154.あの日、誓ったこと
体重を、魔力を、抑えきれない感情さえも乗せた剣撃。
イルシオンが繰り出す一撃は全てそれだった。
焦りからではない。ただ、速くこの戦いを終わらせたかった。
シン・キーランドを殺し、魔女を再び表に出したかった。
その結果、自分が死んでも構わない。邪神と、ビルフレストさえ殺してくれれば。
彼の怒りをシンは正面から受け止める。
ミスリルの剣が軋み、欠ける。過去でぶつかり合った宝岩王の神槍とのダメージも蓄積されている。
いくら最高級のミスリルを用いて、アメリアが魔術付与を施したとしても、その限界はすぐ目の前にまで訪れていた。
それでもシンは退かない。退いてしまえば、彼はこの行いを是と捉えてしまうと理解しているから。
「やはり、君は非合理な人間なんだね」
ぽつりと、戦いを眺めるテランが呟く。
テランはかつて、彼を合理的と評していた。
今なら判る。自分は何も見えていなかったのだと。
イルシオンの攻撃だって、受け流す術があるはずなのだ。
自分が不利だと気付きつつも、シンは敢えて真っ向から立ち向かっている。
彼の感情を、受け止めるように。
彼の行動を愚かだと評する人間もいるだろう。
けれどテランは、羨ましかった。彼の行動には、揺るがぬ意志がある。
敵であったはずの彼に、憧れてしまったのだ。
だからこそ、テランはビルフレストを裏切ってでもシンにつこうと考えた。
主を裏切るつもりは無かったはずなのに、自分でも驚くべき変化だった。
「勝つんだ。シン・キーランド」
気付けば彼は、残った左の拳を強く握っていた。
「どうして、どうして貴様だけなんだ!?
陛下も、グロリア姉も……クレシアも死んだというのに!
貴様だけが、どうして帰ってこれるんだッ!?」
「……運が良かっただけだ」
「ふざける……なッ!!」
何を口走っているかなど精査されるはずもなく、イルシオンは感情の赴くままに己を突き動かす。
熱を帯びた剣が、斬った先からシンの傷口を燃やしていく。
同時に襲い掛かる痛みに耐えながらも、シンは決してその腕を下げる事は無い。
「止めなくて、いいのか?」
傷つき、消耗した身体をゆっくりと進め、レイバーンはリタとヴァレリアを連れて前へと歩む。
翼を失った巨体の主はこの戦いに意味が見いだせず、レイバーンに問う。
「アタシは……。今すぐにでも止めるべきだと思っている」
レイバーンの肩に担がれる形で、ヴァレリアが呟いた。
イルシオンは妹を、クレシアを失った八つ当たりをシンにぶつけているに過ぎない。
邪神を斃す為という、尤もらしい理由をつけて。
ヴァレリアだって、同じ気持ちを抱いた。
どうしてシンだけが、過去へ向かうという方法で死を免れたのか。
羨ましかった。自分の妹がその立場にあったっていいじゃないかと、嫉妬もした。
彼自身は何も悪くない、やっかみだと知りつつも、思わずには居られなかった。
「私は、シンくんなりの考えがあるとは思っているけど……」
きっと彼にとって意味のある行動だと思いつつも、リタは戸惑っている。
この場にいる誰よりも神器の扱いに長けており、その強大さを誰よりも知っているからこその不安。
一方で、リタにとって腑に落ちない面もある。
紅龍王の神剣はどうして、イルシオンを見棄てないのか。
彼の精神に義はないはずなのに。神剣は彼に力を貸している事が不思議で堪らなかった。
「ボクは二人ともと手合わせをしている。フェリーならともかく、シンがイルシオンに勝てるとは思えない。
神器の有り無しや、魔力の差は歴然だ。現に今だって、防戦一方じゃないか」
フィアンマの分析は的を射ていた。
持っている武器の性能差は勿論、イルシオンは無意識に行われている淀みのない魔力操作で身体能力を強化している。
いくらシンが鍛え上げたといっても、その差は完全には埋まらない。
或いは魔力が完全に尽きてしまえば、シンにも勝機があるかもしれない。
ただそれまで、シンが彼の攻撃を捌き切れるだろうか。終わりの見えない戦いに、張り巡らされた神経の糸はただの一度も切れることは無いのだろうか。
「心配は無用だろう」
リタとヴァレリアを抱えたまま、レイバーンはそう言ってのけた。
楽観的にも見えるその声は、三人の眼を丸くさせた。
「シンはあの男だけではない。フェリーのためにも戦っている。
だったら、シンが勝つ。余の親友は、たったそれだけのことで無敵になるのだ」
レイバーンは一点の曇りもなく、友を信じていた。
高笑いする彼に釣られて、リタも笑みを溢す。
「ふふ、そうだね。フェリーちゃんがいるなら、何も心配は要らなかったね」
「うむ。余はシンを信じておるぞ」
レイバーンの言う通りだ。妖精族の里でも、ミスリアでも。彼は誰かの為に戦っていた。
その中でフェリーが傷付いたなら、彼はすぐにでも飛んできた。
ギランドレへ向かった時も、ミスリアの王宮でビルフレストと遭遇した時も。
何も心配は要らなかった。
彼にもしもの事があれば、フェリーが再び魔女になる恐れがある。
シンがフェリーを独りぼっちにするはずがない。ならば、敗ける道理など存在していなかった。
「貴様はッ! 世界の命運より、自分の生命が惜しいかッ!
貴様だけなんだ、貴様だけが! 死ぬだけで世界を救える存在なんだぞ!
他の誰にも出来ない偉業だと、何故分からない!?」
「それは、フェリーが苦しむだけだ」
「だからどうした!? たった二人の犠牲で世界が救えるなら、安いと思わないのか!?
まだ足りないというのなら、その後にオレの命をも喰らえばいい!
貴様とは覚悟が違う! 世界を救うためなら、オレは喜んでこの命を差し出す!」
イルシオンの攻撃は激しさを増す。
彼の力全てが乗った一撃を受け止めきれず、シンは後ろへと飛ばされる。
生まれた間合いを詰めるより先に、イルシオンは追撃として魔術を放つ。
紅炎の槍、稲妻の槍。
彼の得意とする炎と雷の矢が、クレシアと共に研鑽を重ねた魔術が、牙となってシンへ襲い掛かる。
「アメリア、オリヴィア――!」
時間が経つにつれて増えていくシンの傷。
見ていられなくなり、フローラは二人へ決闘を止めるように促そうとする。
「お姉さま――」
主君の命令に従おうとするオリヴィアに対して、アメリアがそれ以上は行かせないと止める。
逡巡するオリヴィアだが、アメリアの手が震えているのを見て息を呑んだ。
「まだです。まだ、様子を見ましょう」
アメリアとて、傷ついていくシンを見るのは心が痛む。
本当は今すぐにでも止めたい。けれど、止めてはいけないのだと自分の心が訴えてくる。
らしくない。
直情的となったイルシオンの攻撃を、シンならもっと上手く捌けるはずなのに。
そうしないだけの理由が、必ずある。
そして彼は、決して自分の為だけに行っている訳ではない。
大切なものを護る為の戦いを、今も続けている。
「もう少しだけ、待ってください……!」
この私闘を止めてしまえば、きっと彼が成し遂げたい事は叶わない。
シンが痛みに堪えて戦っているのに、自分が先に投げ出す訳には行かない。
アメリアは歯を食い縛る。増えていく彼の傷に、心を痛ませながら。
オリヴィアも、フローラも。その意思を尊重する事を選択した。
「命を差し出す。それはお前の本心なのか?」
剣から放たれた魔術付与。その羽衣よって、紅炎の槍と稲妻の槍による波状攻撃を強引に突破する。
再び詰めた間合いで待ち構えていたのは、イルシオンの紅龍王の神剣だった。
受け止めた神剣の一撃に、ミスリルの剣が悲鳴を上げる。
「当たり前だ! オレを誰だと思っている!?
ミスリア五大貴族にして、神器の継承者だ! 覚悟はいつでもしてきた!」
「それはお前が命を投げ出す理由にはならない」
「ッ……! 黙れ、黙れ、黙れッ!」
図星を突かれたイルシオンは、力任せに何度も神剣をシンへ打ち付ける。
受け止める度に刃は欠け、シンの剣は限界を訴える。
「貴様、過去に行ったと言ったな!? その時に、どうにか出来なかったのか!?
何か打つ手は無かったのか!? 貴様は、何度世界を救うチャンスを逃しているんだ!?
貴様が、貴様だけが救えたんだ! 世界を……クレシアを、救けろよ!!」
「……それが、お前の本心か」
いつしかイルシオンの瞳には、涙が浮かんでいた。
本心から吐露された言葉は、夜の三日月島に響き渡る。
命を投げ出したいのは、自分が許せないから。
復讐が果たせるのなら、そんなに安い代償はないと思っているから。
目の前で一番大切な人を失った事実。
そして、やり直せた可能性が失われた事実。
その怒りを、誰かにぶつけなくては気が済まなかった。
誰かのせいにしないと、気が狂いそうだった。
激しい連撃の末に肩で息をするイルシオンを、シンは敢えて追撃しなかった。
痛いほどに気持ちが判るから。
逆の立場なら、自分だって怒りに身を任せていた。
だからせめて、受け止めてやるべきだと考えていた。
「う、煩い! 大事な女性を救って欲しいと願うことの、何が悪いんだ!?
彼女がいたから、オレは、オレは……っ!」
何度ぶつかり合ったか分からない互いの剣は、再び邂逅を果たす。
せめぎ合い、近付いた顔。イルシオンの顔に刻まれた怒りの皺が、はっきりと見て取れた。
「貴様は過去に行って、戻ってこれた! フェリー・ハートニアは、何が起きても朽ちぬ身体だ!
貴様が! 貴様だけが何も失っていない! 何も持っていないが故に!」
「ちょっと! シンは――」
割って入る様にイリシャが声を張り上げる。
イルシオンが怒りのままに口走った言葉は、許しがたいものだった。
彼が過去で、何を決断したのか。
大好きな両親の命が失われる事を知りながら、未来を変えない事を選んだ。
それだけではない。
そもそも彼の旅は、失った事から始まっている。
何も知らないで、軽々しく口にしていい言葉では無かった。
「イリシャ!」
そう言いかけたイリシャを止めたのは、他でもないシン自身だった。
シンは理解している。彼が自分の事情を知らない事も。
ここで言えば、あるいは決闘は終わりを告げるのかもしれない。
だが、それはただ悔恨を残すだけだ。
互いが過去の不幸を我慢しようと、傷を舐め合って納得するだけの儀式。
そんなものに意味はない。
だから、シンは何も言わない。彼の感情を、吐き出させる。
答えは見えている。彼の本心は理解している。根拠もある。
「……イルシオン・ステラリード。お前が、本当に願っているものは分かった。
その上で訊く。お前が、本当に許せないものはなんだ?」
まだ余裕を見せるシンの顔が、イルシオンは憎たらしかった。
顔色ひとつ変えないのに、心の中を覗かれているようだった。
この時初めて、イルシオンはシンに恐怖を覚えた。
目の前の男は何も持たない。魔力すら人並以下なのに、決して揺れない。
自分が考えている事が見透かされるようで、その瞳から逃げる事を選択した。
力いっぱいに身体を押し込み、シンを押しのける。
自らが下がって、彼との距離を取る事を選択した。
「許せないものなど、この世にいくらでもある!
その中で一番危険なものを、取り除こうとしている!
貴様こそ、命ひとつで世界が救えるんだ。英雄になれるんだ、何故分からない!?」
「……それだと、俺の目的が果たせない」
「目的!? 世界を天秤にかけて尚、傾くものなど存在するはずがないだろう!?」
「ある」
一瞬の迷いもなくはっきりと、シンは言いきった。
過去でアンダルと交わした、自分にとって何よりも大切な約束。
「俺は約束した。フェリーを一生かけて護ると。だから、ここで死ねない」
「ふざ……けるなっ! 世界よりも、一人の女を優先するのか!?」
紅龍王の神剣の柄を握り締め、ギリギリと音を立てる。
この時のイルシオンは、本心では怒りよりも羨望の気持ちの方が勝っていた。
同時にそんな事を言える相手が、この世界で生きている事に対する嫉妬があった。
「俺にとっては、一番大切なことだ。だが、それでもお前は納得しないだろう」
「当たり前だ! そんな理由を語られて納得する人間など、居るはずもないだろう!?」
「――だったら、俺が世界も救ってみせる。
フェリーを護るためにそうしないといけないなら、全部俺が救ってみせる」
あっさりと、こともなげにシンは言った。
その場に居た全員が呆気に取られる。
決して伊達や酔狂で口走った訳ではないと、彼の眼差しが物語っている。
「シン……」
その中でただ一人、フェリーだけが顔を手で覆っていた。
知らない。誰と約束したのか、解らない。
ただ、嬉しかった。涙が零れるのを誰にも知られたくなくて、顔を隠した。
自分を憎んでいるはずではないのかと、浮かんだ疑問は頭を振ってかき消した。
今、目の前にいる彼の言葉を受け止めるべきだと感じた。
話がしたい。シンとちゃんと、話がしたい。
「何も持たない、ただの人間にそんなことが出来ると思うのか!?
死にたくないからと言って、いい加減な事を言うな!」
シンの言葉にイルシオンは逆上する。無責任な言葉に、苛立ちを覚える。
もう、この男との会話は必要ない。限界まで力を振り絞った一撃で確実に仕留めようと、紅龍王の神剣を振り被る。
それに合わせて、シンは己の剣を振るう。
剣と剣が交差する一瞬。シンの手によって小さな塊が刃の隙間へ入り込むように放り込まれた。
ぶつかり合った瞬間、限界を迎えたミスリルの剣が折れる。同時に、大量の水蒸気が二人の姿を埋め尽くしていく。
「――なんだ!?」
シンが投げたのは、魔導弾だった。
水を生み出す水流弾が剣によって雷管を刺激され、大量の水を生み出す。
発生した傍から紅龍王の神剣の発する熱が、蒸発をさせて水蒸気となって周囲を覆った。
理解に時間を要したイルシオンが、一手遅れる。
彼の目の高さに、黒い影が見えた。何かの投擲武器かと思い、その陰に向かって剣を振るう。
砕いたと思った瞬間、爆発が水蒸気全てを吹き飛ばす。
「――!?」
投げられた黒い影は、またしても魔導弾だった。
高熱弾の先端に取り付けられた魔導石が破壊される。
雷管を通さず衝撃を与えられた魔導石が、小さな爆発を起こした。
最後の魔導弾だが、惜しくは無かった。使う価値があると感じたからこそ、シンは投げた。
連続して起きる想定外の出来事に、イルシオンの脳が混乱を起こす。
その隙に懐へ潜り込んだシンは、彼が握る紅龍王の神剣へ手を伸ばす。
「何をする気だ!?」
所有者であるイルシオン以外に扱われようとした紅龍王の神剣は、シンを拒絶する。
突如、鉛のように重さを増した神剣が地面へと吸い込まれるようにめり込んだ。
それはイルシオン諸共であり、態勢を崩した彼の背中は紅龍王の神剣同様地面に張り付く事となる。
頭の整理が追い付くより速く仕掛けられた波状攻撃に、イルシオンは成す術が無かった。
呆然と見上げる彼の視線には、覆いかぶさるように立っているシンの姿があった。
「……俺の勝ちだ」
剣を持ち上げようとも、シンが掴んでいるせいで全く上がろうとしない。
この距離なら魔術を放つより先に、自分が潰される。
何も持っていないと称した人間が、自分より高みにいる。
イルシオンの最後の意地が、砕けた瞬間だった。
「殺せ。オレは、貴様を殺そうとした。
殺されても、文句は言えない」
イルシオンの懇願に、シンは首を横に振る。
そんな事をする意味はないと、彼へと告げた。
「命を奪うつもりはない。代わりに聞かせてくれ。
お前が、本当に許せないものはなんなんだ?」
静寂が流れる。その間もシンは、ずっとイルシオンの口が開くのを待ち続けた。
やがて、絞り出すような声で彼は語った。
「オレ……だ。オレが、クレシアを殺したんだ。
英雄になりたいなんて言ったから。そんな我儘に、彼女を巻き込んだから。
いくらでも、どんな未来でも待っていたはずなんだ。
なのに……オレのために、クレシアは死んだんだ。
ごめん。クレシア、ごめん。ごめん……」
彼女の事が好きだった。
元気になった彼女が、喜んでいたのが何よりも嬉しかった。
英雄を本気で志したのは、あの笑顔があったからだった。
自分のせいで、クレシアは死んだ。
せめてその『死』に意味を持たせたかった。
魔女の力を借りようと、自分が死のうと、世界を救えば彼女の『死』が報われるのだと言い聞かせるしかなかった。
彼女に誓った。英雄になると。
邪神を斃せば、世界を救えばそれが叶うと言い聞かせた。
クレシアは護れなかったけれど、せめて彼女との誓いは守りたかった。
本当は解っていた。他人を復讐の道具にして、彼女が喜ぶはずもない事を。
それでも、何かをしないと気が狂いそうだった。
イルシオンの根底にあるのは、深い愛情と後悔。
せき止めていた物が壊れたイルシオンは、子供のように泣き続けた。
その場にいる全員が、その様子を静かに見守っていた。