幕間.悩める王子
眼帯の奥に眠っているのは、紛れもなくワタシの左眼だ。
ただ、それで景色を見ると頭がガンガンとする。
視界も重なって見えるし、色までグチャグチャになる。脳の処理が追い付いていないのが明白だった。
新しい左眼に、まだ馴染んでいない証拠。取り込んだ『嫉妬』の能力は、どんなモノかまだ判らない。
三日月島を離れたワタシは、適合した『嫉妬』の能力を移植することに決めた。
邪神の分体。『嫉妬』はまだ顕現していない。
不老不死の魔女が暴れ回った上に、生きていたテランが裏切ったせいで、十分な準備が整っていないからだ。
それでも、ワタシはこのタイミングしかないと思った。
今後、ミスリアを取り巻く環境は大きく変わる。後手を踏む訳には行かない。
フォスター家に仕える必要も無くなった。瞳が不ぞろいになろうとも、取り繕う必要はない。
移植に対する懸念は無くなった。
「……目が回る」
ビルフレストは平然としていた。彼は直前に左腕を失った。
継ぎ足すだけだったから、楽だったのかもしれない。分体も顕現していたわけだし。
ラヴィーヌは、どうだったのだろう。
不審に思う者が居なかったということは、隠し通せたのだろうか。
彼女は『色欲』の顕現前に移植をしている。
同じ条件だと踏まえると、思ったよりも精神力が強い。いや、ビルフレストに気に入られたい一心で耐えていたのかもしれない。
何にせよ、弱音を吐くわけにはいかない。
邪神も、『暴食』も魔女によって深い傷を負った。
『色欲』は魔女と交戦こそしなかったが、魔獣族の王や妖精族の女王によって瀕死にまで追い詰められた。
加えて、拠点を大量に破棄しなくてはならない状況。忍耐力が、試される時だ。
ワタシは忍耐力に優れている方だと自負している。
そうでなければ、貴族の玩具に成り果てても自我を保てるわけがない。
こうやって邪神の力を取り込んでいるのだから、ある意味では壊れていると言っても差支えないのだけれど。
兎にも角にも、想定していたよりも状況は芳しくない。
要らぬ邪魔が入り過ぎた。ビルフレストが保険として掛けていた、他国による侵略に頼らざるを得ない状況。
彼としても、内心腸が煮えくり返っているだろう。侵略者をアルマ様が返り討ちにするシナリオが本線だったのだから。
決していい気分ではない。なるべく刺激を抑え、平静さを保つ。
そうやってやり過ごそうとしていたのに、間の抜けた声がワタシを若干苛立たせる。
「ふい~。トリス嬢、ついたぞ~」
「煩い! いつまでいい加減下ろせ! そして尻を触るな!」
「おっぱいならいいのか?」
「そういう意味ではない! この痴れ者がっ!」
ジーネス・コルデコル。ビルフレストが勧誘した『怠惰』に適合した男。
ボサボサの髪にくたくたの服。皮膚から醸し出される臭いが、しっかり酒を浴び続けていたことを教えてくれる。
トリスも一緒に現れた所を見ると、どうやらミスリアの王都で合流をしたのだろう。
彼女の表情から、任務の結果は左程芳しくなさそうだけれど。
「ジーネスさんじゃないですか」
「おお、サーニャ嬢。なに、たまたまトリス嬢がピンチだったんでな。
助けるついでに、ここまで運んできてやったってわけよ。ワシってば働き者だろう?」
「ふざけるな! 亀のような鈍足で進んでいた癖に!
第一、もう王都は抜けたのだ。私は自分で走って帰れた! それを貴様は――!」
「だってよう。そうしないと、トリス嬢はすぐに帰っちまうだろ?
ワシとしてはもう少し堪能するのも悪くなかったわけよ。
ほら、おじさん若い子と二人旅なんて滅多に出来ないからさ」
「この痴れ者がっ!」
成程。大体の流れは察した。
王都でピンチに陥ったトリスは、ジーネスに助けられたと。
そして、この潜伏先に連れてくる最中に色々とセクハラをされたと。
あれでトリスもいいとこのお嬢様なのだから、セクハラに対する耐性は無かったのだろう。
顔を紅潮させながら、屈辱に塗れた貴族の姿からそれを察した。
「ところで、サーニャ嬢は眼帯なんてしているがどうしたんだ?」
心配する素振りを見せながらも、今度はワタシの胸に酔っ払いの手が伸びる。
ワタシはそれを軽く振り払った。眉を下げたジーネスが、ワタシの顔を残念そうに弾かれた手を見つめる。
「ははははは」
「あはは」
酒に焼けた声が、高揚を失いながらも発せられる。
ワタシもそれに付きあって、笑ってあげた。
「なんでい、サーニャ嬢は色仕掛けが得意って聞いたぞ。
ちょっとぐらい、いいじゃねえか」
今、判ったことがある。
酔っ払いの見窄らしいおっさんが唇を尖らせて拗ねたところで、何も可愛らしくはない。
むしろイラッとする。『嫉妬』を受け入れて、頭痛が酷いので尚更だった。
「ジーネスさんを満足させたって、ワタシに何のメリットもないじゃないですか。
そこまで自分を安売りした覚えはないですよ」
「ははははは」
「あはは」
再び乾いた笑いが、空間を支配する。
そもそも貴族の豚に好き勝手を許したのも色々と仕込みをするためだった。
こうやって能力を手に入れた以上、別にその手段に拘る必要はない。
ましてや、ただの酔っ払いの助平に身体を触らせてあげる道理など存在しない。
「ま、それでもワタシに欲情したのなら仕方ないですね。
代わりと言ってはなんですが、ワタシが大切にしていたものをあげますよ」
せめてもの情けだと、ワタシはジーネスの手を優しく解く。
自分の右手に握っていたものを移し終えると、彼の手をそっと閉じた。
なるべく艶めかしく触れてあげたのは、サービスだ。
「なんだなんだ? 期待しちゃうじゃないか」
掌に収まる、大切だったもの。
ジーネスは期待を膨らませながら、指を開いた。
「のわああああああああっ!?」
直後に響き渡ったのは、酔っ払いの裏返った声。
「ちょ、おま、こ、こ、これ!」
「はい、ワタシの大切にしていたものです」
狼狽えるジーネスに、ワタシは満面の笑みを返した。
彼に渡した物は、眼球。『嫉妬』を受け入れる為にくり抜いた、正真正銘ワタシの左眼である。
「ななな、なに考えてこんなモン渡したんだ!?」
ジーネスは声が上擦っている。どうやら、本気で驚いたらしい。
ついでに言うと、眼球を落としこそはしないが精一杯手を伸ばして身体を逃がす。余程怖かったらしい。
「いえ、ジーネスさんはワタシの身体に興味があるみたいでしたので。
胸を触らせてあげることはできませんけど、代わりに身体の一部をあげれば喜ぶかな。と」
「どんな発想だよ!? 眼球とムネを同一に見るの、おかしいだろ!?」
「ええ? でも、ワタシ的には胸よりも眼の方が大事でしたよ。
視えないと、色々困りますもん」
「それはそうかも、しれねえがよお……」
結局、ジーネスは左眼をワタシに返した。
直視しないように顔を背けながら、そっと。
「くそう、ワシもあんな感じにならないといけないのか。
はあ、早まったかもしれんなあ……」
ぶつくさと文句を垂れながら、ジーナスは離れていった。
案内をしてもらいながら、トリスの尻を触っているがそれはワタシには関係がない。
トリス自身で解決するべきことだ。
……*
せめて『嫉妬』の左眼が馴染むまで、後はゆっくり休もうと考えていた矢先のことだった。
ワタシの部屋。その中に、他人の気配を感じた。
初めはジーネスかと思ったが、それは違うだろう。彼はそういう待ち伏せをするようなタイプではない。
警戒しつつも捲った扉替わりの幕。その先に居たのは、意外な人物だった。
「……サーニャ・カーマイン」
我らが首魁。アルマ様が、一介の侍女の部屋に忍び込んでいる。
さっきの酔っ払いのように、あしらうわけにもいかない。
思春期とはいえ、盛っているわけでもない。どういう状況なのかと、ワタシ自身も理解に困っていた。
「ええと、アルマ様。一体どうしたのでしょうか?」
アルマ様の前で起立をする。頭は痛むけれど、流石に失礼を働くことも出来ない。
ワタシの気分が優れないことに気が付いたのか、アルマ様は「楽にしていい」と自分の隣に座ることを促した。
益々、彼の目的が判らなくて戸惑っていた。
静寂が薄暗い部屋を『無』に近付けていく。
楽にしていいとは言われたけれど、最低限の緊張感は持ち合わせていた。
沈黙を破ったのもやはり、アルマ様だった。
「――まさか、あそこまで一方的に邪神がやられるとは思ってもみなかった」
彼が言っているのは、魔女との交戦についてだろう。
ワタシも驚いた。人の理から外れた存在。ただ、邪神に破壊を繰り返される玩具と化していた少女。
それが急に牙を剥いた。全てを焼き尽くす獄炎の魔女。己は朽ちることなく、相手を駆逐する破壊の象徴。
生まれたての子供のような邪神より、余程脅威に思えた。
「そうですね。アレは正直、例外かと……。
邪神もまだ完全ではないですし、次はワタシも『嫉妬』の能力を使用できますから」
出来る限りの言葉でフォローを入れようとしたが、アルマ様の表情は暗いままだ。
どうやら、そういうことではないらしい。魔女の下りも、本当に言いたいことではないような気がした。
「あの、アルマ様。何か仰りたいことがあるのでしたら、伺いますよ。
安心してください。ワタシ、意外と口は堅いので」
その言葉に背中を押されたのか、アルマ様は躊躇いながらも口を開いた。
いや、躊躇っていると言うよりは戸惑っているのだろうか。
「――父上を斬った時。最期に目が合ったんだ」
ぽつりと、紡ぎ出される言葉。
ひとつずつ思い出すように、アルマ様は紡いでいく。
「父上は姉上を殺め、動揺した。その隙を突いて、僕が斬った。
けれど、あの瞳は怨嗟などではなかった。どうしてなのか、僕には判らなかった。
光を失って尚、僕のことを視ている気がしたんだ。
本当は、首でも持っていけば早かったのかもしれない。そうすれば、フローラ姉様も諦めがついたかもしれない。
どうして、それが出来なかったのだろうか……」
アルマ様は、初めて人を殺めた。その相手は自分の父親。
邪神顕現に向けて、気丈に振舞っていたとしても精神的負荷は相当なものだろう。
「僕は、怒りを感じていたのだろうか? 思った通りとはいえ、父上を殺めても神器は僕の物にはならなかった。
けれど、そのことはあまり頭に残っていなかったのに。どうして……」
(……なるほど)
彼の言葉で、ワタシは確信した。
無礼な女だと思われるかもしれないが、決戦前のように彼の頭にそっと手を添えた。
「アルマ様。それは、後悔です。国王陛下を殺めたことを、気に病んでらっしゃるのですよ」
「後悔? どうして、僕が……?」
アルマ様は眼を丸くして、ワタシの顔を見上げていた。
言葉として知っていても、感情としては処理しきれていないのだろう。
無理もない。なんでもビルフレストが用意して、なんでもビルフレストが排除してくれていたのだ。
自分のために必要だと思って、父親を殺めた。だから、後悔なんてするはずがないと思い込んでいる顔だ。
「アルマ様はご自身のために、国王陛下を殺めました。それは、目的達成のためには必要なことでしょう。
だけど、そのことを後悔するかどうかは別の話ですよ。
ワタシも王宮に出入りをしていました。陛下は、アルマ様のことを大切に想ってらっしゃいました。
その愛情がアルマ様に伝わって、アルマ様も心地よいと感じていたのでしょう。だから、殺めたことを後悔してらっしゃるのです」
恐らく、ビルフレストは敢えて情操教育を取り除いでいるのだろう。
現に彼は戸惑っている。こんな風に立ち止まることを懸念したのだ。
長たるアルマ様の迷いが、伝播することを防ぐために。
「そういうもの……なのか?」
「そういうものです。ワタシだって、薄汚い貴族に抱かれたりこそしましたが、心までは許していませんから。
まあ、ワタシなんかと比べるのも烏滸がましいんですけどね」
けれど、ワタシからすればビルフレストの考え方は間違っている。
だからこそ、今ここで説明をした。その感情の正体を。
「……だったら、これから僕はどうすればいい?」
「何も。変わる必要はありませんよ」
アルマ様が困惑しているのは、すぐに判った。
ワタシがするべきことは、背中を押すこと。
「アルマ様は、いずれ世界を背負って立つ御方です。
ですから、むしろ全てを識るべきだと思います。
酸いも甘いも、総てを識った上で先頭を歩く方こそが真の王だとワタシは考えています。
勿論、お辛いこともあるでしょうから、無理にとは言いませんけど」
下々の人間のことなど知ったことではない。そう考える人間だっているだろう。
ビルフレストは元々が名家の生まれだ。だからこそ、そういった感情を切り離して教育している節がある。
ワタシはその逆で、総ての感情を呑み込める器が無ければ王たりえないと思っている。
彼は戸惑いながらもその感情を抱いた。だったら、手解きをしてでも答えを出させるべきだ。
「そうか……。そうだな。僕にはまだ、識らないことが多すぎる。
サーニャ、礼を言う。君に訊いて、良かった」
「いえいえ。お安い御用ですよ」
納得をしたと、アルマ様は立ち上がる。
部屋を出る前に、振り返った彼はワタシにこう尋ねた。
「また、ここに来てもいいか? サーニャには、色々と教えを請いたい。
君は不思議だ。なんだか、話しやすい」
彼の希望を、ワタシはやんわりと断った。
代わりに、こう告げる。
「いえ。ワタシのところに頻繁に出入りなんかしていれば、他の者に示しがつきませんよ。
ですから、気軽に呼びつけてください。幸い『嫉妬』がありますから。理由なんて、どうとでも作れますよ」
「はは、そうか。では、そうさせてもらうよ」
左眼の眼帯を指差すと、アルマ様ははにかんだ。
年相応のあどけない笑顔だと思った。
まだ頭痛はするが、不思議とワタシも気が休まっていた。