155.『救い』のかたち
三日月島の夜は更けていく。
フローラはアメリアとオリヴィアを連れて、この場を離れた。
父の亡骸を、弔うために。
「おとう、さま……」
王宮ではなく、魔物の彷徨う島での最期。
哀しみの顔を映したまま死を迎えた父に重なるのは、姉である第一王女の姿。
黄龍王の神剣によってグチャグチャに裂かれた彼女の姿を直視できず、フローラは目を逸らした。
「フリガ姉様……」
フローラにとって、フリガは決していい姉では無かった。
常に王位継承権について文句を言っていたし、何なら継承権の改正まで訴えていた。
振り回される家臣も嫌という程目にしてきた。
それでも、姉なのだ。
母が違えど、同じ父から生まれた事には違いない。
このような姿を見て、無感情でいられるほどフローラは冷徹な人間では無かった。
だからこそ理解できなかった。
父も、実の姉の命さえも奪った弟の心境が。
「フローラ様。その、ご遺体は……」
躊躇いながらも、アメリアが問う。
非業の死を遂げた国王の亡骸を、このままにはしておけなかった。
辛い選択を迫る事になるが、遺されたフローラが決めるべきだった。
「……ここに、埋葬しましょう。連れては、帰れませんから」
王都に連れて帰ってあげたい気持ちと、母に見せる訳には行かないという気持ちがせめぎ合った。
結果、フローラは三日月島で埋葬すると決めた。遺体を見て悲しむ母の姿を、見たくはなかった。
せめてもの生きた証として、父と姉の髪を遺髪として持ち帰る事に決めた。
フローラはその間、涙を流す事は無かった。
本心では泣いてしまいたかった。けれど、泣けなかった。
彼女もまた、まだ現実を受け入れられなかったからだった。
……*
「本当に、シンはいつもいつも……」
傷薬を塗り、包帯を巻きながら、そこへ愚痴を添える。
イリシャは慣れた手つきで、シンの傷を治療していた。
あちこちにある裂傷や火傷は、痛々しさがあった。
自分の身体も少しは大切にするべきだと、イリシャはシンを嗜める。
「すまない」
「ま、いいわ。フェリーちゃんも怒ってないみたいだし」
フェリーの様子を見ると、どうやらリタ達に謝っているようだった。
きっと魔女として暴れた事なのだろう。遠くにいて被害の少なかったリタは「気にしないで」と手を振っている。
シンは魔女となって暴れるフェリーの姿を見ていない。
故郷が消滅した時もそうだった。彼の瞳に映るのは、いつも幼馴染の少女の姿。
「やっぱり、フェリーちゃんにはシンが必要なのよ」
「そうだと、いいけどな」
治療を続けながら、イリシャが言った。
確信めいたものがある。シンがいるからこそ、彼女の精神は安定しているのだと。
フェリーが不老不死になって10年間。シンが答えに到達できなかった理由が、そこにあった。
――彼女の中には、何かがいる。
かつてテランが、シンへ送った言葉。
どう確かめるべきか悩んでいたその言葉が、重く圧し掛かる。
その『魔女』に、自分は対面できていない。
アンダルとの約束を守るためには、フェリーの中に潜むモノとの邂逅は避けられない。
自分が居ては、『魔女』が表に出てくる事はない。
シンはジレンマに陥っていた。これから先の行動を、考え直さなくてはならない。
ただ、今は再会できた事を素直に喜ぼうと思った。
色んな可能性が示された中で選んだ、最も大切なもの。
逢いたくて堪らなかった少女が、手の届く位置にいる。
今はそれだけで良かった。
「はい、終わり。もうフェリーちゃんのところへ行っていいわよ」
治療を終えたイリシャが、シンの背中を軽くはたく。
背中にその感触を残しながら、イリシャは呟いた。
「がんばってね」
そう言って見送るイリシャは、優しく微笑んでいた。
……*
「シン。その、ケガはだいじょぶ?」
「ああ、大したことない。イリシャも治療してくれたしな」
シンが軽く身体を動かして見せると、フェリーははにかんだ。
あまりフェリーに心配を掛けないようにと、傷口を完全に隠してくれたイリシャに感謝をした。
「それでね、その。お話するまえに……。ひとつだけ、訊かせて?」
「どうかしたのか?」
もじもじと指を付き合わせながら、フェリーがシンの様子を窺う。
自惚れているだけなのかもしれないと、不安が脳裏を過る。
それでも、確かめなくてはならなかった。シンの事が好きだからこそ、きちんと確かめたかった。
「あのね、えっと」
そう決めたはずなのに、いざ口にするのには勇気がいる。
もし勘違いなら、どんな顔をすればいいか分からない。
逡巡するフェリーを、シンはじっと待った。
「ゆっくりでもいい。俺は、いつまでも待ってる」
優しい言葉を掛けてくれるシンを見て、フェリーも腹を括った。
これからもシンと一緒に居る為に、どうしても知りたかった事。
10年間、怖くて抱いていた不安を言葉に乗せる。
「シンは……。その、あたしのコト、キライじゃ……ないの?」
ちらりと彼の顔を窺うと、眉間に皺を寄せているのが判った。
やっぱり訊くべきでは無かったと、頭を抱える。
「……どうして、そう思うんだ?」
この時、シンは本気で困惑をしていた。
何がどうなって、そういう疑問を抱いたのか。思い当たる節が全くない。
だから純粋に訊き返しただけなのだが、フェリーは今にも泣きそうな顔をしている。
「だ、だって。その。あたしをはじめて殺したとき……。
シン、死んでないあたしを見ては、吐いてたから……」
フェリーにとっても、シンにとっても思い出したくない記憶。
あの時、死ぬ事が出来なかったフェリーはシンの脇にある吐瀉物を見てしまった。
彼女はそれを、人ならざる者への拒絶だと受け取った。
「あれは違う。その、俺がフェリーを殺すのが……、耐えられなかっただけだ。
殺したくなんてなかった。自分に嘘をついてまで無理をしていたら、吐いてしまったんだ」
シンもまた、この時初めて知る事となる。
自分の心の弱さ故に吐き出した物を、フェリーがそんな風に捉えているなんて思ってもみなかった。
「そう……なの? じゃあ、あたし……。シンにキラわれてないの?」
「それは絶対にない! 俺がフェリーを嫌いになった事なんて、一度もない!」
少しだけ気恥ずかしさもあったが、シンははっきりと否定をした。
曖昧な返事をして誤解を生むなんて、もうしたくなかった。
「よか……った。よかった。あたし、シンに……キラわれて、なかった……」
気付けば、フェリーは大粒の涙を溢していた。
思い返せば、簡単に気付けるはずだったのだ。
マレットの家に閉じこもっている時も。
10年間も自分の我儘に付き合ってくれていた時も。
そして今日、自分を『護る』と宣言してくれた時も。
シンはいつも、自分の身を案じてくれていた。
好意から来るものだと心の奥底で否定をしていたのは、自惚れたくないから。
故郷を、シンの家族を殺したという罪悪感から、自分は幸せになってはいけないと言い聞かせていたから。
自分は怨まれて当然なのだと、嫌われて当然なのだと思い込んでいた。
10年間陥っていた自己嫌悪が、ついに解ける。
大好きで優しい、彼の手によって。
「悪い、フェリー。俺もちゃんと、言うべきだった」
「ううん。あたしも、ごめんね」
フェリーは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも微笑む。
その姿をとても愛おしいものだと感じながら、シンはその涙を拭った。
……*
それからシンは、30年前の事を話し始めた。
何よりも話す必要があると感じたのは、彼女も大好きだったアンダルの事。
「おじいちゃんと、一緒に冒険したの? いいなあ」
「最初は凄く怒鳴られたけどな。イリシャにちょっかい掛けてると思われて」
「あはは。おじいちゃん、イリシャさんのコト好きだったのかな?」
フェリーはアンダルに魔術を習っていた頃、上手くできないシンへ怒っていた光景を思い出す。
大人になったシンとアンダルは、どんな風にやり取りをしていたのだろうか。
羨ましいし、その輪に加われなかった自分が少しだけ残念に想えた。
「いや、亡くなった奥さんのことがずっと好きだったみたいだ。
ネクト諸島にお墓があるみたいだし、今度お参りに行くか」
「うん。あたしにとってのおばあちゃんだね!」
逢った事は無いけれど、大好きだったアンダルが大好きだった女性なのだから、素敵な女性に違いない。
急に現れて驚くかもしれないけれど、フェリーはきちんと挨拶をしたいと思った。
「それで、じいちゃんと約束した。フェリーを一生護るって。
だから、俺はもうフェリーを殺さない。……殺したく、ない」
そう語るシンは真剣そのもので、フェリーは真っ直ぐな瞳に引き込まれる。
嬉しい反面、彼にずっと無理をさせていたのだと悟る。
フェリーは自分の心に問いかける。
本当に、死にたいのかを。
(……違う、よね)
ただ、赦されたかっただけだった。
シンに申し訳が立たないから、せめて復讐を成し遂げられればと思っていた。
そのシンが『殺したくない』と言ってくれている。だったら、その通りにするべきだった。
「……うん。ありがと」
フェリーは気付いた。『死』は決して自分への『救い』とならない事を。
頷くフェリーの姿を見て、シンも安堵した。
そして、もうひとつ。シンがフェリーを殺したくない。殺さなくてもいい理由を話さなくてはならない。
まずは、カランコエに立ち寄った事を話した。
その上で、ケントやカンナと逢った事も。
シンが「まさか父さんに嫉妬されるとは思わなかった」というと、フェリーがくすくすと笑っていた。
やがて段々と、シンの言葉尻が重くなる。
唇が渇く。怖いのだ。決断した事を、彼女へ話すのが。
「――それで、カランコエを消滅させたのが誰だか判ったんだ」
突然の事で、フェリーは身体を強張らせる。
あれは自分がやったはずなのだと、今でも思っている。
記憶がないなんて逃げずに、これから先も背負っていくつもりだった。
「だれ、なの……?」
それでも、訊いてしまった。
もしかするとまだ赦される部分があるのかもしれないと、フェリーは淡い期待を抱いた。
訊くべきでは無かったと、すぐに後悔をした。
「――俺だ。俺が、じいちゃんにお願いしいたんだ。フェリーに逢いたいって。
俺のせいで、父さんや母さんは死んだ。フェリーは何も、悪くなかった」
「な……んでっ!? どうして、そんなコトしたの!?」
フェリーは思わず詰め寄ってしまった。
やはり自分が居なければ、カランコエが消滅する事は無かった。大好きだったシンの家族が、壊れる事は無かった。
「どうしても、逢いたかったんだ。フェリーのいない人生なんて、考えられなかった。
好きなんだ、フェリーが。何に変えても、ずっと傍に居たい。全部、俺の我儘だ」
シンは「それに、今回の件でフェリーの中に誰かが居ると判った。故郷を燃やしたのはそいつかもしれない」と続けた。
だが、フェリーの耳にその部分は一切入っていなかった。
(好きって言った……? シンが、あたしを?
さっきはずっと護るって。えと、ええっと……。
でも、でも――)
思いがけない告白に、フェリーの頭はぐるぐると色んな感情が駆け巡る。
嬉しかったり、むず痒かったり、僅かに緊張をしたり。
心の奥底では、負い目もある。彼は自分が悪者になってまで、『罪』を背負ってまで、自分を選んでくれた。
それは果たして正しかったのだろうか。正しい答えを出せる者は、何処にもいない。
ただ、これ以上彼とすれ違いたくはなかった。互いを思いやるが故に互いを苦しめる事は、したくなかった。
フェリーは、正直な気持ちをシンに伝えようと決めた。
「あの……ありがとう。シンが好きって言ってくれたの、本当にうれしいよ」
まずは、心からの感謝。顔を紅潮させながらも、フェリーはシンの顔と真っ直ぐに向き合った。
「それでね、あたし……。うれしいケド、ワガママ……言ってもいい?」
「ああ、言ってくれ」
シンが頷くと、フェリーは大きく深呼吸をした。
「あたしも、シンが好き。ずっと、好きだったよ。
あたしもシンと一緒にいたいの。これからも、ずっと、ずっと。
シンがいない世界はさびしくて、こわくて、きっとあたしはガマンできない」
古代魔導具の効果によって、シンが過去へ移動した時。
フェリーは死んでしまったと思った。あの距離の喪失感を忘れる事は、一生ないだろう。
そんな思いを、二度と感じたくはなかった。
「だから、あたしは死にたい。いっしょの時間を生きたい。
シンといっしょに年をとって、おじいちゃんとおばあちゃんになっても。
ずっと、シンの傍にいさせて欲しい。……だいすき」
新たな『願い』を、『救い』を、フェリーは求めた。
今までとは違う『死』の形。人生を全うしたいという、切なる願い。
「ああ」
シンはその願いを聞き入れた。
自分が彼女へ送る事の出来る『救い』は、『死』である事に変わりがないかもしれない。
それでも、今までとは心の持ちようが違う。命を懸けて為すべき事から、迷いが消えた瞬間だった。
「勿論だ。俺はじいちゃんとも約束してるしな。
ずっと、フェリーと居るよ」
「世界も、護らないといけないしね。あたしも、いっしょに護るから!
シンとずっといっしょに、いたいから!」
力こぶを作るような仕草を見せながら、フェリーは笑った。
その姿が愛おしくて、シンは自然と彼女の頭を撫でていた。
三日月島での戦いは、こうして終わりを告げた。
様々なものを抱えながら、一向はミスリアの王都へと帰る事となる。
世界の命運はこれから一組の男女によって託される事を、人々はまだ知る由もなかった。