151.『鍵』
生命の存在を否定するかのように、数多の火柱が湧き上がる。
灼熱が大地を枯らし、森が焼き尽くされる。
そこにある命を全て奪うかの如く。
本来、三日月島に住む多くの魔物は夜にその活動を活発化させる。
だが、今日に限ってはその兆候すら見当たらない。
本能で理解している。動けば、少しでもこの魔女の機嫌を損なえば一瞬にして灰燼に帰すと。
橙に灯された光景で、魔女は無尽蔵の魔力を振るう。
大地だけに留まらず、空間そのものが爆ぜる。
一流の魔術師ですら知らない魔術が、詠唱すら行われずに放たれる。その脅威は計り知れない。
「フェリーさん、もう止めてくださいっ!」
魔女が己の右腕に纏わせた炎を、アメリアは蒼龍王の神剣で受け止めた。
鍔迫り合いのようにらせめぎ合い、歯を食いしばる。
己の発する熱に耐え切れず、魔女の腕が炭化して砕け落ちては再生する。
自傷行為にも見えるそれは、アメリアの胸をも締め付ける。
「黙れ。それもこれも、貴様達が不甲斐無いから――」
剣越しに伝わる熱が、アメリアの肌を焦がす。
幾度崩れ落ちたか判らない右腕は、蒼龍王の神剣を掴んだままボロボロと崩れ落ちる。
「――いけないっ」
支えていた物を失った神剣が、魔女へと振り下ろされる。
このままでは彼女の身を裂いてしまうと、咄嗟に身を引こうとする。
流れに逆らう脳の命令に、アメリアの身体が硬直する。魔女と相対するには、致命的な一瞬。
即座に再生した灼熱の腕が、空気を灼きながらアメリアへ襲い掛かる。
「フェリーさん、ダメです……っば!!」
炎を纏った右腕が触れたものは、アメリアでは無かった。
オリヴィアが放った氷の魔術により、二人の間に壁が生まれる。
魔女の右腕はそれすらも一瞬で融解させ、蒸発させていく。
彼女のものとは思えない、冷たい眼光がオリヴィアに向けられる。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が硬直する。
矛先が自分に向いたと察して、死を覚悟する。
「フェリーちゃん、お願いだから落ち着いて!
シンは生きているから!」
二人の間に割って入るイリシャ。彼女の大地の蹴る音で、オリヴィアは金縛りから解かれる。
戦えないイリシャを盾にすることなど、とても出来るはずがない。
「イリシャさん、下がってください! フローラさまの傍に!」
自分の前で両手を広げるイリシャをオリヴィアは下がらせる。
意外にも、魔女は右手を翳したまま次の動作には入っていなかった。
理由は判らないが、イリシャは九死に一生を得た事になる。
「でも……」
「でもじゃないです! 今のフェリーさんは、おかしいんです!」
それでも尚、イリシャは魔女へ近付こうとする。
この調子だと彼女はいつ黒焦げになってもおかしくはない。
「お願いですから、フローラさまと下がっていてください。
フェリーさんに、貴女を傷付けさせるわけにはいかないんです!」
何度も何度も魔女が堪えてくれる保証はないのだと、オリヴィアは懇願するように言った。
本来なら、フェリーやイリシャ。そしてシンも、三日月島に来る事は無かった。
自分があの時、ドナ山脈に逃げる選択をしたから巻き込んだ。
だからこそオリヴィアは、絶対に魔女にイリシャを傷付けさせる訳にはいかなかった。
「その通りです。オリヴィア」
イリシャに腕を向け、魔女が硬直した瞬間。アメリアは身体の体勢を立て直していた。
オリヴィアに注意が向けられている間に唱えたのは、己の得意魔術である水の牢獄。
水の環が魔女を包み込み、縛り上げる。
蒼龍王の神剣を触媒に、拘束力を底上げしたはずだったのだが。
「無駄だ」
先刻放った氷の魔術同様に、無慈悲なほど一瞬で霧となって消える。
それでもアメリアは止まらない。霧散する水蒸気の中、纏った水分で髪を頬にへばりつかせながらアメリアが切り込む。
神剣の切っ先ではなく剣の腹を向け、フェリーの身体を抑え込もうと試みる。
魔女が右手で蒼龍王の神剣に触れると、瞬く間に炭化した手は崩れ落ちる。
彼女に代わって苦悶の表情を浮かべるアメリアだが、当の本人は意に介している様子が無い。
アメリアが奥歯を噛みしめた瞬間には、新たな右手が既に再生している。
(いくらなんでも、早すぎる――)
自滅と再生を繰り返す魔女の身体に、誰もが驚く事しか出来なかった。
驚異的な再生速度により、自傷行為が最も効果的な手段として成立してしまっている。
近付くだけでも皮膚が灼け、あちこちが火傷している。かといって、離れる訳には行かない。
離れてしまえば、魔女の獄炎は誰を標的にするか判らない。
そして、収まらないだろう。憤怒の炎が、全てを燃やし尽くすまで。
アメリアはそれを感じているからこそ、自分の身を犠牲にしてでも距離を詰めている。
何度も蒸発した水分によって上がった周囲の熱気が汗を溢れさせる。
火傷の痛みや、裂けた傷に汗が染み込み、激痛が走る事でアメリアにギリギリ意識を保たせる。
自分は倒れてはいけないと、歯を食いしばらせる。
「いつまでも、鬱陶しいぞ」
魔女の掌から、爆発が起きる。爆風が、アメリアの身体を仰け反らせた。
再び崩れた体勢。魔女の両手には、到底人間が耐えられるとは思えない温度の炎。
それが容赦なく真っ直ぐに、アメリアへ向かって放たれようとする。
アメリアに迫る、命の危機から救ったのはテランだった。
「――影縫」
横から乱入するかのように放たれた漆黒の矢。
それはテラン自身の足元へと突き刺さり、黒い帯がアメリアへ向かって伸びる。
奇妙な感覚に捉われたと思った瞬間には、テランの足元にまで帯が縮む。
一瞬の出来事により魔女の炎は、アメリアの髪を微かに焦がす程度で収まる。
「大丈夫かい?」
「ありがとう……ございます」
不意に引っ張られたアメリアは、尻餅を着きながらテランの顔を見上げる。
彼とはほとんど面識が無い。分家の者だからという訳ではなく、殆ど表舞台に顔を出す事が無かったからだ。
幼少期から何を考えているのか、判らなかった。公的な記録が殆どない事から、まるで幽霊のように称される事もあった。
現に今だって、彼の右腕は袖がはためいている。いつ、どこで失ったかなど想像もつかない。
何より、エステレラ家の人間だ。彼に訊きたい事は山ほどある。
だが、そんな暇はないとアメリアが慌てて立ち上がったのは、テランの魔造巨兵が魔女へと接近した音を察したからだった。
魔造巨兵が魔女の何倍もの面積を持つ拳を振り被り、彼女へ振り下ろされる。
圧し潰されて、身体中の血が飛沫となって飛び散ってもおかしくない一撃なのに、その光景が訪れる事はない。
魔女へ届く前に、魔造巨兵の腕が許容を遥かに超えた魔力によって弾け飛ぶ。
たった拳を振り下ろすだけの間で、格付けが済んでしまう程に圧倒的だった。
「フェリーさん。あんなに、魔力が……?」
以前、ピースに触らせてもらったからこそ判る。魔導刃を常時振るい続ける彼女は、相当の魔力量を有している。
一方で、通り過ぎる時に感じた魔造巨兵に蓄えられた魔力の相当なものだった。
それでも全く届かない。根本的な出来が、違いすぎる。
自分やオリヴィアが生き永らえているのは、たまたま水や氷の魔術を得意としているからだと言われているようだった。
「いいや。魔女はフェリー・ハートニアではない」
テランが風に靡く己の右袖を掴みながら、言った。
この中で唯一、フェリーに潜むモノに触れた経験のある彼だからこそ持てた確信。
全てを焼き尽くすような、怒りの炎。右腕を焼かれた時と同じ感覚が、肌をチリチリと焼く。
「……どういうことですか?」
「貴方は知らないかもしれないけれど、フェリーさんは不老不死で――」
困惑するアメリアと、何を言っているんだというオリヴィア。
受け入れ難いのは解るが、テランから見れば明らかに違うモノが前面に出てきている。
「見ての通りだ。あの怒りの化身は、決してフェリー・ハートニアではない」
テランは左手を口元に当てながら、考え込む。
仲間にも知らされていない事を見ると、シンはフェリーの中に何かが潜んでいる事を誰にも伝えてはいない。
意図があるのかないのか。ただ、どちらにも関わらず魔女は姿を現した。
元のフェリー・ハートニアに戻す方法は想像もつかない。だが、このまま放っておけば焼き尽くされるという事だけは明白だった。
アメリアも、魔女と相対しながらその事実からは目を背けない。
彼女が普段のフェリーと様子が違う事ぐらいは、とうに気付いている。だが、別のモノのように扱うまでは出来なかった。
不意に現れたこの男は、確信をもって違う存在だと断定した。
問題はふたつある。
ひとつは魔女をどうすれば、元のフェリー・ハートニアに戻す事が出来るのか。
もうひとつは、何故それをテランが知っているのか。
命を救われたが、彼はエステレラの人間だ。今までの騒動に関与しているという疑惑が深まる発言を、あっさりとしてみせた。
その事実をどう受け止めるかが、新たな悩みの種となる。
「そんな顔で見ないでくれないかい? 僕は君たちと敵対するつもりはない。
もし全滅して欲しいなら、そもそもこの場に現れていないさ」
テランの言う事は尤もだった。単に魔女が暴走していれば、きっと自分達は全滅する。
彼はその状況に割って入ったのだから、戦うべき相手ではないはずだった。
「……信じますよ」
「ああ、勿論さ。僕ももう一度逢いたいからね。シン・キーランドに」
アメリアは驚きを隠せない。まるでシンが生きているかと断定するような物言い。
イリシャもそうだった。この二人だけが、シンが生きていると主張する。
「貴方、本当に何を知っているのですか?」
「じきに判るさ。僕たちが生きていればの話だけれど」
両腕を捥がれ、胴を抉られた魔造巨兵。
燃え盛る炎を背に一歩ずつ近付いてくる魔女を見て、アメリアは息を呑んだ。
呑気に話をしている余裕はないのだと思い知らされ、蒼龍王の神剣を彼女へ向ける。
その刃で彼女を止められる事は出来ないだろうと思いながらも。
……*
その様子を離れた位置で見守るしか出来ない者がいた。
『色欲』との戦いで身体のあちこちが裂け、骨が折れ、内臓すらも傷付いている魔獣族の王。
「王宮で見た時は、あんな娘には見えなかったけど……」
同様に傷だらけのヴァレリアが、呟く。
フェリーを殆ど知らない彼女からすれば、ただひたすらに破壊を繰り返す魔女の姿は、恐怖の対象になってもおかしくはなかった。
「わかりません。けど、あれが本当にフェリーちゃんだとは思えない……」
瀕死の二人に治癒魔術を唱えながら、リタが弱々しく首を振る。
身を挺して自分達を護ってくれた時でさえ、彼女は微笑んでみせた。
それなのに今は放たれる炎の魔力に乗って、怒りが流れ込んでくるようだった。
止めなくてはいけない。けれど、この二人も相当に重傷だった。
せめて、安心できる所までは治癒を進めておきたい。
魔力の総量に長けた種族である妖精族といえど、リタはその殆どを消耗している。
その中で高度な治癒魔術を二人に唱えながら、更に魔女の暴走により焦りが生まれる。
治癒するイメージが固まらず、自分の予測より治りが遅い。その事実が更に、彼女を焦らせる。
(どうしよう。どうすれば……っ)
不安で肩を震わせるリタの頭を、レイバーンが優しく撫でた。
「リタ。余たちに構う必要はない。フェリーは余にとっても、リタにとっても大切な友人であろう。
お主が行きたい方へ、行くのだ」
「そうですよ。アタシ結構しぶとい方なんで、女王様の好きにしてください」
本当は痛みを通り越して、感覚がほぼ失われているだけ。
それにも関わらず、一番苦しそうな顔をしているリタを気遣わずには居られなかった。
「そんなこと言われても、困るだけだよ……」
レイバーンだって、自分の一番大切な男性だ。
ヴァレリアとは面識が殆どなかったけれど、彼女がレイバーンを支えてくれた事は見れば分かる。
割り切れない感情が、リタの目元から雫を溢す。
どうか、どうにかならないのかと、リタは愛と豊穣の神に祈りを捧げる。
……*
誰もが暴走する魔女におののく中、たった一人だけが違う印象を持っていた。
紅龍王の神剣を持ったまま棒立ちの少年。イルシオン・ステラリード。
「凄い。はじめから、彼女の力があれば……」
彼は見つけてしまった。神にも届きうる牙を。
神を恐れず、正面からぶつかり、それでも斃す可能性を秘めた存在を。
笑みが零れるのを止められない。
魔女が居れば殺せるのだ。
ビルフレストを。『暴食』を。邪神を。
自分の大切なものを奪った憎きものを、なにもかも。
それは世界を救う事に直結する。
イルシオンはそう信じて疑わない。
もしかすると、その前にこの場で自分が焼き尽くされてしまうかもしれない。
それでも構わなかった。クレシアを奪った奴らが、地獄を見るのであれば。地獄へ堕ちるのであれば。
……*
「フェリー……さんっ!」
アメリアは自分の魔力全てを蒼龍王の神剣へ注ぎ込む。
テランの魔造巨兵が破壊され、イルシオンは動く素振りを見せない。
前衛は自分のみ。その状況が、彼女に前を出る事を決断させた。
テランは闇の魔術で魔女の視界や自由を奪うが、即座に魔術自体を焼き尽くされてしまう。
オリヴィアは万が一を考え、イリシャやフローラを護るだけの余裕を持つように指示された。
もしもの時は、何と言おうとフローラは逃がす。護衛としての意地と責務も含まれていた。
横薙ぎに振るわれた蒼龍王の神剣の刃は、フェリーの首を狙う。
躊躇いがないと言えば嘘になる。だが、殺す気で掛からなくてはならないと思い知らされた。
自分が倒れてしまえば、後に連鎖的に全滅すら見えてしまう。
苦悶の表情に満ちたまま、アメリアは蒼龍王の神剣を振るう。
苦悩と覚悟が込められたアメリアの斬撃を、魔女はいとも簡単に受け止める。
指が斬り落とされても直ぐに再生すると知っているが故に、躊躇いなく差し出した左手。
炎の塊に触れているような気分だった。立ち昇る蒸気が、心臓の鼓動を速くする。
「……下らない抵抗はやめろ。お前達は不要だ」
魔女はそのまま、魔力を左手に込める。
単純な魔力による破壊力と、太陽だと見間違うような灼熱が蒼龍王の神剣の刀身にヒビを入れる。
「そ、んな……」
神が造りし剣に、更に自分の魔力を限界まで注ぎ込んだ。
それでも尚、届かない。どの高さにまでたどり着いたかさえ、判らない。
感じられるのは、遥か高みにある存在だと見下ろされている事だけ。
堪える事は決して許されず、蒼龍王の神剣の刀身は魔女の手によって折られる。
刀身が地面に投げ捨てられた音は、均衡を崩す合図となった。
「お姉さま!」
オリヴィアの声も、咄嗟に繰り出した氷の魔術も意味を成さない。
もう終わりだと、アメリアが『死』を覚悟した瞬間だった。
アメリアの瞳が潤む。その先に映っているのは、炎を纏った魔女の姿。
その奥に、人影を確認した。
さっきまで存在していなかった、存在して欲しかった人影を。
「――フェリー?」
突如現れた黒髪の青年は、魔女の名を呟く。
見間違うはずがない。いくら涙で視界が歪んでいても、彼の姿を見間違うはずが無かった。
「……シン?」
刹那、魔女からは殺気も怒気も、神にも匹敵する膨大な魔力すらも消えていた。
そこに居るのは、驚きで目を丸くした金髪碧眼の少女。
最も大切な男性の姿を視界に捉えて、ポロポロと大粒の涙を溢す少女の姿だった。
「ど、して……。だい、じょぶ……なの?」
状況を呑み込めないまま、浮かんだ言葉を途切れ途切れに口から漏らすフェリー。
シンは彼女へ歩み寄ると、力の限り抱擁した。
覆いかぶさるように。離したくないという意思表示をはっきりと示す。
「会いたかった……。ずっと、会いたかった」
「え? シ、シン……? ど、どういう……コト……?」
耳元でそう囁いた彼の言葉に、フェリーは戸惑いを隠せない。
力いっぱいに抱きしめられ、正直に言うと少しだけ息苦しい。
それでもどこか心地よかった。彼の体温を、全身で感じられる事が嬉しかった。
フェリーは驚きから様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
どうして、無事で帰ってくる事が出来たのか。
どうして、「ずっと会いたかった」と言うのか。
どうして、抱擁をしてくれるのか。自分は拒絶されていたはずでは無かったのか。
疑問こそ浮かぶが、フェリーの本心は答えを求めていなかった。
生まれて初めて、大好きな男性にしてもらった抱擁。
つまらない事を口にして、終わって欲しくはなかった。
フェリーは何度も手を閉じながらも、勇気を振り絞る。
拒絶されないようにと願いながら、シンの腰へ手を回す。
精一杯の勇気を振り絞って掴んだ裾を、ずっと手放したくなかった。
この時、全員が抱擁を交わすシンとフェリーの姿を呆然と目撃する。
その結果として、当事者以外が同じ結論へと至った。
シン・キーランド。
彼の存在そのものこそが、全てを焼き尽くす不老不死の魔女。彼女を、フェリー・ハートニアという少女に留めておく事の出来る『鍵』なのだと。