152.少年の怒り
元の世界に帰って来られたのか。
仲間は無事なのか。
邪神はどうなったのか。
たくさん考える事はあったはずだった。いつでも、戦えるように精神を集中させていたはずだった。
フェリーの姿を見た途端、考えていた事が全て吹き飛んだ。
会いたかった。傍に居ない事がこんなに不安だとは思わなかった。
気付けば人目を気にせず、力の限り彼女を抱きしめていた。
おずおずを自分の裾を掴む彼女の姿さえも、愛おしかった。
受け入れてくれた事が、何よりも嬉しかった。
ずっとこうしていたかったが、あちこちから漂う焦げ臭さがシンの意識を切り替えさせる。
何が起きたのかを知る必要があると感じたシンは、フェリーを抱きしめる腕の力を緩めた。
「あっ……」
離れていくシンの温もりが名残惜しくて、フェリーは声を漏らす。
気恥ずかしさから、顔を俯かせる。どんな顔をしているのか、自分自身でも判らない。
本当は彼の顔を見たいのに、見上げる事が出来ない。
「悪い。苦しかったよな」
「ううん、違うよ!」
遠慮気味に言ったシンへ弁明をするように、フェリーは顔を上げる。
視線の先にある彼は、いつも通りだった。心臓の鼓動が速くなり、ずっと目を合わせておく事が出来ない。
眉を下げながら、フェリーの視線が虚空へと泳いだ。
「シン。……ほんとうに、シンなの? 無事、だったの?」
「ああ」
頷くシンを見て、フェリーは安心をした。まだ恥ずかしくて直視できないけれど、彼がいるという事実だけで良かった。
だが、邪神の『扉』に単独で挑んで光の中へ消えてしまったはずの彼が、どうして再び姿を現したのか。
フェリーがいくら考えても、しっくりと来る答えは生まれてこない。
何より、彼女には不可解な現象が残っている。
シンが消えてしまって、どうしようもない喪失感を覚えた事ははっきりと覚えている。
邪神が顕現した事も、自分が蹂躙されていた事も覚えている。
ただ、そこまでなのだ。そこから先の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
再び彼女の意識がはっきりとしたのは、シンが現れてからの事だった。
落ちた日が時間の経過を示している。決して、一瞬の出来事ではない。
「――シン。おかえり」
「おかえり……?」
不安に呑み込まれそうなフェリーを引き戻したのは、イリシャの言葉だった。
優しく微笑む彼女の言葉が何を意味しているのか判らず、小首を傾げた。
「ああ。ただいま」
「ずっと待ってたわ」
「そうかもな」
シンはさも当然のように、「ただいま」と返す。
イリシャは口元を抑え、くすくすと笑う。
互いだけが状況を把握している。フェリーはますます小首を傾げた。
長い金色の髪が、重力に沿って垂れていた。
「久しぶりだね。シン・キーランド」
三人の間に割って入るのは、隻腕の男。その真紅の瞳に、シンは見覚えがあった。
ギランドレで戦い、共に地下に眠る遺跡を歩んだ魔術師の男。テランだった。
「お前……。生きていたのか」
「なんとかね。魔造巨兵にも、大分助けてもらったけれど」
テランが示すのは、魔女によってバラバラに壊されてしまった魔造巨兵。
ところどころ補強を施されている形跡があるが、シンにも見覚えがある魔造巨兵だった。
ギランドレの遺跡で見つけた案内人。それが彼の手足となって動いていたようだ。
「君こそ、どんな感覚だったんだい? 時を渡った感想は」
シンが眉間に皺を寄せ、イリシャは眼を見開いた。
言い当てたテラン自身も半信半疑だったが、シンの反応で確信を得た。
ただ一人話についていけないフェリーが、シンとイリシャの顔を交互に見ていた。
「……何故、知っている?」
「それはおいおい話そう。まずは、この場を落ち着かせないとね。
アメリア・フォスターたちも、君が消えてしまったことを気に病んでいたようだし」
彼の言う通りだった。あちこちを擦りむき、火傷を負ったアメリアがずっとこちらを見ている。
アメリアだけではない。オリヴィアもフローラも、遠くではリタやレイバーン。フィアンマすら安堵の表情を浮かべている。
皆、傷だらけで息も絶え絶えだ。地形が変わっている部分すらある。
何より、邪神はおろか第一王子派の姿が全く見当たらない。
この男がどうしてこの場にいるかも含めて、シンには確かめないといけない事が山ほど残っていた。
……*
「シンくん……なんだよね?」
治癒魔術を掛けながら、魔力の使い過ぎでガンガンと痛む頭を抑えながらリタが呟いた。
彼には魔力が殆どないが故に、リタにとって存在の感知が難しくなっている。
ただ、王宮で感じたような魔力がぽっかりと消えている感覚が無い。魔力を吸い取っている古代魔導具の短剣が失われた事だけは、理解した。
「うむ。あれは間違いなくシンだ」
リタの手によって重篤な危機を乗り切ったレイバーンが、頷いた。
周囲に蔓延る血の臭いや焦げた臭いが邪魔をするが、彼の鼻はしっかりとその存在を嗅ぎ分けた。
友人の匂いを間違えるはずのない。あれはシンだと、レイバーンは自信を持って答えた。
「とりあえず、アタシたちは何とか生き延びたってわけか……」
喪失感を抱えながらも、ヴァレリアがぽつりと呟く。
離れていたが故に、魔女の炎から逃れたグロリアの亡骸。
そして、それすらも遺らなかったクレシア。
二人の事を考えると、胸が痛む。
いっそ自分も死んでいた方が、気が楽だったかもしれない。
弱気になりかけた自分の頭を、ヴァレリアは小突いた。
(ダメだ。あいつらに申し訳が立たない)
取り残されたからといって、自暴自棄になってはいけない。
生き延びた事に、意味を見出さなくてはならない。
そうでなければ、立派で自慢の妹達に合わせる顔が無い。
たとえ永遠に逢えなくなったとしても、二人の姉である事実には変わりない。
ならば誇れる姉で、自慢できる姉で、精一杯生きようとヴァレリアは己に誓った。
……*
「アイツ、一体何が……。いや、まあ生きていて何より……か」
状況が掴めないが、シンが戻った事による歓喜の環を見てフィアンマは大きく息を吐いた。
この戦いで自分も多くのものを失った。
ビルフレストの吸収によって奪われた翼は、完全に失われてしまった。
もう空を飛ぶ事も叶わないだろう。
炎を司る者としても、誇りがズタズタに引き裂かれた気分だった。
魔女の繰り出す炎は、常軌を逸している。自分にはたどり着けない領域だった。
操られてしまった同胞も、正気に戻ったのかは確かめなくてはならない。
紅龍族は今後、龍の世界においてその立場を著しく弱くする事だろう。
尤も、立場という点では黄龍族も同様だった。
黄龍王が邪神の顕現に力を貸した。この事実がどう影響するのか、フィアンマには想像もつかない。
龍の世界も、転換期を迎えているような気がした。
「ふざ……けるなっ」
物思いに耽るフィアンマの隣で、奥歯が砕けそうなぐらいに噛みしめる少年が居た。
声の主であるイルシオンは、怒りで肩を震わせている。
「どうして、どうしてアイツだけが……」
燃え盛る炎のような紅の髪は、彼の心情を映し出しているかのようだった。
必死の形相が顔に深い皺を刻みながら、イルシオンは歩み始める。
紅龍王の神剣の鞘に取り付けられた装飾品。
僅かに残ったそれが、鈍く輝いている事に気付く余裕すらなかった。
……*
「それじゃあ、シンさんは本当に過去へ?」
信じられないといった顔をするアメリアだが、シンがそんな冗談を言うはずもない。
俄かには信じがたいが、一度消えて再び現れているのは覆しようのない事実だった。
「全ては、その古代魔導具の効果さ」
テランは完全に刀身が消えてしまい、柄だけが残った短剣を指し示す。
既にもう、魔力を吸い取るような不気味な感覚は消えているようだった。
「話して貰うぞ。お前の知っていることを」
テランは頷く。その為に来たと言わんばかりに。
「遺跡に残った僕は、色々と調べさせてもらったよ。
その結果、あの遺跡が何を祀っていたかを知ることが出来た。
……といっても、地道に壁面の文字を組み合わせただけだから多少の読み違いはあるだろうけどね」
「結局、あそこは何の遺跡だったんだ?」
「刻と運命を司る神、アイオンが祀られていた。
彼が遺した古代魔導具のひとつが、君の持つ短剣だったというわけさ。
その短剣は魔力を奪っているわけではなく、刀身の中に蓄積をさせていく。
魔力が満ちた短剣は、所有者に時間を渡らせるという寸法さ」
平然と言ってのけるが、そんな魔導具の存在は聞いた事が無い。
神が造り出したという話にも、真実味が出てくる。
逆にいえば、そうでもなければ説明がつかない。
「……つまり、邪神の『扉』を破壊しようとしたから、短剣に大量の魔力が蓄積された。
その結果、俺は32年前に移動したという事か?」
「恐らくはね。だから、フェリー・ハートニアが相対した邪神は不完全だったはずだ。
なんせ古代魔導具に大量の魔力を吸い取られていたのだから。
結果的には、それで撤退を決断させる事が出来たわけだけど」
実際に体験していなければ、素直に聞き入れる事が出来ない言葉。
だが、目の当たりにした以上は信じざるを得ない。
そして、自分の行動が結果的に第一王子派の撤退に繋がっている。
選択は間違っていなかった。
「ただ、根拠はそれだけだったから、君が本当に戻ってくるかは半信半疑だったけれどね。
最悪、一方通行の可能性だってあったわけだし」
肩を竦めるテランだが、決して笑いごとでは無かった。
そもそも、シン自身も懸念していた事だった。無事に戻って来られた事こそが、奇跡に等しい。
「場所はどうなんだ? 俺が飛んだのは32年前のマギアだった。
時間を移動するだけなら、場所は三日月島であるべきだろう」
「そこまでは判らないよ。君の魔力が殆どないからこそ、30年も遡れたのかもしれない。場所だって移動出来たのかもしれない。
色々と確かめたいところだけれど、あの古代魔導具はもう失われたんだ。確かめる方法はもうない」
一本しか存在していない理由はなんとなくだが、推察する事は出来る。
時間を遡る事が出来るなら、やり直したい過去を変えられる可能性があるという事。
正直、シンも迷った。目の前に現れた両親を見て、幸せな家族の未来を夢見てしまった。
あの短剣が複数あれば、世界はきっと事あるごとにグチャグチャになってしまう。
刻と運命の神の遺跡が地下に眠っているのも、可能な限り存在を知られないようにする為だったのだろう。
「……でも、人間一人を魔力で飛ばす事が出来たんですよね。
魔力を介して、人間の転送は可能。召喚で呼び寄せるわけじゃない。
後は出口の設定をどうにかすれば――」
オリヴィアが呟く。ぶつぶつと理論を口ずさんでは、頷いている。
時間の移動を目論んでいる訳ではない。自身が研究をしている転移魔術の基礎概念に通じるものがあるではないかと、術式を頭の中で構築し始める。
アメリアやフローラが声を掛けても、彼女は思いに耽りながらぶつぶつと呟いていた。
「……こうなったら、オリヴィアは止まりませんね」
「そうね。なんだかんだ言って、彼女も優秀な魔術師ですもの」
肩を竦めるアメリアとフローラ。二人で顔を合わせては、苦笑をしていた。
思いがけない所からヒントを得たオリヴィアは、自分の世界へと入り込んでいた。
「あの、アメリア……さん」
そんな二人の間に、おずおずとフェリーが近付く。
目を合わせる事が出来ないまま、アメリアの前へと立つ。
「ごめん……ね。あたし、アメリアさんもオリヴィアちゃんも……。
知らない人も、みんな傷付けちゃった……」
「知らない人って……」
はたはたと風にのって、テランの右袖が揺らめく。
テランからすれば浅くない因縁ないのだが、その発端は邪神の『核』を彼女へ撃ち込んだ事まで遡る。
今、それを話せばシンが黙ってはいない。自らの不徳の結果なのだと、テランは言葉を呑み込んだ。
「いいんですよ。フェリーさんだって、覚えてらっしゃらないんでしょう?」
「それは、そうだけど……。神器も壊れちゃったし……」
アメリアが許そうと、自分が起こした厄災だという事実には変わりがない。
故郷を滅ぼした時と同じだ。記憶が無い事は決して免罪符には成り得ない。
現に、掌に残っているのだ。炎を操った証拠となる、熱が。
「オリヴィアも、この様子だと気にしていません。
それに、フェリーさんが居なければ全員が邪神に殺されていたかもしれません。
貴女に助けられたという事も、また事実です。感謝の言葉しかありませんよ」
頭を下げるフローラの所作は、振舞いだけで納得させてしまいそうな程に気品の溢れるものだった。
アメリアも同様に微笑みながら、折れた蒼龍王の神剣を掲げる。
「確かに、蒼龍王の神剣は折れてしまいました。
けれど私はあの時、フェリーさんに刃を向けてしまいました。
フェリーさんが謝るというのであれば、私もフェリーさんに謝らせてください」
「そんな! だって、あたしが……」
フェリーは戸惑いながら、シンに助けを求める。
肘で小突いてくるイリシャが、含み笑いをしていた。
「アメリア。それにみんな、ありがとう。
このまま誰かを殺めていたなら、フェリーはこれから先も自分を責め続けていた。
そうならなかったのは、みんなのお陰だ」
「えっと、シン。そうじゃなくって……」
確かにこの中の誰かを自分が殺めてしまえば、間違いなく自分は後悔し続けていたに違いない。
それはその通りなのだが、シンが異様なほどに優しい。
(いや、フダンもやさしいよ。それはあたしも知ってるけど……)
自分は拒絶されていたのではないかという思い込みが、混乱を加速させる。
その反面、嬉しいのも事実だった。色んな感情が混ざり合って、フェリーの目が回る。
そうこうしている間に、シンの手がポンと自分の頭に乗せられる。
温かくて気持ちいいが、心臓が爆発しそうなぐらいに大きく鼓動する。
益々戸惑った結果、イリシャに助けを求めるが、彼女には微笑み返されるだけだった。
その様子を見ていたアメリアは、胸に棘が刺されたようだった。
正確に言えば、シンが戻ってきた時。フェリーを力の限り抱擁をした時から胸が痛む。
その一方で、納得もしたし、安心もした。
シンが生きていた事も、フェリーが元に戻った事も。
二人との出逢いは自分にとってかけがえのないものだからこそ、これで良いと思えた。
フェリーを『殺す』と宣言していたシン。その裏で感じ取っていた優しさは、本物だった。
本当は殺したくないという気持ちが伝わってきた。その事実が何よりうれしかった。
「ええ。これでいいんですよ、フェリーさん」
「――いいわけが、ないだろう」
アメリアの言葉を否定する者。
真紅の髪を持つ少年。この島に於いて今現在、神器を扱う事が出来る唯一の人間。
イルシオン・ステラリードがその場に立っていた。
「シン・キーランド」
紅龍王の神剣を鞘から抜き出し、紅みを帯びた刀身を掲げる。
切っ先をシンへ向け、怒りで震えながら声を絞り出した。
「――貴様は、ここで死ぬべきだ」