
川沿いに歩いていく人魚族について行く形で、四人は島の中を歩いていく。
そこで彼らは様々な種族と対面する。
海や浅瀬。それに川でも人魚族の姿を数多く確認した。
中には魔族の血が僅かに混じった海精族も居たそうだが、シン達には見分けがつかない。
それ以外にも多種多様の種族が入り乱れており、空を飛んでいる鳥人族。
反対に、大地の上を猫精族や犬精族が所せましと駆けまわっている。
極めつけは翼を持った馬。天馬族までいるのだから、まさに種族のるつぼと言ったところだろうか。
シンやアメリアも十分に驚いてはいるが、やはり反応が顕著なのはフェリーとピースだった。
口をポカンと開けては「すごい」と事あるごとに漏らしている。
「ここだと、人間が一番珍しいんですけどね」
案内人の人魚族。マリンがくすくすと笑う。
一見、警戒心が無いようにも見えるが周囲に居る多様な種族が眼を光らせている。
余所者に対して敵意を見せている訳ではないが、決して能天気という風でもないらしい。
種族の壁を乗り越えた共生生活で芽生えた仲間意識がそうさせるのだろう。
アルフヘイムの森の居住特区でも、それは活かせるかもしれない。
「居住特区の参考になりそうだし、リタやレイバーンは見て置いた方がいいかもしれないな」
「うん、そうだね」
フェリーが「その時は、ストルさんたちに言ってあげてね」と言うと、シンは渋い顔をした。
あの二人を説得するのは、中々に骨が折れそうな仕事だ。
他にも、退屈しのぎにとマリンは蒼龍王について様々な事を教えてくれた。
失礼が無い様にと、気を遣っていてくれたのかもしれない。
蒼龍王には現在、三名の妻が居るらしい。
同じ龍族である、蒼龍の一族。人魚族や海精族。
もう寿命で亡くなってしまったが、かつてはこの島に漂流してきた人間を妻に迎えた経験もあるという。
故に龍族の混血児が、カタラクト島には数多く居るという。
尤も、少なくともこの島に於いては何かの指標になるという事はない。蒼龍王は、カタラクト島に棲む者すべてを家族だと常々言っているらしい。
「だから、わたしも蒼龍王様の娘です」
笑顔でそう語るマリンは、どことなく嬉しそうだった。
これだけで、蒼龍王が島民に慕われているという事がよく判る。
分け隔てなく受け入れようとする懐の大きさ。何物にも屈さない強さ。
事実、カタラクト島に攻め込んできた種族を挙げれば枚挙に遑がない。
最近は減ったと言うが、それほど万が一が在ってはいけないと、蒼龍王はあまり島外へ出ないらしい。
マリンの話を聴いている限りは、どうやら邪神の一派と接触した様子はなさそうだった。
それが知れただけでも、彼女には感謝をしなくてはならない。
少なくとも、敵陣のど真ん中で囲まれるという事態だけは避けられるのだから。
「さあ、蒼龍王様はこの向こうにいらっしゃいます」
そのままマリンに従うまま進んでいた一行だが、ついに彼女がその動きを止める。
目の前に現れたのは、大きな滝壺だった。絶え間なく落ち続ける水飛沫が、光に反射して輝いている。
「あの、これ、滝ですけど?」
腕を組みながら、ピースが遠い目をした。
滝の頂点はかなり高い位置にある。万が一でも木が落ちて来たなら、ひとたまりもないだろう。
「ええ。滝の裏側に、洞窟がありますので。
そちらを通った先に、蒼龍王様のお住まいになられている居城がございます」
言われてみれば、滝の奥は空洞になっているようだ。
天然のカーテンで覆い隠すだけでは頼りない気もするが、きっと蒼龍王はそういった目的で配置した訳ではないのだろうとシンは推察する。
「うーん。でも、洞窟の中にお城があるの?」
どうにも納得がいかないという様子で、フェリーが小首を傾げた。
彼女の言う通り、城というにはあまりにも味気ない。
臣下も従者も見当たらない。こう言ってしまえばなんだが、ただの洞穴だ。
「正確には、洞窟を進むと道があるのです。海底都市へ続く為の、道が」
期待通りの反応が嬉しかったのか、マリンは頬を緩める。
この滝はあくまで来客用の入り口として用意しているもので、カタラクト島の美しい滝を見て欲しいという蒼龍王なりのもてなしでもあるらしい。
実際の居城は、洞窟の奥へと進んだ先。海底へと続く穴から進んでいく。
カタラクトの海底都市。ただ、この島を通り過ぎただけの者には気付かれない場所。そこに彼の城は存在し、常に島を見守っているという。
「あの、海底に城があることは分かりましたが……。
私たちは、どうやって潜ればいいのでしょうか……?」
誰もが思った疑問を、アメリアが代表して尋ねる。
水に棲む種族なら、素潜りでたどり着けるかもしれない。しかし、人間はそうも行かない。
何より、水中では話す事もままならない。謁見したといっても、顔を合わせるだけでは何の意味もない。
「期待通りの反応、ありがとうございます。
大丈夫ですよ。先ほども言いましたが、蒼龍王様は人間も奥様として迎え入れていましたから。
水に棲む種族以外のお客様をお出迎えする準備は、出来ています」
マリンが取り出したのは、水晶のような石の取り付けられた腕輪だった。
それを全員に渡し終えると、手首に付けるよう促す。
「その腕輪は魔導具です。魔力を流して貰えれば、周囲に薄い空気の膜が生成されます。
水中でのあらゆる危険から身を護ってくれますので、安心して潜って頂けますよ」
蒼龍王謹製の魔導具という事もあって、どうやら自信作らしい。
少量の魔力で、海を潜る補助を最大限してくれる優れ物。魔力さえ、あれば。
フェリーは勿論、アメリアやピースの視線も同じ人物を捉えた。
視線の先に居るのはシン。この中で唯一、魔力を殆ど有さない人間。
事情の知らないマリンだけが、首を傾げている。
「シン。えと、その」
万が一はないだろうかと、フェリーが淡い期待を込めるものの、現実はそう甘くない。
これまでに触れた数々の魔導具と同様に、シンが腕輪の効力を引き出す事は出来なかった。
若干の気まずさを覚えながら、シンは首を左右に振った。
「ええと。すいません、もしかしてシンさんは……」
「魔力が、殆ど無い」
衝撃的な事実に、マリンは絶句した。カタラクト島に来る程気概のある生物としては、あり得ない事態。
無論、対処法が用意されている訳もない。
「あの、他の人の魔力で補ったりは出来ないのでしょうか?」
例えば、手を繋ぐなどして二人分の魔力を放出すればダメだろうかという提案。
自分で言った後に状況を想像したアメリアが顔を赤くするが、今はそれどころではない。
これならいけるのではないかと思ったのだが、今度はマリンが首を横に振る。
「いえ……。そのような使い方は試したことがありませんから。
客人に万が一があれば、蒼龍王様のお顔が立ちません」
「そう、ですか……」
言われてみれば、マリンの方が正しい。蒼龍王自らが作った魔導具であるならば、責任を持っているだろう。
想定外の使い方をしたとはいえ、間違いがあってからでは遅い。
「俺はここに残る。蒼龍王には、三人で謁見してくれ」
「ですが、シンさん……」
「そうだよ! いっしょに来たのに……」
三人があれこれと、自分を同行させる術を考えてくれている。
有難いとは思っているが、この島に訪れた本来の目的からすれば自分は不要だ。
足枷になってはいけないと、シンはこの島での待機を申し出た。
「一番大切なのは、アメリアが蒼龍王に逢うことだ。俺だって、気にならないと言ったら嘘になる。
だけど、無理をして皆を危険に晒すわけにもいかないだろう」
シンがそう言うと、アメリアとピースは納得をした。
最後まで渋っていたのはフェリーだが、「後で、話を聴かせてくれ」とシンが頼むと小さく頷いた。
「ただ、俺は独りでこの島に滞在していてもいいのか?」
唯一の懸念点は、滞在許可が下りるかどうかだった。もし不可能であるならば、船の上で待たなくてはならない。
最悪の事態も想定していたシンだったが、その点はマリンが快く了承をする。
「ええ、島も良い所ですから。見て行ってください」
マリンが両手をパンと合わせると、一匹の猫精族が現れる。
普通の猫より、ほんの少し大きいぐらいの可愛らしい白黒の猫だった。
「タマちゃん。その人に、島を案内してあげてくれない?」
「わかりましたニャ!」
タマと呼ばれた猫精族は、小さな身体で目いっぱい手を伸ばす。
その仕草にフェリーとアメリアは眼を輝かせているが、マリンがくすりと笑うと我に返っていった。
「じゃあ、シンさんはタマに任せますので。わたしたちは、海へと潜りましょう」
マリンに導かれるがまま、三人は滝の裏側へと足を進め始める。
突如現れた猫精族に未練を感じているようでもあるが。
「そうだ。ピース、フェリーのことを頼みたいんだが……」
歩み始めたピースを呼び止め、シンは耳打ちをする。
「どうしておれだけに言うんですか?」
「アメリアは、蒼龍王の謁見で頭がいっぱいだろう」
シンとしては、アメリアにこれ以上負担を掛けないようにと気を遣ったつもりだった。
表情からも、それが本気であると窺える。だからこそ、ピースは大きくため息を吐いた。
「シンさん、分かってない……」
「え?」
フェリーの事を心配する彼の気持ちはよく分かる。けれど、そこでアメリアを省いてはいけない。
真面目で考え込む彼女が「自分は頼りないのか」と落ち込んでしまうだろうと説明すると、シンは眉根を寄せた。
「いや、だけどな。アメリアにこれ以上負担を……」
「あのね、シンさん。おれは気の遣い過ぎも良くないですよって言いたいんです。
今回みたいなパターンはね、『みんな頼んだぞ』ぐらいでいいんですよ」
そんな事でいいのだろうかと逡巡するシンだが、ピースの表情を見る限り本気らしい。
ならばと、ここはひとつピースの言う通りに従う。
「みんな、蒼龍王は任せたぞ!」
滝の反対側にたどり着こうとする仲間に届くよう、声を張り上げる。
刹那、「うん!」「はい、わかりました!」とそれぞれの返答が聞こえるとピースがニッと白い歯を見せる。
「ね? こっちは任せてくださいよ」
「ああ、ピースも頼んだ」
ピースが親指を立てると、滝の中へと姿を消していく。
自分の情けなさを実感しながらも、上手く事が進むようにシンは祈った。